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*改革開放初期の江南における伝統芸能&br;――海寧県評弾団殷小虹関連史料の紹介―― [#g6f76f12]
RIGHT:佐藤 仁史((一橋大学大学院社会学研究科教授))・高 飛((一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程学生))・陳 明華((杭州師範大学歴史系副教授))
#CONTENTS
*解題篇 [#u4f3ba31]
本稿は、蘇州の著名な評弾芸人である殷小虹(1932-2015)が、改革開放初期において江南各地での上演に際して各地のクライアントや友人から受け取った葉書33枚を翻刻したものであ
る((蘇州評弾については、上海師範大学の唐力行を中心とする研究グループが社会史研究の視角から研究を進め、「評弾与江南社会研究叢書」を陸続と刊行している。概要は、唐力行『開拓社会文化史的新領域――蘇州評弾与江南社会導論』北京、商務印書館、2020年、を参照。個別分析の主要成果は以下の通り。周巍『技芸与性別――晚清以来江南女弾詞研究』上海、上海人民出版社、2010年、呉琛瑜『晚清以来蘇州評弾与蘇州社会――以書場為中心的研究』上海、上海人民出版社、2010年、呉琛瑜『書台上下――晚晴以来評弾書場与蘇州社会』北京、商務印書館、2015年、馬克·本德爾(李東鵬訳、何其亮校)『梅与竹――中国伝統蘇州評弾』北京、商務印書館、2019年、彭慶鴻『辺縁人的生存之道――近代以来個体評弾芸人研究』上海、上海人民出版社、2023年。))。
近年の歴史学研究においては、エゴ・ドキュメントを利用した分析の有用性や可能性に着目されて久しい((長谷川貴彦編『エゴ・ドキュメントの歴史学』岩波書店、2020年、1-12頁。))。本稿が収録する葉書群は、完全なるエゴ・ドキュメントとは言えない側面も有しているが、同時に従来の中国現代史研究で広く用いられてきた刊行史料や檔案史料とは異なる性質をも有していると思われる。極めて限定的な史料であり、全面的な検討には殷小虹が当該時期に所属していた海寧県評弾団の檔案をはじめとする諸史料の博捜が必要となるが、近年、檔案史料の公開に大きな制限がかけられていること((佐藤仁史「フィールドワークと地域社会史研究」飯島渉編『大国化する中国の歴史と向き合う』研文出版、2020年、47-74頁。))、COVID-19の流行以降、中国への渡航に多大な不便が存在していることを踏まえると、現段階において先ずはこれらの原史料を翻刻することが現実的であると考え、かような形式で公開することにした。
**1、殷小虹と海寧評弾団 [#v2a5e7a7]
殷小虹は1932年に蘇州にて出生した。幼少期より父である殷剣虹の薫陶を受けて評話『血滴子』を学びはじめ((呉宗錫主編『評弾文化詞典』上海、漢語大詞典出版社、1996年、169頁。))、15才の時には父の上演時に舞台上で台本を届ける役割を担い、17才で正式に上演に参加した((呉宗錫前掲『評弾文化詞典』199頁。))。上演においては、『血滴子』を構成する『八大剣俠』に独自の改変を加えたという。1959年に蘇州市火箭評弾団に加入した。1965年に退団して工場で勤務することとなった。文革終了後、1979年に浙江省嘉興市海寧県評弾団に加入した。そのスタイルは爽やかで味わい深く、好評を博したという。蘇州電視台がかつて、書場において彼による『血滴子』の上演を録画して放映したこともその証左である。弟子に王歓中、呉宜虹、朱明飛、楊亜虹がいる((「蘇州団青年評話演員楊誠拝殷小虹為師」『評弾票友』第135期、2012年。))。
続いて、海寧県評弾団について概観しておこう。殷小虹がどのような経緯で蘇州より相当離れた海寧県評弾団に加入することになったのかは現段階では定かではない。海寧県評弾団は1963年4月に成立し、当時は評話を担当する3つの&ruby(ペア){檔};と弾詞を担当する4つの&ruby(ペア){檔};がいたという。隣県海塩県の県評弾団は集団所有制を採ったというから海寧においても同様であったと思われる((海塩県志編纂委員会編『海塩県志』杭州、浙江人民出版社、1992年、766-767頁。))。文革が発動されると中国社会は大混乱に陥ったが、海寧県評弾団も例に漏れず活動を停止し、1969年12月には解散した。1973年7月に再建され、評話&ruby(ペア){檔};、弾詞&ruby(ペア){檔};が在籍した。1984年9月の省の「評弾会書」(上演会)においては、創作現代短編『二上新城』が創作三等賞及び優秀青年演員賞を獲得している((海寧市志編纂委員会編『海寧市志』上海、漢語大詞典出版社、1995年、970頁。))。本稿で紹介する史料はまさにこの時期の江南各地における上演(「跑碼頭」)に際して交わされたやりとりの一部である。
ところで、評弾の上演場所であったのが書場であった。書場は一般的には茶館に付設されており、茶館の営業主が兼業していた。海寧県における書場の歴史は古く、説書の伝来に伴い、光緒年間には茶坊において上演が行われるようになった。清末から民国期にかけては、硤石顧庁書場、袁花書場(ともに宣統3年開業)、硤石南湖庁書場(民国9年)、硤石中和庁書場、長安新民書場(ともに民国19年)などが開業し、最盛期には全県で40軒あまりの書場があった。しかし、解放前夜には硤石鎮に顧庁書場、民楽書場、高楽書場、聯友書場の4軒を残すのみであった。1952年に聯友書場は営業を停止し、顧庁書場と民楽書場とが合併して民楽書場と称するようになった。1962年、民楽書場と高楽書場とが合併して硤石書場となり、1977年に建物が建て直された。1990年の段階において海寧市内で営業する書場は硤石書場のみであった((『海寧市志』968-969頁。))。海寧市中心部の記述に偏っているが、ここからは民国期における書場の隆盛と衰退、社会主義改造期における整頓、文革期における停滞、改革開放期における復興と衰退の過程が読み取れる。
それでは、県やそれ以下の地域における書場の情況はどうであったであろうか。詳細が容易に判明する海塩県の情況をみてみよう。中華民国期の海塩県には武源鎮(県城鎮)に大華楼と東園という2つの書場があり、後に珊瑚書場が出来た。また、沈蕩鎮にも常設の沈蕩書場があり、西塘、通元、澉浦などの鎮においても臨時に書場が設置されることがあった。書場において専ら上演されたのが評弾であり、鈸子書や独脚戯などの曲芸が上演されることもあった。1950年後半の社会主義改造期に入ると、書場は私営から集団企業へと改められた。この時期、武源鎮の懐徳書場(後の海塩書場)の座席数は約250席、沈蕩鎮の座席数は約200席あり、これらはみな県文教局の管理下に置かれていた。1966年下半期より書場の営業は停止し、1978年になって漸く営業が再開された。1978年以降、武源鎮には県文化館書場と茶店書場とがあったが、1985年の段階では茶店書場のみが営業していた((『海塩県志』766頁。))。江南各地の書場の状況も大同小異であったと思われるが、後に検討するように、書場の類型、書場が置かれていた市鎮の規模や性質などによって微細な差異があったため、各地の情況を網羅的に把握する必要がある。
**2、殷小虹宛の葉書について [#l87dca62]
殷小虹宛葉書の入手経緯は次の通りである。2022年11月に高飛が日頃利用していた蘇州市工業園区所在の古書店迪嘉書店より関連情報が寄せられ、その情報が佐藤に伝えられた。近現代江南地域社会文化史研究を専門とする佐藤は、かねてより改革開放初期を対象とする歴史学研究の重要性を認識していたため((歴史学研究における改革開放初期史の重要性については、インタビューにおいて述べたことがある。「佐藤仁史教授訪談錄」『漢学研究通訊』第40巻第2期、2021年、26頁。))、この史料の重要性を直観し、当該古書店より購入するに至った。中国近現代史史料についていえば、図書館や檔案館、博物館など公的機関に所蔵されている史料以外に、近年ではフィールドワークを通した様々な民間文献の発掘が進んでいる((佐藤仁史前掲「フィールドワークと地域社会史研究」54-56頁。))。これらのルート以外に重要なのが、廃品回収業者や古物商、古書店のルートを通じた収集である。例えば、蘇州市政協文史委員会の夏氷氏は業務の傍ら長年に亘って蘇州地域史史料の収集を独自に行ってきたが、重要な情報源の1つが廃品回収業者であった((夏氷(佐藤仁史訳)「民間所蔵史料」太田出・佐藤仁史『太湖流域社会の歴史学的研究』汲古書院、2007年、327-331頁。))。このようにして「救済」された大量の一次史料を整理して積極的に公開しているのが張楽天氏であり、彼の開設した「張楽天聯民村数拠庫」というサイトでは浙江省嘉興市海寧市塩官鎮の地方檔案や各種民間文献が公開されている((https://www.ruralchina.cn/index.shtml(最終取得日:2023月11月15日)))。なお、孔夫子旧書網で販売されている一次史料は枚挙に暇がない。
#ref(22sa-1a.jpg,,図1 殷小虹宛て葉書の一例,30%)
#ref(22sa-1b.jpg,,図1 殷小虹宛て葉書の一例,30%)
#ref(22sa-1a.jpg,,図1 殷小虹宛て葉書の一例,zoom,30%)
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さて、葉書群は一見すると比較的崩されずに書かれているため、入手当初はそれほどの困難もなく翻刻できると見込んでいたが、実際に作業をはじめてみると、意外に難易度が高いことが判明した。差出人が全て異なるためそれぞれの筆跡に癖があること、またしばしば白字(当て字)が使われていることなどが原因である。2023年7月から8月にかけて高飛が夏氷氏の御助力のもと判読作業を行い、佐藤仁史と陳明華が確認するという手順で翻刻を行った。また解題は佐藤が初稿を執筆し、高と陳の意見を踏まえた上で加筆・修正を加えた。
33枚の葉書の大部分は殷小虹本人に宛てて書かれたものであるが、そのうち8枚は彼が所属していた海寧県評弾団団長である邢正祥に宛てて出されたものである。殷小虹本人宛の葉書と団長宛の葉書がなにゆえにその後殷小虹によって保管されるようになったのかは不明であるが、団の運営を預かる団長とて看板芸人である殷小虹の意向を真っ先に打診する必要があったため、上演以来の葉書を真っ先に彼に渡したからであると思われる。
葉書から読み取れるのは以下の諸情報である。差出人には上演の依頼者である書場名や書場の経営者名などが記されている。受取人として、江南各地を回っていた殷小虹や団長の名前が記されており、また受け取った際に滞在していた場所(殆どが各地の書場)がここから判明する。消印も重要な情報源である。葉書そのものに日時が書かれていない場合もあるため、ここから送信時期を確定でき、また投函された具体的地点を確認できる。33枚の葉書の内、やりとりされた年月日が確定乃至推測できるものが30枚、特定できないものが3枚あった。特定できるものは1979年10月から1984年7月までを範囲としており、特定できない3枚もこの期間にやりとりされたものと見なしてよいと思われる。それではこれらから読み取れる社会文化史に関する側面について、初歩的な考察を加えてみよう(以下、葉書からの引用は【10】と表記する。数字は「史料篇」の整理番号を示す)。
**3、改革開放初期における評弾と地域社会 [#g76cc077]
先ず、上演地の特徴について、①地理的な広がりと②上演地点の市場階層の2点に即して概観してみよう。
地図は殷小虹が葉書を受け取った場所と葉書が差し出された場所、及び葉書内に言及された地点であり、ほとんどの場合、上演を行った書場や工人倶楽部、文化館などが存在する地点であった。集中している場所は、殷小虹の自宅があった蘇州市養育巷を除くと、江陰、常熟、無錫、崑山、嘉善、平湖など江南地方の中でも中心地帯にあった地域であることが分かる。
#ref(22sa-2.jpg,,図2 殷小虹の上演地点,50%)
上演地点の階層構造に着目してさらに具体的に上演地をみていくと、大部分が市鎮で営業する書場であり、県城や大都市で行われた上演は極めて少なかったことに加え、上演したとしても工人倶楽部(例えば上海呉淞工人俱楽部)や文化館(例えば崇明県文化館)といった社会教育に関わる活動であったことが特徴である。葉書の情報から判断する限り、書場が開設されていたのは相当規模の経済力を有する市鎮であった。例えば、双林、濮院、平望、新市、羅店、大場などがそれに当たり、これらの市鎮はみな明末以降の経済発展によって生み出された大鎮であり、1980年代の政府による分類に従えば県属鎮のレベルにある大鎮であった((これら大鎮の形成過程や機能については、樊樹志『江南市鎮――伝統与変革』上海、復旦大学出版社、2005年、97-101頁、などをはじめとする市鎮史研究で明らかにされているところである。県属鎮はいわゆる建制鎮のことである。滕艶「中国における小城鎮研究の成果と課題――中国の国内研究を中心にして」『地理学評論』第74巻第3号、2001年、163-167頁。))。すなわち、相当な規模の経済力と人口を擁する市鎮こそが、評弾文化を消費する人々と場を擁することができたことの表れでもあった。しかし、殷小虹の出身地であり主要居住地でもあった蘇州市内について言えば、横涇鎮、東山鎮、浦庄鎮、渡村鎮などの郊外のそれほど大きな規模ではない地域においても上演が行われていたことが分かる。
次に、当時の交通状況についてみてみよう。中国社会や人々の生活に大打撃をもたらした文革が終結して間もない改革開放初期においては、道路や鉄道網などインフラの整備は農村地帯にまで及んでいなかったため、上演地点である市鎮間の移動はもっぱら水路に依存していたようである。例えば、【2】には蘇州方面から浙江省呉興県双林鎮の移動について、「昨夜は嘉興の旅舎で一晩を過ごし、本日6時間あまり汽船によって漸く到達した」と記されているが如きである。かような状況を反映したエピソードも読み取れる。上海南郊の七宝鎮における上演に対して、「貴兄の七宝行の経路は次の通りです。上海北站で15路のトロリーバスに乗り、終点(徐家匯)で92路(中百六店〔中国百貨公司上海市第六百貨商店〕の裏手)に乗り換え、終点まで行けば七宝站です」【12】と鉄道で上海に到着した際に上海北站から七宝鎮までのバスの乗り換え方法について説明がなされているのは、上海のバス網の複雑さもさることながら、芸人達が普段バスをあまり利用していなかったことも理由であったと思われる((大都市間の移動に鉄道が利用された可能性がある以外には、市鎮への移動は水路を利用していたと思われる。この状況は民国期と同様であり、上演地間の移動は文字通り「跑碼頭」であった。「京劇水路班座雑憶」夏蘆應ほか編『毗陵曲壇綴録』(北京、中国戯劇出版社、1995年)22-28頁。改革開放初期江南の水運とその衰退については、張志遠「平望客運碼頭、那些年的那些事」呉江通https://mp.weixin.qq.com/s/uaZnFkZA03KqlE1rzRaE1g(最終取得日:2023年12月8日)参照。))。
それでは、上演内容はどうであっただろうか。葉書で直接言及されている演目(書)は多くない。葉書において言及される演目は、『七俠五義」【1】、『楊乃武』【2】、『江南八俠』【6】【29】、『鉄弓縁』【9】、『呂四娘三盗万年青』【19】、『黄金印』【23】である。大部分の演目に直接言及されていないのは、著しい重複が無い限りは劇団・芸人に一任されていたであろうことや、劇団が到着してから詳細を詰めたからであると推測される。かような情況の中で眼を惹くのが、殷小虹の十八番である『血滴子』やその姉妹編である『江南八大剣俠』に関連する演目への言及が複数有ることである。【6】には、「甪里書場において肖慧敏が10回の上演を行いました。『江南八俠』の営業成績は極めてよかったです。どうやら貴兄の書は既に盗まれて売られてしまっているようです。もちろん、このことは貴兄の大局にまったく影響を及ぼしません」とあるように、他の芸人に「盗まれる」ほどの人気を博する演目であったことが垣間見られる。
続いて、江南各地を回って上演した殷小虹や海寧県評弾団の上演環境についてみてみよう。まず、観客数は劇団の利益と直結する問題であったため、手紙のやりとりの中でも最も重要な話題であった。この点は市鎮で営業していた書場の標準的な規模が200席が満席であったことを踏まえると把握しやすい。「夜場〔夜の部〕は160人から180人前後で、上海市内での夜の部としては良い方の部類に入ります。書場は小さく、220人で満席になりますが、却って上演はやりやすいです」【32】、「上演初日は156人で、この2日は200人近くに達しています」【13】「〔1982年3月〕16日は48人、17日は115人、18日は130人、19日の日場〔昼の部〕はすでに103人に達しており、夜場は60人と予想されます」【24】、「この地は確かに目下、上演可能です。大きな上演はないものの、聴衆は200人から250人くらいいます。私の上演は目下200人前後です」【26】「〔江陰県〕青陽鎮での上演は〔毎日〕平均242人で、23日には〔江陰県〕長涇鎮に行って短期の上演を行いました。ここでは日場は行わず、夜場のみでしたが、220から230人の聴衆がいました。ここ〔崑山県石牌書場〕では初日の昨日は昼と夜とで344人おり、2日目の本日は日場が256人、夜場は224人でした。幸運に恵まれました。」【4】「この地の碼頭は陶庄鎮のみにあります。最近の聴衆は250人あまりです」【33】とあるが如くである。
上演において実際にどれくらいの収益が上がったのかについては、少ないながらも言及がなされている。「〔1回につき〕大体およそ200元の稼ぎです」【8】と直接言及されている場合と、「此地のチケット代は0.15元で、折扦〔書場の取り分は〕0.09元です」【16】「千子〔すなわち折扦〕は0.072元です」【24】と書場と芸人の取り分が言及されている場合がある((書場と芸人とが収益を6対4で分け合うのは、1950年代の習慣を踏襲したものであった。呉琛瑜『晩清以来蘇州評弾与蘇州社会――以書場為中心的研究』上海、上海人民出版社、2010年、123頁。))。
書場も芸人を招聘する際に集客能力や設備のよさをアピールし、客を呼べる著名芸人を惹きつけようとしたことが簡潔なやりとりの中からも垣間見られる。例えば、崇明県文化館の書場は「わが書場は新設の書場であり、小さくて精巧です。音響もよく、また奥に位置しているので雑音に妨害されることもありません。座席は180席あり、書場の場所も理想的な地点にあります」【29】と小型ながらも新設で設備が良いことがアピールされている。また、一般的な書場とは異なる施設を有していた呉淞工人倶楽部では、「私はここでは滬劇団の上演を受けて上演し(小型劇場には600人収容可能です)、私の後は越劇団です。上演では200人規模の客を集めました。晴れればもっと良くなります。書場は閲覧室とテレビ室の壁を取り払って書場として400人を収容できます。こうすれば専用の書場とできます。しかし、これが可能になるのは3月以降です」【10】とあるように、滬劇や越劇の上演も可能な設備を持ち、閲覧室やテレビ室を改造して専門の書場を設けることで400人を収容する予定があることも述べられている。しかしこれは、茶館付設型の書場とは相当異なる状況である。
次に観客との関係についてみてみたい。評弾の大口の聴衆は農民や農業関係者であったことは、当時の人口構造や上演場所を考えると容易に想像ができる。したがって上演時期による聴衆の増減は書場や芸人を最も悩ませた問題であった。このことは、5月下旬の上演が「農繁期は厳しい時期です」【26】という言及や、11月の上演について、「ここ数日は小農繁期であり、昼の部も夜の部も聴衆は100人程度です。ここでの上演はごく平凡ですが、農繁期だからです」【22】と記されていることが示している。このほか、改革開放期初期の農村政策が農民の生産活動や日常生活に与えた多大な影響が読みとれる情報もある。1979年10月に常熟県董浜鎮における書場から寄せられた葉書に拠れば、「今年の常熟東部の農村部では棉花が豊作であり、また計件制を採っていることもあり、農村部からの聴衆が激減しました。したがって、上演業務は異常な状態にあります。この様子では11月に麦を播き終えてから漸く聴衆を増やすことができるでしょう」【1】とあるように、当時採用されたばかりである「計件制」(生産物の合格率に基づいた報酬支払いの制度)による生産体制を採っていた現地の農民が、棉花の収穫・加工に追われていたため綿花採取作業を行う10月には書場に農民が来なかったため、聴衆が「激減」していた((計件制は計件工資制のことであると思われる。1978年に国務院が発布した「関於実行奨励和計件工資制度的通知」に示されている。これは企業に関する通知であるが、農業生産においても労働時間に応じて報酬が支払われた工分制から計件制への移行がなされていたと思われる。))。集団化期とは異なる農民の余暇行動に書場や芸人も対応に苦慮していたことが垣間見られよう。
聴衆の増減に大きな影響を与えていたもう1つの大きな要素に、他の娯楽との競合があった。特に改革開放期に入って資本主義諸国からも流入するようになった娯楽映画の吸引力は極めて大きなものがあったであろう((例えば、【26】でも登場する宝山県大場鎮の状況をみてみよう。新編地方志に拠れば、「大場影劇院は、元は大場文化館草棚礼堂であり、1956年に映画を放映し始めたが、チケットの座席番号と実際の座席番号とが一致していなかった。1966年に解体した。1971年に再建されて大場影劇院と称したが、設備は依然として粗末であった。1985年に38万元を投入して大改装を行い、1008席を擁するようになった」とある。上海市宝山区地方志編纂委員会編『上海市宝山県志』(上海、上海人民出版社、1992年)巻27文化志、第4節「電影院、隊」。))。市鎮レベルの書場の営業においても近隣における映画の放映は聴衆数に直結する要素であったことが、「私の所では17日の夜場が映画の上映と重なり、上演業務は好ましくないものでした」【20】、「〔昨日の〕日場と夜場で114人でした。本日の早場の聴衆数は上昇しましたが、夜場は減ると思われます。今日から3日間映画の上映があるからです」【27】という言及からもみてとれる。
また、複製技術の普及も書場における芸人のライブ形式での営業に多大な影響をもたらす大きな要素であった。はやくも1979年に10月の葉書に、「説書の技術にも専利権〔特許権〕を認めるべきです。さもなければ、続けていくことができません。現在、偷書〔上演内容の盗用〕や許可を得ない録音などなんでもありです。また、ラジオからは1日に何組もの上演が流れてきます。このような状況が続けば、評弾界にもたらされる脅威はあまりにも大きなものがあります。貴兄はどのようにお考えでしょうか」【1】とあるように、上映の録音や上演内容の記録などの複製が行われていた。ここでいう「偷書」が具体的にどのような手段によるものであるかは判然としないが、許可を得ない録音やラジオ局での放送が書場から聴衆を引き離す大きな脅威となっていたことがわかる。文革前には在地社会において殆ど存在しなかったテクノロジーやメディアの普及による農村社会の娯楽には先に挙げた映画館以外にも、歌舞庁や個人宅でも購入されるようになったテレビもあり、書場や劇場は急速に市場が縮小していくことになった。
書場を取り巻く別の環境の大変化が起こりつつあったことを情報が、現段階で判明する限りで最も新しい葉書に明示されている。この葉書は江南地方屈指の交通の要衝である呉江県平望鎮の書場の経営者より発出されたものである【30】。
>われわれ平望書場は営利を目的とする書場です。先にサービス網の調整のために、書場を菓子工場とすることを希望する呉江県の領導もいました。平望鎮は〔呉江県の〕大鎮の1つなので、鎮政府は書場の廃止を認めませんでした。いままで貴兄と業務関係がありませんでしたが、現在も平望書場は存在しており、業務も以前と同じく成立しています。われわれ平望書場は8月後半から9月10日まで上演がありません。上演希望について月ごとにお知らせください。
この一段が示しているのは、改革開放政策の進展によって不動産の利用も収益を中心とする経済政策を推進する「領導」が書場の「有効」活用せんとしていたこと、民衆動員や教化といった視点から文化政策からの書場や劇場を利用するイデオロギーの側面が急速に後退したことである。このように文化政策装置としての書場・劇場や芸能が衰退する一方((張盛満「1949年以后江南村鎮地区評弾発展状况分析」『江南社会歴史評論』第21期、2023年。))、1980年代の江南農村では廟会をはじめとする民俗の復興に伴って宣巻の如き芸能が隆盛していくことになる((中共呉江市委宣伝部ほか編『中国・同里宣巻集』南京、鳳凰出版社、2010年、2-8頁。))。
以上は、殷小虹関連葉書から得られた限定的な情報に基づく雑感に過ぎない。本格的な研究には、彭慶鴻『辺縁人的生存之道――近代以来個体評弾芸人研究』の如く檔案史料を全面的に利用した分析が不可欠であるが、本稿では取り敢えず関連史料が広く共有されることを意図してかような形式での公開を行うものである。
**【附記】 [#r8a177ea]
本論の「史料編」に収録した殷小虹関係資料はエゴ・ドキュメントに類するものである。しかしながら、これらは彼が上演を行うに際して書場などの関係者や芸人仲間との間で業務上のやりとりをしたものであること、殷小虹の家族から転売を前提として古書店に売られたものであることから、これらの公開が関係者に不利益が及ぶ可能性はないと判断した。また、現地の関係者に確認したところ、同様の見解が得られた。以上が、本稿において書簡の全文を公開する判断に至った根拠である。公開に際しての一切の責任は筆者が負うものである。
難読文字の判読作業や専門用語の理解においては蘇州市政協文史委員会の夏氷氏にご助力を賜った。記して謝意を示したい。
なお、本稿は日本学術振興会科学研究費基盤研究C(課題番号20K01019)による研究成果の一部である。
*史料篇 [#se3ca448]
**【凡例】 [#i8003820]
-タイトルは日本語、本文は中国語(簡体字)で表記している。
-タイトルの日時は、書簡における日時が判明する場合にはそれを、それが不明な場合には消印の日時を採用した(複数ある場合は早い方を採用した)。
-1-30は内容や消印から古い順に配列した。31-33は日付が分かる順に配列し、1つは日付も不明である。
-葉書情報は、「&lang(zh-Hans){收信人地址};」(受取人住所)、「&lang(zh-Hans){收信人姓名};」(受取人氏名)、「&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名};」(受取人住所・氏名)、「&lang(zh-Hans){邮戳};」(消印)を整理適宜整理したものである。「&lang(zh-Hans){邮戳};」は差し出し地と受け取り地の両方が記されているものについては両方を、片方のみが記されている場合には片方を記した。共に不明な場合には本文に記された日時を参考にした。
-読解の便のために、句読点の一部を変更した。
-判読不能文字は■としてある。
-当て字については〔〕内に正しい文字を記してある。
**【本文】 [#md6ec7e5]
***1、1979年10月4日、常熟董浜書場花元より蘇州市養育巷殷小虹宛 [#eb83a7c3]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:苏州市养育巷124号};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:董浜书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1979年10月7日江苏常熟董浜};
&lang(zh-Hans){殷小虹同志:好!};
&lang(zh-Hans){ 20日来信,本应早日回信,因团务有变动,故拖了几天,结果过了高桥的日期了。金声伯原拟周泾21开书,后因顾宏伯在珍门,故金改为国庆开书,十天,越做二张小书,金开《七侠五义》,说是80分,碧溪小邢双档,亦是10.1开书,今年常熟东乡棉花丰收,采取计件制,故农村听客骤减,故业务普遍异常,看来要等十一月种麦以后才能回升。};
&lang(zh-Hans){ 说书技术应该要有专利权,否则要弄得不成其局,现在偷书,偷录音什么都有,收音机一日数档书,我说照此下去,评弹界威胁太大了,你同意这种说法吗?};
&lang(zh-Hans){ 所托之事,是否与老钱研究过,小俞、小吴他们对您非常信任,联系结果望赐回音,不久您进常了,再面晤吧!};
&lang(zh-Hans){ 致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){董浜书场};
RIGHT:&lang(zh-Hans){10.4花元上};
RIGHT:&lang(zh-Hans){请转演出场所};
***2、1979年10月5日、呉興双林鎮工会書場沈張より江陰青陽鎮青陽書場殷小虹宛 [#q4a1483c]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏省江阴县青陽 青陽书场交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:吴兴双林镇工会书场沈张};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1979.10浙江吴兴双林(支)、(2)1979.10.5江苏江阴青阳镇(支)};
&lang(zh-Hans){兄:你好!};
&lang(zh-Hans){ 进场先看到兄来信,令人高兴,知兄渡村满意,高桥之事,不提也罢,提反而惹气。};
&lang(zh-Hans){ 这里路程是不便,昨夜在加〔嘉〕兴旅舍过了一宵,今天乘了六个多钟头轮船方到达。夜200人还少一个,不过如此了。《扬》((すなわち『楊乃武与小白菜』のことである。楊乃武与小白菜案に関する報道における物語化については、五味知子「近代中国の夫殺し冤罪事件とメディア――楊乃武と小白菜案」山本英史編『近代中国の地域像』山川出版社、2011年、参照。))胡鹿鸣((胡鹿鳴は厳雪亭の弟子であり、文革終了後初めて『楊乃武与小白菜』を上演した。万鳴『書壇至尊――厳雪亭伝』上海、上海人民出版社、2016年、457頁。))热之刚做过,难免受影响,故而风头全无,可能做做还会好些。};
&lang(zh-Hans){ 渡村12月下期我们进去可好,如同意,合约盼即寄来。};
&lang(zh-Hans){ 这里打算做十二、三天,然后去石湖荡接玉秋下脚,早进去与他叙叙,托老钱带来的电筒已收到,谢谢!盼来信。};
&lang(zh-Hans){ 祝};
&lang(zh-Hans){好};
&lang(zh-Hans){ 贵场方代候之 鹃人};
***3、1979年10月18日、江陰青陽鎮青陽書場から呉県横涇書場殷小虹宛 [#c7e40330]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:苏州吴县横泾横泾书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:江阴青阳书场吴寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)79.10.18江苏江阴青阳(支)、(2)79.10.20 江苏吴县横泾(支)};
&lang(zh-Hans){小虹老弟:};
&lang(zh-Hans){ 来信收悉};
&lang(zh-Hans){ 心领,一切感谢,我昨日寄出一信,在信上已详告故不重复了,我明年4月以后未定其他已定局了,23号我到长泾。};
&lang(zh-Hans){ 你下来到什么地方未告我,请你先写信到江阴长泾吧。否则我无从写信要断信了。};
&lang(zh-Hans){ 看见老浦告诉他我到长泾做8天短期,再见吧。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){嘉善评弹团 吴醉亭/艳((呉醉艶は、徐雲志に師事した後、名前に「亭」を用いて、呉醉亭という芸名を用いるようになった。徐雲志の弟子は、厳雪亭、邢瑞亭、朱建亭、祝逸亭、華士亭、華佩亭、孫珏亭などのように、みな「亭」という字を芸名に用いた。張延莉『評弾流派的歴史与変遷――流派機制的上海故事』上海、上海音楽学院出版社、2017年、61頁。))上};
RIGHT:&lang(zh-Hans){老邹代侯10.18};
***4、1979年11月3日、崑山石牌書場呉醉亭/艶から常熟梅里書場殷小虹宛 [#j1db89c0]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟梅里书场海宁评弹团交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:昆山石牌书场嘉善评弹团};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)江苏石牌、(2)梅李(支)};
&lang(zh-Hans){ 小虹老弟,你好:};
&lang(zh-Hans){ 30返苏,得知你在梅里,因为你横泾来信未曾说明卸何埠,故就失联系,回苏知你进无夕〔锡〕,今日知道你在梅里,故特来片问候。};
&lang(zh-Hans){ 我八月在此演出,下卸妙乔,长泾金德明说你80年1月份有生意。叫我带信给你,请你去信联系。};
&lang(zh-Hans){ 青陽业务平均二百四十二客,23到长泾做短期。也是二百二三十,日场勿开,只夜场,此地昨日第一天日夜三百四十四,今日第二天日场二百五十六、夜场二百二十四,三笑交运了,青阳长泾碰来碰去电影夕〔戏〕剧响勿落,现在你年档定何处,可是苏州你下卸何埠盼告。1月上半月金村,下半月进浙江,我不去,你近段可有好些吃肉场子介绍,否则这好进浙江。再会吧。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){吴醉亭/艳上};
RIGHT:&lang(zh-Hans){11月3};
***5、1979年11月7日、呉県浦荘書場管麗英より常熟梅李劉園書場殷小虹宛 [#m6b9d92a]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟梅李龙园书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:吴县浦庄书场(11.7)};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1979.11.9江苏吴县、(2)1979.11.10江苏常熟梅李(支)};
&lang(zh-Hans){殷老师:};
&lang(zh-Hans){ 账单老钱会给我,很好,我们此地大约12号剪书,还不一定,下卸尚在联系日期,12月份我们有了,元旦我们未定,倘有仍代接,为感。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){管丽英11.7};
RIGHT:&lang(zh-Hans){陆翠君代侯你};
&lang(zh-Hans){我们做一只接一只的,随便什么日期都行的。};
***6、1979年11月10日、江陰華墅書場周玉秋より常熟梅李龍園書場殷小虹宛 [#t8657153]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟梅李龙园书场海宁评弹团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:江阴华墅书场周8/11};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1979.11.10江苏常熟梅李(支)};
&lang(zh-Hans){ 小虹兄:};
&lang(zh-Hans){ 因不悉您无夕〔無錫〕后到何埠,故未能致书,希宥之,今接来片,聆知梅李佳满,甚慰,《蒋干》((これは『蔣幹討差』や『蔣幹盜書』の如き曲目だと思われる。))之多,出乎意料,舍下给我信,甪里书场肖慧敏十回,《江南八侠》业务甚佳,看来兄的已被人偷去在卖了,当然是无损兄的大局,弟就要比您苦了,书短一些。承关注电影材料,弟还未悉,俟看到后,当设法充实,最好再设法学一部,然而谈何容易也。璜泾临行,金阿姨嘱弟寄信您,请您去一信,十八号去,还是开日场,还是开夜场,又接程浩良同志来信,问我兄在那里,我因不知,故只告他您十八号到璜泾,他来信叫我告您,罗店业务,请兄去信罗店和程兄处,程兄下半月到川沙顾路书场,现在上海县莘庄书场,沈张来信,一月份业务,托弟江阴角,但均满(不满者即不毛之地),故还是请兄虞角代他们动动脑筋,另接老钱信,要我代夏沈接,十二月上中两旬20天业务,弟已托场方,奈何回音已来无巧,故亦托兄在常熟联系联系,因弟自己力弱,自顾不暇,自己也都未落实,签了也被人捏脱,翻脱,苦也!我十六到小昆山,这里平平,因农忙也。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){玉秋};
***7、1979年11月13日、呉県浦庄書場陸より常熟梅李龍園書場殷小虹宛 [#t9eb3bad]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟梅李龙园书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:吴县浦庄书场(11.13)};
-&lang(zh-Hans){邮戳:〔1979.〕11.14江苏常熟梅李(支)};
&lang(zh-Hans){殷老师:};
&lang(zh-Hans){ 今日收信,立即写回信,我们谈的,今年已过了,〔19〕80年便有业务,倘有相订,望代为留意。};
&lang(zh-Hans){ 我们十五号剪书,十六号到无锡南门清名书场,不知你下卸哪里,可是璜泾吗?};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){陆、管〔丽英〕档};
RIGHT:&lang(zh-Hans){11.13};
***8、1979年12月3日、浙江平湖工人倶楽部書場徐小衡より呉県東山書場殷小虹宛 [#c657f702]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:吴县东山书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:浙江平湖工人俱乐部书场徐};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1979.12.3浙江平湖、(2)江苏吴县东山(支)};
&lang(zh-Hans){小虹兄:};
&lang(zh-Hans){ 我上一次一封信就寄到东山,今日知道你先进横泾,后进东山,吴双档告诉我的,我今日来信告诉你,我此间一号进场,大约近二百元数,对过平厅友档加〔嘉〕兴南湖团袁马档,重敌档,我此间大约半月,下卸未定,希请留心为感,我1月份还未定,特来片告诉你。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){ 近好};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟};
RIGHT:&lang(zh-Hans){小衡上};
***9、1979年12月9日、呉県渡村書場程浩良より呉県東山書場殷小虹宛 [#lb7c37e9]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:本县东山东山书场海宁团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:渡村书场程浩良};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)江苏吴县渡村、(2)1979.12.10吴县东山};
&lang(zh-Hans){小虹兄台您好:};
&lang(zh-Hans){ 今接来片均悉勿念,此地只开夜场一面,开上来152人每天有所增加,昨夜249人,估计还能升高一些,十六日到浒关文化站书场,元旦——10日吴淞工人俱乐部书场十一日返县集中开会休息,希勿断联系,罗店我三日从东山归来就去一信给场方朱玲宝同志,请重寄合约,给您说明改为都是您们海宁团,阁下与沈张档《铁弓缘》,朱从不误事,估计这一二天您能收到,是〔除〕非轮到他休息,迟一二天,不然不会的,玉秋兄下半月到川沙文化馆,华强十一日到真如。再会吧,祝好。待近剪书可能再来洗浴一次,再登门拜访,因不妨害您午睡,我浴后再来,祝好。十二.九};
RIGHT:&lang(zh-Hans){老唐同志代侯};
***10、1980年1月4日、上海呉淞工人俱楽部程浩良より德清新市書場殷小虹宛 [#ecaa4f42]
&lang(zh-Hans){收信人地址:浙江德清县新市新市书场海宁团};
&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:上海吴淞工人俱乐部};
&lang(zh-Hans){邮戳:1980.1.4.17上海■(支)};
&lang(zh-Hans){小虹兄您好:};
&lang(zh-Hans){ 刻接大札,知你合约已收到,沈张档在浒关时已去信告他了,勿念,等任贵地定然烘隆为祝,做到何日,下卸何处,未见写明,甚念,下次来信请告勿忘,这样才能免失联系,我这里是接沪剧团枱脚(小型剧场600客),越剧团接我枱脚,业务近二百之数,天晴能再好一些,场方准备把阅览室、电视室拆通,改为书场,能容四百客,这样能专做书场,做到三月以后能实现,场方叫刘学洲,为人很上路,江阴影管处,书场都未去信,就是给玉秋兄一信提及一笔,恐你挂念,特此早复,下卸何地,业务情况,希告一二为盼,此致};
&lang(zh-Hans){ 敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟程浩良};
RIGHT:&lang(zh-Hans){80.1.4};
***11、1980年2月19日、崑山陳茂鎮文化書場玉秋より江陰中山講演書場殷小虹宛 [#i50ec4ba]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江阴县中山公园书场海宁团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:昆山陈茂镇文化书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1980.2.23江苏昆山成茂(支)};
&lang(zh-Hans){小虹兄:新年好!};
&lang(zh-Hans){ 来片接悉,七宝确太不近情了,如此无协商余地,倒也鲜见,现在七宝又来信,说兄已去信通知,仍按原计划,和兄大家半月,唯华强兄嫂处之大场则要落空20天,故此弟已去信昆山蓬阆书场华强兄处,将情况告他们,请其示下,浒关弟也去一片,告老赵,准29号到三月一日开日场,江阴闻埠人多,定很热闹,弟此很静,望代寄语老张同志,上次未及辞别致谢,因为石雄同志未到文化〔书场〕,故我也无法到公园来告别,请他谅解,勿致误会,此事拜托吾兄代弟解释一下,为恳。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟玉秋};
RIGHT:&lang(zh-Hans){初四日};
***12、1980年2月21日、崑山盛茂鎮文化書場玉秋より江陰中山講演書場殷小虹宛 [#i00eb870]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江阴县中山公园书场海宁团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:昆山成〔陈〕茂文化书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1980.2.22江苏昆山成茂(支)、(2)1980.2.23江苏江阴};
&lang(zh-Hans){小虹兄好:};
&lang(zh-Hans){ 弟刚发出一片,又接兄来函,前于无锡准请兄协助调度,弟先做八月上半月,兄做下半月可也!华强兄嫂不知有信给兄否。我处还未来信,所以大场业务,未悉他们兄嫂作何按排,深念,兄到七宝路线:上海北站乘15路电车到底(徐家汇)再转92路(中百六店后面)乘到底七宝站。};
&lang(zh-Hans){ 恐念再复,祝};
&lang(zh-Hans){愉快};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟玉秋上 初六日};
&lang(zh-Hans){老张同志代候好};
&lang(zh-Hans){ 刚欲发信,又接兄函,准遵兄嘱,弟现空};
&lang(zh-Hans){①六月上半月②九月下半月③十二月中下旬20天};
&lang(zh-Hans){ 请兄按排无夕〔無錫〕可也,或其他亦可。};
***13、1980年6月6日、平湖林埭書場呉双档より常熟南門孔雀書場殷小虹宛 [#e18745a1]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟南门孔雀书场交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:平湖林埭书场吴双档};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1980.6.7浙江平湖 林家埭};
&lang(zh-Hans){小虹好友:};
&lang(zh-Hans){ 来片收悉,勿念那日怡园见面,不及详谈,因你难得与各位道中见面,故大家都与您在叙谈,我不便打断你的谈话,知你下午去吕紫霞家,真是不忘旧友,但我在家等你,当你要来,想谈谈杭州情况。};
&lang(zh-Hans){ 今来片知你业务佳满甚慰,你做到几时,何日结束,有便盼告。};
&lang(zh-Hans){ 此地田忙支农故日场停演,只演夜场尚可,开上来一百五十六,这二天近双百之数,大概决定明后天要开日场了,此地小书面子上二档朱汉文、张文荫,一落千丈。};
&lang(zh-Hans){ 我昨日去平湖,马龙生在船埠等我,热情非凡,拾多年未见面了,请我吃点心,留我吃饭,我跑过,跑勿脱,弄得真难为情。原本我们也是有交情,他不忘旧情,也出我意料之外,真是难得,我15号到加〔嘉〕善大云书场,7月震泽与黎里,特此告大概6月27、28返苏公休,你倘回苏,大家苏州见面吧。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){吴醉亭/艳上};
RIGHT:&lang(zh-Hans){6.6};
***14、1981年1月26日、青浦章練塘書場沈寄鵑人より常熟董浜添智塘書場殷小虹宛 [#o7bca18b]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏省常熟县董浜附近(&ruby(ママ){?};)添智塘书场海宁评弹团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:青浦章练塘书场沈寄(1.25)};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.1.26.17上海青浦(县)、(2)1981.1.27江苏常熟董浜(所)};
&lang(zh-Hans){小虹兄:你好!};
&lang(zh-Hans){ 在虞谅必满意,弟廿二日来此,打算做七八天,去申逗留一二夜,然后去陈坊桥,一号开书。};
&lang(zh-Hans){ 不知兄年档在何处,盼毋断音为盼,四月上兄自已去干窑,不知芦墟兄怎样安排,我们的四月下期会否有变,上次在石雄弟忘记问兄,请兄早作定局,免临时仓促,中旬干窑我们不去则不妨,可在蓉湖接书连下去的。芦墟若变,弟尚需另动脑筋,盼兄复信陈坊桥吧。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){ 祝};
&lang(zh-Hans){好};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟鹃人};
&lang(zh-Hans){又:昨天玉秋兄来此白相,言及芦墟上半月是他们去。这样就不妨了。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){鹃人26日};
***15、1981年1月31日、常熟春来書場何諒より蘇州市养育巷殷小虹宛 [#kb247bbc]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:苏州市养育巷124号};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:常熟春来书场何寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.1.31.19江苏、(2)1981.2.2.92(支)};
&lang(zh-Hans){殷小虹同志:};
&lang(zh-Hans){ 你从添智堂寄来的合约、信都已收到,我在前些天寄到你家的信,可能你已看到,关于二月下半月的事,在上次信中我已写明,你看着决定,希望你接到这信后,就给我一封回信,以免误事。致};
&lang(zh-Hans){礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){何谅};
RIGHT:&lang(zh-Hans){元月卅一日};
&lang(zh-Hans){师桥、太仓、海宁、常熟、望亭};
***16、1981年3月14日、桐郷濮院書場楊毅華より常熟春来書場殷小虹宛 [#vaeedc95]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟 春来书场转海宁评弹团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收(转:梅李公社 十四大队 殷小虹同志收)};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:濮院书场3.14};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1981.3.17江苏常熟 梅李(支)};
&lang(zh-Hans){殷小虹老师:您好};
&lang(zh-Hans){ 请你演出,业务定胜佳,来信收悉,我场82年春节已定,未知82年下半年有意进否,我非常欢迎你前来,我们也是老宾主了,已17、8年未见,甚念,目前书场仍由我负责,此地票价0.15,折扦0.09,今年业务尚可,3-400,82年下半年有意者(时间:10月之后)演期多少请注明,便于按排,“本县桐乡,梧桐书场新开书场,老朱欢迎你进去一叙”请便回音给我,以便早日落实,欢迎你。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){敬礼 祝好};
RIGHT:&lang(zh-Hans){杨敬华};
RIGHT:&lang(zh-Hans){3.14};
***17、1981年6月2日、蘇州市旧学前鄒才良より無錫容湖庄書場邢振祥宛 [#c2b3a8d2]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:无锡市容湖庄书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢振祥收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:苏州旧学前26号};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1981.6.21.9江苏苏州};
&lang(zh-Hans){邢兄:};
&lang(zh-Hans){ 你好!弟知你16号荣就贵场,一切顺利,甚为念念,我顾山15号结束,本当做一月,但因他们已另有小书,弟为了场团关系,让出半月,因时间不及,所以下脚脱空,我昨天去木渎小凤处,小凤告诉我,说你们两人介绍我进你团,害你们两人吃了不少话,弟心中一切有数,今后会报答,今特来信向你问好,天气热了,请身体保全。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){祝好};
&lang(zh-Hans){ 我26号集中开会};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟邹才良6-20};
&lang(zh-Hans){7月1日我进吴江,不知你1号下卸何地。};
***18、1981年6月25日、江陰南閘書場君丹より無錫解放橋蓉湖書場邢振祥宛 [#o64380c3]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:无夕〔锡〕市解放乔〔桥〕蓉湖书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢振祥同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:江阴县南闸书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.6.25江阴南闸、(2)江苏无锡};
&lang(zh-Hans){老兄:如见!};
&lang(zh-Hans){ 来信收悉,多蒙关心,七月一日之事,拜托吾兄,弟30号结束。等兄来函,返苏后代向嫂嫂等代候!一切保重,余言后叙,场方代候,恐盼特复,这里81年业务全满。};
&lang(zh-Hans){ 祝};
&lang(zh-Hans){近佳};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟君丹敬上};
RIGHT:&lang(zh-Hans){81.6.25};
***19、1981年6月26日、上海莘庄書場韓峰より蘇州市養育巷殷小虹宛 [#f9378132]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:苏州市养育巷124号};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:上海县莘庄书场韩寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.6.27.10上海■(县)、(2)1981.6.28.9江苏苏州2(支)};
&lang(zh-Hans){殷老师:您好!};
&lang(zh-Hans){ 来信悉,您我七宝曾见过一面,您能回忆起来的。所提几个月我只有七月份有空,就安排在七月份吧!书目〈吕四娘三盗万年青〉但不知此书有几回,据说有一排,到底有多少,请来信,即可确定具体日期,接您信后商定,我即将合约寄给您。};
&lang(zh-Hans){ 别无他言,祝同里业务丰满。};
&lang(zh-Hans){ 致};
&lang(zh-Hans){大礼!};
RIGHT:&lang(zh-Hans){韩峰笔};
RIGHT:&lang(zh-Hans){81.6.26};
***20、1981年7月17日、太倉老閘書場趙友伯より無錫湖浜書場邢振祥宛 [#o6264996]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:无夕〔锡〕市湖滨书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢振祥同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:太仓县老闸书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.7.18江苏太仓老闸、(2)1981.7.19江苏省无锡市};
&lang(zh-Hans){祥兄:};
&lang(zh-Hans){ 您处情况定好,我处17夜场碰头电影,业务欠佳,我10月份未定,我们互相关心。兄枫乔〔桥〕信可去否?不要脱空。一切等兄回信。速覆};
&lang(zh-Hans){ 祝安};
RIGHT:&lang(zh-Hans){赵友伯};
RIGHT:&lang(zh-Hans){7.17};
***21、1981年10月25日、常州天寧書場丁振亜より宝山羅店書場殷小虹宛 [#re6af9e3]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:浙江省海宁县 县评弹团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){ 转宝山县罗店书场 海宁评弹团 殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:常州市天宁书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.10.26江苏常州、(2)1981.10.28.13浙江海宁硖石、(3)1981.10.29上海宝山908(支)};
&lang(zh-Hans){殷小虹同志:好!};
&lang(zh-Hans){ 自从接到你八月十三号的来信后,我们计划一下后,在九月二号就寄出上海西园书场一封信,根据你给我的空档,我们欲请你在明年八月下半月来书场。};
&lang(zh-Hans){ 最近在整理计划时,才发现你近来给我答复,因此请你决定一下,明年八月下半月如肯来,我当奉上合约签订。};
&lang(zh-Hans){ 务请回信。};
&lang(zh-Hans){ 致};
&lang(zh-Hans){礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){丁振亚};
RIGHT:&lang(zh-Hans){10.25};
***22、1981年11月20日、武進焦溪鎮書場徐小衡より呉県横涇鎮書場殷小虹宛 [#f43add6d]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:吴县横泾镇书场交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:武进县焦溪镇书场交};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1981.11.20常州焦溪(支)、(2)1981.11.21.8苏州横泾(支)};
&lang(zh-Hans){小虹兄:};
&lang(zh-Hans){ 在苏一别,弟16号到场开书,这几天小农忙,日夜近百之数,此间做13天,下脚未定,请兄能否介绍横泾业务,还有常熟天主堂,今年倘排勿进,请代安排明年业务,请兄大力,近有书看完后交还我到苏州面谈。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟小衡};
RIGHT:&lang(zh-Hans){场方代候};
RIGHT:&lang(zh-Hans){81.11.20};
***23、1982年2月1日、嘉善大通書場鄔建偉より常熟徐市書場殷小虹宛 [#j80bdc5f]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏省常熟县 徐市书场 海宁评弹团};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:浙江加〔嘉〕善县大通书场邬缄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1982.2.1■■大通(代)};
&lang(zh-Hans){老殷同志,新年好!};
&lang(zh-Hans){ 首先向您致亲切的问候。谅必年档演出顺利吧。我年档在“加〔嘉〕善县大通书场”半月至2月8日。下卸至今尚未定妥,望请百忙抽空,代为关心,倘有则来信通知。};
&lang(zh-Hans){ 书目“黄金印”,时间2月11日——25日半月。关于下手问题,我取慎重态度。要拼者,则久长而适当。望您也代为物色介绍为盼。反正暂借、联合、试用、培养,均可。};
&lang(zh-Hans){ 常信不断联系。};
&lang(zh-Hans){ 致};
&lang(zh-Hans){礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){邬建伟初七于};
RIGHT:&lang(zh-Hans){加〔嘉〕善县大通书场};
&lang(zh-Hans){ 场方同志:};
&lang(zh-Hans){ 如殷同志已离场,则烦请转寄下只码头。 谢谢。};
***24、1982年3月19日、平湖新倉工農書場陳継良より常熟珍門廟書場邢振祥宛 [#r31d4114]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏常熟县珍门庙书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢振祥收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:平湖新仓工农书场陈(3.19)};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1982.3.19浙江平湖新仓(支)、(2)1982.3.22江苏常熟珍门};
&lang(zh-Hans){振祥兄:来信悉,此地业务情况告你,16日48人,17日115人,18日130,19日场已到103人,夜场估计60人,府场子文化站是女平档施琴韵一坍苦水,千子0.072,一无津贴,从苏州到此整整一天时间,黄埭你去信说明一下,我已是桐乡团了,浒关回绝你真笑话,赵友伯15进场演出了,此地我过几天和场方谈。早复。};
RIGHT:&lang(zh-Hans){陈继良};
&lang(zh-Hans){如人不在请转};
***25、1982年5月1日、蘇州市曹胡徐巷徐宏達より宜興張渚鎮鶴陽楼書場邢振祥宛 [#l66da564]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:宜兴县张诸〔渚〕镇 鹤阳楼书场交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢团长振祥同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:苏州市曹胡徐巷40号徐};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1982.5.1江苏苏州};
&lang(zh-Hans){振祥团长您好:};
&lang(zh-Hans){ 知您劳动节进贵场很好,今日定业务烘隆为祝,我在苏州休息,年老了休息也是要的,祥麟要我进太仓三市,我不进去,宜兴角比较为可,关于丁山、下珠街、官林等地为请联系一下,我要进来的,我见到友伯他问起珍门5月11号到月底何人进去,不要王〔忘〕孙启华同志在何地演出,来信时写明,可能联系,您处业务如何,来信吧。};
&lang(zh-Hans){再见。此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){宏达5.1};
&lang(zh-Hans){孙瑞华同志代候};
***26、1982年5月28日、嘉興珊鳳書場汪小泉より宝山大場書場殷小虹宛 [#o73f4b8e]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:上海宝山县 大场书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:加〔嘉〕兴市珊凤书场汪陈(5.28)};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1982.5.29上海宝山};
&lang(zh-Hans){小虹:前奉一信谅收,此地目前确是可以做做,大花头没有,200至250之多,我目前200出进之数,应31号终,六一卸松江县甪吊湾,农忙阶段是一滩苦水。六指头是要你做的,但他目前的宗旨,做一档接一档或二档,过远不接,因一:怕惶。二:公益不知何日开,所以你所约之期他不敢,你不妨约个今年日期给他,如已定,明年可通讯他。他是欢迎你之至,你如双林有变,请来信甪吊湾。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){汪小泉};
***27、1982年8月2日、江陰月城鎮書場徐宏達より富陽長安鎮書場邢振祥宛 [#s348fd68]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:浙江省沪杭线 长安镇书场烦交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢团长振祥同志收启};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:江阴县月城镇书场徐寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1982.8???江苏江阴};
&lang(zh-Hans){ 邢团长您好:};
&lang(zh-Hans){ 在苏一别,一号我这里开早场,日夜114人,今天早场上升些,夜场看上去要跌,今明连三天电影。关于我十一号下来到宜兴开会,与您碰头,这里王继雯双档来接我,是否妥当,请来信指示,王继雯住井冈山路176号,我还没有与他通信。或者你直接与他通信,谅您进贵场业务烘隆,一切顺利。盼您回信,再见。};
&lang(zh-Hans){ 此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){宏达8.2};
&lang(zh-Hans){承同志等您按排出书双档来速来回信吧};
&lang(zh-Hans){场方代候:};
&lang(zh-Hans){继雯我与他谈妥来此,我要等您回信,其他双档可有再好以免多生枝节,您看吧。};
***28、1982年12月31日、蘇州市曹胡徐巷徐宏達より常熟福山鎮書場邢振祥宛 [#h2e311b4]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:常熟县福山镇书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢振祥团长收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:苏州市曹胡徐巷40号徐寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:1982.12.31.16江苏苏州};
&lang(zh-Hans){振祥团长同志,您好:};
&lang(zh-Hans){ 这次我在苏州不出去演出,因5号场中要开退休会议,故我等开会了,关与吴江县北厍书场场方来苏他到您家,不知可有见到您。如果没有碰头我将北厍的事情告诉您,他场给您年档合约,您尚未去信,他场很急,要您在6号前给他信定下来,要双档进场,大书勿要,您决定吧,谢俊良进武进东,请小衡来进北厍。进江阴赤岸,北厍陆云舫、郑蔚雯进场的,其与您都知道了,接到我信来回信吧,继良江阴月城再见。此致};
&lang(zh-Hans){敬礼};
RIGHT:&lang(zh-Hans){宏达上12.31};
&lang(zh-Hans){场方等到6号如勿给回信,他要到别处联系的,场方代候};
***29、1983年、宜興徐舍茶店書場より崇明県文化館書場邢正祥宛 [#a723698a]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:上海市崇明县文化馆书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:邢正祥同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:宜兴县徐舍茶店书场};
-&lang(zh-Hans){邮戳:茶舍(支)};
&lang(zh-Hans){正祥老师:您好!};
&lang(zh-Hans){ 自去岁分别,很是想念,不觉已近年余矣!光阴似流水,岁月永无情。人生相遇,机会难得。我们在短短的相处时间中,老师对我留有极深影响,并且艺术水平高超,一致听众评价极高。本场新辟书场,小巧玲珑,音量好,又在后进,无杂音干扰,座位一百八十,地点适中。};
&lang(zh-Hans){ 今有宏达老师在本场业务较可,提及老兄,所以很想相约老师四月十六号来本场复档,因日场“江南八侠”没有开过,故而可以来开,如愿意相叙的话,请速来信联系而决定。专此相邀,并祝近好。};
***30、1984年7月28日、呉江平望書場凌麗華より嘉定黄渡書場殷小虹宛 [#x4efa840]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:加〔嘉〕定县黄渡黄渡书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:吴江县平望书场凌寄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)1984.7.28 江苏吴江平望(支)、(2)1984.7.30.9上海嘉定804(支)};
&lang(zh-Hans){殷老师:};
&lang(zh-Hans){ 您的来信我已收到,承蒙为我场业务深表感谢。};
&lang(zh-Hans){ 我们平望书场是商业书场,在前阶段由于网点调整,吴江领导想把书场改为糕点工场,因为平望是大镇之一,所以镇政府不同意把书场出掉,因此未曾与您建立业务关系,现在平望书场还是存在的,所以说业务仍旧建立的,我们平望书场八月下半月起到9月10月都是空场,请您逐月安排。};
&lang(zh-Hans){ 殷老师:};
&lang(zh-Hans){ 不过还有一点要说明,我们平望对于女单档是不吃。冯月仙、王楚人来过,业务很不好,最后请您安排业务时要证明具全的。};
&lang(zh-Hans){ 祝};
&lang(zh-Hans){安好};
RIGHT:&lang(zh-Hans){凌丽华启};
***31、2月2日、嘉興南門書場金石声より常熟徐市鎮徐市書場殷小虹宛 [#p74aea4e]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏常熟县徐市镇 徐市书场烦交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志收};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:加〔嘉〕兴市南门书场金缄};
-&lang(zh-Hans){邮戳:■.2.3,浙江嘉兴市};
&lang(zh-Hans){小虹兄,你好!};
&lang(zh-Hans){ 来信已悉!希请勿念!我们久未通信,能够今后加强联系,万分高兴!我年2档进西塘工会书场,接朱传鸣下脚!};
&lang(zh-Hans){ 此处新园是赵玉昆,栅凤是庞志英,加兴总的业务情况并不理想,本则南门书场独霸一方,从去年下半年起也不续了!今年年档还好,但场方不愿开书场,决定我下来是石雄演掉就“关门”!3月起停了!};
&lang(zh-Hans){ 此处是饭店,旅馆附设书场,是兼营的,负责业务是加〔嘉〕兴团杨强儿经手。};
&lang(zh-Hans){ 你年2档进何处?信上未提到,请告西塘是10号进去,我喉咙失音,要休息几天,场方不肯放,真正在买老命。};
&lang(zh-Hans){ 你书筹得多,有机会向你学习学习,不多写了,此致};
敬礼
RIGHT:&lang(zh-Hans){金石声};
RIGHT:&lang(zh-Hans){2月2日下午};
***32、2月20日、上海新閘路鳳鳴台書場朱伝鳴より金山亭林鎮書場殷小虹宛 [#h3e1db30]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:金山县亭林镇书场交};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:上海新闸路248号凤鸣台书场朱};
-&lang(zh-Hans){邮戳:(1)19??.2.20 上海(支);(2)2.21上海金山(支)};
&lang(zh-Hans){小虹兄:};
&lang(zh-Hans){ 来片悉,勿念,我处业务可以,日场满。夜场160到180左右,在上海市内此地夜场算好做的,虽然书场小,220人满座,到也蛮好做。我三月一日彭浦书场开青龙,不知是青龙还是白虎?好坏难料,三月十六日,常熟春来接你下脚,希不断连系,相互关怀!你谈的事,我也有此意,我们相互留意。};
&lang(zh-Hans){ 祝};
&lang(zh-Hans){春安};
RIGHT:&lang(zh-Hans){弟朱传鸣2.20};
RIGHT:&lang(zh-Hans){陈小雯附笔};
***33、12月21日、嘉善文化書場銭より呉県東山書場殷小虹宛 [#wdc8fb7a]
-&lang(zh-Hans){收信人地址:江苏吴县 东山书场};
-&lang(zh-Hans){收信人姓名:殷小虹同志};
-&lang(zh-Hans){寄信人地址姓名:加〔嘉〕善文化书场老钱12.21};
-&lang(zh-Hans){ 上海安远路213弄5号严鹤亭转};
&lang(zh-Hans){殷老师:};
&lang(zh-Hans){ 本则卸无夕〔锡〕,因突变化,所以给您电报,实因时间局促,回电都不及了,后来上海业务组介绍此地文化书场,所以20号下午决定21进此。};
&lang(zh-Hans){ 此地有只码头陶庄,现有250多人,一月扫脚,11—13日已经与场方谈妥,叫李念君、戴梅丽去,因他们托过,现在不知卸何处,所以写信给您,听小李上信可能到您处,故请殷老师转告小李并请速覆!};
&lang(zh-Hans){ 致};
&lang(zh-Hans){康健};
RIGHT:&lang(zh-Hans){石泉园珠12.21};