- 履歴一覧
- 差分 を表示
- 現在との差分 を表示
- ソース を表示
- 『都市芸研』第二十輯/何文秀故事伝奇の形成と発展 へ行く。
- 1 (2022-02-18 (金) 06:54:23)
何文秀故事伝奇の形成と発展†
RIGHT;川 浩二
1.はじめに†
明代の書生何文秀を主人公とした物語は、現代でも越劇・粤劇などで演じられている。何文秀の物語を演ずる戯曲作品として、版本として現存する最も古い作品は明代万暦年間(1573~1620)に金陵富春堂によって刊行された心一山人『何文秀玉釵記』伝奇である。これは他の多くの富春堂刊本の戯曲と同じく弋陽腔系の伝奇とされている。ただし、何文秀の物語に基づいた伝奇は同時期にこの心一山人の作品を含めて少なくとも三種類は作られていたことが確認できる。そのため後世の何文秀物語の戯曲・芸能のすべてが心一山人の作品のみに基づいているとは考えにくい。ではもし「何文秀故事」と呼ぶべきものが三種の伝奇に先行して存在していたとすれば、その物語はどのようなものだったのだろうか。
本論では、とくに万暦年間に作られたと思しい現存の三種のテキストのいずれが先行するのか、またいずれにも先行する何文秀物語の作品は想定しうるのかについて検討する。
そのさい登場人物とそれにまつわる筋立ての比較を通じて各テキストを位置づけ、さらに何文秀物語の芸能のテキストも比較の対象に加えることで、明代における何文秀故事伝奇の形成と展開の過程を考察したい。
2.何文秀の物語を演ずる三種の伝奇†
A心一山人『新刻出像音註何文秀玉釵記』四巻、四十四齣†
以下、A『玉釵記』と略称する。版本には刊行年代などの刊記も序跋もなく、富春堂刊本であることが分かるのみである。鄭振鐸旧蔵本が中国国家図書館に蔵され、『古本戯曲叢刊』初集に影印されている。『中国都市芸能研究』第十九輯・第二十輯に「校正何文秀玉釵記稿(上・下)」として、筆者の文責により校点を施した。また散齣集にも以下の通り収録されている。
- 明無名氏編《精刻彙編新聲雅雜大明天下春》巻四下層〈玉釵贈別〉、〈牢中話別〉、〈辭歸祭墓〉三齣(富春堂本第十一齣・第二十三齣・第四十一齣)
- 明阮祥宇編《梨園會選古今傳奇滾調新詞樂府萬象新》巻三〈玉釵贈別〉(富春堂本第十一齣)
また、明祁彪佳『遠山堂曲品』「具品」に著録されている。
『玉釵記』は心一山人の作である。何文秀ははじめ女遊びに現を抜かす若者であったが、後に様々な辛苦をなめさせられる。その状況が非常に差しせまったところまで書いてあるので、読むと感にたえず身を起こしてしまうほどだ。劇の構成に関わる場面で新しい歌詞を入れてよりよく表現できれば、きっとよい芝居になるだろう。*1。
著者を「心一山人」とし、何文秀の物語を演じ、以下に示すあらすじの通り家の金を蕩尽する筋立てもあることから、A『玉釵記』を指すと考えてよいだろう。
『伝奇彙考』巻三および董康『曲海総目提要』巻十二『玉釵記』の項には以下のようにある。
刊本は心一山人の撰というが、その姓名はいまだ明らかでない。「小説弾詞」に基づいて作ったものであろう。何文秀が劉月金、王瓊珍の二人の女性と出会うさい、どちらも玉釵を縁につながるため、この題がつけられた*2。
この「弾詞」については『伝奇彙考』『曲海総目提要』全体を通して「小説弾詞」という四文字はここにしかなく、また「弾詞」という言葉もこの部分のみにしか見えない。本論ではこれを特定の文芸・芸能のジャンルとしてとらえることは留保し、あくまで「戯曲以外の不特定の先行作品」を示唆する表現として捉えておく。
あらすじ†
浙江江陰の人何文秀は、山東提学を務めた父何棟と母潘氏の下で育ち、科挙を志していた。何文秀は召使いの何興の誘いに乗って南京に向かい、鴛鴦巷の妓女劉月金と出会って相愛の仲となるが、劉月金と会う金と錬金術詐欺のために持ち金を使い果たす。父何棟は息子の放蕩に気を病み、倒れてそのまま世を去る。巡按の陳練は前事を怨んで何家を陥れ、何文秀の母潘氏は官倉を焼いた罪をかぶせられ無念のあまりに自尽する。何文秀は金が尽きて劉月金のもとを追い出され、月金は一本の玉釵を渡す。何文秀は神のお告げもあり、家から遣わされた何敬とも会って事情を確かめ、追手からは逃れられたものの、路銀が尽きて道情を歌ってしのぐことになる(巻一)。
蘇州の令嬢王瓊珍は父王太師、母鄭夫人のもとで育っていた。瓊珍はある夜夢に神のお告げを聞き、何文秀と姻縁があると知らされる。瓊珍の下女錦雲は何文秀の身の上話を聞いて哀れみ、家に招き入れる。何文秀と王瓊珍はたがいに運命の相手と知って玉釵と金扣を贈り合う。しかし何文秀は捕らえられ、金扣が見つかって私通を疑われ、激怒した王太師は何文秀と王瓊珍二人を湖に沈めようとする。蘭英の母は王文・王武に二人を救わせる。
何文秀と王瓊珍は海寧に逃れ、富豪の張堂から家を借りることになる。張堂は王瓊珍の美貌に目をつけて何文秀に資金の援助を申し出、何文秀は張堂の家への招きに乗り、下女殺しの罪を着せられる。何文秀は海寧県城での拷問に耐えかねて自供してしまい、投獄される。王瓊珍は楊隣母からそれを聞き、牢に食事を届けに行き、玉釵を落とし何文秀が拾う(巻二)。
何文秀は杭州府の牢に送られる。牢番の王鼎は病を患う息子王安を身代わりに何文秀を助けることを思いつき、妻鄭氏にそれをはかる。はじめは躊躇した鄭氏だったが、何文秀の身の上を聞き決断する。張堂は何文秀が死罪に処されたことを聞き、王瓊珍を娶ろうとするが瓊珍は髪を切り、顔を傷つけて貞節を守る。
何文秀は王鼎の息子王察として科挙に及第し、曾銑の参謀として北朝の脱脱の侵入を防ぎ、その功績で浙江巡按に任じられる。占い師に身をやつした何文秀は、身分を隠したまま妻王瓊珍のもとを尋ね、その貞節を確かめると張堂を訴える訴状を書いてやる。さらにその訴状を巡按として自ら受け取り、張堂を裁くと王瓊珍を顕彰し故郷に帰らせる(巻三)。
蘇州への船中で、再び占い師の扮装をした何文秀は王瓊珍に正体を明かし、証の玉釵を渡す。王太師と鄭夫人は娘との再会を喜び、何文秀を婿として迎える。何文秀は劉月金のことを思い出し、王瓊珍の許しを得て再び玉釵を受け取り、南京に向かって劉月金に玉釵を渡して迎え入れる。
何文秀は亡き両親の墓を訪れ、墓を守っていた何敬の息子何照に管理をゆだねる。陳練は罪の報いですでに病み、妻と息子を失っていた。生前の行いにより城隍神となった何文秀の父何棟は、何文秀の夢の中で陳練を裁き、あの世に連れ去るのだった。何文秀が父母と身代わりになって死んだ王安を弔うと、皇帝の聖旨が到着し、何文秀は工部侍郎に任じられ、王鼎や鄭氏、王瓊珍や劉月金も顕彰される(巻四)。
A『玉釵記』には江南の多くの府城や市鎮が登場することが分かる。朱恒夫2014が「本劇は江南の重要都市である南京・蘇州・杭州と代表的な江陰・海寧などの県城もすべて劇中に取りこんでいる*3」と指摘する通りである。これは物語の中心的な伝播地域とも重なるものであろう。
また作中の時代について具体的には書かれないものの、曾銑(1509~1548)が登場し、夏言(1482~1548)の名も見えることから明代嘉靖年間(1522~1566)の話だと分かる。これについては後に詳述する。
B陳則清『何文秀玉釵記』二巻三十八齣†
以下、B『玉釵記』と略称する。上海図書館蔵抄本がある。廖可斌総主編、汪超宏主編『稀見明代戯曲叢刊』巻三に排印本が収録されている。馮金牛校点。巻首に「新安祁閶泰宇陳則清甫編著」とあり、作者陳則清は新安祁閶の人と知れるが、生平を詳らかにしない。姚之典・荘持本・倪道賢・葉道訓らの序がある。このうち姚之典は歙県の人、万暦二十五(1597)年の挙人である。倪道賢はA『玉釵記』と同じ富春堂刊本の『新編目連救母勧善戯文』に序を書いており、その序は万暦十一(1583)年のものとされる。その倪道賢の「玉釵記引」の一節については着目できる。
突然に英雄や豪傑を処刑してさまよう魂にさせ、忠臣や善人を辺境に送り志なかばに斃れさせる。そのようなことがあれば、千年にもわたって彼の詩文はとなえられようし、その時のことを思えば、目を見張り声を荒らげ、怒髪天をつき、その人のために天に向かって声を上げ、冤罪を晴らしてやろうとするものだ。これこそ陳則清が何文秀の冤罪に心動かされたゆえんであり、そこでこれを借りて戯曲に仕立てることで、胸中の憤懣を吐き出したのである。*4
何文秀を歴代の英雄や忠臣と並べたうえで「これこそ陳則清が何文秀のおとされた冤罪に心動かされたゆえんであり、そこでこれを借りて戯曲にしたてることで、胸中の憤懣を吐き出したのである」というからには、ひとまず何文秀という人物とその物語はB『玉釵記』に先行するものと考えられていたといえるのではないか。
また葉道訓序には内容の梗概があり、以下に示す劇の内容と整合性がある。抄本の抄写年代については判断する材料を持たないが、少なくとも内容が書かれた当初から大きく変えられてはいないものと考えられる。また姚之典序は「賡唐姚之典撰」と署名されているが、挙人にすでに及第していた場合、それを記さないのは不自然といえよう。倪道賢の活動年代とも矛盾はないため、およそ万暦年間、万暦二十五年以前の成立ではないかと考えられる。
『稀見明代戯曲叢刊』の刊行によって全貌が明らかになったことで、後世の何文秀物語の弾詞・宝巻、また越劇などに登場する人物や筋立ての一部が、明代後期まで遡れると判明したことは非常に大きい。
なお、題名こそ共通するものの、A『玉釵記』と曲牌の配列や曲詞は重ならず、科白についても同様であり、一つの戯曲の別版本という関係ではなく、何文秀物語のそれぞれ別の戯曲であることは明白である。
またA『玉釵記』とは異なり、第一齣に「搬演本朝『何文秀玉釵記』*5」とあるだけで、明朝の話だということは認識されているものの、明朝のどの時期かは書かれておらず、またそれを予測させる具体的な人物や事件も登場しない。
A『玉釵記』は弋陽腔の特徴が明確であるが、B『玉釵記』にも弋陽腔の特徴である一人の役者が歌った後ほかの人々が唱和する「幇腔」がしばしば使われており、たとえば第十四齣や第二十齣には「滾白」に当たる、歌唱の途中にかなり長くせりふがはさまれ、歌詞を補う手法が見られる。
あらすじ†
浙江江陰の人、何文秀の父何君達は山東提学を務めていたがすでに亡くなり、何家は老母潘氏と族兄の何九思が支えていた。何家には蘇州の王太師の娘蘭英という許婚がいたが、近頃では両家に往来はなくなっていた。何文秀は科挙及第を目指して家を送り出されるが、その間に生前の何君達に私怨を抱く程練は何家を陥れ、官倉を焼いた罪をかぶせて何九思を打ち殺し、潘氏は何とか尼寺に逃れる。
何文秀は一度は捕まるが、江陰知県の李容に救われる。何文秀は路銀が尽きて道情を歌ってしのいでいたところ、王蘭英の侍女妙蓮に気に入られて家に招き入れられる。たまたま何文秀が許婚だと知った王蘭英は妙蓮に言いつけ金を手配させるが、それを何文秀に渡そうとしたところで家人に捕らえられてしまう。王太師は娘が男を引き入れて金を渡そうとしていたことに怒り、二人を湖に沈めようとする。蘭英の母は漁夫の陶常に救わせる。蘭英は一度は自らの身を恥じて死のうとするが、何文秀に説得される。二人は海寧に逃れてたまたま楊母の家に身を寄せ、事情を知った楊母の導きで婚礼をあげる。
逃れた先の海寧で、王蘭英は両親と故郷のことを思いつつ、何文秀に科挙及第のための勉学を促す。海寧の有力者張堂は蘭英を見かけて自らのものにしようと画策する。何文秀は科挙に向かおうとし、蘭英は夫に二本の玉釵のうち一本を渡して送り出そうとする。張堂はそこを引きとどめ、自らの家で酒宴を開き、侍女を殺して罪を何文秀になすりつける。
杭州の周太守はもともと何君達に恨みを抱いており、張堂とも懇意だったため何文秀を拷問にかけて罪を認めさせる(巻上)。
牢番の王鼎は事情を知り、すでに危篤になっていた息子王安を身代わりにして何文秀を救い出す。それを知らない王蘭英は、張堂から逃れるために楊母とともに尼寺に向かい、そこで何文秀の母潘氏と互いの身分を明かしあう。
何文秀は王察と名乗って科挙に及第する。浙江御史を任じられた何文秀は占い師に身をやつして母と妻の行方を探り、尼寺にいることを知ってこれを訪ね、寺の奥から姿を見せない妻に尼を介して玉釵を見せ、再会を果たす。何文秀は張堂を裁いて死罪に処す。
何文秀は王蘭英の父母に手紙を書き、親子を対面させる。何文秀はかつての程練の罪を訴え、皇帝はこれを認めて罰し、何文秀を救ったものたちに恩賞を与える。何文秀は故郷江陰に錦を飾る(巻下)。
何文秀物語のある程度の部分はA『玉釵記』と共有していても、筋立てについてはかなり異なる。劉月金が登場せず、何文秀の母潘氏は生き残って尼寺に入り、王蘭英もそこに逃げこみ、姑と嫁がはじめそれと知らずに出会うという偶然が用意されている部分が最も大きな違いといえよう。
C無名氏『鳳簪十義記』巻数・齣数未詳†
以下、C『鳳簪十義記』と略称する。祁彪佳『遠山堂曲品』「具品」に、「李陽春『鳳簪』」が著録されている。そこには「何文秀の物語を戯曲にしていることは『玉釵記』と同じだが、『玉釵記』がより詳細にわたり意を尽くしているのには及ばない。*6」とある。戯曲としての評価はA『玉釵記』に劣るとされているが、何文秀物語を演ずることは分かる。この『鳳簪記』のタイトルでは現存するテキストがないが、明胡文煥編『群音類選』巻十五に『鳳簪十義記』の「留僮別妓」・「花園被執」・「深淵救溺」・「花燭成親」・「棄子全英」・「剖容立節」の六齣が曲詞のみ収録されている。なお『月露音』にも同題の戯曲の「茶叙」「隠楽」の二齣があるが、「隠楽」は一曲のみで、「茶叙」も物語のどの部分にあたるのか明確でない。本論ではひとまずこの『鳳簪十義記』を李陽春『鳳簪記』と同一のものと考えておく。
このC『鳳簪十義記』は、『群音類選』の刊行年代からするとおよそ万暦二十一(1593)年以前に作られたと考えられる。歌詞しかなく、また六齣しかないために全体の筋立てがどのようなものであったのかについて考えることはできないが、前半部分についてはかなりA・B『玉釵記』両方と近いものがあったようだ。
「留僮別妓」の「玉交枝」の歌詞に「一睡魔驚醒,忽聞得堂前沸聲。急忙移步前來問,緣何泣涕交零?何君家報有變更,整裝即欲鞭歸鐙。為倉儲千餘火焚,慮高堂一時危病。*7」とある。劉月金という名前こそ見えないものの、主人公のなじみの妓女が、主人公の家で失火があり公用の穀物が納められた倉が燃え、母親がそれを憂いて危篤に陥ったことを聞いた歌詞と解せる。
その後、「花園被執」・「深淵救溺」から、主人公は令嬢と出会って後庭で会っているところをつかまり、令嬢の父の怒りに触れて舟から水中に落とされる筋立てがあることも分かる。C『鳳簪十義記』で特徴的なのは、おそらく「深淵救溺」の直後にあたると思われる「花燭成親」の場面である。投じられた水中から助け出された主人公二人は衣服を乾かし、そこで改めて夫婦の仲を誓い合う。
【媚袞】終身不二心,終身不二心,此世唯一志。婦道堪為,箕帚親供侍。金屋阿嬌,卿卿須貯。感殷勤,不弈嫌,為快婿。
【前腔】君須辦志誠,君須辦志誠,妾肯忘盟誓?玉樹兼葭,衹愁變易還輕奔。月色燈光,證盟心意。日負恩,當碎尸,天鑒取*8。
この場面で女性主人公が男性に対して夫婦として将来を誓う歌を歌う場面は、A・B『玉釵記』ともに見えない。
また「棄子全英」では、すでに殺人の罪をかぶせられた男性の主人公が、おそらく牢番に向かって自分の境遇を歌う部分がある。
【好姐姐】祖居江陰儒裔,先君是文宗科第。為私仇剋核,酷官部索之。把我家傾費,更兼捕獲裝成罪,因此夫婦離家遠避之*9。
今までの経緯を簡単に話し、江陰出身の読書人の家庭に生まれ、父が恨みをかった相手に陥れられて家産が傾き、自分も捕えられそうになったために夫婦でここまで逃げてきた、と述べている。
【前腔】寄居,鹽官鄉邸,苦攻書欲圖進取。為張堂、屠壽合謀哄飲食。他強傾醉,故將婢殺誣人睪,廣使錢神成重辟*10。
次の曲では、浙江海寧(塩官)で邸を借りて、科挙のための勉学を進めていたところ、張堂らに図られて酔わされ、召使いの女を殺した罪を着せられたことを述べている。そもそも逃亡している最中であるのに、科挙のための勉学を進めていた、という部分はB『玉釵記』に近い筋立てがあったことが予測される。
また「剖容立節」では、歌詞にも「舉霜刀要立清名正*11」とある通り、女性主人公が自らの顔を傷つけて夫への貞節を立てる場面があり、この部分はA『玉釵記』に近い。
A・B『玉釵記』にC『鳳簪十義記』を加えると、あらためておよそ万暦二十年代には、すでに何文秀物語を演ずる複数の伝奇があったことが確認できる。また、C『鳳簪十義記』の歌詞からは、A・B『玉釵記』に近い筋立てはもちろん、A・B両方に見えない展開もあったことが読み取れよう。
それでは、これらの伝奇に先行した何文秀物語の作品は存在していたのか、存在していたとすればどのようなものだったのだろうか。まず先行研究について整理した後にこの問題を検討していく。
3.先行研究と問題点†
何文秀物語の淵源と変遷については、以下の三つを主な先行研究として挙げることができよう。
劉夢爽『何文秀故事演変研究』(2018年揚州大学修士論文)†
題名の通り何文秀物語をその発生から、清代中後期、さらに近現代に至るまでも見通し、扱う資料の範囲は非常に広い。論文中では、テキストも現存せず記録にも残っていないため、A・B『玉釵記』に先行するテキストは存在しないと結論づける。
(『曲海総目提要』は「小説弾詞」に基づくとするが)『何文秀玉釵記』以前に何文秀の物語が流伝していた記載はなく、何文秀の物語に関する弾詞・小説の著録もない。また後世の何文秀の物語の作品はすべてこの二つの『何文秀玉釵記』を改編したものである。ゆえに二種の『何文秀玉釵記』は何文秀の物語の伝播の来源とみなすことができる*12。
また、A・B『玉釵記』の成立の前後について、B『玉釵記』が先行するとの見解を示す。
これらから言えるのは、心一山人の『何文秀玉釵記』はあるいは陳則清『何文秀玉釵記』を基礎として加工と改編を経たものではないかということである*13。
その根拠として、以下の三つを挙げる。
- 1陳則清『何文秀玉釵記』の序に先行作が出てこない。
- 2『曲海総目提要』の心一山人『何文秀玉釵記』に先行作が示唆されている。
- 3心一山人に関する資料がなく、陳則清=陳山人から借りて付けられた仮名ではないか。
このうちとくに「後世の何文秀の物語の作品はすべてこの二つの『何文秀玉釵記』を改編したものである」という部分については、たしかにA・B『玉釵記』それぞれの物語の要素を合わせれば、後世の作品の主要な部分は含まれているといえるかもしれない。しかしC『鳳簪十義記』を見ただけでも、上述のようにA・B『玉釵記』のそれぞれとばらばらに共通する部分があり、断片的ながらもA・B両方と異なる部分もある、と反論できる。
また、「何文秀故事」全体の変化を想定するにもかかわらず、C『鳳簪十義記』についての言及が少なすぎることも問題だろう。C『鳳簪十義記』をA・Bの作品のどちらか、あるいは両方に基づいて改編した作品とみなすには順をふんだ検討が必要なはずだ。
また本論は陳則清を福州閩県の人、正徳十二(1517)年の進士とするが、これは明確な誤りだろう。B『玉釵記』巻首、姚之典序とも矛盾し、「山人」と呼ばれることからしても、また年代から見ても合わない。これは同姓同名の別人と考えられる。
B『玉釵記』が先行するとするのも、論拠としては挙げていないものの、この作者に関する誤りが影響しているのではないかと考えられ、再度検討の余地があるといえる。
馮金牛『稀見明代戯曲叢刊』『玉釵記』「校点説明」(2018年、東方出版中心)†
『稀見明代戯曲叢刊』において、B『玉釵記』の校点の責任者である馮金牛は、簡潔に「校点説明」を書いている。そこでは倪道賢が鄭之珍『目連救母勧善戯文』に「読鄭山人目連勧善記」(万暦十一年)を書いていることを指摘したうえで、陳則清を明代の万暦年間に生きたとする。いっぽうで、A・B二種の『玉釵記』のいずれが先行するのか、また相互の関係はあるのかについて見解を示さない。C『鳳簪十義記』については題名が異なることから触れない。
辻リン「何文秀物語の流伝について」(2020年、『中国文学研究』第46期)†
最新の研究として何文秀物語の流伝について考える以上、上記二つの先行研究をふまえざるをえないはずだが、いずれについても言及しない。論文中ではA『玉釵記』が先、B『玉釵記』が後として、B『玉釵記』が「清抄本」であり「改編本」であると断定する姿勢を崩さない。
内容の大筋は富春堂刊本とおなじであるが、前半の南京の妓館に遊び、妓女劉月金と出会い、別れ際に月金が玉釵を送るという下りが、清抄本では勉学のため南京にいくことに改編されている*14。
『稀見明代戯曲叢刊』を挙げない以上、上海図書館蔵抄本を実見したことになるが、B『玉釵記』の序を書いた複数の人物が万暦年間に在世したと考えられることについて言及せず、B『玉釵記』の登場人物の名は前述の通り、何文秀の父の名を何君達、結婚する令嬢の名を王蘭英とするなど、宝巻をはじめとする後世の芸能・戯曲に近い部分が多いことについてもふれない。
また論文中では後半、壮族の長編叙事歌「唱文秀」の検討に紙幅を割き、それが嘉靖年間にすでに広西に伝わっていた可能性を示唆するが、明代後期にすでに何文秀物語が存在し広まっていたことに関して、具体的な材料としては明末まで下った崇禎十六(1643)年の版本が現存する薛旦『酔月縁』伝奇のせりふに「何文秀」弾詞が見えることを指摘するにとどまる。
以上のように、とくに万暦年間までに作られたA『玉釵記』、B『玉釵記』、そしてC『鳳簪十義記』のテキストのいずれが先行するのかという点について、またA・B・Cいずれにも先行する何文秀物語の作品が存在していたかについて、これらのテキストの内容から検討できる部分はまだかなり残されているのではないかと考えられる。
4.万暦年間以前の「何文秀物語」の想定†
前述のように、B『玉釵記』の倪道賢序には何文秀がすでに何らかの形で知られた人物であったと読むことのできる部分があるが、では「何文秀物語」がA『玉釵記』・B『玉釵記』・C『鳳簪十義記』の三つの伝奇のいずれにも先行して存在したとすれば、それはどのように証明しうるだろうか。
A『玉釵記』は版本にされているために当時からある程度以上の知名度があったと考えられるし、著録されたのも、散齣集に収録されてきたのもA『玉釵記』だった。対してB『玉釵記』は抄本一種しか見つかっておらず、近年までこれに基づいた清代以前の目録や批評の類も見当たらないため、広く知られた作品だったとはいえないだろう。またC『鳳簪十義記』は著録されてこそいるものの、題名に「何文秀」とは入らず、全本も見つかっていないことから、これも明末から清代にかけての長い時期に、何文秀を主人公とする代表的な作品として広まっていたとは考えにくい。したがって清代以前にA・B・Cの作品すべてを並べ、物語の要素を分解し配列し直すことは非常に難しかったと考えられる。
どのようなジャンルのテキストであれ、A・B・Cそれぞれにしかない物語の要素を兼ね、それが部分によって入れ替わりつつ現れ、かつ複数の作品に共通する重要な物語の要素を持たないという作品Dがあれば、それが偶然に段階的な変化をたどってA・B・Cすべての作品あるいはその系統から影響を受けて要素を取り入れ、かつ複数の作品に共通する要素を排除したと考えるのは難しい。その場合にはA・B・Cすべてに先行する、何文秀物語を伝える何らかの媒体に基づく作品があり、Dはその影響のもとに成立した、ということになろう。
そこで着目されるのが、譚正璧『弾詞叙録』の記す梗概である。『弾詞叙録』に著録される「一〇七 何文秀」では、何文秀の字「東橋」が見え、また南京鴛鴦巷の「劉月金」が登場する。父「何君達」は「陳練」と対立し、陳練は何家を陥れて罪を着せ、何君達の甥「何九思」は打刑にあって死ぬ。何文秀はいちど捕まるが、「李知県」のおかげで助かる。困窮して道情を歌って歩く何文秀は、王閣老のむすめ「王蘭英」と出会い二人は好き合う仲となる。蘭英は何文秀を助けようと金を裏庭で渡そうとするが、これが家人に見つかり、何文秀と王蘭英はともども袋に詰められて水に沈められそうになるが、「陶常」に助けられ、舟の仲で結婚する。
ここまでで物語はまだ前半であるが、すでにA『玉釵記』にしか出てこない物語の要素や人物、またB『玉釵記』にしか出てこない要素や人物がともに存在し、しかもA・B・C三種の仲でC『鳳簪十義記』にしか見えない、陶常が媒人となって結婚する場面もある。
しかし『弾詞叙録』の記載はあくまで梗概であるために、具体的なテキストを探す必要がある。項目の末尾には二種の抄本の書誌が見える。
《新刻增□說唱義夫節婦何文秀報冤傳》不分卷回,無回目,不署撰人,清光緒甲午(1894)績溪胡氏曾藏舊刊本(一本)。又《新錄說唱何文秀傳》,不分卷回,亦無回目,不署撰人,葉延記手抄本(二本),按後者與前者略有不同,開首自何文秀父母雙亡敘起,文秀父名何顯,字君達,王鼎作王異,楊文作楊文寶,故事全同*15。
『弾詞叙録』の梗概を書くのに拠ったと考えられるテキストは前者の『新刻增□說唱義夫節婦何文秀報冤傳』である。おそらくこれと近いと考えられるものが、『新刻説唱義夫節婦何文秀報冤伝』のタイトルで華東師範大学図書館に所蔵されているが、今のところこれを実見することを得ず、検討は別稿に譲らざるをえない。
そこで、これと物語の要素や登場人物を共有するテキストを地方戯・弾詞・宝巻などから探してみると、『新刻説義夫節婦何文秀報冤本伝』宝巻が見つかる。この内容は『弾詞叙録』の梗概と非常に多くの点で共通するといえる。
5.万暦年間以前の状況を反映すると考えられるテキスト†
D無名氏『新刻説義夫節婦何文秀報冤本伝』†
「張嘉烈」の署名がある抄本である。抄写年代と抄写地はいずれも不明で、『宝巻初集』(1994年、山西人民出版社)に影印が収録されている。このテキストはおそらく車錫倫『中国宝巻総目』に「義夫節婦宝巻 張喜烈旧抄本(北大)」として著録されているものと同様と思われる*16。本論では、以下D『義夫節婦報冤伝』と略称する。このテキストのあらすじを、A・B『玉釵記』、C『鳳簪十義記』と比較しながらたどっておく。
あらすじ†
常州府江陰県の人何君達(Bと共通)が山東で提学副使の任にある。子の何文秀字東橋(Aと共通)は常州府江陰県に居る。
家僕何興(Aと共通)が何文秀をそそのかし国子監に入ることを口実に南京へ行き、南京鴛鴦巷で劉月金(Aと共通)と出会う(Bは劉月金が登場しない)。
何君達は任期を終えて帰るが、息子が遊蕩に赴いたことを察して、怒り病んで世を去る。
山東東昌府の人陳練(Aと共通、Bは程練)が巡按として江陰に赴任し、かつての恨みから何家を陥れる。何君達の甥何九思(Bと共通)は殺され、夫人潘氏も獄中で没する(Aは何九思にあたる人物が登場しない)。
何文秀は金を使いつくして帰ろうとするところを江陰県の役人に捕まるが、父の同年の李知県(Bと共通)がひそかに逃がす(Aは何文秀がみずから役人をだまして脱出する)。
何文秀は蘇州に逃れ道情を歌って糧を得、王閣老のむすめ蘭英(Bと共通)の侍女妙蓮(Bと共通)が何文秀を見て家に招く。蘭英は何文秀の身分を知り同情して思いを寄せ、後園で金を贈ることを約束する。(Aでは侍女の名が錦雲)
何文秀と蘭英は密会の現場を王家のものに見つかり捕らえられ、王閣老は激怒し二人を麻袋に入れて川の中に落とそうとする。
王文・王武(Aと共通)と陶常(Bと共通)が夫人の命を受けて二人を助ける。何文秀と蘭英は婚礼をあげる(Aはなし、Bは楊母の前で婚礼、Cには「花燭成親」の場面がある)。
二人は浙江海寧に逃れ張堂の家を間借りしたところ、張堂は蘭英の美貌を見て我が物にしようと図り召使を殺して何文秀を陥れる。
海寧知県と杭州知府は張堂の賄賂を受けて何文秀を死罪にしようとする。
獄吏の王鼎は何文秀の身の上を知り、病気の息子王安を身代わりに処刑し文秀を自分の子としてかくまい、故郷の山西平陽に帰って何文秀に王察と名乗らせ科挙を受けさせる。
蘭英は自尽しようとするが隣人楊母に助けられ、楊母とその子楊文(A・Bともに登場せず、Cには楊母の息子の存在が示される)とともに逃れる。
何文秀は科挙に及第して官僚として赴任し、占い師に変装して海寧に寄る(「桑園訪妻」Aと共通)。はじめ何文秀は蘭英が張堂や楊文に身を任せたのではないかと疑うが貞操を信じる。身分を伏せたまま蘭英に代わり張堂の訴状を書く(Bでは占い師に変装して尼寺に行きそのまま再会する)。
何文秀は巡按として他の訴状も合わせて受け取り、張堂、海寧知県、杭州知府を裁く。何文秀は王巡按として蘭英を故郷の蘇州に帰るよう命ずる。
何文秀は王蘭英の蘇州への船旅に同行し、船中で自分が何文秀であることを明かす(「舟中相会」Aと共通。Bはこの部分なし)。
王蘭英は蘇州で父母と再会し王閣老も何文秀と蘭英の結婚を許す。
劉月金は何文秀のことを知り訪ねて来て再会する(Aは何文秀のほうが訪ねる、Bはこの部分なし)。
何文秀は陳練の悪事を明るみに出し裁く(Aは城隍神となった父が陳練を罰し冥界に連れて行く)。
何文秀は兵部侍郎にまで上り父母に仕え二人の妻を持ち子に恵まれて終わる。
以上のように、D『義夫節婦報冤伝』には作中にそれぞれA『玉釵記』のみ、B『玉釵記』のみに登場する人物とそれにまつわる筋立ての両方が見られる。C『鳳簪十義記』は残るのが曲詞のみのため難しいところもあるが、CとDが接近している部分もあるように思われる。
登場人物について異同が大きいもののみ取りあげて整理すると次の表のようになる。
1何興と2劉月金については、A・Dに共通して登場し、3何九(何九思)と李知県については、B・Dに共通して登場する。5陶常に関しては、DではAに登場する王文・王武もBに登場する陶常も出てきて協力して助ける筋立てになっている。さらに、その後にDでは何文秀と王蘭英が二人きりで婚礼を挙げる場面があるが、これはA・Bともになく、Cのみに見える。
また6の楊文についても着目できる。妻との再会の部分にも関わる人物であり、A・Bに登場しないにもかかわらずDに存在し、かつCには名前こそ出ないものの、存在が示される人物でもあるためだ。これについては以下に詳しく述べる。
6.二重の再会「桑園訪妻」・「舟中相会」†
A『玉釵記』では、二重に再会の場面が設けられている。「桑園訪妻」・「舟中相会」と呼べる二つの場面がそれである。とくに「桑園訪妻」については、何文秀が楊母とともに桑園に暮らしている妻のもとを占い師に姿を変えて訪ね様子を見る場面で、現代の地方戯でも独立して演じられることもある、よく知られた場面になっている。妻との再会の場面にはそれぞれのテキストの特徴がよく表れている。
A『玉釵記』第三十三齣は挿絵の題名を「文秀私行訪妻」とし、何文秀が占い師に姿を変えて、桑園で楊隣母と暮らす王瓊珍のもとを訪ねる。そのさい、何文秀の王瓊珍の貞節に対して疑念を持ったことが書かれている。
〔淨、丑〕他妻子被張堂強逼成親。這箇娘子截髮毀面,欲尋自盡,幸得楊鄰母救取。因避張堂利害遂遷移那邊小橋轉南居住。〔生〕如今想必有情人養他。〔淨、丑〕若有此事,當初何不嫁了張堂?〔生〕這也說得有理*17。
「今はきっと男がいて養っているのだろう」というのは寒閨を守る妻に対してあまりの言い方とも思えるが、いっぽうで作者や観客の感覚を反映したものではあるのだろう。
また、この場面で何文秀は自分自身の八字から占うふりをする。そのさい趙天驕2018が総括する通り、「占いの内容は、男性主人公が、自分が生まれていらい二十三年に出会ったことをまとめたもので、観衆の鑑賞の中心を主人公の役人としての出世から、多くの人の血が流れた冤罪に対する復讐にあるのだということに立ち返らせる*18」役割をも担っている。
A『玉釵記』第三十六齣は挿絵の題名を「文秀夫婦舟中相會」とする。再び占い師に姿を変えた何文秀は、故郷の蘇州への船旅の途中である王瓊珍と楊隣母に同情し、わざと玉釵を見せ、楊隣母を間において王瓊珍に渡し、それを証拠に再会する。
【普天樂】無情邂逅生嗟怨,釵曾與兒夫相期願。不想前日到監中送飯遺失了。到監時何事無緣?半載恩愛須拚。鄰母,你可問那先生,借寶釵一看。〔貼借〕〔生授。旦見哭介〕〔生〕為何就下淚水?〔旦〕□憐見伊拋閃。〔生〕我是路上拾的。〔旦〕還堪恨。窮途零落誰收管。釵。今日我還得見,你不知我丈夫在那裡?睹丈夫遺物,依然物在人非,休羨,我的夫,問何時再會,人物俱全?*19
王瓊珍は釵に「釵よ、今日お前にはまた会えたが、夫がどこにいるか知らないか」と問いかけ、「夫の遺したものは目にしたが、いまだに物はあっても人はおらず、いつまた会え、人と物がそろうのか」と胸中を訴える。またその玉釵については獄中に夫を見舞ったさいに失くしたものと言っており、前の筋立てときちんと対応している。
「桑園訪妻」では女二人が身を立てるすべとして桑園、つまり養蚕が書かれ、故郷への旅が船旅であることも含めて、江南らしい設定が物語に深く食いこんでいる。何文秀物語を演ずる地方戯のうち、現在もっとも有名なのは越劇であるが、これは地理的な条件から生まれる話柄が生かされていることによるのだろう。
B『玉釵記』では、第三十三齣「完聚禅関」で、尼寺を訪ねた何文秀と王蘭英が「玉釵」を証拠に再会する。
(生背云)這分明是我妻子,他不出來,怎生是好?我有一計了,就把當初贈別的玉釵,假作間他當盤纏。如果是我妻子,必然認得此釵。老師,你這盛徒看了八字,未蒙見謝,他既不出來,我有一殳玉釵,望他當些盤費,與我去罷。(尼)我菴中雖不用釵,也替你去間來。(尼叫旦科)(旦上)(尼云)那先生將一殳玉釵問你當盤纏。(旦接釵,哭介)
【前腔】(旦)覷遺釵頓覺增感慨,這釵呵,原是我一段離情付俊才。想當初釵分鬢改,痛藳砧與玉俱埋。釵與人俱去,釵歸人未歸。驀見有衒玉禪齋,猛追思物在人何在,好教我睹物傷懷。老師呵,試問他何處裹貿易將來*20。
尼寺の奥にこもって姿を見せない王蘭英に対し、一計を案じた何文秀は路銀代わりに尼に玉釵を差し出し、玉釵を見た王蘭英は夫に渡した釵だと気づき「釵と人とがともに去り、釵は返ったが人は帰らない」と歌う。A『玉釵記』や後述のD『義夫節婦報冤伝』のように何文秀が王蘭英の貞節を疑う場面は、再会の場所が尼寺であることもあり、まったく存在しない。
D『義夫節婦報冤伝』では、「桑園訪妻」・「舟中相会」に当たる場面がともに存在する。とくに「桑園訪妻」では、楊媽媽に息子楊文(楊文宝)がいることがポイントになっている。弾詞や複数の宝巻にも登場する人物だが、何文秀は妻が「張堂や楊文と通じたのではないか」と疑うのである。楊文は王蘭英を助ける人物であるが、何文秀の疑念をあおる役割も果たしていることになる。
店官道,他有一個妻子,自從丈夫死後,剪了頭髮,刺破花容,要尋弔死之路,後得楊文母親救他的性命,即認楊奶奶為母親,文寶為兄妹,乃東邊草房子內便是。公子道,看他相必與張堂、楊文有情的。店官道,張監生處曾有禮物相聘,另作媒人說親,那娘子認可一死,不肯失節,故而在楊奶奶處。巡按聽得心中半疑半信便了*21。
Dの「舟中相会」にあたる場面では、A『玉釵記』のように「玉釵」によって身の証を立てるのではなく、自分が何文秀であることを証明するためにここまでの経緯を語りなおす。
我名就叫何文秀,號叫東橋小舍人。算命先生也是我,看海巡按我當身。今日得報冤仇事,感謝奶奶是恩人。聞知你娘兒二個多孝義,特地私行到海寧。奶奶聽得此段話,便問娘子是虛真。娘子聽得全不信,假稱名姓騙誰人。既然是我親夫主,始末原由說一巡。公子便叫蘭英姐,不言當初唱道情。多蒙你小姐厚有意,約定花園贈白銀。卻被你父親來拿住,一齊水裡送殘生。你我虧了陶常救,夫婦同行到海寧。公子說罷方遂認,娘子抱住丈夫身,二人哭倒船艙內,哭得天秋海水渾*22。
そのさい、たとえば王蘭英の父に危うく水に沈められるところを陶常に助けられたと説明し、かつて王蘭英に花園で銀をもらったことまでふれながら、玉釵やその他の約束の品を取り交わしたという内容は出てこない。
C『鳳簪十義記』には、「桑園訪妻」・「舟中相会」の場面のいずれも残っていないが、着目できる点がある。「剖容立節」の令嬢(王蘭英にあたる)の歌う曲詞に、自分を救ってくれた女性(楊母にあたる)の息子の存在が示唆されていることである。
【前腔】正朦朧神迷幽境,身渺茫魂歸岱嶺,韵悠揚聲從耳鳴,影糢糊漸覺回真性。晦復明,終須不久生。祇是無辜累你母子深情分,辦取來世,填還海樣恩。(合前)*23
A・B『玉釵記』では楊隣母(楊母)は寡婦であり子もないとされているが、C『鳳簪十義記』ではD『義夫節婦報冤伝』にあるように子がいたことになっており、清代以降の弾詞・宝巻・地方戯などとも共通する。
以上のように、D『義夫節婦報冤伝』には作中にそれぞれA『玉釵記』のみ、B『玉釵記』のみに登場する人物とそれにまつわる筋立ての両方が見られる。そのうえ、A・B二つの『玉釵記』に共通するもっとも重要な要素である「玉釵」、Cの題名にある「鳳簪」などが登場しない。さらに、A・Bともに登場せず、かつCの曲詞に存在が示される楊母の息子楊文(文宝)が登場人物として存在し、王蘭英を守る役割になっている。
これにより、何文秀物語は少なくとも万暦前半より前に、A・B『玉釵記』、C『鳳簪十義記』のいずれにも先行して、物語を構成する話柄がかなりそろった形で存在していたとの予測が成り立つ。そしてその物語は、少なくとも物語にも登場する南京・蘇州・杭州を含む江南では、複数の作者がそれに基づいた戯曲を書こうとするほどに広く知られていたものだったといえよう。
またB『玉釵記』の序文や著録、散齣集の収録状況などを考え合わせると、何文秀物語を伝える作品は文人の手になる戯曲が先行していたとは考えにくく、何らかの形態での語り物歌い物芸能であった可能性が高いといえる。しかし、それが現存する弾詞の複数の清抄本や宝巻とどのような関係であったのかについては別稿を立てて検討する必要があろう。
7.ありふれた場面として読む「玉釵贈別」†
A・B二種の『玉釵記』は、前述した通り、基本的には筋立てのうえでも曲詞についても直接の継承関係にはないと考えられる。しかし近い時代に同じ物語から作られた戯曲である以上、成立の前後があることは間違いない。さらに、同じ明代後期に何文秀物語の伝奇であり、かつ「玉釵」を冠さない『鳳簪十義記』があったこと、また後の時代の何文秀物語がいずれも「玉釵」を物語の軸にするわけではないことまでふまえれば、主人公たちを再会に導く「玉釵」という要素自体はA・B二種の『玉釵記』のいずれかが先行しており、一方がそれを題名に借り、独自に筋立てを作ったと考えるのが自然だろう。
ところでD『義夫節婦報冤伝』を読んで目立つのは、何文秀物語全体と妓女劉月金に関する話柄の関連の薄さである。冒頭こそ劉月金が担うものの、王蘭英は出会いから結ばれるまでの波乱、冤罪による別れ、二重の再会とほとんどの場面は王蘭英のものであり、劉月金は最後に再登場するだけである。
Dの後にA『玉釵記』を再読すると、「一本の玉釵」が劉月金から何文秀へ渡り、その後複雑な受け渡しを経て、もとの持ち主に戻り、劇全体を縫うように使われていることが分かる。その授受を整理すると以下のようになる。
劉月金との別離のさい月金が何文秀に与える(第十一齣)→何文秀が王瓊珍に金扣と取り替えて渡す(第十六齣)→投獄された何文秀のもとを王瓊珍が訪ね、玉釵を落として何文秀が拾う(第二十三齣)→王瓊珍と船中で再会したさいに玉釵を自分の証として渡す(第三十六齣)→何文秀は劉月金と再会するさいに必要だからと王瓊珍に再び渡させる(第三十九齣)→劉月金に渡す(第四十齣)
先にも触れたように、『大明天下春』巻四にはA『玉釵記』の「玉釵贈別」が収められており、『楽府万象新』巻三にも「玉釵贈別」が収録されている。A『玉釵記』には齣題こそないものの、第十一齣の挿絵は「三姐玉釵贈文秀別」と題しており、これらの散齣集とも合うものになっている。ここでは劉月金から何文秀に一本の釵が贈られる。
〔小旦〕官人,我和你數月夫妻,一旦拋閃,今日恨不得與君同去。奴有玉釵一股,奉為表記,他日得睹此釵,如睹奴家之面。正是:同歸無計欲何之,釵贈君行意轉悲。歸對青鸞心欲折, 不堪釵去鬢成絲。*24
第十六齣の挿絵は「何生瓊珍西園□□」となっており、何文秀から王瓊珍には玉釵が渡り、王瓊珍から何文秀へは金扣が渡される。
〔生〕小生有玉釵一股,奉為表記,願小姐無忘此盟。
〔旦〕奴家回奉金扣一副,願此心如金之堅,如扣之合。
【滾遍】〔生〕海誓與山盟,說與天和地,百歲效于飛。玉釵為表記,崔氏多情,文君有意。賡詩句,理瑤琴,會佳期*25。
もともと劉月金からもらったものを王瓊珍に渡すという設定もかなり奇妙であり、後で再会したさいに王瓊珍に渡したものを、さらに劉月金との再会のためにもう一度取り返す、という何文秀の行動はいささかならず腑に落ちないが、A『玉釵記』は、ともすれば切り捨てられてしまいかねない劉月金の話柄を全体の中に位置づけるため、「玉釵」のもとの持ち主として、そこから手渡されることによりそれぞれの登場人物と話柄をつなげて首尾一貫させるという役割を持たせたのだと読むことができよう。
それでは、B『玉釵記』においては「玉釵」はどのように使われているだろうか。まず序には「玉釵」と筋立ての関係に関する言及がないことは指摘しておく必要があろう。
いっぽう作中では、第一齣の「沁園春」詞の末尾に、「玉瑩無瑕,釵復合一家胥慶,旌表共光榮*26」とあり、はじめから「二本の玉釵」が一度は夫婦二人のもとに分かれるが、後に一つとなることが示されている。
そもそもB『玉釵記』の作劇については、明確な傾向が見て取れる。まず妓女劉月金があらかじめ排除されていること。これによって何文秀の放蕩息子としての要素が消えており、何文秀の倫理的な負い目がなくなっている。次に、父は病死するものの、母潘氏は逃れて生き残ること。何文秀が家産を蕩尽したことへの報いがないため、母は死を免除されることになる。さらに、何文秀と王蘭英をもともと「指腹」の間柄だったとし、二人が後庭で逢瀬し、将来を誓うことを「私通」ではなく、もともとの婚約を果たしただけだとする。最後に、王蘭英と楊母が逃げこむ場所を尼寺にして、何文秀が貞節を疑う余地を排除していることである。
これらの要素は、前述した通り何文秀物語として何らかの芸能の作品がすでにあり、それらにある物語の要素を変更したことにより生まれたものと考えられる。A『玉釵記』がそれぞれの物語の要素を「玉釵」によって縫い合わせつなぎ止めているのに対して、B『玉釵記』では、それぞれの物語の要素を倫理によって正し、文人の戯曲として成立させているといえる。
B『玉釵記』では第十六齣「玉釵贈別」において王蘭英から何文秀へと玉釵が渡されるのだが、上記のような倫理的な解決によって、二人が劇中で離れざるをえなくなるのは基本的には妻が獄中に死刑囚となった夫を訪ねる、その別れのさいだけになっている。ところが、玉釵はその時に受け渡されるわけではなく、かなり無理のある形で、科挙に向かうために家を離れる夫とそれを見送り、二本そろいの釵の一方を渡す妻という場面を作っている。
何文秀は、まだ程練にかぶせられた冤罪が晴れていないにもかかわらず、科挙を受けに江陰を離れることになっている。そこで王蘭英は二本の釵を分け、一方を何文秀に渡すのである。
(旦)相公因慕軒冕之榮,乃割房幃之愛,耿耿鄙衷,豈忍遽別。奴有玉釵二殳,一殳留以待君,一殳奉君為記。見此釵,如見奴家一同。正是:臨行無計繫君思,釵贈應知神與馳。去日先愁歸日晚,教人睹物不勝悲。
【前腔】(旦)釵分最可悲,一片離心,與玉俱馳。遙望關山,頓消減香肌。此一支玉釵,君當珍藏佩服,奴家有意存焉。珍襲。但只願嗚珂佩玉,休教做墜釵碎璧。從今後妝臺冷落,蓬鬢玉慵欹*27。
それを後に何文秀は再会のため尼寺を訪ねたさい、奥に引きこもったままの王蘭英に対し、それと確かめるために玉釵を見せて表に出させることになる。つまり「玉釵贈別」自体は劇全体の展開に対して、先に何文秀に証拠の品である玉釵を渡しておくという以上の意味はない場面だといえる。
ここで着目されるのは『群音類選』に収録された二つの何文秀物語ではない『玉釵記』であり、その齣の題名である。『玉釵記(李元璧)』では「玉釵軍別」が取られており、「玉交枝」曲に「甚日得分釵聘全*28」という歌詞がある。また『玉釵記(丘若山)』では「玉釵贈別」が取られ、さらにタイトルも内容も、何文秀物語とは無関係であるものの、『群音類選』には『分釵記』「分釵夜別」も見える。そしてこれらはみな「二本の釵を分ける」筋立てだったと考えられる。そもそも「鏡が割れ、釵が分かれる」ことは夫婦や将来を誓い合った恋人の離別の象徴として使われており、明代に伝奇がさかんに作られるようになった時点ですでにとうに目新しいものではない。とはいえ、複数の戯曲の場面として使われているからには、ある程度歌詞の書きがいのある場面だったのだろう。
A『玉釵記』が先行し、B『玉釵記』がそれを取りこんだのであれば、玉釵は妻から獄中の夫に渡り、その後再会の時に使われるという演出が残るのではないかと思われる。そうせずに夫が科挙受験に向かうさいに出発する時に渡す、という場面を作らなければいけない理由はない。対してB『玉釵記』が先行して玉釵を渡す場面を設け、それがA『玉釵記』に取りこまれたと考えると、もともと玉釵は劉月金のものだった、という設定がA『玉釵記』の新たな趣向だったことになる。
改めて本論では、B『玉釵記』が先行の何文秀物語をふまえつつ、倫理を強く打ち出して内容を大きく改変し、また二本の玉釵を分けて夫婦が一度別れるという、すでに一般的だった趣向を持たせることで『玉釵記』と名付けたものとし、A『玉釵記』がその題名と玉釵を借りつつ、物語の要素はできるだけ多く含むようにし、曲詞や科白は新たに書いて複雑な玉釵の受け渡しを仕組み、もともとの何文秀物語が持っていた、劉月金と王蘭英(瓊珍)の二人の話がばらばらで関連しない弱点を補ったと考えておく。
8.何文秀物語と「嘉靖年間」との関連†
清代以降の何文秀物語の多くの作品は、明の嘉靖年間を舞台にすると冒頭で明言する。しかし、A『玉釵記』を除いては、清代以前の脚本や演出の作品において、具体的に物語の内容で嘉靖年間に関連した事件や人物が取り上げられているわけではない。
A『玉釵記』では、あらすじでも記した通り、曾銑が登場し何文秀はその参謀となって戦役を勝利に導く。
第三十一齣には曾銑が自らこのように述べる場面がある。
我朝自祖宗以來,輿圖混一,四海成平。念彼河套一方,沃野千里。正統已巳之變,遂為左衽之區,列聖相承,非無恢復之志。廟謨未定,終無進討之期。吉囊唵嗒,桀鷔尤甚,邊境之間,殆無寧日。今幸聖天子赫然震怒,欲問罪于犬羊;賢宰相夙夜究心,誓雪恥于君父。不量下官萎駑,遂投閫外之權,正臣子立功之秋,三軍效死之日。新進士山西王察,對策、慷慨深協時宜。夏太師立授參謀之職,從事北伐*29。
この後、何文秀は曾銑を助けて「北朝」の将軍「脱脱」を退ける。この筋立ては戦役自体が歴史上のものをふまえない、ということももちろんだが、戯曲の中の筋立てとしても、何文秀の名誉回復のために挿入されたものにすぎず、作品全体に関わるものではない。そのため、一劇の末尾でも、登場人物の口からこの話は語りなおされこそするものの、夏言はもちろん曾銑も再登場するわけではない。
このエピソードはおそらく、隆慶年間(1567~1572)に成立したとみられる『鳴鳳記』伝奇に夏言と曾銑、そしてそれに敵対する厳嵩が物語全体に関わる人物として登場することをふまえているのだろう。また万暦年間になって明朝開国の物語から始まり、靖難時期、明代中期の物語も含めて、近い時代の物語が盛んに伝えられる時代にさしかかり、文字化されていない物語が直接伝奇や白話小説にされていたこととも関連すると考えられる。
しかしA『玉釵記』では、多くの劇で中心的な悪役となる厳嵩はあくまで登場せず、また夏言も名前が出てくるだけで、物語全体の悪役は陳練という地方で権勢をふるうだけのいわば小物にすぎない。
この史上に実在する人物と架空の人物に関連する指摘が『伝奇彙考』にすでに見える。
考えるに、曾銑が陝西を鎮撫したのは明の世宗の時代にあたる。しかし嘉靖年間の四十五年のあいだに、王という姓の宰相は決していない。ただ蘇州に王太師という人物がいないというだけではない*30。
この部分は、文字通りで見れば王蘭英(A『玉釵記』では王瓊珍)の父親が実在の人物でないことを指摘したものにすぎない。しかし、挿入的に語られる話柄にのみ登場する人物と、物語全体に関わる人物を比べたものだと解せば、前者に属する曾銑は実在の人物であるものの、後者にあたる王という姓の重臣は架空の人物であるという対比を読み取ることもできよう。これは何文秀物語全体が嘉靖年間の話である、と明言することを避けているのだともいえる。
また、A『玉釵記』にはもう一つ歴史背景を入れたと考えてよい部分がある。劇の展開としてはさかのぼる形になるが、第八齣に詐欺師としての「丹客」が登場する。他の物質を金銀に変えるという意味での錬金術と、不老不死の薬を作るととなえる詐欺は歴代に見られるが、明代の嘉靖帝の統治時期にはこれが猖獗をきわめた。むろん嘉靖帝が道教に傾倒していたことによるものではあるが、皇帝に重用された武定侯郭勛が方士段朝用を推挙して皇帝の前で錬金術を披露させるなど、周囲もむしろそうした流行を後押ししていたふしがある。
第八齣の冒頭に登場する玄天謊が登場したさいのセリフにこうある。
小道天台山居住,法名玄天謊,平日曉得些內事,師兄光得過,平日曉得些外丹,兩個出來,雲遊江湖上,騙些錢鈔*31。
玄天謊は自分たちの術が詐欺であることを隠そうともしない。王象晋(1561~1653)の『剪桐載筆』所収「丹客記」、馮夢竜(1574~1646)『智嚢補』「丹客」から『初刻拍案驚奇』巻十八「丹客半黍九還 富翁千金一笑」に取られた丹客の話はよく知られているが、A『玉釵記』にはそこまで具体的な詐欺の方法は書かれておらず、直接に関連があるかどうかは分からない。とはいえ、嘉靖年間が終わった後に当時を振り返る形で書かれたものと考えることはできよう。また、この部分により、何文秀が家から渡された金を注ぎこんだ先が劉月金だけではなかったことにもなる。劉月金は早々にいったん物語から退場し最後に登場するだけであり、「李娃伝」の物語の戯曲『曲江池』雑劇や『繍襦記』伝奇のように、再会してかつてのふるまいを後悔する場面もなく、夫の勉学と栄達に力を貸したわけでもないため、後に妻として迎え入れられるための積極的な理由に欠ける。そこであらかじめ何文秀は鴇母と丹客により金を蕩尽させられてしまったのであり、もともと劉月金は何文秀を好きでいっしょにいたのだ、という理由付けが用意され強調されているのだろう。
A『玉釵記』は明代に書かれた何文秀物語の作品の中で、唯一具体的に嘉靖年間とつながる要素を持つが、それらはいずれもA『玉釵記』が万暦年間になって書かれたさいに挿入的に作られたものだと考えられる。
現存の何文秀物語の作品のうち、清代以前に成立していたとみられるものの中には、あくまで物語の冒頭に「嘉靖年間」という文字が見えるだけで、他に時代背景と結びつく筋立てを見出すことができない。
これは何文秀物語に当初から嘉靖年間の話であるという設定があったわけではなく、A『玉釵記』が刊行され広まった後、おそらく清代以降に、当代ではなく明代の物語であることを明確にするために嘉靖年間という設定のみが取り入れられたことから起こった現象であると考えられる。
9.結論†
何文秀物語は、万暦年間前半以前にはすでに話の首尾をそなえたものになっており、それに基づきA『玉釵記』・B『玉釵記』・C『鳳簪十義記』などの伝奇が作られた。
宝巻の作品であるD『義夫節婦報冤伝』は内容から見て、A『玉釵記』・B『玉釵記』・C『鳳簪十義記』いずれにも先行する何文秀物語をも反映していると思われる。
B『玉釵記』はA『玉釵記』に先だって作られたと考えられる。B『玉釵記』は登場人物こそ先行の物語を踏襲するが、展開は倫理によって大きく改めている。その過程で陳則清が何文秀の物語ではない他の戯曲から「玉釵」の要素を夫婦の別れの場面として付け加えたため、全体の物語からは浮く形になっている。
A『玉釵記』は「玉釵」の趣向と題名はB『玉釵記』に借りたが、曲詞や科白は受け継がず、何文秀物語から改めて伝奇を制作したと考えられる。そのさい複雑な玉釵の受け渡しを仕組むことで、もともとの何文秀物語が持っていた、劉月金と王蘭英(瓊珍)の二人の話がばらばらで関連しない弱点を補っている。
またA『玉釵記』は古人ではなく近人の物語であることを明確にするため、嘉靖年間に特徴的な話柄を入れた。この影響により清代以降の何文秀物語の戯曲や芸能は、いずれも嘉靖年間を舞台とすると固定された。しかしそのさい話柄自体は全体の物語に接続していないため、後の作品に採用されないことがほとんどだった。
C『鳳簪十義記』とA・B『玉釵記』の前後を考えるのは難しいが、A・Bいずれにもなく、先行する何文秀物語を反映する部分があることから、少なくともA・B『玉釵記』の後継作品とはいえず、別の道筋から何文秀物語を伝奇にしたものといえる。
何文秀物語は当代の物語として、文人の手による戯曲や小説ではない作品、おそらくは語り物芸能から立ち上がり、話柄や人物を確立した。その後、万暦年間の江南ではほとんど同時期に複数の戯曲が作られるほど、その物語は知られていたことになる。
本論では、何文秀の物語を演ずる三つの伝奇を主な分析対象として以上のような結論を得たが、これらは明代後期の江南における、同時代の物語の伝播とその文人による戯曲化の様相を見る上で一つのモデルとすることができるだろう。
※本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「中国古典戯曲の「本色」と「通俗」~明清代における上演向け伝奇の総合的研究」(平成29~令和3年度、基盤研究(B)、課題番号:17H02327、研究代表者:千田大介)による成果の一部である。
参考文献一覧†
- A心一山人『新刻出像音註何文秀玉釵記』『古本戯曲叢刊』初集影印本、上海商務印書館、1954年
- B陳則清『何文秀玉釵記』二巻 廖可斌総主編、汪超宏主編、馮金牛校点『稀見明代戯曲叢刊』排印本、東方出版中心、2018年
- C無名氏『鳳簪十義記』李志遠校箋『群音類選校箋』排印本、中華書局、2018年
- D無名氏『新刻説義夫節婦何文秀報冤本伝』張希舜主編『宝巻初集』影印本、山西人民出版社、1994年
- 祁彪佳『遠山堂曲品』『中国古典戯曲論著集成』、中国戯劇出版社、1959年
- 董康『曲海総目提要』、天津古籍出版社、1992年
- 無名氏『伝奇彙考』、書目文献出版社、1994年
- 譚正璧『弾詞叙録』、上海古籍出版社、2012年
- 車錫林『中国宝巻総目』、中研院文哲所籌備処、1998年
- 劉夢爽2018「何文秀故事演変研究」揚州大学(碩士論文)pp.1-76
- 辻リン2020「何文秀物語の流伝について」『中国文学研究』46、pp.80-99
- 趙天驕2018「《何文秀玉釵記》算命情節芻議」『名作欣賞』2018年30期、pp.145-146
- 朱恒夫2014「論戯曲、宣巻的《何文秀》文本空間与時代、地域之関係」『東南大学学報(哲学社会科学版)』第16巻第1期、pp.106-113
*1 《玉釵》,心一山人,何文秀初為游冶少年,後來備嘗諸苦。寫至情境真切處,令人悚然而起。若於結構處敷衍以新詞,當成佳傳。(p.100)
*2 刊本云心一山人撰,未詳其姓名。本小說彈詞而作。何文秀遇金、瓊二女,皆以玉釵作合,故名。(『伝奇彙考』p.244﹑『曲海総目提要』p.558)
*3 该剧将江南的重镇南京、苏州、杭州和具有代表性的县城江阴、海宁都包括了进来。(p.109)
*4 卒使英雄豪俊,遊魂於斧鑕;良臣淑士,賚志於荒遐。千載之下,誦其編,想見其時,莫不張目奮詈,怒髮指冠,思為之籲天而昭雪焉!此山人所以感文秀之冤,故假之歌聲,以泄其胸中憤懣也。憂時淑世之心,顧不淵矣哉!(p.734)
*5 p.737。
*6 記何文秀,猶之《玉釵》也,不若彼更敷暢。(p.100)
*7 p.546。
*8 pp.549-550。
*9 p.551。
*10 p.551。
*11 p.552。
*12 但在《何文秀玉钗记》之前没有发现何文秀故事的流传记载,亦不曾有关于何文秀故事弹词、小说的著录, 且后世何文秀故事作品均改编自这两部《何文秀玉钗记》,故《何文秀玉钗记》两种可以视为何文秀故事的传播源头。(p.13)
*13 由此可见,心一山人的《何文秀玉钗记》或为在陈则清《何文秀玉钗记》基础上的加工和改编。(p.15)
*14 p.86。
*15 p.208。
*16 p.245。
*17 巻3第20葉。
*18 算命的内容,总结了男主人公自己出生二十三年来的遭遇,让观众的欣赏重点从官场发迹回到血海冤仇之上。(p.145)
*19 巻4第2葉から第3葉。
*20 p.814。
*21 p.545。
*22 p.566。
*23 p.552。
*24 巻1第23葉。
*25 巻2第9葉。
*26 p.737。
*27 pp.773-774。
*28 p.818。
*29 巻3第14葉。
*30 按:曾銑撫陝,當明世宗時。嘉靖四十五年中,並無宰相姓王者。非止蘇州無王太師也。(p.245)
*31 巻1第15葉。