『都市芸研』第二十三輯/京劇武戯の崑曲をめぐって の履歴(No.2)


京劇武戯の崑曲をめぐって――岳飛故事戯・三国戯を中心に

千田 大介

はじめに

歴史物語においては、古今を問わず、一騎打ちなどの戦いの場面が最大の見せ場になる。中国の古典的な歴史物語もその例に漏れず、例えば三国故事では、虎牢関・赤壁といった戦いの場面が、元雑劇・平話、そして小説『三国志演義』・伝統劇などの芸能・演劇・小説を通じて、繰り返し取り上げられている。

中国の伝統劇では、そうした戦いの場面を取り上げた立ち回りを見せ場とする演目を、歌唱を中心とする文戯に対して、武戯と呼ぶ。視覚的にわかりやすいことから、魯迅の『社戯』で子どもたちが楽しみにしているのは役者の立ち回りの蜻蛉であるし、京劇の海外公演でも武戯を中心にプログラムを組むのが一般的である。

明清の講史小説・英雄伝奇小説は、戯曲・芸能を通じて物語が形成された一方で、完成した小説が再び戯曲・芸能の材源になり、広く受容されてきた。従って、歴史物語がいかなる上演環境の元で育まれたのか、またいかに受容されたのかを考える上で、武戯への検討は欠かすことができないと考える。

武戯は「把子」とも呼ばれ、戦いの場面を描く雑劇、歴史を扱った伝奇にも武戯的な折・齣があったと思われるが、ト書きに立ち回りの動作まで詳細に書かれることが少ないため、どのように演じられていたのか今ひとつ判然としない。従って、武戯の問題を考察する上では、上演の方法が明確で周辺資料が豊富な伝統劇から遡る方法が有効であろう。

かかる見地から、本稿では京劇の武戯について、その音楽に注目して検討する。京劇の武戯には豊富な演目があり、全てを一度に検討することは困難であるので、以下では対象を岳飛故事と三国故事に絞る。

京劇の武戯には、歌唱を伴わないもの、皮黄腔――西皮調と二黄調を歌うもののほかに、崑曲の曲牌を歌うものがあるのは、京劇を見慣れた人にとっては常識であろう。このうち崑曲の曲牌を歌うものについて、林佳儀2016は以下のように指摘する。

近代京劇の舞台での上演で曲牌を歌う武戯の、套式の運用上の、はっきりした特徴の一つが北曲套曲を多用することである。(p.276)*1

京劇には崑劇や京腔から取り入れた劇目が一定程度存在する。例えば京劇『金山寺』は清の方成培『雷峰塔』第二十五齣「水闘」をほぼそのまま用いている。両者の套曲を比較してみよう。

京劇『金山寺』*2

【三仙橋】、【二犯江児水】、【酔花陰】、【画眉序】、【喜遷鴬】、【画眉序】、【出隊子】、【刮地風】、【滴滴金】、【四門子】、【鮑老催】、【水仙子】、【前腔】、【双声子】、【煞尾】

『雷峰塔』伝奇:

【北酔花陰】、【南画眉序】、【北喜遷鴬】、【南画眉序】、【北出隊子】、【南滴溜子】、【北刮地風】、【南滴滴金】、【北四門子】、【南鮑老催】、【北水仙子】、【双声子】、【尾声】

京劇は、冒頭に【三仙橋】と【二犯江児水】が加わり、【南滴溜子】が省かれているが、基本的に同じ套曲である。曲辞も基本的に一致する。【喜遷鴬】を見てみよう(いずれも、夾白と改行を削除し、襯字を括弧で括ってある)。

京劇『金山寺』:

恁只顧将虚浮来掉,恁只顧将虚浮来掉。口咄咄装甚麼的妖。怎不心焦!激得俺満胸中気悩。怎把俺恩愛児夫来閉着!哎呀,心懊悩!你明欺俺道低術小,您如今自把災招,您如今自把(得這)災招。

『雷峰塔』伝奇:

(你休把)将虚脾来掉。(你休把)将虚脾来掉。口咄咄装甚麼的么。怎不心焦。(哎喲,激得我,)満胸(中)気悩。(怎把俺)恩愛児夫来蔽着。(哎呀,)心懊悩。(你明)欺俺道術細小。(您如今)自把災招。(您如今)自把災招。

崑劇にはもともと武戯もあったが、しかし清代後期に衰退したことで伝承が途絶えてしまい、現在の崑劇の武戯は、多くが民国時期に京劇から逆輸入されたものである。

一方、京劇で崑曲を歌う武戯には、本稿で検討する『跳滑車』・『小商河』・『鉄篭山』など、崑劇に相当する演目が見出せないものも見受けられる。それらへの検討を通じて、京劇の武戯がいかに形成され変遷したのか、その一端を明らかにしたい。

岳飛故事戯

清朝を建てた満洲族は、金の女真族の後裔であるため、抗金の英雄である岳飛の物語については、清代、さまざまな制約があったと考えられる。筆者は千田大介2023で清代北京の岳飛故事戯曲について検討したが、京腔を通じて岳飛故事が新たに発展した形跡は見られなかった。徽調・京劇には北京において継承すべき京腔の岳飛戯が無かったのであり、結果として小説『説岳全伝』を直接改編したものが多数を占めている。

京劇岳飛故事の武戯としては、以下の演目が挙げられる。

『潞安州』、『両狼関』、『挑華車』、『岳家荘』、『鎮潭州』、『小商河』、『八大錘』、『湯懐自刎』

これらのうち崑曲を用いるものは、『挑華車』と『小商河』に絞られる。その他は、皮黄のみを用いており、立ち回りの場面に歌唱を伴わないものが大半である。

『挑華車』と【粉蝶児】・【泣顔回】複套

「華車」は「滑車」とも書かれる。これは、『説岳全伝』や京劇台本の版本間で表記が揺れているが、本稿では『古本小説集成』所収錦春堂刊本に従い、「華車」で統一する。

鉄華車は『説岳全伝』第十七回で両狼関総兵・韓世忠の妻である梁紅玉が用意した兵器であったが、関が火砲の失火で陥落した後、金軍に鹵獲される。それが、第三十九回で岳飛が高宗を奉じて立てこもる牛頭山の麓で金軍との戦いとなった際に、金営に攻め込んだ宋将・高寵に対して使われる。鉄華車がどのようなものであるのかは今ひとつ判然とせず、『説岳全伝』第三十九回では金軍の兵士が「推来」しており、京劇では坂の上から転がす鉄の車として処理している。

清代北京の花部(徽調・京劇など)の演目を記録した資料に、慶昇平班班主の沈翠香の旧蔵で道光十二年(1832)の年記を持ち、道光年間初頭の状況を反映する『慶昇平班戯目』*3、および道光二十年代頃の状況を反映する『春台班戯目』*4があるが、『挑華車』の別名である『牛頭山』が『慶昇平班戯目』に見えるので、道光年間以前の比較的古い演目である。金登才2014は、甘粛靖遠清嘉慶古鐘鋳目に『牛頭山』が見えることから嘉慶年間の花部戯とするが*5、李玉に同名の伝奇があるため、鋳目の『牛頭山』が『挑華車』であるとは断定できない。

『挑華車』の前半部は皮黄を用いるが、第四場以降の立ち回りの場面で崑曲が歌われる。套曲は以下の通り*6

【粉蝶児】、【泣顔回】、【石榴花】、【黄竜滾】、【上小楼】、【上小楼】、【畳字犯】

いずれも高寵が歌う。これらのうち、【泣顔回】は南曲、他は北中呂の曲牌である。

この套曲については、『崑曲曲牌及套数範例集 北套』に詳しい。それによると、中呂【粉蝶児】・【泣顔回】套曲は、南曲・北曲を交互に配列していないので南北合套とは言えず、北中呂の套曲に【泣顔回】などの南曲套曲が組み合わさった複套形式であるという。また、以下のように述べる。

『集成曲譜』に収める「驚変」・「刺梁」・「送京」・「祭旗」の4折はこの種の南北複套套式を用いている。……4つの折子には、【畳字犯】・【畳字令犯】という牌名が見えるが、これは【撲灯蛾】の変体の別名である*7

北曲【撲灯蛾】は専ら【粉蝶児】・【泣顔回】套曲で使われるが、「南曲の名を借りているが実質は北曲」*8であり、また、

元曲には【撲灯蛾】曲牌が無く、いわゆる北【撲灯蛾】の詞式は南【中呂・撲灯蛾】とも異なるので、清人が創始して随意に名付けたものではなかろうか。【撲灯蛾】は京劇にも継承されており、その詞式からすると逆に南【撲灯蛾】を継承し変化したものである*9

とする。

一方、林佳儀2016はこれを中呂宮の南北合套であるとし、その起源が元の貫雲石の套数【粉蝶児】「小扇軽羅」に遡ることを指摘する。貫雲石の套数の曲牌排列は以下のようにな る*10

【粉蝶児(北)】、【好事近(南)】、【石榴花(北)】、【料峭東風(南)】、【闘鵪鶉(北)】、【撲灯蛾(南)】、【上小楼(北)】、【撲灯蛾(南)】、【尾声】

南北曲が交互に用いられる完全な南北合套形式で、北曲については【粉蝶児】・【泣顔回】複套とほぼ同じ曲牌が用いられている。このような南北合套をもとに、南【泣顔回】を導入し、【撲灯蛾】を北曲化することで、【粉蝶児】・【泣顔回】複套が成立したものと考えられよう。

【粉蝶児】・【泣顔回】複套は、実際には明伝奇にも見える。屠隆『曇花記』(『六十種曲』本)第五十二齣「菩薩降凡」の套曲は以下のようになっている。

【似娘児】、【桂枝香】、【前腔】、【神仗児】、【粉蝶児】、【泣顔回】、【上小楼】、【泣顔回】、【黄竜滾犯】、【撲灯蛾犯】、【小楼犯】、【畳字児】、【尾声】

『曇花記』は唐の木清泰とその妻・衛夫人が仏教に帰依し、悟りを開くことを描く。第五十二齣では衛夫人らが南曲【似娘児】、【桂枝香】、【神仗児】を歌った後で、降凡した霊照菩薩が【粉蝶児】以下の曲牌を歌う。二曲の【泣顔回】以外は北曲で、南北曲が交互に配列され南北曲で歌唱者が分かれるという南北合套の原則が守られていないので、【粉蝶児】・【泣顔回】複套化していることがわかる。

【黄竜滾犯】は『九宮大成譜』・『南北詞簡譜』等の曲譜に見えないが、徐麟が『長生殿』第二十四齣「驚変」【北闘鵪鶉】の眉批で以下のように述べている。

この調を近頃の人は【黄竜袞犯】に作るが、誤りである。これが【闘鵪鶉】に字や句や幇唱を増やしただけのものであることがわかっていない*11

「驚変」は前に引いた『崑曲曲牌及套数範例集 北套』が【粉蝶児】・【泣顔回】複套の例として挙げている齣であり、【闘鵪鶉】は北中呂宮の曲牌である。

周朝俊の『紅梅記』第七齣「瞥見」にも【粉蝶児】・【泣顔回】複套が見える。

【中呂粉蝶児】、【泣顔回】、【上小楼】、【泣顔回】、【黄竜滾犯】、【撲灯蛾犯】、【上小楼犯】、【畳字児犯】、【尾声】

『曇花記』には万暦二十六年序が付され、『紅梅記』は王穉登が「敘『紅梅記』」で己酉秋、すなわち万暦三十七年(1609)にこの劇を見たとしているので、【粉蝶児】・【泣顔回】複套は万暦年間中葉までに確立していたことになる。

明末清初になると、【粉蝶児】・【泣顔回】複套の使用例は増加する。

明末清初、李玉『風雲会』第十五齣*12

【北粉蝶児】、【顔子楽】、【石榴花】、【顔子楽】、【闘鵪鶉】、【上小楼】、【畳字犯】、【尾声】

【顔子楽】は【泣顔回】と【刷子序】・【普天楽】の集曲であり、【泣顔回】に準ずるものである。

明末、沈自晋『翠屏山』第三齣*13

【引】、【粉蝶児】、【泣顔回】、【上小楼】、【闘鵪鶉】、【下小楼】、【畳字犯】、【尾】

清初、秋堂和尚(范希哲とも)『偸甲記』第三十六齣:

【仙呂点絳唇】、【前腔】、【中呂粉蝶児】、【泣顔回】、【上小楼】、【泣顔回】、【黄竜滾犯】、【撲灯蛾犯】、【小桃紅】、【畳字令】、【尾声】

『風雲会』は宋太宗故事を描き、『翠屏山』・『偸甲記』は『水滸伝』に取材するが、以上はいずれも戦いの場面でない。

【粉蝶児】・【泣顔回】複套が武戯に用いられるようになったのは、もう少し下った時期なのであろう。

『小商河』

楊家将の後代である楊再興が岳家軍の先鋒として進軍し、誤って小商河の泥濘にはまり込み、奮戦空しく針鼠になって陣没するさまを描く。劇全体の流れ、趣向は『挑華車』とも似かよっている。

第三場から第五場、楊再興の戦いの場面で崑曲の套曲が歌われる*14

【粉蝶児】、【石榴花】、【黄竜滾】、【上小楼】、【畳字令】

【黄龍滾】は兀朮、他の北曲は楊再興が歌う。一見してわかるように、【泣顔回】などを省いた簡略的な中呂【粉蝶児】・【泣顔回】複套になっている。

『小商河』は、『慶昇平班戯目』・『春台班戯目』に見えない。この劇の由来については、李洪春1982に以下のようにある。

(楊小楼は上海で)三日間の「打炮戯」を歌い終わると、彼は八本『洞庭湖』の依頼を受けた。彼を困らせようとしたのか、それとも本当に彼の上演・歌唱芸術を見てみたかったのかはわからない。これには彼も焦ってしまった。というのは北方では京劇を歌う『鎮潭州』を除いて、その他の数本は誰も演じなかったので、彼にもできなかったからだ。特にこの八本の崑曲の『洞庭湖』は、できるはずがないどころか、見たことさえなかった。どうしたらよいだろうか?弟子入りの書状を渡して、王鴻寿氏にその場で習うしかなかった。彼はこの八本『洞庭湖』が王鴻寿氏の十八番であると知っていたので、師と仰いだのである。

この八本『洞庭湖』は以下を含む。『賜繍旗』(『精忠報国』)、『苦肉計』(『收楊虎』)、『金蘭会』(『焼王佐』)、『洞庭湖』(『擒楊么』)、『鎮潭州』(『收楊再興』)、『棲梧山』(『收何元慶』)、『小商河』(『楊再興喪命』)、『康郎山』(『收余化竜』)、『隠賢荘』(『收曹成』)、『長沙王』(『收羅延慶』)、『五方陣』(『收伍尚志』)、『荼陵関』(『收張立、張用』)、『鳳凰山』(『收関鈴』)。八本『洞庭湖』と言うものの、実際には八本に留まらず、そのうちいくつかの劇は『洞庭湖』と関係なく、小説『説岳全伝』ともかなりの出入りがある*15

「打炮戯」は公演の始めの三日間に、その役者の最も得意とする劇を演ずることをいう。崑曲を用いる『小商河』を含む八本『洞庭湖』は、江南地方の南派京劇特有の演目であり、北京を中心とする北方地域ではもともと演じられていなかったが、この後、不世出の名武生たる楊小楼によって北京にもたらされる。『慶昇平班戯目』・『春台班戯目』に見えないのは、北京で『小商河』が演じられていなかったことを端的に示している。

清の朱佐朝『奪秋魁』伝奇のうち天理本は、結末部分の八齣で岳飛・牛皐の結婚と金との戦いを描いているが、これらの内容は『古本戯曲叢刊』本・永慶堂本に見えない。これは清朝への忖度によって削除されたものと思われるが*16、『小商河』についても、あるいは似たような事情があって、北京で上演されずに南方の徽調・南派京劇にだけ伝わったのであろう。

三国戯

三国戯と武戯の範囲

「唐三千、宋八百、数え尽くせぬ三・列国」という言葉があるように、三国故事は京劇の中でも人気の題材であり、文戯・武戯を含め多様な演目が残っている。

三国戯の人気は、乾隆五十五年(1790)の乾隆帝八十歳の祝賀を契機に京劇の源流となる徽調の劇団が北京に進出した、いわゆる四大徽班晋京の頃に遡る。四大徽班の一つである和春班について、蕊珠旧史の『夢華瑣簿』に以下のように見える。

和春班は「把子」と呼ばれた。毎日正午に、必ず『三国』・『水滸』などの小説を演じ、「中軸子」と称した。立ち回りに優れたものが、それぞれ技を披露した*17

乾隆末年から、京劇の前身である徽調で、三国故事が武戯として演じられていたことが窺える。

『慶昇平班戯目』には以下の三国戯が挙げられている。

『虎牢関』、『借趙雲』、『盤河戦』、『戦濮陽』、『奪小沛』、『白門楼』、『許田射鹿』、『聞雷失箸』、『馬跳潭溪』、『三顧茅廬』、『博望坡』、『長坂坡』、『舌戦群儒』、『臨江会』、『群英会』、『借箭打蓋』、『祭東風』、『華容道』、『取南郡』、『取桂陽』、『取長沙』、『柴桑口』、『攔江救主』、『取雒城』、『定軍山』、『陽平関』、『瓦口関』、『葭萌関』、『戦冀城』、『戦渭南』、『取成都』、『戦合肥』、『反西涼』、『甘露寺』、『鳳凰台』、『伐東呉』、『白帝城』、『安五路』、『渡瀘江』、『鳳鳴関』、『天水関』、『戦街亭』、『葫蘆峪』、『七星灯』、『戦東興』、『鉄(ママ)山』

後掲の『春台班戯目』よりも収録演目が多く、特に劉備の徐州時期から荊州寄寓、そして赤壁の戦いに至る間の演目が充実している。

『春台班戯目』には、「三国志戯」として以下を挙げる。

『温明園』、『陳宮記』、『楽嘉城』、『濮陽城』、『鳳鳴山』、『取南安』、『天水関』、『罵王朗』、『失街亭』、『斬馬謖』、『反西涼』、『戦渭南』、『冀州城』、『葭萌関』、『献成都』、『瓦口関』、『定軍山』、『陽平関』、『伐東呉』、『五丈原』、『収龐徳』、『長坂坡』、『漢津口』、『群英会』、『赤壁記』、『隴上麦』、『出祁山』、『黄鶴楼』*18

これらのうち、武生・武浄を中心に演じられる武戯は、さほど多くない。

『長坂坡』、『漢津口』、『攔江救主』、『葭萌関』

一方、老生が主役となる演目の中に、「靠把老生戯」に分類されるものがある。「靠」は鎧を表現する戯衣で、「把」は「把子」すなわち武戯を指し、「靠を着用した立ち回りを伴う老生を主役とする芝居」ということになるので、これらも武戯の一種であると言うことができる。『春台班戯目』に見える『定軍山』・『陽平関』などの黄忠戯は、いずれも靠把老生戯であり、とりわけ『定軍山』は京劇の改革者で「伶界大王」と称された譚鑫培の十八番で、中国最初の映画に撮られたことでも知られる。そもそも老生を最も重要な役まわりとするのは京劇の一つの特色であり、その老生が歌う歌唱は必然的に皮黄ということになるため、いずれも崑曲を用いていない。

このほか、武将が鎧を着用する動作を舞踏化した「起覇」は武生の見せ場となるが、文戯であっても武将の登場場面に起覇を伴うものが多い。例えば『濮陽城』には張遼・高順の起覇があり、『失街亭』には趙雲・馬岱・王平・馬謖の起覇があるし、『黄鶴楼』の末尾にあたる『蘆花蕩』には張飛の起覇があるように、武戯的な場面を含む演目も数多い。

和春班の演じた三国戯の「把子」は、以上のようなさまざまな武戯的要素を持つ演目を広く指して言ったものだと思われる。

京劇『鉄篭山』

『鉄篭山』は、三国戯に数少ない崑曲の套曲を歌う武戯である。諸葛亮亡き後、その後を継承した姜維が、魏の司馬昭を鉄篭山に包囲するが、陳泰の計略で羌王迷当が内応したために大敗を喫する、といった筋で、『三国志演義』第一百九回に取材している。

『鉄篭山』では、第一場「草坡打囲」の羌軍の巻き狩りの場面から第四場「迷当発兵」にかけて、【粉蝶児】・【泣顔回】複套が歌われる*19

【粉蝶児】、【北泣顔回】、【石榴花】、【琵琶泣顔回】、【黄竜滾】、【畳字犯】

底本は【北泣顔回】に作るが、北曲に【泣顔回】は無いので、南曲の誤りである。【琵琶泣顔回】までは巻き狩りの場面で迷当と四人の羌女が歌い、【黄竜滾】、【畳字犯】は迷当を説得する場面で陳泰が歌う。

また第五場「観星会陣」では、姜維が【八声甘州歌】を歌う。この曲については、楊小楼が譚鑫培より教えられたエピソードが伝わる。楊月楼の死後、その子の楊小楼は譚鑫培を義父としたが、楊の『鉄篭山』を見た譚が【八声甘州歌】を習っていないことを悟り、その夜、楊を呼び出して伝授したというもので、潘俠鳳1995に見える*20。周伝家1996もこのエピソードを取り上げており*21、清・李玉の『麒麟閣』伝奇「揚兵」齣から皮黄『美良川』に継承され、それを『鉄篭山』が借りたものだと説明する。『麒麟閣』「揚兵」は、劉武周の部将であった尉遅敬徳が、李世民率いる唐軍との決戦へと出陣する場面になり、『美良川』も尉遅敬徳と李世民配下の秦叔宝との対決を扱っているので「揚兵」に相当する場面を確かに含んでいる。『鉄篭山』の底本に用いた『京劇選編』本も、【八声甘州歌】が『美良川』から移植したものであると注している。

「揚兵」は『麒麟閣』第二本下巻第九齣にあたるが、同齣で用いられる曲牌は*22

【引】、【甘州歌】

のみであり、実質的に【甘州歌】一曲のみの齣になっている。【甘州歌】(【八声甘州歌】)は南仙呂宮の集曲で、七句目までが【八声甘州】、八句目以降が【排歌】である。

『麒麟閣』と『鉄篭山』の曲辞を比較してみよう。

『麒麟閣』:

怎当俺揚威奮勇,看愁雲惨惨,殺気濛濛。鞭稍指処,人鬼尽皆驚恐。三関怒衝千里振,八寨平吞一躧空。旌旗颺,剣戟叢,将軍八面展威風。人如虎,馬似竜,佇看一戦便成功。

『鉄篭山』(底本の改行は削除した):

揚威奮勇,看愁雲惨惨殺気濠潔,鞭梢指処敵軍尽覚驚恐。三関怒沖千里震,八寨平吞一掃空。旌旗飄,剣戟叢,将軍八面逞威風。人如虎,馬如竜,佇看一戦便成功。

確かに両者の曲辞は基本的に一致している。『鉄篭山』の【八声甘州歌】は、間接的ではあるが、京劇が崑劇の南曲を継承した例ということになる。

『鉄篭山』は、現在、武生が臉譜を描いて上演するのが一般的だが、それは兪菊笙に起源する。

兪の得意の作は『挑華車』、『鉄篭山』、『金銭豹』の三劇であった。『鉄篭山』、『金銭豹』はいずれも元は武花臉の劇であったが、兪菊笙はそれを武生の劇に移したのみならず、武生が臉譜を描くのも、兪菊笙に始まる*23

兪菊笙(1838~1914)は、四喜班の小生・兪鴻翠の子で、幼くして京劇「前三傑」の一人である張二奎に弟子入りし、初めは武旦を学んだが、後に武生に改め、専ら武戯のみを演じて武生「兪派」の開祖となった。武生という役まわりは、徽調・漢調および初期の京劇には存在せず、光緒年間初めに兪菊笙・楊月楼らの活躍によって、ようやく独立した役まわりとして確立したものである*24

乾隆年間には三国故事を扱った宮廷大戯『鼎峙春秋』が編まれているが、扱う範囲は諸葛亮の南征までであり、また『曲海総目提要』にも相当する内容の伝奇が著録されていないことから、崑劇から移植したのではない、花部独自の演目であると思われる。

『鉄篭山』は『春台班戯目』に見えないが、『慶昇平班戯目』に見え、また『消寒新詠』巻四の「董如意」に以下のようにある。

私は閑なときに、しばしば歌館に思いを寄せた。各劇団には良い役者がいなかったわけでもないが、意にかなうものはわずかだけであった。辛亥の秋、四慶徽部の劇を見て、すこぶる満足した。その中では董如意が第一であり、その他もまたずば抜けていた。そこでそれぞれの詩を詠み、その素晴らしさを記す。

白斎居士

董如意(廬江人)

褐の軍装を(まと)い合わせて打囲(まきがり)し,舞いて双剣を見れば飛翬に似たり。宮に入りては応に孫子を(つと)めざるべし,馬の上りては偏に泣ける漢妃と同じ。(『鉄篭山』では蛮女を演じ、歌声は甚だ凄惻であった。)*25

『消寒新詠』は乾隆六十年(1795)刊で、北京の梨園で活躍する俳優を女形を中心に紹介した、いわゆる「花譜」の一つであり、四大徽班晋京から間もない時期の状況が反映されている。引用中の「辛亥」は、乾隆五十六年(1791)にあたり、乾隆帝八十歳大寿の翌年には既に「四慶徽部」が北京に進出していたことがわかる。四慶班は四大徽班には数えられないので、同時期の北京に既に多くの徽班が進出していたことも窺える。

この記述から、徽班が『鉄篭山』を演じており、それが蛮女、すなわち羌女の歌舞を伴っている点で、京劇『鉄篭山』と極めて似ていたことがわかる。京劇『鉄篭山』は、乾隆末年の徽調の特色を留めていると言えよう。

関羽戯

京劇で関羽や趙匡胤などは、赤い臉譜を描きながらも浄ではなく生によって演じられ、それらを専門に演ずる役まわりを紅生と称し、特に関羽の活躍する劇を「紅生戯」とも称する。

上に引いた『春台班戯目』には、関羽を主人公とする演目が『漢津口』くらいしか見られない。『慶昇平班戯目』も『華容道』『取長沙』のみである。一方、「活関公」と称された名紅生の李洪春の上演台本に基づく『関羽戯集』は、計27の演目を収録しており、崑曲を歌うものが散見される。

『斬熊虎』

民間伝承に基づき、劉備と出会うより前の関羽の出身譚を描く。

【新水令】、【新水令】、【上小楼】、【沽美酒】

第七場では、関羽が二曲の【新水令】を歌う間に、娘を熊祥に攫われた張継昌の西皮揺板が配される。第八場は燃えさかる廟から飛び出して熊虎を撃ち取る場面で【上小楼】と【沽美酒】が歌われる。

これらの曲牌のうち、【新水令】と【沽美酒】は北双調であるが、【上小楼】は北中呂宮であるので、曲律に合っていない。

『造刀投軍』

桃園で義兄弟の契りを結んだ劉備・関羽・張飛が、鍛冶屋に武器を作らせる。題目からわかるように、関羽と青竜偃月刀が軸となる。

【四塊玉】、【叨叨令】、【尾声】

これも【四塊玉】が北南呂宮、【叨叨令】が北正宮と、これも宮調が一致しない。【尾声】は七言四句であるので、北曲である。

『過五関』

劉備の消息を得た関羽が、曹操の元を辞して、「五関を過ぎ七将を斬る」エピソードを描く。

【撲灯蛾】、【撲灯蛾】

第十一場で、後に玉泉寺の住職となる仏僧・普照が北曲【撲灯蛾】を歌う。関羽は吹腔を歌う。『鼎峙春秋』第四本第九齣も同じ場面を扱うが、普照の歌唱は無い。

『收周倉』

千里走単騎の途中、周倉を配下に加えるエピソードを扱う。

【酔花陰】、【喜遷鴬】、【刮地風】、【水仙子】

関羽が套曲を歌うが、周倉は皮黄を歌う。

ここで用いられる北黃鍾宮【酔花陰】の套曲は、【粉蝶児】・【泣顔回】複套と同様、京劇の武戯でしばしば用いられる*26。『古城記』第二十六齣、『鼎峙春秋』第四本第十一齣も同じエピソードを扱うが、南曲を歌っており套曲は全く異なる。なお、『鼎峙春秋』は『古城記』と【金銭花】が共通するが、その他の曲牌は全く異なっている。

『訓弟』

古城で劉備・関羽・張飛が再会する『古城会』に続く場面で、両者が連続して演じられることも多い。関羽が曹操に降ったと思い込んで古城への入城を許さなかった張飛の粗忽を諭すエピソードを演じる。

第三場、劉備と関羽の再会の場面で、【哭相思】が歌われる。この箇所を除き、関羽は吹腔を歌う。

【哭相思】弟兄徐州曽失散,今朝古城又団円。

冒頭二句だけになっている。【哭相思】は『鼎峙春秋』第四本巻下第十四齣にも見えるが、劉備と張飛が歌う。

【南呂宮引・哭相思】当初失散徐州地,夫妻分離各東西。今朝喜得重相會,枯木逢春月再輝。

一句目がやや似ているものの、『訓弟』が『鼎峙春秋』を参照したとは見なしがたい。同じ場面を描いたことによる類似と考えるべきであろう。

なお、『古城記』第二十九齣「団円」に【哭相思】は見えない。

『単刀会』

関羽が荊州返還を迫る呉の魯粛との会談に単身乗り込むエピソードを描く。

【新水令】、【喜遷鴬】、【刮地風】、【叨叨令】、【四塊玉】、【尾声】

これらの曲牌を歌うのは関羽だけで、関羽以外の人物は皮黄を歌う。

この場面は、元の関漢卿の『単刀会』雑劇とも共通するが、京劇とは套曲が大きく異なる。

『単刀会』雑劇『元刊雑劇三十種』本:

【双調新水令】、【駐馬聴】、【風入松】、【胡十八】、【慶東原】、【沈酔東風】、【雁児落】、【得勝令】、【攪箏琶】、【離亭宴帯歇拍煞】

『単刀会』雑劇には脈望館抄校本もあり『孤本元明雑劇』に収録されるが、【風入松】が見えないほかは、若干の字句の異同こそあれ曲辞は『元刊雑劇三十種』本と一致する。一方、『鼎峙春秋』第八本巻上第一齣は基本的に『単刀会』雑劇を継承するものの、曲牌には出入りがある。

【双角套曲・新水令】、【双角套曲・駐馬聴】、【双角套曲・胡十八】、【双角套曲・沽美酒帯太平令】、【双角套曲・錦上花】、【雁児落】、【得勝令】、【煞尾】

冒頭の【新水令】は京劇と共通し、曲辞もほぼ同じである。

京劇:

大江東去浪千畳,乗西風小舟一葉,纔離了九重竜鳳闕,探千丈竜潭虎穴。

『元刊雑劇三十種』本:

大江東去浪千畳。趁西風駕著這小舟一葉。不比九重竜鳳闕。這裡是千丈虎狼穴。大丈夫心別。(来,来,来。)我覷的単刀会似村会社。

『孤本元明雑劇』本:

大江東去浪千畳。引著這数十人駕著這小舟一葉。又不比九重竜鳳闕。可正是千丈虎狼穴。大丈夫心烈。我覷這単刀会似賽村社。

『鼎峙春秋』:

大江東去波千畳。趁西風、駕着這小舟一葉。纔離了、九重竜鳳闕。早来探,千丈虎狼穴。大丈夫心烈,大丈夫心烈。覷着那単刀会,賽村社。

京劇は末尾の二句を省略しているが、「纔離了」「探千丈」が共通するなど、『鼎峙春秋』と比較的近い。

これ以外の曲牌については、しかし、京劇と雑劇との共通は見出せない。また、京劇で使用される曲牌はいずれも北曲だが、宮調が同じでない。

【新水令】:双調

【喜遷鴬】、【刮地風】:黄鍾宮

【叨叨令】:正宮

【四塊玉】:南呂宮

京劇『単刀会』は、一見すると北曲の套曲を用いているように思えるが、以上のように実際には北曲の曲牌を寄せ集めたに過ぎない。

『取襄陽』

関羽は娘と孫権の息子との縁談を断り、曹仁の守る襄陽を攻める。

第八場、魏軍が登場する場面で、【粉蝶児】が歌われる。その他は皮黄が用いられる。

『水淹七軍』

関羽が襄陽に来援した于禁・龐徳率いる魏軍を水攻めにして、二将を生け捕りにする場面を描く。

【粉蝶児】、【風入松】、【沽美酒】

第五場の水攻めの計略を定める場面で【粉蝶児】が、第八場の生け捕りにした二将を接見する場面で【風入松】、【沽美酒】が、いずれも関羽によって歌われる。劇中で歌うのは関羽だけで、以上の曲牌のほか、【粉蝶児】の前に吹腔を歌う。

これらの曲牌はいずれも北曲だが、【粉蝶児】は中呂宮、【風入松】、【沽美酒】は双調になる。第五場と第八場とに分かれているので、宮調もそこで変更されているのだろう。

『刮骨療毒』

襄陽を攻めて肘に毒矢を受けた関羽が、碁を打ちながら平然と華佗の手術を受けたエピソードを演じる。この劇で、関羽は吹腔を歌うが、第三場・第四場で華佗が崑曲を歌う。

【新水令】、【江児水】

林佳儀2016は双調【新水令】の南北合套が京劇武戯でしばしば用いられることを指摘し、例として「探荘」の套曲を挙げる*27

北【新水令】、南【步步嬌】、北【折桂令】、南【江児水】、北【雁児落帯得勝令】、南【僥僥令】、北【收江南】、南【園林好】、北【沽美酒帯太平令】

『刮骨療毒』はこの套曲を大幅に削除・短縮したものとも考えられる。

王鴻寿と紅生戯・南派京劇

以上のように関羽戯は崑曲の北曲を用いるものが多く、大半が関羽によって歌われる。一方、複数の曲牌が使われていても、『収周倉』・『刮骨療毒』を除いて、使用曲牌の宮調が一致しておらず、北套の格律から外れている。それは、これらの関羽戯の成立過程が影響しているものと思われる。

『関羽戯集』は李洪春の上演台本集であるが、収録されている演目の大半は、李の師である王鴻寿に由来する。王鴻寿については李洪春1982に伝記があり、また馬少波等1999にも伝がある。それらによると、王鴻寿(1850-1925)の出身地は安徽懐寧とされるが、李洪春1982は江蘇南通の人だとする。籍貫が安徽、生まれが江蘇、ということであろう。父は官僚で漕運に携わっていたが、家に崑劇と徽調の二つの戯班を抱えており、そこで武丑戯『偸鶏』・『盗甲』を覚えたという。父が上司との対立から罪を得て一家皆殺しになったが、一人逃れて徽調の劇団に参加、三麻子の芸名で江南の「里下河」をめぐって上演した。始め武生を学び、後に老生に改めた。太平天国平定後、最盛期を迎えた京劇に学ぶとともに、関羽戯の研鑽を積む。李洪春1982は米喜子(本名米応先)から紅生戯を習ったとするが*28、米は道光十二年(1832)に没しているので、正しくない。同治九年(1870)、天津での『古城会』・『水淹七軍』の上演が評判を呼ぶ。李洪春1982は1900年頃の北京での上演が、関羽が降臨したとの噂を呼び、清朝による関羽戯の上演禁止を招いたとのエピソードを載せる*29。辛亥革命後は、主に上海で活動した。

王鴻寿は「活き関羽」と称されたが、関羽を演ずる紅生という役まわりは、彼によって創始されたものである。関羽戯の上演状況について、劉奎官1982に以下のように見える。

京戯で最も古い関羽戯は、紅浄が担当した。当時の浄の演目には、いわゆる「紅三擋」と「黒三闖」があった。「紅三擋」は「擋曹」・「擋幽」・「擋亮」で、「黒三闖」は「闖帳」・「闖竜棚」・「闖忠義堂」である。「擋曹」とは『華容道』のことである。「紅三擋」を演ずる浄が、紅浄である。このほか、老生の役者、汪桂芬・王鳳卿・李鑫甫(大個李七の弟)らも関羽戯を演じたが、彼らは紅い臉譜を描いているとはいえ、歌唱やしぐさは老生とほとんど違いがなかった。当時は関羽戯の演目も少なく、『華容道』・『戦長沙』・『単刀会』などに止まった。南派の王鴻寿、北派の王福連・程永竜が関羽戯を演じるようになったことで、関羽戯は紅生の段階へと発展した。上演演目も増え始め、上演芸術もいっそう豊富かつ特徴的になった。そして関羽戯は長江の南北を問わず、一世を風靡し、紅生という役まわりも、京劇の重要な役まわりの一つになった*30

北京では、道光年間中葉に京劇の基礎を確立し「前三傑」に数えられる程長庚以下、老生が関羽を演じていたが、馬少波等1999によると、その様子は以下のようであった。

程長庚のころ、関羽戯は『戦長沙』・『華容道』・『単刀会』など三・四種しかなく、関羽は容易く目を見開いてはならず、しばしば両肩をわずかに聳やかすだけで、はっきりと髯を動かしてもいけなかった。物を見る時には髯を持つが、腕を返して人差し指だけでそっと持つことしか許されず、手のひら一杯に持ってはいけなかった。青竜刀を手にしても、振り回すことはできず、平らに捧げ持つだけで、人を殺す場面では、刀の刃を反すだけで、敵の首級を取ったことになった*31

旧時の京劇は動作が少なく、ただ立って歌うだけだったのが、清末の改革を経て動作や感情表現が豊富になったことはよく知られるが、旧時の関羽は、信仰対象であったことが重なり、より顕著に動作の少なさという特色が現れていたのであろう。

関羽戯の数が少なかったのは、このような上演方法から、戦いの場面を描いても動作が少なく見所に欠けたことが一因であろう。また、清朝が重要な信仰対象である関羽の芝居の上演をたびたび禁じたことの影響も考えられる。么書儀2013は関羽戯の禁止状況を以下のようにまとめている*32

  • 雍正五年、清世宗が詔勅を下し関公戯の上演を禁ずる。
  • 乾隆初、張照が詔を奉じて『鼎峙春秋』を編む。関公戯が解禁される。
  • 嘉慶・道光年間、米喜子の関公戯が人気を呼ぶ。
  • 咸豊三年、関帝が中祀に列せられたことから、関公戯の上演が禁じられる。
  • 同治年間、三慶班が『三国志』を編んで上演し、程長庚の関公戯上演が人気を呼ぶ。
  • 光緒五年以前、三慶班が関公戯の上演禁止を招く。
  • 光緒中葉以後、南北両派の関公戯が人気を呼ぶ。
  • 光緒末、王鴻寿の北京公演が、関公戯の上演禁止を招く。

関羽戯の上演には、岳飛故事とは違った意味で難しさがあり、それが北京における関羽戯の発展の阻害要因になっていたと考えられる。

しかし、この種の禁令を全国的範囲で徹底するのは難しく、とりわけアヘン戦争を経て清朝政府の威令が衰えた同治・光緒の頃になると、上海を中心とする江南地域にまで禁令の影響は及び得なかった。王鴻寿は主に江南で活躍したので、かかる清朝の禁令や、北京の伝統的上演方法の制約を受けることなく、感情表現や動作、そして立ち回りを追求した新たな関羽像を作りあげ、老生的要素と武生的要素を併せ持つ紅生という役まわりを確立し得たと言えよう。

『関羽戯集』に収録される関羽戯は、李洪春のオリジナルである『閲軍教刀』、伝統的演目である『漢津口』・『華容道』などを除き、大半が王鴻寿が創作あるいは改編したものである。

なお、王鴻寿は清末における重要な京劇作家でもあり、関羽戯のほかにも、時事新戯『張汶祥刺馬』・『火焼第一楼』、上海で演じられた連台本戯『済顛佳話』などを創作している。また、『徐策跑城』・『掃松下書』・『雪擁藍関』などは、彼が徽調から京劇に移植したものを、後に周信芳が継承して代表作としており、海派京劇の形成にも大きな影響を与えた*33

王鴻寿の関羽戯に崑曲曲牌を用いるものが多いのは、おそらく武戯で崑曲の套曲を歌う徽調の伝統を継承していたことに起因しよう。一方で前に見たように、王鴻寿の手になる関羽戯には、崑曲の曲牌が使われているものの、宮調が一致せず套曲としてなり立っていないものが多い。馬少波等1999によると王鴻寿の関羽戯の音楽には、以下のような特色があった(「二&ruby(・){簧}」は原文ママ)。

歌唱の上では徽調の「高𫝼子」を用い、「嗩吶二簧」・「徽調二簧」・「梅花板」、さらに西皮・二簧を一つの劇の中で交錯させて用いる「風攪雪」唱法を設計した*34

旧時の京劇俳優には、皮黄のみならず崑曲の技量も求められたが、崑劇の戯班を有する家に生まれた王鴻寿に套曲の知識が無かったとは考えにくいし、『収周倉』や彼が楊小楼に伝授した『小商河』は北曲の套曲を用いてる。関羽戯の曲牌も、「風攪雪」と同様に、さまざまな音楽的要素を寄せ集めて再構成する上で、素材として扱われたのであろう。また、大半の演目で崑曲を歌うのが関羽に限られていることには、他者と区別することで、その威厳さらには神性を強調しようという意図が窺える。

おわりに

以上のように、京劇の岳飛故事・三国故事の武戯のうち、崑曲の北曲の套曲を用いるものは、いずれも崑劇や京腔を継承したものではない。『鉄篭山』が乾隆年間末、北京進出から間もない徽調で演じられており、『小商河』が長江流域で行われた徽調の流れを汲むことから、武戯で北曲の套曲を用いるのは、北京に伝播する以前に確立されていた徽調本来の特色であると推測される。『挑華車』もそうした演目の一つなのであろう。

岳飛・三国故事以外では、例えば沈香太子故事を扱う京劇『劈山救母』でも北曲の套曲が用いられている*35

【酔花陰】、【喜遷鴬】、【水仙子】、【沽美酒】、【粉蝶児】

『劈山救母』については、清の焦循『劇説』巻一に以下のように見える。

最近、安慶幇子劇に、『桃花女与周公闘法』、『沈香太子劈山救母』等の出し物がある……*36

「安慶幫子腔劇」については、焦循と同時代の人である李斗『揚州画舫録』巻五「新城北録下・国朝伝奇」に「安慶より二簧調がもたらされた*37」と見える。焦循は揚州の人であるので、安慶幫子腔劇とは二簧調、すなわち二黄調を歌う徽調を指すと考えられる。また景孤血1985も『劈山救母』が「老徽調」から移植されたとするので*38、これもやはり清代中期の徽調に起源する演目であると考えられ、上述の推測を裏付けている。

一方、崑曲の北套を歌う武戯であっても、立ち回りの場面以外では皮黄が用いられることが多いので、徽調の台本がそのまま演じ継がれているわけではない。おそらく、皮黄腔の成熟と流行に伴って台本が改編されたが、立ち回りは動作の設計が音楽・歌唱と不可分であるために、皮黄に改めることが難しかったのであろう。また、南派京劇に崑曲曲牌を歌う演目が多いのも、江南地方では、同治・光緒年間の北京における皮黄腔の確立と流行を受けて、遅れて徽調から京劇への転化が起きたことに起因しよう。

千田大介2023で指摘したように、京劇の岳飛故事戯は明らかに清代の小説『説岳全伝』に基づいて作られている。それら京劇の演目のもととなった徽調は、同時代の新しい歴史ものの小説をいち早く取り入れ、武戯の表現を加えつつ観客に媒介する作用を果たしたと言える。

本稿では、京劇の岳飛故事戯と三国戯に絞って検討したが、今後はより対象を広げて全体像を描き出す必要があろう。また、清代初中期における崑劇・京腔などの武戯についても、検討が必要である。そうした研究を通じて、通俗歴史物語の変遷・受容において演劇が果たした作用を明らかにすることを、今後の課題としたい。

参考文献一覧

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古典文献

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近人論著

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  • 崑曲曲牌及套數范例集(北套)編写組
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  • 潘俠鳳 1995 〈“国剧宗师”杨小楼〉,《京剧艺术在天津》,天津人民出版社,pp.75-93
  • 顔全毅 2005 《清代京剧文学史》,北京出版社
  • 么書儀 2013 《晚清戲曲的變革》,秀威資訊科技
  • 周伝家 1996 《京剧泰斗传记书丛・谭鑫培传》,河北教育出版社出版
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  • 千田大介 2023 「清代北京における岳飛故事戯曲」,『中国都市芸能研究』第二十二輯,好文出版,pp.100-129

※本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏における芸能文化の伝播・流通・変容」(令和2~6年度、基盤研究(B)、課題番号:20H01240、研究代表者:山下一夫)による成果の一部である。


*1 近代京劇舞臺上演出唱曲牌的之武戲,於套式運用上,鮮明的特徵之一是多用北曲套曲。
*2 『京劇叢刊』本に基づく。
*3 周明泰1932に基づく。以下同。
*4 顔長珂2013所載写真に基づく。以下同。
*5 p.266。
*6 『京劇叢刊』本(『挑滑車』に作る)に基づく。
*7 《集成曲谱》所收……《惊变》、《刺梁》、《送京》、《祭旗》4折用这种南北复套套式。……在4个折子中,出现遇〔叠字犯〕、〔叠字令犯〕的牌名,这是〔扑灯蛾〕变体的别名。(p.17)
*8 借南名實北曲。(p.17)
*9 元曲无〔扑灯蛾〕曲牌,所谓北〔扑灯蛾〕的词式亦与南〔中吕・扑灯蛾〕不同,故疑系清人始创而随意定名者。〔扑灯蛾〕并为京剧所继承,按其词式则反系南〔扑灯蛾〕的继承和变化。(p.18)
*10 『全元散曲』pp.378-379による。
*11 此調時人訛作【黃龍袞犯】,非。不知即【鬬鵪鶉】,但多添字添句幫唱耳。
*12 『李玉戯曲集』所収本に基づく。
*13 『沈自晋集』所収本に基づく。
*14 『京劇彙編』第二十八集本に基づく。
*15 三天打炮戏刚唱完,他就接到烦他唱八本《洞庭湖》的帖子。不知道这是有意刁难他呢,还是真想看看他的演唱艺术。这下他可着急了,因为北边除了唱京剧的《镇潭州》外,其他几本根本没人唱,所以他也不会。尤其是这八本崑曲的《洞庭湖》,他更不会,连见都没见过。怎么办呢?有递门生帖子,向王鸿寿先生现学了。他知道,这八本《洞庭湖》是王鸿寿先生拿手戏之一,所以要以师礼拜之。
这八本《洞庭湖》包括:《赐绣旗》(精忠报国)、《苦肉计》(收杨虎)、《金兰会》(烧王佐)、《洞庭湖》(擒杨么)、《镇潭州》(收杨再兴)、《栖梧山》(收何元庆)、《小商河》(杨再兴丧命)、《康郎山》(收余化龙)、《隐贤庄》(收曹成)、《长沙王》(收罗延庆)、《五方阵》(收伍尚志)、《荼陵关》(收张立、张用)、《凤凰山》(收关铃)。名叫八本《洞庭湖》,实际不止八本,其中有些戏与《洞庭湖》也没关系,和《说岳全传》小说大有出入。
(pp.110-111)

*16 千田大介2023、黄仕忠2010。
*17 和春曰『把子』。每日亭午,必演《三國》《水滸》諸小說,名『中軸子』。工技擊者,各出其技。(p.352)
*18 順序は原本のまま。『春台班戯目』はこのほか『興漢図』を載せるが、前漢故事の『盗宗巻』(『十老安劉』)の別称であるので、削除した。
*19 『京劇彙編』第二十八集本に基づく。
*20 pp.83-84。
*21 p.258。
*22 『李玉戯曲集』所収本に基づく。
*23 俞得意之作为《挑华车》、《铁笼山》、《金钱豹》三剧。《铁笼山》、《金钱豹》本都是武花臉戏,俞菊笙不但将其移为武生戏,而武生勾脸,也就由俞菊笙传演起来。(馬少波等1999上巻p.408)
*24 馬少波等1999上巻p.408、劉嵩棍2007 pp.406-407。
*25 余闲暇时,常寄情歌馆。各部中非无佳子弟,而心赏者殊寥寥也。辛亥秋,阅四庆徽部剧,颇为惬怀。就中以董如意为第一,其余亦复卓尔不群。因各为咏诗,以志鉴赏。
白斋居士
董如意(庐江人)
披褐军装合打围,舞看双剑似飞翬。入宫应不劳孙子,上马偏同泣汉妃。(《铁笼山》作蛮女,歌音甚为凄恻。)
(p.91)

*26 林佳儀2016 p.277。
*27 林佳儀2016 p.277。
*28 pp.51-52。
*29 pp.53-54。
*30 京戏中最早的关羽戏,由红净担任。当时净角戯有所谓「红挡」与「黑三闯」。「红三挡」即「挡曹」、「挡幽」、「挡亮」;「黑三闯」即「闯帐」、「闯龙棚」、「闯忠义堂」。「挡曹」就是《华容道》。演「红三挡」的净角,即为红净。另外,一些老生演员,如汪桂芬、王凤卿、李鑫甫(大个李七的弟弟)等人也唱关羽戏,不过他们虽然扮的是红脸,唱做和老生并没有多大区别。当时,关羽戏的剧目也不多,只有《华容道》、《战长沙》、《单刀会》等少教几出。自从南派的王鸿寿、北派的王福连、程永龙演唱关羽戏以来,才把关羽戯,发展到红生阶段。演唱剧目增多起来,表演艺术也更加丰富和更具特色。於是关羽戏在大江南北,曾风行一时,红生这一行当,就成了京剧中的重要行当之一。(p.147)
*31 在程长庚时候,关羽戏只有《战长沙》、《华容道》、《单刀会》等三五出,关羽轻易不睁眼,常常是双肩微耸,不能明动髯口,在看东西时的持胡子,也仅仅只许用食指,反腕子轻轻持一下,不许用满把持。拿起青龙刀,不许耍大刀花,只能平端,遇到要杀人,只许横刀反刃,就算把敌人的头颅砍下来了。(p.441)
*32 pp263-264。
*33 顔全毅2005 pp.412-417。
*34 在唱腔上使用了徽调的“高拨子”,设计了“唢呐二簧”、“徽调二簧”、“梅花板”,以及西皮、二簧在一戏交错使用的“风搅雪”唱法。(p.163)
*35 『京劇叢刊』本に基づく。
*36 近安慶幫子腔劇中,有《桃花女與周公鬬法》、《沈香太子劈山救母》等劇……。(pp.131-132)
*37 安慶有以二簧調來者。(p.130)
*38 p.564。