北京西派皮影戯をめぐって†
はじめに†
(一) 皮影戯概説†
皮影戯―影絵人形芝居―は、透明な皮革に着色した人形を、紙や布のスクリーンの裏から灯光で投影しながら演じる演劇である。アジアからヨーロッパまで世界各地に分布し、ことジャワのワヤンはよく知られている。中国の皮影戯は、北宋代にその具体的姿を現してより、中国各地の都市や農村に広く流行していたが、20世紀の社会動乱と近代化の中で次第に廃れていき、人々の目に触れなくなった。皮影戯が盛んであるとされる河北東部および陝西の小都市・農村でも、1990年代以降の経済発展を背景としたテレビの普及によって、劇団は急速にその数を減らしているという。このため、20世紀に近代的な中国演劇研究が始まったとき、皮影戯は既に研究者の目に触れにくいものとなっており、調査・研究が遅れる要因となった。
本稿は、元北京皮影劇団編劇劉季霖氏への十数次にわたるインタビュー、および関連文献の調査から得られた知見に基づいて、北京皮影戯の歴史と特色に関する基礎的事項をまとめ、あわせて近代北京におけるそのメディアとしての機能の変容について考察したものである。現在劉季霖氏に北京皮影戯の歴史をまとめた書籍をご執筆頂いているため、インタビュー結果を一々採録することはせず、このような報告書に論考を加えた形態にまとめることにした。
(二) 北京東派と西派†
北京の皮影戯は、東西二派に分かれており、美術・音楽・台本など多くの面で相違があった。北京内城という狭い地域にこのような差異が生じたことは奇異に感じられるが、清代までの北京では、内城の中央を正陽門・紫禁城・景山が占めており、東城と西城との往来に時間を要したことに起因する。そもそも、皮影戯にとどまらず北京の東城と西城とでは、町の雰囲気は大分異なっている。例えば、現在でも西単・西四と東単・東四とでは、西の方が洗練されたイメージをもっている。また、東城には旧時、禄米倉・太平倉などの多くの倉庫が置かれ、江南から水運で通州にもたらされた物資が陸路運び込まれた。通州を越えて山海関そして東北へと至る街道沿いにあたるのが現在の唐山市であり、その地に盛行した灤州皮影戯・楽亭皮影戯の劇団が街道沿いに北京東城に進出し、北京東派皮影戯を形成した。このため、劇団の多くは東単から東四・隆福寺周辺に所在していた。
西城は、北は居庸関を通じて大同に、西南は河北西部を経て河南・山西へと通じていた。西派皮影戯は涿州大影とも呼ばれたが、蜀漢の先主劉備の出身地として知られる涿州はその交通路の重要な中継地であった。劇団は、菜市口から西単・西四を経て新街口に達する道沿い、および鼓楼付近に主に分布していた。
現在の北京皮影劇団の前身は、最後の西派皮影劇団であった徳順班である。徳順班は路耀峰とその五人の子が中核となった劇団であり、路家班とも称される。本研究のインフォーマントである劉季霖氏は、文革後、北京皮影劇団の団長を務めた人であり、現在の北京皮影劇団が伝統演目を継承していないため、西派皮影戯の最後の生き証人である。このため、本稿では北京皮影戯のうち、西派を中心に扱う。
(三) 用語†
本稿で用いる皮影戯関連用語について、ごく簡単にまとめておく。
皮影戯・影戯†
皮影戯とは、人形の素材に皮革を用いた影絵芝居、影戯は皮革に限らず紙などの素材を用いたものをも含める総称として用いる。
影人†
「影偶」とも称される。影戯で用いられる人形のこと。
頭楂・身子†
多くの地方の影戯では、頭はすげ替えられるようにできている。胴体(「身子」)から取り外した頭部が「頭楂」である。
影戯箱†
文字通りには、影人を収納する箱を指す。転じて、皮影戯の劇団を指すこともある。
影巻†
皮影戯の台本。「影詞」などとも称される。
影幕†
影人を投影する紙もしくは布製のスクリーン。
冀東皮影戯†
灤州皮影戯・楽亭皮影戯は、ともに現在の河北省唐山市の県名を冠する皮影戯の流派であるが、両者の差異は小さく、同一のものと見なして問題ないという。このため、本稿ではそれらを「冀東皮影戯」と総称する。
人戯†
皮影戯の用語ではないが、本稿中で木偶戯・皮影戯など人形を使って演ずる演劇と区別して、人が演ずる演劇を称する際に用いる。
一. 劉季霖氏の略歴†
(一) 劉季霖氏の出自†
はじめに、北京皮影戯調査のインフォーマントである元北京皮影劇団編劇の劉季霖氏の出自および経歴について、まとめておく。
劉季霖氏の父祖は正黄八旗に属する満州族であった。家譜等は残らない。言い伝えによれば、一族の故地は松遼平原、清の入関とともに鎮海将軍をつとめた郎賽が16歳にして北京に移住した。以下、熙洽・阿爾泰・伊里布らは、いずれも将軍、あるいは大学士をつとめた。
数代くだって、劉氏の曾祖父・松寿は、義和団事件の頃、正紅旗都統・統領火器営をつとめる二品の官であった。その次男の劉子先が劉季霖氏の祖父となる。長男は劉大爺と呼ばれ、筆帖式であったが、京劇・子弟書の愛好家で、自ら票房を開いていた。劉季霖氏はおさない頃、その影響をうけた。しかし、道樂のために家は没落し、その子・黒大爺は阿片にも手を出し、一族から遠ざけられたという。
劉季霖氏の父は劉鋆。解放前には鉄道の車掌および駅長を務めた。梅蘭芳が上海公演に赴く際に撮影した写真に写っているという。当時の車掌は、英語力を求められる、エリートの職業であった。解放後は中央財経委員会の通訳、米糧庫学校の教員などをつとめ、1993年に亡くなった。
(二) 劉季霖氏略年譜†
劉季霖氏の経歴を略年譜の形で概述する。
1936 | 1歳 | 小沙菓胡同(西単民族飯店そば)に生まれる。 |
1939~40 | 4、5歳 | 前門外の新新勧業場三階の新羅天劇場にて初めて皮影戯を鑑賞。 |
小学校在学中より、西洋画の左輝、国画の呂牧石らに師事する。 | ||
1943 | 8歳 | 鼓楼大街宝鈔胡同に転居。 |
1946 | 11歳 | 護国寺題帽胡同に転居。 |
1952 | 17歳 | 北京市第七中学入学。 |
1954 | 19歳 | 南苑の華北第一機械技術学校(第245技校)に編入学。飛行機の試験飛行の観測などを学ぶ。 |
1955 | 22歳 | 同校を退学、徳順班に入る。路景達を師に拝する。 |
1966 | 31歳 | 文革のために、東城区美術人形廠にて工芸品・人形の制作に従事。後、工業局に移り宣伝を担当。 |
1979 | 43歳 | 劇団に復帰。 |
1980 | 44歳 | 北京市文聯代表となる。 |
劉季霖氏は、中学で成績優秀であったため、先端技術である航空機関連の学校に特に選抜されたが、芸術家はだであったためその仕事がいやで、結局、おさない頃に魅せられた皮影戯の世界に入ることを決意した。知識人でありながら下海して皮影戯に携わったために、芸人でありながら自らを語る言葉と文章力を有している点、珍しい例であるといえる。他方、劉季霖氏が語る内容がその知識によって方向性を与えられ、偏っている危険性も考慮する必要がある((劉季霖氏の経歴については、孟皋卿《京都工芸》(北京少年児童出版社 1991)にも掲載されているが、 劉季霖氏が我々に語った内容と多少食い違う部分もある。))。
著作としては《中国皮影戯》があり、ほかさまざまな媒体に、皮影戯および北京伝統文化などに関する文章を発表している。
二. 北京西派皮影戯研究史概観†
影戯の研究史については、磯部彰に「中国の影絵芝居とその人形」((『富山大学人文学部紀要』第十九号 1993 ))があり、かつ全国の皮影戯を網羅的に扱った金字塔とも言うべき江玉祥《中国影戯》*1がある。そのため、本章では影戯研究史の全貌を検討する煩を避け、北京皮影戯に関連する代表的な論考に絞って内容と背景、問題点を整理し、研究史を概観する。
(一) 民国時期の影戯研究~皮影戯の「発見」†
1.《北平俗曲略》†
北京皮影戯に関するまとまった論考としては、1933年に刊行された《北平俗曲略》がある。編者は李家瑞。北京の芸能・演劇・俗曲の類を網羅的かつ系統的に解説した専著としては最も古い。皮影戯はp.36~40〈灯影戯〉の項で扱われる。
内容は、まず《事物紀源》《東京夢華録》を引いて影戯の起源が北宋代にあり、かつ説書芸能との関係が深いことを指摘する。その上で、
現在北平的影戲,通稱灤州影戲,因為演唱者都是灤州唐山一帶的人。
と、北京市中の影戯が灤州影と称され、灤州・唐山一帯の人によって演じられることを述べる。影巻に関する記述も多く、車王府曲本と《燕影劇》を紹介し、中央研究院史語所に道光年間毓秀班鈔本を中心に五十余種の影巻が所蔵されること、および影巻の体裁が、唱の前には「……說了一遍」「在表那……」、既に述べた事実については「原是如此這般」「原是這般如此」といったフレーズを多用するのが説書に似通うことから、影戯が本来説書の一種であったと結論づける。
さらに、影巻に見える俗字・符丁について解説する。本研究の過程で収集された冀東系皮影戯の鈔本影巻には、実際にそれらの俗字が大量に見えているので、この解説は極めて有用である。あわせて、影巻〈當箱〉を収録する。
本書はしかし、北京の皮影戯を扱いながらも西派皮影戯の存在について、一言も言及していない。劉半農の序に
我在中國俗曲總目稿的許文中說過﹔『李家瑞君毅參加此項工作之心得,寫了一部北平俗曲略;這是一部獨立的書,但也可以與本書相輔而行,作為有力的補充』。
と見えるように、本書は《中国俗曲総目稿》編纂の副産物であり、中研院史語所が収集した資料の解説としての性格を持つものであった。影巻について詳細に解説するのはこのためであり、また西派皮影戯に言及しないのも、後で詳述するように口伝で伝わる西派の影巻が収集されなかったためであると考えられよう。
2.顧頡剛〈灤州影戲〉†
顧頡剛の皮影戯に関する論文は、〈灤州影戲〉*2および死後発表された〈中国影戏略史及其现状〉*3の二篇が存在する。それぞれの章立てを以下に掲げる。
〈灤州影戲〉
一 引論 | 二 傀儡戲與影戲 | 三 灤州影戲的創始 |
四 灤州影戲之分期 | 五 灤州影戲的派別 | 六 灤州影戲的觀象 |
七 灤州影戲之内容 | 八 灤州影戲與舊劇和電影 | 九 今後之灤州影戲―結論 |
〈中国影戏略史及其现状〉
影戏之起源 | 汉代之影戏 | 隋唐之影戏 | 两宋之影戏 |
元代之影戏 | 明代之影戏 | 清代之影戏 | 现时之影戏 |
影戏之体制 | 结论 |
両者ともに、皮影戯の歴史から始まり、北京東派皮影芸人・李脱塵が著したという《灤州影戲小史》に従って、北京東派・灤州皮影戯を中心に解説する。この《灤州影戲小史》はその後の北京東派・冀東皮影戯研究の出発点となる貴重な調査記録であるが、現在どこに収蔵されているのかわからない。後者は、前者に比べて詳細な内容となっており、特に〈影戏之体制〉で、皮影戯の音楽・劇団組織・物語・上演場所などについて総合的に解説している。
論中では西派皮影戯への言及が見られるが、東西両派皮影戯を同系のものとして扱い、
時間在清道光年間,在發展的過程裡忽然發生了兩大派別:(一)西派,(二)東派。
と、東派から西派が分化したものとする。また、東派が影巻を見ながら上演するのに対して、西派は口伝であること、東派の影人が驢皮製であるのに対して、西派は牛皮製であることに言及するが、総じて北京東派皮影戯の添え物として扱われている。
3.斉如山〈影戯―古都百戯之四―〉†
顧頡剛論文の翌年1935年、梅蘭芳のブレインとして知られる演劇研究家、斉如山が《大公報》紙上の連載《故都百戯》で、8月7日より四日間にわたって皮影戯を取り上げている。
そこでは、まず影戯の歴史を概述、全国各地に分布することに触れた上で、その発祥地が陝西であると推測する。
次いで北京影戯が二つの派に分かれることに触れるが、西派・東派の用語を意識的に避けているようで、一方が「老虎影」またの名を「流口影」、もう一方が灤州影戯であるとする。このうち北京西派にあたる「老虎影」については、涿州一帯から来たが、老芸人の伝承によれば源は河南・四川にあること、その歌詞が即興的に作られるため「流口影」と称すること、また「誇獎歌」「房舍歌」「穿衣歌」などの歌唱は灤州影に見えず、鑼鼓が弋陽腔とほぼ一致することを述べる。その上で老虎影の現状について、灤州影に押されて歓迎されず、甄三が班主をつとめる開才胡同の西天和班、陸二とういものが班主をつとめる紅羅廠西口の某班のみがあるとする。「陸」は「路」と音通であるから、徳順班のことを指すと思われる。また、旧時の影人は失われ、唱腔も断絶している中で、甄・陸の二班だけがそれを伝えているが、堂会での上演は灤州影に市場を奪われ、わずかな利益で細々と食いつなぐ状態であるとする。
一方、灤州影については、灤州起源であるが、明末に灤州人で関外に赴いて演ずる者がいて歓迎され、清朝の入関に従って北京に伝わったとの、老芸人の説を紹介する。当時の状況については、自らの見聞に基づき、光緒中葉には十四の影戯箱が存在し、演唱できるものが約90名いたと述べ、以下の劇団を列挙する。
劇団 | 所在地 | 班主 |
三楽班 | 崇文門内 | 周瘸子 |
鴻慶班 | 東単牌楼路東 | 丑子 |
毓秀班 | 煤渣胡同東口外 | 王瑞 |
永楽班 | 灯市口 | 白四 |
栄順班 | 銭糧胡同 | 李真 |
裕順班 | 東四牌楼六条胡同 | 張煥章 |
同楽班 | 東四牌楼六条胡同対過路西 | 趙連仲 |
三義班 | 後門提督衙門旁 | 王萬杭 |
徳勝班 | 後門方磚廠 | 高徳然 |
玉順和班 | 東四牌楼弓箭大院 | 楊進光 |
これらのうち、執筆時に残るのは、裕慶(ママ)・栄順・玉順和・同楽の四班のみで、他は既に雲散したとする。また、新班として以下の三班を挙げる。
楽春班 | 東四牌楼四条対過 | 陳薫 |
裕慶班 | 絨線胡同 | 傅成志 |
慶民生班 | 東四牌楼五条胡同 | 李崑 |
上演の情況・方式についても詳述する。これら七八班のうち、影人を持つものは四班だけで、その他の班は、堂会などの仕事が入ったときに、所有している班から借り受けて演じていた。行当は、小嗓が旦と小生を兼ね、大嗓が老生と花臉を兼ねるため、一班八人で用が足りる。光緒年間の堂会では、一時から七時まで演じ、夕食後ふたたび開演し、夜半まで演じるのが一般的で、戯価は紋銀五両、民国以降は約十元で、時間が短ければ更に安くなるとする。
さらに、旧時、怡王・粛王・礼王・荘王・車王などの王府が影戯箱を所有し芸人を雇用していたこと、特に粛王の府内には台本作家が二人、影人彫刻家が四人常に雇われていたことに言及し、最後に、灤州影の音楽と影人の制作方法について言及する。
以上のように〈故都百戯〉は、民国時期の北京における皮影戯上演情況を詳細に記している点で、極めて資料価値が高い。また、北京西派皮影戯について、具体的に言及した初めての文献としても、画期的な意義を持つ。
4.東派皮影戯の「発見」、西派皮影戯の「未発見」†
以上のように、皮影戯研究は1930年代に始まるが、大半が北京東派=灤州皮影戯に関する言及に偏っている。これには、次の原因が考えられる。
皮影戯の先駆的研究業績を残した三名は、いずれも北京の出身ではない。李家瑞は白族の出身で、雲南大理の人。北京へ移ったのは、南京大学から北京大学予科への転入時で二十代のときである。顧頡剛は江蘇蘇州の人で、やはり北京大学で学んでいる。彼が北京でいかにして戲迷になったかは、『ある歴史家の生い立ち』*4に詳しい。斉如山は、河北省高陽の出身である。
彼らは、いずれも青年期に北京に移り、そこで伝統演劇・芸能を研究対象として選択しているのであるから、皮影戯も北京に移った後で「発見」した蓋然性が高い。後で詳述するが、北京西派皮影戯は伝統的に旗人の堂会に経営の基盤を置いており、舞台上演を始めるのは1940年代に入ってからである。従って、老北京の堂会を知らない“外地人”である彼らが触れることができたのは、茶館などでも上演していた東派皮影戯しかあり得ず、西派皮影戯は「未発見」のままであったと考えられる。
実際、顧頡剛・斉如山らの西派皮影戯への言及は、伝聞に基づいていると思われる。
《灤州影戲》は、東派の芸人李脱塵(李崑の子)へのインタビューに基づいてまとめられたものであり、他のインフォーマントの名が見えないことから、西派皮影戯についても李脱塵の言に従うと見てよかろう。前にも触れたように、灤州皮影戯から北京西派・東派が分化したとするが、後で詳述するように、西派皮影戯=涿州大影は明末清初に既に成立していたと考えられ、東西両派は本来別系統の皮影戯である。これは、自分の属する劇種・流派をより高く位置づけたい芸人の心理ゆえと理解されよう。西派の影人や音楽的特徴への言及が全く見られないことから、《灤州影戲》執筆時点において顧頡剛自身に西派皮影戯の鑑賞経験がなかったことは、ほぼ確実である。
斉如山の記事では、西派皮影戯の音楽への言及が見られるので、あるいは西派皮影戯の鑑賞経験はあるのかもしれない。西派皮影戯は、梅蘭芳や尚小雲・程硯秋などの名旦の家で堂会戯を演じられたというから、梨園との結びつきが深かった斉如山に鑑賞経験があったとしても不思議はない。一方で、
所唱之詞皆随編随唱,又名曰「流口影」,北京土語:凡随編随唱者名曰「流口轍」,故此名曰「流口影」。
と、西派皮影戯に台本が無く即興ででまかせに上演されるものであるとするが、実際には、西派皮影戯では人戯と同様に、芸人が影巻を暗記している。「流口影」とは、影巻を見ながら上演する東派皮影戯の立場からの罵語である。ここから、斉如山の記事も、情報源はもっぱら東派芸人にあると思われる。李脱塵への聞き取りに基づく顧頡剛の記述とは微妙に食い違い、かつ粛王府影戯箱について詳述し、それが楽春班に継承されていることを記しているので、その辺りが情報源であるのかもしれない。
この時期に北京の皮影戯が研究者によって「発見」されたのは、1930年代という時代ゆえであろう。中国において民俗学研究が始まったのは1919年のいわゆる五・四運動以降のことである((以下、初期の中国民俗学の展開については、直江弘治『中国の民俗学』(岩崎美術社 1967)、川村湊 『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ 1996)に基づく。))。1922年には周作人らが編集をつとめる《歌謠週刊》が創刊され、各地の民間歌謡の収集がおこなわれた。顧頡剛はそのような思潮の中、俗曲や唱本の収集に従事するようになり、民俗学をも専門分野とするようになる。すなわち、白話文学運動と表裏一体をなす白話通俗文学への関心の高まりが、1930年代に入って初期の皮影戯研究に結実したと考えられる。
(二) 解放後の西派皮影戯研究†
1940年代、北京に残る皮影劇団は現在の北京皮影劇団の前身である北京西派の徳順班のみとなった。このため、解放後の北京皮影戯に関する論著は、ほとんどが徳順班を扱ったものである。
1.関俊哲《北京皮影戯》†
北京西派皮影戯に関する初めての書籍が、関俊哲の《北京皮影戯》*5である。目次を以下に掲げる。
第一章 皮影戯的発展 | 第二章 北京皮影戯的伝統劇目 |
第三章 皮影戯的音楽伴奏和影詞 | 第四章 北京皮影戯人物的造形 |
第五章 皮影戯人物的彫鏤 | 第六章 皮影戯人物的色彩 |
第七章 影幕 | 第八章 動作和場面 |
第九章 効果 | 第十章 新式影戯人物設計 |
第十一章 如何組織演唱 |
歴史から音楽、人形まで全般的に扱っている。
劉季霖氏によれば、関俊哲は瀋陽の出身で共産党員、北京の解放にともなって紅軍とともに北京に移り、北京市文芸処に所属していた。そのとき、所轄下にあった徳順皮影戯社に出入りして団員から話を聞き、上演や後台の様子を観察してまとめたものである。ただし、関俊哲は高等教育を受けた経験がなかったため、本書の内容、特に北京皮影戯の歴史をまとめた部分には錯誤が多く見られるとのことである。
しかし、特に第四章以下、1950年代の北京皮影戯の影人製作や劇団の体制を記した部分は、中華人民共和国初期の劇団の様子を伝える資料として、重要な意味を持つ。
2.翁偶虹《路家班與北京影戲》†
翁偶虹は、《鎖麟囊》《紅灯記》などで知られる京劇の劇作家であるが、北京の伝統芸能にも詳しく、徳順班と北京西派皮影戯についてまとめた《路家班與北京影戲》*6を執筆している。徳順班の路景平へのインタビューをまとめたものであるようだ。
全体は六章からなり、それぞれ、路家班の歴史、清末・民国時期の北京皮影戯の劇団、祖師爺、レパートリー、腔調、影人操作方法と口訣について概説する。個々の内容については後で北京西派皮影戯について概述する際に触れるが、作者は伝統劇に精通するだけに、簡潔ななかに必要な内容が盛り込まれており、北京西派皮影戯を考察する上での基本資料となる。
(三) 秦振安の西派皮影戯捏造説†
在米華人である秦振安の《中國皮影戲之主流―灤州影》*7では、第五篇を北京西派皮影戯は灤州皮影戯に他ならないのを、路家班が名称を捏造したとの説を証明するために費やしている。論理的に破綻しており、中國の皮影戯研究界でも同意を得られていない説であるが、本稿で西派皮影戯を取り上げる以上、批判しないわけにもいくまい。
秦が西派皮影戯を捏造だと断定する根拠を以下に整理する。
- A)涿州出身の路福元・路耀峰は北京に出て、灤州皮影戯を学んでいる。
- B)涿州大影、あるいは蘭州皮影と称するが、涿州や蘭州に皮影戯は無い。
- C)1959年に、路家班は唐山市皮影劇団から人形・録音・技術等の援助を受けている。
- D)北京のような狭い場所で二つの派ができるのは不自然。
- E)全ての台本を口伝で暗記できるはずがない。
まずA)であるが、劉季霖氏および翁偶虹《路家班与北京影戏》によれば、路家の原籍は東北、北京の昌平県沙河路家荘に定住したものであり、涿州出身ではない。秦はこのことを1938年に北京東派皮影戲の老芸人・劉煥亭から聞いたとするが、その伝聞の不正確さはこの一事をもって明らかであるし、芸人はともするとライバルを貶めようとするものであるから、そのまま鵜呑みにすることはできない。
B)については、《北京皮影戯》を著した関俊哲が秦への手紙の中に、涿州での調査の結果、皮影戯が存在しなかったことに言及している。しかし、それは勿論、過去に存在しなかったことの証明にはならない。事実、涿州には古い影人が伝わっており、旧時皮影戯が存在したことが確認できる。その影人は王宇文主編《郷土藝術》(河北美術出版社1990)に収録されている。
秦は、西派皮影戯が蘭州皮影戯を詐称したのは、灤州皮影戯と似た発音であったためであるとする。その可能性は確かにある。しかし、それをもって一つの劇種の存在を否定することは不可能であるし、そもそも、西派皮影戯の蘭州起源説は伝説に過ぎない。秦は一方で、顧頡剛が伝説であると明言している灤州皮影戯の創始者黄素志について、秦の故郷である各安荘に当地の出身であるとの言い伝えが残ることによって実在を断定するなど、資料の扱いが極めて恣意的かつ非論理的である。
C)であるが、その時期の北京皮影劇団は陣容が整わず、楽団すらも揃わなくなっていた。そのため、陣容の整った唐山市皮影劇団に援助を求めたもので、西派の技術と相違があるからこそ、冀東皮影の技法を学ぶ必要があったと考えるのが自然である。
D)については、旧時の北京には東西で異なる文化が生まれる地理的要件が、前述のように備わっていたのであり、清代までの北京に関する理解が不足している。E)に至っては、伝統劇の役者あるいは説唱芸能が、長大な台本を覚えている事実を知らないのだろうか。例えば、京劇の武生俳優である王金璐氏は2000ものレパートリーを暗記しているという。文字を知らないということは、逆に超人的な記憶力をもたらすものである。
そもそも、西派の劇団が路家班一つにとどまらなかったことは、斉如山の《大公報》の記事からも明らかであるし、その影人のデザインは冀東皮影戯と明らかに異なる。乾隆年間以前と思われる旧影人も存在する。秦説の無理は火を見るよりも明らかである。
秦は唐山市各安荘の出身で、皮影戯と郷土への愛にあふれた人物であること、「中國皮影戲之主流」というタイトルに如実にあらわれている。推察するに、冀東皮影戯に比べて勢力の微弱な、西派皮影戯の流れを汲む北京皮影劇団が、北京にあるばかりに中国の皮影戯の代表として扱われることに、秦は我慢がならなかったのであろう。灤州皮影戯への盲目的な愛ゆえの過ち、といったところであろうか。
北京プロジェクトⅠ成果報告/北京西派皮影戯をめぐって-下
三. 北京西派皮影戯の特色†
(一) 皮影戯分類の視点†
伝統地方劇の場合、演劇を成り立たせるさまざまな要素のうち、主に声腔によって劇種の分類がなされ、衣装や化粧・身体表現などは、劇種間の差異は案外小さいものである。しかし、人物や動物、景物を平面に置き換えデフォルメした人形を視覚表現に用いる皮影戯の場合は、声腔もさることながら、美術的要素をも十分に考慮する必要がある。また、影人や背景は上演のための道具であると同時に、それ自体が美術品あるいは玩具として流通していたし、必ずしも劇団員が制作する必要もない。首と両腕に繋がった三本の棒で操作する方法は、全国各地の皮影戯でほぼ共通しているので、異なる地域の影人を借りて当地の皮影戯の上演に使用することさえも可能なのである。
例えば、インフォーマントの劉季霖氏は北京西派の流れを汲むが、北京東派皮影戯の影人を彫刻することもでき、実際、北京皮影劇団では北京東派・冀東系統の影人を使用したこともある*8。旧時は、彫刻の技量で名を成せば、他の劇団の求めに応じて影人を彫刻することもあったし、内蒙古東部の皮影劇団は冀東地区に出向いて影人を買い付けるという。美術的にはほぼ共通でありながら、声腔や劇団組織は全く別というケースも存在しうるのであり、皮影戯の分類は、美術・声腔などのさまざまな側面から総合的に検討する必要がある。
以下では、北京西派皮影戯および東派・冀東皮影戯の形成について、先行研究に基づいて検討した後、それぞれの皮影戯の特色を、劉季霖氏へのインタビューおよび文献資料の調査を通じて得られた知見に基づき、全国の皮影戯と対照によって析出、その系統について考察する。ただし、劉季霖氏が美術の専門家であったこと、北京西派皮影戯の伝統劇目の上演が途絶えていること、および全国各地の皮影戯の実地調査に着手していないことから、主に写真資料による分析が可能な影人の造形の方面から検討することとする。
(二) 北京西派皮影戯の特色~各地の皮影戯との比較から†
1.影人~身子・全般†
北京西派・東派皮影戯は、全般に似通っていると言われる。しかし、こと影人の造形に関しては大きく異なっている。そもそも、大きさからして大分異なる。西派皮影戯は身子と頭楂あわせて約50cmにもなる。解放後は、劇場上演にあわせて、更に大きな影人も作られたが、大きすぎて上演は困難であっという。
それに対して、東派=冀東皮影戯は一般に30cm強の大きさである。こちらも、劇場上演する劇団では大きくなる傾向があり、唐山市皮影劇団では現在は50cmほどの大きさの影人を使用している。全国の皮影戯では、山西北路皮影戯は北京西派とほぼ同じ大きさ、山西南路は小振りであるという。《中国美術全集》《中国民間美術全集》キャプションによれば、山西中部の孝義紙影戯は約40cm、四川皮影戯が65~70cm、河南省羅県・桐柏および雲南騰冲皮影戯が55cm前後、陝西・甘粛・河南豫西・山西南部の侯馬・曲沃皮影戯などは33~40cmほどである。
北京西派皮影戯の材質については、牛皮であると、多くの先行論で言われている。しかし、実際には、明末から乾隆年間にかけての旧影人では馬皮が使用されている。例えば、《中国美術全集》p.183~184、《中国皮影戯》p.97~101に掲載される西派皮影戯影人、および、早大中央図書館に所蔵される明末清初涿州大影佈景などは、いずれも馬皮製である。馬皮は色が白っぽく柔らかいが、弾性が弱いため破損しやすい欠点があるため、後世、牛皮や驢皮に改められたとする。皮影戯の上演では、一般の動作および戦いの表現で身子を180度よじったりもするので、材料の弾性が重視される。現在は、セルロイドを用いて影人を作ることもある。本研究の過程で訪問した唐山市皮影劇団の新作皮影戯《熊貓咪咪》《亀与鶴》などでは、セルロイドを用いた特殊な動物の影人が用いられる。しかし、人物は頭楂こそセルロイドで作ることがあるものの、よじると破損してしまうため、身子には使えないそうである。
影人の材質は、全国各地の影戲でまちまちである。冀東皮影戯や東北皮影戯は驢皮、陝西皮影戯、およびその影響が濃厚な山西皮影戯・河南皮影戯・甘粛皮影戯・青海皮影戯・四川皮影戯などは一般的に牛皮、河北邯鄲皮影戯も牛皮である。紙影戯も山西湖南では紙影人を用いていたのが1950年代に水牛皮に改められたという。劉季霖氏は、影人の材質は、その素材が影人に向いているか否かで決定するのではなく、その土地で如何なる材料が入手できるかという現実的理由によって決まるとする。
ちなみに、1980年代までは北京や唐山地区の驢皮は安価であったが、現在ではスーツケースや革靴などの材料に使われるために価格が高騰しているという。北京近郊ではもはや入手は非常に難しいとのことである。なお、皮のなめし方については、《皮影》*9に詳述されている。
身子の造形的特色としては、後足が地面に水平でなく、多少つま先立ってデザインされることがある。歩いている感じを出すためであると言う。筆者が図版類によって調査した限りでは、この造形は陝西皮影戯・山西孝義紙影戯・湖北などと共通するが、四川は両足ともに斜めに、冀東皮影戯では両足とも水平にデザインされる。
靠の前に垂れる「魚大尾」が動くことも、西派皮影戯、特に乾隆年間以前の旧影人の特色である。管見の限りでは、河北省磁県・邯鄲県等の地域に流行する邯鄲皮影戯が同様の造形を持つ。あるいは、河北旧影戯の特色であったのかもしれない。
ちなみに、冀東皮影戯の身子の特色は、ぶら下げても両足が水平にそろうようにバランスをとって、腰・胴体の針眼を定めることにあるという。
騎乗した人物は、西派皮影戯では馬と身子が一体となった専用の影人を用い、陝西皮影戯などと共通するが、冀東皮影戯では馬の影人と身子とを重ねて投影する。
西派皮影戯の旧影人では、衣装の文様などの切り抜き方が「尖刀口」であるが、嘉慶年間以降、東派皮影戯の影響を受けて「斉刀口」に改められた。後者の方が、切り口が鮮明で、影幕に映した時の効果が強い。色は明末清初の影人では赤・黄・青・黒の四色しか用いられなかったが、後期年間以降、緑色が加わった。冀東皮影戯では、伝統的には赤・緑・黄・黒の四色だと言う。
2.影人~頭楂†
皮影戯の地域性が最も顕著にあらわれるのが頭楂の造形である。特に、生・旦の眼と眉の形からは、容易に各地の皮影戯の特色を見て取ることができる。
北京西派の特色は、「へ」の字型につり上がった眉にある。東派・冀東皮影戯では、眉毛がぐるりと目尻に繋がった造形が特色である。東北各地の皮影戯も似通ったデザインであるが、額から鼻にかけての線がより傾斜する。
一方、陝西皮影戯では、生は目と眉が平行にまっすぐ伸び髯に人毛を用いるが、旦は弧を描いて目尻と接する。目尻との接点が鋭角的であるところは、北京西派と似ている。四川皮影戯は陝西皮影戯と似ているが、額が丸く出っ張るのが特色である。
このほか、北京西派皮影戯では、生・旦の額からあごにかけての顔の輪郭に着色せず、半透明な皮の色を黄色く影幕に映し出す。陝西、甘粛、山西晋南、豫西、四川、湖北竹渓・遠安・仙桃などの皮影戯も、同様の特色を持つが、冀東皮影戯および東北皮影戯では、黒く着色する。
3.音楽的特色†
北京西派皮影戯の音楽については、翁偶虹《路家班與北京影戲》に詳しい。本研究で劉季霖へのインタビューの結果もほぼ一致するが、先行文献に言及されていない事項も含まれるので、以下、劉氏へのインタビューをもとに西派皮影戯の音楽についてまとめ、適宜先行文献により補足することとする。
北京西派の腔調は、蘭州皮影戯が北京への伝来の過程で、陝西の碗碗腔、河北の合合腔などを吸収したものとされる。劉季霖氏によれば、河北省保定の皮影戯の音楽が非常に似通っているとのことである。高腔はすなわち明代南戲声腔の一つ弋陽腔が変じたものであり、「南崑北弋東柳西梆」と呼ばれた清代前期の演劇状況を遺すとみてよかろう。しかし、東派=冀東皮影戯の特色である板式「三趕七」が西派皮影戯にも見えるから、冀東皮影戯の北京進出以降、その影響も多分に受けたようである。崑曲の曲牌が見え、また、光緒年間には、京劇の隆盛に影響されて、京劇の唱腔や鑼鼓が導入されたように、人戲の影響も多分に受けている。
*正音腔†
もっとも基本的な板式。四拍子で慢三眼・快三眼がある。斉言で、一句の字数により「七個字正音腔」「十個字正音腔」「十一個字正音腔」に分かれる。
*三趕七(三頂七)†
三三、四四、五五、六六、七七と、各句の字数が三字から七字に増加する句式。慢三眼・快三眼があるが、冀東皮影戯には慢板がない。また、二人が交互に唱う、頂口唱という唱法もある。あらゆる行当で用いられる。
《楽亭皮影戯音楽概説》*10《中国影戲》などでは、三趕七は冀東皮影戯特有のものであるとするので、おそらくは清代中期以降、東派皮影戯より吸収したものであろう。
*五字数(五字錦)†
五言斉言の句式。上句と下句を交互に唱うこともある。ユーモラスな板式であり、多く丑・彩婆子が用い、生・旦が唱うことはまれである。
*小東腔(小河南)†
*大金辺・小金辺†
老生・方巾丑専用の板式。
*大北調†
斉言句で、七字、および十字の二種類がある。翁偶虹は「大悲調」に作る。
*小北調†
翁偶虹は「小悲調」に作る。
*鴛鴦扣†
二人が交互に唱う。A:十・十 B:十・十 A:十・十AB:五・五・十五・十五 という句式。板は早いが、唱は比較的ゆったりとしており、行路の場面で用いられる。〈打十番〉の“慶元宵”に起源する小唱で、南方に起源する。
*還陽調†
気絶した人が目覚める時に用いられる。
*跑竹馬†
金銭蓮花落から移される。後は数板に変化する。あまり用いられない。
*芻髻腔†
河南から河北経由で西派皮影戯に入った小調の演目〈借芻髻〉で用いられる音楽。唯一、揚琴を伴奏に用いる。
このほか、北京小調に起源する、剪靛花・道情などがある。
*黄龍滾†
崑曲系の曲牌を用いるのは、西派皮影戯の特色で、東派皮影戯には見えない。黄龍滾は、武丑が唱う曲牌で、伴奏に海笛子が用いられる。光緒年間頃に加えられた。
*点絳唇・粉蝶児・撲灯蛾・山坡羊†
山坡羊は崑曲とは異なる「皮影山坡羊」である。
4.上演台本とレパートリー†
西派皮影戯は東派皮影戯の芸人から「流口影」と揶揄されたが、実際には京劇と同様に、師匠から弟子に口伝で台本が伝えられており、即興で演じていたわけではない。
西派皮影戯のレパートリーの中核を占めるのは、「京八本」と呼ばれる八種の演目である。それは、四種の歴史もの
《英列春秋》《背解紅羅》《四大名山》《香蓮帕》
および四種の神怪もの
《白蛇伝》《混元盒》《西遊記》《小開山》
で、いずれも連台戯である。このほかにも歴史もの・神怪ものから世話ものまで、多くの連台戯および折子戯があったとされ、翁偶虹は二十以上の劇目を列挙する。
現代に伝わる西派皮影戯の影巻として、劉季霖氏は車王府曲本と《燕影劇》*11を挙げる。車王府曲本には確かに《英列春秋》が収録されている。ただし、同時に収録されている影巻は必ずしも西派というわけではないようであり、車王府曲本所収影巻が東西いずれの流派に属するのかは検討の余地がある。
《燕影劇》は、山東兗州のドイツ人宣教師が編纂した北京皮影戯の影巻集である。国内では東洋文庫に所蔵される。収録影巻は以下のとおり。
白蛇傳 | 無底洞 | 混元盒 | 戲珠 | 百草山 | 麻姑跳神 |
天仙送子 | 百壽圖 | 賜福 | 走鼓氈錦 | 棋盤會 | 抛彩逐婿 |
報喜 | 雙鎖山 | 闖山 | 抱盔頭 | 七子八婿 | 太平橋 |
小罵城 | 大罵城 | 抱盒 | 狄青投親 | 胡廸謗閻 | 斬豆娥 |
倒庭門 | 打口袋 | 大灶 | 小姑賢 | 平安吉慶 | 坐樓 |
爭夫 | 打棗 | 花亭 | 借芻髻 | 掃雪 | 送米 |
探監 | 要嫁粧 | 雪梅教子 | 三娘教子 | 雙官誥 | 聽琴 |
逛燈 | 鬧洞房 | 當皮相 | 一疋布 | 打麵缸 | 偷蔓菁 |
偷蘿蔔 | 教書謀館 | 放腳 | 母女頂嘴 | 老媽開嗙 | 男開嗙 |
兩怕 | 三怕 | 小龍門 | 上粧臺 | 拿虼蚤 |
劉季霖氏は、〈白蛇傳〉〈混元盒〉などは京八本と重なり、〈混元盒〉〈借芻髻〉〈白蛇伝〉〈偷蔓菁〉などの北京西派の代表作を含むことから、北京西派の影巻であると断定している。ただし、西派皮影戯の影巻であるとしても、いかなる経緯で収集されたのかは不明であり、今後、冀東皮影戯影巻との詳細な比較検討が必要である。
また、早稲田大学演劇博物館所蔵の影巻が収録する折子戯は、多くが《燕影劇》と重なる。演博本は、演劇博物館が戦前に実施した現地調査において収集されたものであるが、詳しい入手の過程については記録が残っていない。しかし、同時期に流通していた影巻の大半が北京東派のものであること、また同時に収集された資料の中に隆福寺で旭某が制作・販売していたという紙の影人を含むことから*12、資料収集は東城を中心におこなわれており、東派の影巻であると考えてよかろう。東派皮影戯は台本を見ながら上演するので、《燕影劇》テキストをそのまま導入することは可能であったと思われる。
5.上演慣習など†
以下、劉季霖氏より聞き取った皮影戯に関する雑多な事項を書き留める。
皮影戯の祖師爺は、地域によって異なる。北京西派は観音菩薩である。ただ、観音が登場する劇中では「山人」と自称し、道士であるかのように扱われており、《封神演義》の影響を受けていると思われる。観音の影人の扱いは特別であり、布を三つに折って観世音の影人をつつみ、影人を収める戯箱の一番上に置く。これを「圧箱仏」と称する。上演前には登場場面の有無に関わらず、観音の影人を取り出して、影幕の裏に設けられる影人をかけるための紐に懸ける。観音の影人を取り扱うのは、班で最も徳が高く歳をとった人であり、一般に班主がつとめる。
一方、東派・冀東皮影戯では孔夫子を拝する。一節には、冀東皮影戯の創始者とされる黄素志が落第書生であったためであるという。山西や陝西では黄龍真人をあがめている。黄龍真人は《封神演義》に起源するので、この習俗の起源はさほど古くはない。
西派皮影戯には、「大師哥」と称される、異常に巨大な手と下あごを持った滑稽な影人がある。大師哥という呼称は、観音が中國に来た後はじめて収めた弟子であるとの伝説に由来し、冀東皮影戯では同じものを「大下巴」と称している。大師哥は生旦浄丑に関わらず、あらゆる行当の影人の替わりに使用することができるという、特殊な機能を持つ。例えば恋愛もののヒロインの変わりにこの人形を使い、物語と視覚効果のギャップで笑いを取ることができる。このため、観客を盛り上げるため、あるいは舞台裏にアクシデントが発生したときの時間稼ぎにも使える。
宗教的な文脈における上演も、旧時は多かった。皮影戯の場合は還願のための奉納上演はあったが、誓願の場合には使われない。冀東に今もこの風習が残るという。そのような上演では、屋敷の広間に影幕をしつらえ、観客が見ているか否かに関係なく、夜通しで皮影戯を上演する。旧時は、徳順班も演じたという。これに限らず、皮影戯は仏教との結びつきが深く、「梆子仏」「蒲團影」などと呼ばれ、仏教の説法会などで演じられていたという。
(三) 北京東派皮影戯†
北京西派皮影戯を論ずる都合上、以下、冀東皮影戯・北京東派皮影戯の形成について、ごく大まかに触れておく。
1.冀東皮影戯と北京東派皮影戯の成立†
北京東派皮影戯=冀東皮影戯の成立については、李脱塵の《灤州影戯小史》を受けた顧頡剛《灤州影戯》の説が定説となっている。伝説によれば、灤州皮影戯の創始者は、萬暦年間、灤州の生員の黄素志なる人物である。黄素志は科挙にたびたび落第して郷里に帰る面目を失い、関外瀋陽に遊学して当地の童に学問を教えて生計を立てたが、才能あふれる人物であり、皮影戯を創始するに至った。初めは紙を用いて影人を作っていたが、壊れやすいため、後に羊皮に改めた。音楽も、初めは木魚の伴奏だけの簡単なもので、宣巻と呼ばれていた。
黄素志については、史料には記録が見えず、実在は甚だ疑問である。更に、以上の皮影戯創始の記述には、以下に引く《夢梁録》の記事との間に、符合が見られる。
更有弄影戲者,元汴京初以素紙雕鏃,自後人巧工精,以羊皮雕形,用以綵色妝飾,不致損壞。
「黄素志」は「素紙」の音通であろう。また、紙から羊皮に改めたという材料の変化も、この記事を踏襲したと思われる。顧頡剛や江玉祥も認めているように、黄素志創始説が伝説であることは明らかである。
冀東皮影戯の影人の造形は、前にみたように、華北各地の皮影戯と独り異なっている点が多いので、全く別系統の皮影戯であるとみなされる。先行研究では、顧頡剛が明の永楽帝が江南の富戸を北京付近に移住させたことに起源を求めているが、しかし、後述するように北京西派系統の皮影戯の方がより古くから北京に存在したと思われるので、説得力に欠ける。あるいは、明末の東北皮影戯、もしくは山海関の軍隊との関連があるのかもしれないが、いずれにせよ現状では推測の域を出ない。
冀東皮影戯が隆盛に向かうのは、清代後期以降である。江玉祥によれば、清代の道光年間に楽亭の芸人・高述堯が従来の灤州皮影戯の唱腔を改革し、また上演レパートリーを増やして面目を一新させた。顧頡剛《灤州影戯》は、北京皮影戯が東西に分化したのは道光頃というが、それは改良された楽亭皮影戯が北京東城に進出した時期を指すのであろう。
2.冀東皮影戯の影巻をめぐって†
西派皮影戯に対する冀東皮影戯の特徴に、影巻を見ながら上演することがある。このことは、冀東皮影戯が盛行する上で重要な作用を果たしたと考えられる。口伝の場合、役者は台本を暗誦しなくてはならず、一定量のレパートリーを身につけるにはそれなりの訓練期間が必要となる。しかし、冀東皮影戯では台本を見ながら演唱するので、極めて短期間で役者を養成できる。現在、唐山市戯劇学院の皮影戯科における皮影戯役者の養成期間は、わずか三年間に過ぎないという。これは一面、プロとアマチュアの垣根が低いとも言え、唐山市では集落ごと、あるいは団地の楼ごとに一つの劇団があったというような、アマチュア劇団の隆盛と皮影戯受容の裾野の広がりをもたらしたと言えよう。
もっとも、影巻の流通には、秘密主義がつきまとったようである。影巻は所有者の財産であり、それを他の劇団や個人に貸し出すことはあり得なかった。このため、影巻の複製はは記憶を媒介としておこなわれた。例えば、皮影戯の上演を見て暗記したものを書き起こす、または、劇団に参加して影巻を記憶した役者が、その劇団の解散後、別の劇団に参加して記憶を頼りに書き起こす、あるいは、影巻所有者に影巻を閲覧させてもらってその場で暗記し、帰宅後抄写する、などの方法があったそうである。本研究を通じて収拾された影巻で、同じ物語でありながら歌詞や台詞に相当の出入りのあるものが多く見られるのは、このような事情に起因する。
なお、影巻は上演台本として利用される以外に、冀東地域では読み物としても受容されたそうである。劉季霖氏によれば、冀東のある老人に影巻の購入を申し込んだところ、大切な読み物だとして手放そうとしなかったことがあるとのことである。また、鼓詞や子弟書と同様に石印本も刊行されており、影巻には読み物としての機能もあったと考えられる。
(四) 北京西派皮影戯の形成と全盛期†
前にふれたように、北京西派の形成については、冀東皮影戯から分化したとの説、本来別系統であるとの説の二説がある。分化説の代表は顧頡剛《灤州影戯》で、明末に冀東で発生した灤州皮影戯が東北に進出し、清王朝とともに入関して北京に定着したのが、嘉慶ごろ分化したものであるとする。
別系統説は、斉如山《故都百戯》や、翁偶虹《路家班與北京影戲》、および劉季霖氏が受け継いだ西派皮影戯の伝承に見えるものである。《故都百戯》では、四川・河南に起源するとし、《路家班與北京影戲》では、蘭州から河南を経て昌平に伝わりそこから北京に入ったとする。劉季霖氏は自身の見聞から、まず蘭州から山西に伝わり、やがて保定を経て涿州そして北京へと伝わったと推定する。
前述のように、西派皮影戯と東派皮影戯との間には、特に影人の造形が大きく食い違い、西派皮影戯には陜西系皮影戯との共通点が多くみられる。これは、西派皮影戯と陜西系皮影戯が同根のものであることを物語る。また、劉季霖氏が収蔵していた明末・清初のものという影人には、劉氏が纒頭と総称する異民族をかたどった一群の頭楂を含むが(現在は早稲田大学図書館に収蔵される)、それらは清末民国時期の西派皮影戯には該当する演目が存在しなかったという。西派皮影戯の歴史の古さが窺い知れ、灤州皮影戯とは別系統であるという説が説得力を持つ。
江玉祥は、陝西皮影戯と西派皮影の間には、祖師爺が觀音菩薩であること、影巻を暗記して上演するスタイルなどの共通が見られることから、西派皮影戯を秦晋系皮影戯と認めている。また、唐山地区に1950年代まで伝承されていた福影と呼ばれる皮影戯も、同様の特徴を有しており、灤州皮影戯流行以前の秦晋系皮影戯であるとする*13。
そうであるならば、北京西派皮影戯の源流となる河北の秦晋系皮影戯は、冀東皮影戯よりもはるかに古くから存在しており、北京における西派と東派の関係は、唐山市における福影と灤州・楽亭皮影戯の関係と等しいことになる。顧頡剛が引く李脱塵《灤州影戯小史》では、北京西派と東派の区別は、乾隆・嘉慶のころにあらわれ同治以降に明確化したとするが、これはすなわち、冀東系皮影戯がその時期に北京に進出し基盤を築きあげたことを、灤州皮影戯芸人の立場から言い換えたものであると考えるのが妥当であろう。
ところで、顧頡剛が引く李脱塵《灤州皮影戯小史》では東北より北京に皮影戯を持ち込んだ礼親王府に影戯班があったことに言及する。一方、劉季霖氏は、ヌルハチの第二子である礼親王府の影戯班の遺物という西派皮影戯影人を所有していたが(現在は上海博物館に収蔵される)、その「精工紗彫」の極めて精巧な彫刻は、確かに一般の上演用のものとは異なっている。また、果親王府の遺物という頭楂も所有しており、《中国美術全集》に写真が掲載されている。
考えるに、北京の各王府の皮影戯も当初は西派皮影戯を用いていたのであろう。やがて、清代後期に冀東皮影戯が北京に流入・流行し東派皮影戯が成立し、西派を圧倒するにおよび、東派皮影戯は西派皮影戯の王府上演の過去を我がものにしたのであろう。斉如山《故都百戯》では、怡王・粛王・礼王・荘王・車王等の王府が影戯班を抱えており、粛王府の影戯箱が東派皮影戯の劇団に受け継がれていることに言及するが、清代後期には王府の影戯班に東派皮影戯が採用されていたと考えれば辻褄があう。粛王府は現在の北京飯店の長安街をはさんだ反対側、北京市政府がその場所であり、東城に位置している。一方、礼親王府は西四のクランクの東南、果親王府は現在の平安大道と趙登禹路との十字路の北西にあたり、いずれも西城に位置している。江玉祥は、東派は清代前期、王府内部でしか演じられなかったとするが、修正されるべきであろう。
劉季霖氏によれば、西派皮影戯の最盛期は乾隆年間であった。このころ各王府は西派の皮影班を召し抱えており、民間とあわせて約三十の班が存在した。そのうち有名なものに、初代礼親王代善の影戯班が解散した後に民間で組織され、影人の精巧なことで知られた絨線胡同口外頭(西単の南)の南永盛、および、方磚廠胡同口外頭(鼓楼の南)の北永盛があった。なお、北永盛の所在地は《故都百戯》に載せる東派皮影戯の徳勝班の所在地と同じ胡同である。鼓楼周辺は、故宮によって仕切られた北京の東西が交わるところであり、さまざまな芸能が集まる地でもあったので、北京における皮影戯の盛衰が如実にあらわれたものと解される。
(五) 徳順班の沿革と清代後期以降の西派皮影戯†
劉季霖氏が団長を務めた北京皮影劇団は、解放後北京に唯一残った皮影劇団である徳順班を母体とする。以下では、徳順班の成立から文革前までの歴史を、劉季霖氏へのインタビューに基づき、翁偶虹《路家班與北京影戲》等を参照し、北京西派皮影戯の全般的情況に言及しつつまとめる。
1.徳順班の前身†
徳順班は路家班と称され、路氏一族の家族劇団であるかのように理解されているが、それは事実と異なる。路氏は代々影戯班を組織し班主をつとめたが、世代ごとに影戯班を新たに組織しているし、班員の大半が家族で占められたのは、1930年代から中華人民共和国成立までの、皮影戯が最も零落した時期のみに過ぎない。
路氏の皮影劇団は、清代中期、咸豊年間前後に路徳成が組織した祥順班にさかのぼる。劇団の所在地は、西単の堂子胡同。翁偶虹によれば、路氏の原籍は東北で清朝ともに入関し、北京の北、昌平県沙河の路家荘に住み着いた。六代目の路広才は棄農して北京に皮影戯を学んだが、白蓮教の乱にともない皮影戯が弾圧されたため、山にこもって絶食して果てた。その子が徳成であるという。ただし、白蓮教が皮影戯を宣伝に用い「懸燈匪」として弾圧されたとの伝承については江玉祥が疑義を呈しており、路広才の経歴についても、誇張や錯誤を含む可能性は否定できない。路徳成の子は福元。西四の頒商胡同口外頭に福順班を組織した。翁偶虹は、家具製作業の傍ら皮影戯を上演する、兼業劇団であったとする。
この時期、南永盛・北永盛は既に解散していた。北京西派の劇団としては、西天合が存在した。大きな劇団で、影人のすばらしさで名を馳せ、皇宮で上演したこともあったという。
2.徳順班の成立と清末民国時期の西派皮影戯†
北京皮影劇団の全身である徳順班は、路福元の子、宗元、字耀峰が光緒二十三年(1897)に組織した。翁偶虹は、成立を光緒三十一年、耀峰を1883年9月6日生まれとする。所在地は平安里の毛家湾兒(現在の平安大道平安里交差点の南東)。劇団員としては、以下の三名が知られている。
- 瞎王:教養があり、台本の編集を担当した。あだ名の通り、盲人であったため、口述した。家が無く、路耀峰に寄宿していた。
- 李四:家が無かった。
- 彭文録:耀峰の師弟。徳勝門外黒寺に居を構える。
徳順班は、西派皮影戯の主要レパートリー“京八本”のうち、四種の神話戯《小開山》《西遊記》《白蛇伝》《混元盒》で名をなした。《英烈春秋》などの袍帯戯も演じたが、主要レパートリーはあくまでも神話劇にあった。連台戯の上演はほとんど無く、いずれも折子戯として上演された。徳順班は、影人の質は高くなく、しかも他の影戯班のものを購入して使っていた。しかし唱腔に優れ、路耀峰は民国期には“小梅蘭芳”と称された。
また、票友とも活発に交流し特に臥雲居士と親交があり、堂鼓を贈られている。一方、京劇の俳優が皮影戯の幕後に至って歌うことも多かった。これを“穿筒子”と称し、金少山から赫寿臣に至るまで、多くの京劇の俳優が出入りしたという。かくて、“影戯帯二簧”と呼ばれる情況が生まれ、やがて義和団事件の頃、徳順班はそれまでの高腔を京劇の唱腔に改めた。
この時期、西派の影戯班はまだ数班存在していた。
- 永慶班:班主孟雨天
- 天富班:所在地は達智橋口外頭。日中は木偶戯、夜間は皮影戯を演ずる、“木偶皮影両下鍋”の劇団であった。
- 西天和:所在地は缸瓦市(現光華理髪館の位置)。班主は甄永享(二爺)。兄弟の永遠・永利・永貞らがいた。三男の永利は画師であった。
- 永成班:魏殿臣
- 金鱗班:「白天演木偶、晩上演皮影」の「木偶皮影両下鍋」劇団。木偶戯は大台宮戯で、宮中でも上演されたもの。声腔がともに高腔であったため、両立が可能だった。
- 和成班:彭縁
- 祥慶班
このほか、搭班して皮影を歌う老生の霍二爺がいたという。
中華民国が成立後、西派の劇団はますます減少し、西天合と徳順班のみが存続していた。西派皮影戯は主に満州族の王侯貴族の堂会上演で経営を維持していたが、清王朝が倒れたことで、満州族貴族は没落へと向かい、堂会の需要が減少したのが主因であるようだ。また、顧頡剛が言うように、映画など新たなメディアの登場、さらには、北京から南京への遷都もそれに拍車を掛けたと思われる。
徳順班では、このころ瞎王・李四らが没し、それに代わって路耀峰の五人の子が劇団に加わった。その結果、劇団の陣容は以下のようになった。
路耀峰(?~1962) | 青衣 | 打単皮・太鼓 |
路景魁(奎) | 丑 | 三弦・瑣吶・小鑼 |
路景通 | 武生 | 耍人兒 |
路景達(?~1991.2) | 小生(文生) | 瑣吶・耍人兒・彫刻 |
路景平 | 架子花臉 | 四胡・堂鼓 |
路景安 | 小生・花臉・彩婆子 | 耍人兒・彫刻 |
没年については、劉季霖氏は、直接の師となる路景達を除いて、覚えていないとのことである。
劇団経営環境は更に悪化していたが、まだ劇団を維持し生活費をまかなうだけの収入はあったという。京劇俳優との交流も続いており、四大名旦の尚子雲・梅蘭芳・程硯秋の家で堂会を演じたこともあり、尚小雲の《混元盒》、程硯秋の《六月雪》はいずれも皮影戯から改変したものであるという。なお、程硯秋は早大演劇博物館に影人を贈っているが、それはおそらく徳順班のものであったと思われる。ただし、現物は未整理資料となっているようで、未発見である。また、路景達は影人の彫刻に優れ、美術的にも工夫を凝らし、京劇の臉譜を浄の造形に移入した。
3.1936~40年代†
1930年代後半になると、日本の中国侵略が次第に激しくなり、北京は日本占領時代を迎える。このため、皮影戯の上演環境は更に悪化した。西天和は七・七事変頃に劇団を解散し、世代交代して班主をつとめていた傅子雲は、徳順班に参加した。ただし、1935年に書かれた斉如山《故都百戯》では、西天和の班主を甄三としており、矛盾が見られる。同じ青衣であった傅子雲に後を譲る形で、路耀峰は現役を退いたという。また、1940年代はじめには、残る東派の劇団もあるいは解散し、あるいは冀東の故地に帰り、北京に残る皮影劇団は徳順班のみとなった。
1940年頃、徳順班は前門の西南、大柵欄の新新勧業場(現在の新新時装公司)の三階にあった劇場、新羅天で、定期的に皮影戯を上演するようになった。勧業場の経理課が皮影劇団を探しており、徳順班に白羽の矢が立ったのだという。これが、西派皮影戯にとって初めての劇場での定期上演となる。
劉季霖氏は、少年時代にこの新羅天での上演を見て皮影戯に魅せられたという、一方、澤田瑞穂も昭和16年に新羅天で西派皮影戯を見ている*14。澤田の記述によれば、新羅天は二階が部屋に分かれて、そこで各種芸能を上演していた。徳順班は若手を中心に十人余りの人数を抱えていたという。
ところで、澤田は新羅天の徳順班以外にも東派皮影戯の劇団を訪ね、足繁く通っている。その劇団は、「東四電車通りの路西、馬大人胡同の南にある狭い小路」の「「灤州皮影戯 勝友軒」という軒灯の掛かった小屋」で上演しており、座長格は「白玉璞という五十余歳の老人」であった。劉季霖氏へのインタビューで、民国時期、東派皮影戯最晩期の劇団として、白玉普(ママ)が班主をつとめる銭粮胡同の燕春台の名が挙がっていたが、銭粮胡同は隆福寺の裏手を東西に走る胡同で、馬家胡同の南の筋にあたり、まさしく澤田の記述と合致する。澤田は燕春台が北京を後にして冀東に帰る前、ほぼ最後の公演を見、北京東派皮影戯という劇種の消滅に立ち会ったのである。
さて、徳順班はこの時期、新羅天のほか、新街口西街の布店の二階で、店の宣伝・客寄せのための皮影戯上演を始めた。その情況については、楊樹屏〈三十年代北京商業大競争見聞〉*15に詳しい。それによると、その布店は祥順成といい、民国17・8年頃の夏、通り沿いのバルコニーに影幕を組み、毎晩《西遊記》《白蛇伝》などを毎日連台戯として上演し、店の前は黒山の人だかりで交通の妨げとなるほどであった。しかし、近所の布店三益和は、それに対抗して宣伝のための映画上演を開始し、祥順成の皮影戯を上回る人気を集めた。過剰な競争に同業の和気を損なうことを懸念した別の布店、および交通の妨げとなることを憂慮した警察が斡旋し、両店を和解させたという。
徳順班がこの時期に新羅店・祥順成という新たな固定上演場所を開拓せざるをえなかったのは、日中戦争時期の北京では堂会上演の需要がより一層減少し、経営困難に陥ったためである。それでも、劇団の維持は困難で、路耀峰は人力車夫をつとめ、また路景達は影人を販売用に彫刻して一家を養っていたが、それでも間に合わず後には三輪車夫をつとめた。この苦況にあって劇団が存続しえたのは、家族中心の劇団へと変化していたため、団員が離散することなく団結を保ち得たことが大きい。
また、同時期に徳順班はレコード録音をしたという。幸い、日本コロンビアが復刻した『中国伝統戯曲音楽集成』に、路宗友(耀峰)・路景奎の「双怕婆」、および傅子雲・路景奎「王小趕脚」が収録されており、解放前の徳順班皮影戯を聞くことができる。
4.徳順班から北京皮影劇団へ†
1949年の解放後も、堂会などの需要は回復せず、徳順班の経営は困難を極めた。そんな中で、路景達は劇団を維持するために、さまざまな働きかけをおこなった。まず、副業の縁を生かして、毛家湾東口にあった三輪車公会の宣伝に皮影戯を売り込み、街頭で愛国ものを中心に上演した。さらに、北京市文化局文芸処に出向いて発言し、美術家・戯劇家の審査を経て、皮影戯を民間芸術と認定させることに成功する。その結果、上演機会が増え、また路景達は美術院の民間美術家になる。
このころ、徳順班は徳順皮影戯社に名を改め、路景達が劇団長に就任した。なお、劇団長は1955・6年ころに、路景平に交代した。改組とともに、徳順皮影戯社は専業劇団化し、政府のお墨付きをえたことで収入の途も増え、劇団員に給与(45~60元)を支払いなお余りある情況となった。路耀峰も1958年まで給与をもらっていたという。ちなみに、劉季霖氏が劇団に参加したのは、1955年のことである。
上演場所もそれまでとは様変わりし、西単にあった曲芸庁、大柵欄の前門小劇場などで上演するようになった。また、1950年代から60年代にかけて数度の天津公演を行い、大成功を収める。さらに、朝鮮戦争に中国が参戦すると、徳順皮影戯社は第三批赴朝慰問団に参加し、各地で慰問公演した。帰京後、文芸講習班に参加している。
1956年、徳順皮影戯社は、大柵欄の南、陝西巷の、かつての李万春京劇団の本拠地に移転した。翌年には木偶戯の劇団と合流し、名称を北京宣武皮影木偶劇団に改めている。このころになると、多くの新編劇が創作・上演されるようになった。劉季霖氏も《三隣居》《偽装狐狸》《抜蘿蔔》《猪八戒背媳婦》などを製作した。1958~9年にかけては、北海公園の王佛閣で上演したが、短期間で終了した。
1960年に劇団の本拠地は、大柵欄から現在の遠東飯店前にかけて斜めに伸びる鉄樹斜街(李鉄拐胡同)に移った。この時期には、内城や前門での上演が減少し、そのため、団長の路景平は天橋での上演を企図した。天橋の持つ猥雑とした場末のイメージから、劇団員たちは反対したが、景平の説得により1964年には天橋電影院で上演するようになった。その後、同じく天橋の二友軒に移り、短期間であるが天楽戯院でも上演した。当時の上演時間は、午後1時から5時が一般的で、時には午前10時から昼食まで演ずることもあったが、夜の上演はなかった。この路景平の経営判断によって、劇団の経営環境は改善した。
文革を経て、1979年に劇団は改組して北京宣武皮影劇団となり、香爐宮に移った。さらに1984年には北京皮影劇団に改称、1995年に石頭胡同に移っている。
おわりに†
(一) 近代都市と皮影戯†
1.皮影戯のメディアとしての特色†
旧時都市には数多くの演劇・芸能があった。それらは、競争関係にありながらも、それぞれ異なった表現方法および社会的機能を備えており、相補的な共存関係にもあったと考えられる。以下では、皮影戯と京劇との比較を通じて、それぞれの通俗娯楽メディアとしての特色や機能を相対化するとともに、それらが近代においていかなる変容を遂げたのかを徳順班の歴史から析出することを試みる。
影人を操作しスクリーンに投影する皮影戯では、人戯では表現が難しい飛行や妖術などを、簡単に視覚的に表現することができる。西派皮影戯の「京八本」の半ばは神怪ものであるが、それは皮影戯の表現技法を最大限に生かせるからであろう。皮影戯は、物語の伝達機能という点にも特色がある。劉季霖氏によれば、旧時の富戸には、皮影戯劇団を招いて十日から数ヶ月にもわたって連台戯を演じさせることがあったという。傅耕野〈堂会戯〉*16によれば、王府での堂会では、数ヶ月連続で皮影戯の連台戯を上演することもあったという。一方、北京の京劇では連台戯はさほど多くなかった。通俗娯楽メディアとしての皮影戯は、視覚表現および物語の伝達に大きな特色があったと考えられる。
演劇上演のコストも、重要なファクターである。民国初年まで、皮影劇団の経営を支えてきたのは、誕生日・婚礼など慶事における堂会戯の需要であったが、清末から民国年間にかけての堂会については前掲〈堂会戯〉に詳しい。それによれば、屋敷内に戯台のある大邸宅を除けば、堂会を上演するにあたって、中庭に臨時の戯台を組み立てるか、中庭が充分広くない場合は戯台・飯荘・戯園などを借りる必要があった。京劇の場合、俳優への謝礼は一般の商業公演の倍であった。
皮影戯の場合は簡単な映幕を設置するだけでよく、一般の屋敷の広間で十分に上演できたので、上演場所のコストがかからない。また、京劇の場合、楽隊・俳優を会わせると、人数は十人を超えるのが普通であるが、皮影劇団の場合は、一人が楽隊・歌唱・耍人児の幾つかを兼ねるので人数は十人に満たず、当然コストは京劇よりも安価であった。
今回の調査では、具体的なコストを知るインフォーマントを発見できなかったが、斉如山《故都百戯》によれば、午後から夜半まで上演して、清末は紋銀五両、民国以降は約十元であったという。十元という価格は、アヒル一羽とフカヒレスープの宴席が一卓8~15元*17、北京・上海の三等客車が22元8角5分であることを考えれば、年に数えるほどしかない慶宴の座興としては、さして高額ではなかろう。皮影戯は人戯にない表現方法を備え、かつ低廉なメディアとして一定の需要を獲得したものと考えられよう。
2.民国期都市皮影戯衰退の要因†
表現や上演コストといった点で、皮影戯の京劇への優位性は民国時期に至っても大差なかったと考えられるが、それにも関わらず、1920~30年代に皮影戯は没落し、京劇は黄金時代を築きあげた。経済環境的には、清朝の滅亡にともなって旗人貴族層が没落し、かつ不安定な社会情勢によって堂会の需要そのものが減少したことが考えられるが、しかし民国期おける京劇と皮影戯とを対比した場合、社会・経済環境の変化が及ぼした影響も大きいと考えられる。
劉季霖氏によれば、皮影戯は、スクリーン越しに影人を投影するため、上演者と観客とが顔を合わせる必要がない。顔を合わせるのは、点戯(リクエスト)の際の戯目単のやりとりがせいぜいである。清代にあっては、儒教的な規範がともすれば過剰なほどに要求され、男女が席を同じくしないため、戯園への女性の出入りも禁止された。堂会で人戯を上演する場合は、見ず知らずの若い男と、世間を知らない娘とが顔を合わせる危険性があり、しかも娘が俳優に惚れてしまうような事態が発生することもあった。しかし、皮影戯のばあいはこのような危険性が無く、そのため年頃の娘のいる家でも安心して上演することができた。
つまり、旧時の堂会において皮影戯が選択されるにあたって、女性観客の存在が重要なファクターとなっていたのである。京劇や梆子戯などが生中心主義であるのに対して、西派皮影戯は旦角が劇団の中心となる体制であったが、それは、かかる上演環境にも適合していたからであろう。
中華民国が成立し五・四運動を経ると、中国の女性の地位向上がはかられるようになった。劇場は清代には男性のみしか入れなかったが、民国時期になると、まず劇場を半分に区切り男女が別々のエリアに座る男女分座制があらわれ、やがては男女が混じり合って座るのも許容されるようになった。1920~30年代の京劇では、梅蘭芳ら四大名旦が登場し、旦角戯の占める地位が飛躍的に高まったが、大量に出現した女性観客の嗜好にマッチしていたことが一因であるとされる*18。かかる社会変革、および京劇観劇体制の変化によって、相対的に皮影戯のメディアとしての特性は損なわれ、それが皮影戯の堂会需要の減少に結びついたのではなかろうか。
ところで、茶館が民国時期に衰退した理由は、低廉で洗練された新式のサービスを提供する勧業場・遊楽場などの大規模娯楽・商業施設に設置された茶社との競争に敗れたこと、また、資本規模が小さいため清代末期から南京遷都に至る社会環境の変化に対応しきれなかったことにあるとされる*19。皮影戯と京劇との場合にも同じことが言えよう。
京劇は、その出発点である四大徽班晋京のときから、新安商人の商業資本に支えられた大規模娯楽メディアであり、民国時期にあっても政治・社会の不安定をよそに、女性という新たな消費者を大量に獲得することで黄金時代を現出した。一方、皮影劇は商業資本の支えを持たない、十人余りの小規模劇団経営であり、民国時期に新たな需要層を開拓することもできなかった。徳順班は1930年代後半以降、新新勧業場の新羅天や布店の祥順成に上演の場を求めたが、それは、旧来の小規模地場資本と旗人の政治的地位に由来する経済力に支えられた北京の都市芸能が終焉し、商業資本に裏打ちされた近代都市的な上演文脈へと取り込まれたことを意味する。蛇足を加えれば、中華人民共和国のもと、徳順班は民間芸術との政治的認定を取り付け、また朝鮮戦争の慰問に赴くなど、商業資本から政治へと再度、存立の文脈を変化させ、それによって現代まで命脈を保った。
以上のように、徳順班の歴史からは、近代北京における都市・社会の変容と、伝統演劇・芸能との相関を読みとることができる。
(二) 今後の課題†
皮影戯は、北宋の筆記にあらわれてより一千年近くの歴史を有するが、これまでの人戯偏重の演劇史の中で、十分にその文化史的意義が検討されてきたとは言い難い。例えば《都城紀勝》には以下のように見える。
影戲,凡影戲乃京師人初以素紙雕鏃,後用彩色装皮為之,其話本與講史書者頗同,大抵真假相半,公忠者雕以正貌,姦邪者與之醜貌,蓋亦寓褒貶於市俗之眼戲也。
従来、話本小説の発生については、講談との関係からの言及が大半であったが、この記述から、宋代の皮影戯にも影巻が存在し、しかも話本と同様に流通していたことが推測される。また、美醜の区別で正義と悪とを表現することが特記されているが、これは現在の京劇など伝統劇の臉譜にも見られる表現方法である。それが特記されているということは、宋代においては一般的ではなかったということであり、臉譜という表現技法のある部分が皮影戯に起源する可能性を示すと考えられよう。
現在、我々は演劇といえば人戯を想起してしまうが、近世においては庶民層にはむしろ木偶戯や皮影戯の方が広く流行し受容されていた時期もあった。本稿では京劇と皮影戯との関係にしぼって、メディアとしての機能および社会的文脈をごく表面的に比較したが、今後は文字メディアも含めて、さまざまな通俗物語メディアが特定の社会環境のもと相互に影響をおよぼしながら共存・競争していた様態を精査し、通俗物語メディアの構造の変遷過程として演劇史・通俗文学史を再構築する作業が必要になろう。皮影戯研究は、その端緒を提供するものである。
また、本研究では北京西派皮影戯を取り上げ、近代都市における通時的な芸能の変容について考究したが、一方、北京東派の劇団は多くが冀東出身者によって経営されており、経営環境が悪化すると冀東の故地に帰っていったように、常に冀東地域との結びつきを保っていた。さらに、冀東皮影戯の劇団は、都市に限らず、農村や郷鎮でも農閑期を中心に長期間の連続公演などを行っており、現在でも唐山市皮影劇団は農村で公演をしている。つまり、東派=冀東皮影戯は、北京という大都市と唐山地域の地方都市、さらには冀東地域の農村とを直接に媒介する演劇メディアであった。また、本研究の過程を通じて数多くの影巻が収集されたが、それらの大半は冀東地域のものである。
冀東地域への現地調査を通じて、上演の実態と歴史とを明らかにし、また影巻について、京劇台本や鼓詞・子弟書などの北方地域に流通した通俗文学メディアとの比較を通じて、物語・言語などの特色を抽出することで、都市と農村との文化交流のモデルを抽出することも、今後の課題である。
筆者が劉季霖氏と偶然出会ったのは、1991年の春のことである。偶然立ち寄った長富宮のロビーで、皮影劇団が影人の実演販売をしていた。澤田瑞穂の本を通じて皮影戯の存在は知っていたので、勢い込んでどこで上演しているのかを訪ねたところ、その場を仕切っていた男性が、今は上演がないので話を聞きたければ明日家に来い、と応えてくれた。厚かましくも押し掛けた筆者に、影人や影巻を示しながら皮影戯のこと、芸能のこと、そして北京のことを熱く語ってくれたその男性こそが、劉季霖氏である。この偶然の出会いがなければ、本研究は立ち上がらなかったであろう。
その後、劉季霖氏は不幸にも脳内出血を患い、半身不随となってしまった。しかし、病身をおして、我々の見当はずれな問いに一々答えてくださり、その熱意はいささかも衰えることがなかった。末筆ではあるが、劉氏のご厚誼に衷心より感謝申し上げたい。
参考図版†
- 中国皮影戯(Chinese Shadow Puppet Plays) 劉季霖編著、朝華出版社1988
- 中国美術全集 工芸美術編12 人民美術出版社1988
- 陝西民間美術 戴剛毅・郭佑民編選、新民主出版社(香港)1998
- 郷土芸術 王宇文主編、河北美術出版社1990
- 青海皮影 青海省群衆芸術館編、青海人民出版社1990
- 山西民間芸術 李玉明主編、山西人民出版社1991
- 中国民間美術全集12 王朝聞総主編、山東教育出版社・山東友誼出版社1995
- 皮影 劉小娟・姚其巩編著、天津人民美術出版社1998
- 民間美術 湖北美術出版社1999
*1 四川人民出版社 1992。《中国影戯与民俗》(台湾 淑馨出版社 1999)も内容はほぼ同じ。
*2 《文學》第2 巻第6 期(1934.6)所収。
*3 《文史》第十九輯(1983.8)所収。
*4 岩波文庫 1987、平岡武夫訳。
*5 北京出版社1959。
*6 《文史資料選編》第二十三輯(北京出版社 1985)所収。
*7 台湾省立博物館 1991。
*8 《北京皮影戯》に掲載する影人はいずれも冀東皮影戯の風格のものである。
*9 劉小娟・姚其巩編著、天津人民美術出版社 1998
*10 劉栄徳・石玉琢編著、人民音楽出版社 1991。
*11 1915 刊。
*12 劉季霖氏の鑑定による。
*13 p.214 以下。福影については、内部発行の《唐山皮影史料》所収、王大勇《福影調査記》に基づいている。
*14 「灤州影戯の藝術」『中国の庶民文藝』(東方書店 1986)所収。
*15 《旧京人物与風情》(北京燕山出版社1996)所収。
*16 《京劇談往録続編》(北京出版社 1988)所収。
*17 鄧雲卿著、井口晃・杉本達夫訳『北京の風物』(東方書店 1986) p.134
*18 劉曾復氏、および李墨瓔氏のご教示による。
*19 前掲『北京の風物』p.114 以下、金燾純〈旧京茶館面面観〉(前掲《旧京人物与風情》所収)。