北京プロジェクトⅠ成果報告/中華戯曲専科学校とその時代

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中華戯曲専科学校とその時代~1930年代中国における伝統演劇認識と教育実践

平林宣和

一. はじめに

中華戯曲専科学校(以下中華戯校と略称)は、1930年9月からほぼ十年間にわたり、多くの優れた京劇俳優を養成した俳優養成機関である。清末以来中国では、時代の趨勢にともない、いくつかの近代的特質を備えた伝統演劇の俳優養成機関が開設されたが、なかでも中華戯校は比較的長期にわたって運営された、民国期の代表的演劇学校の一つとして知られている。十年の間に養成された学生は、徳、和、金、玉、永の全五科二百名に上り、元中国戯曲学院教授の王金璐氏など、卒業生の一部は俳優あるいは教員として、今もなお活躍を続けている。

学校という組織は、次世代を担う人材を育成する社会機構であるがゆえに、それを開設し実際に指導にあたる人々のコンセプトはもちろん、教授される内容に対する社会の側の価値観が、程度の差はあれその運営に反映されるものである。小論は、中華戯校の運営の実相を、当時の文化政策、学校首脳陣のコンセプト、およびその周辺に位置した人々の言動など、複数の側面から検証することを通じて、1930年代中国における、京劇を核とした伝統演劇に対する社会的位置づけの一端を明らかにすることを目的とする。資料としては、当時刊行された各種文字資料のほか、学校を卒業した俳優や当時その舞台に接した観客に対するインタビュー、および彼らが執筆した回顧録などを適宜参照している。

なお、文中では京劇のことを国劇、あるいは旧劇と複数の名称で呼んでいるが、それぞれ参照した資料の文脈に合わせて使用しており、あえて統一はしていない。

二. 清末以来の伝統演劇学校とそのコンセプト

従来の中国社会では、俳優の養成は科班、家伝、個人的な弟子入りといった種々の制度に支えられてきた。しかし清末以降、西洋の近代学校制度の漸進的浸透、および演劇界内部での伝統的な価値観の変動から、それまでの科班や徒弟制とは異なる、明らかに近代的な特質を持った俳優養成機関が各地に出現した。1930年代までに開設された主な学校としては、榛苓小学(1907?)、易俗伶学社(1912)、南通伶工学社(1919)、春航義務学校(1920?)、昆劇伝習所(1921)、広東戯劇研究所(1929)、山東戯劇学校(1934)、夏声戯劇学校(1938)、上海戯劇学校(1939)などが挙げられる。それぞれの学校が背景とした演劇に対する考え方は、時代や状況、指導者によって異なり、榛苓小学や春航義務学校のように梨園の子弟に対する普通教育を企図したものから、演劇改良による啓蒙活動を主眼とした易俗伶学社、伝統文化保存を主旨とする昆劇伝習所、近代的な俳優教育を目差した南通伶工学社や広東戯劇研究所など*1、そのスタンスはきわめて多様である。

それぞれの学校が理念として掲げていた演劇に対する発想は、清末から民国期前半にかけての中国伝統演劇近代化の過程に見られる、いくつかの価値観を代表している。伝統演劇を旧社会の遺物と見なし全否定する立場を除外して、それらを大まかに分類すると、およそ以下の四つになるだろう。1,演劇を社会改良のための大衆向けメディアとして重視する啓蒙主義的発想。2,西洋近代美学との対照の上で、中国演劇に独自の芸術的価値を付与し、その美学的な洗練を企図する純粋主義的立場。3,伝統演劇を中国文化の粋と見なして西洋とは異なる文化的独自性を強調、確固たる古典化を指向する本質主義的な態度。4,2と3の中間に位置し、西洋美学の特質を受け入れつつ伝統演劇の独自性も保持し、それを国民国家にふさわしいパブリックな芸術として位置づけていこうとする立場。

実際にはいくつかの価値観が組み合わされている場合が多いが、当該時期に現れた新たな演劇学校は、おおよそこれらの発想を参照枠として運営されていたといって良い。小論が対象とする中華戯校も、清末以降に出現した各種の演劇学校と、それらが主眼としたいくつかの価値観の延長線上に現れたものである。それでは中華戯校がその運営の骨子としていたのは演劇に対するどのようなスタンスだったのであろうか。まずは、国家による文化政策という大きな枠組みとの関連から検討していきたい。

三. 中華戯校と当時の文化政策

中華戯校が運営されていた1930年代は、日中戦争勃発にともなう激動の時代であるとともに、北伐完了後の南京中央政府による一応の全国統一によって、中華民国が国民国家としての輪郭を整え始めた直後の時期でもある。国民国家は一般に、国家の象徴的な基盤整備の一環として、それが保有する在来の文化の一部を、国民文化という枠組みの中に定位しなおす作業を行うものである。たとえば中国の伝統武術は、同時期「国術」として称揚され、1928年には武術専門の研究教育機関である中央国術館が、初めて国立の組織として南京に開設されている。中華戯校は、「中華戯曲」を教育内容とする「専科学校」という名称から、それまでの私営の科班とは対照的に、いかにも国家の文化政策を背景に開設された公立学校であるかのような印象を受けるが、実際そこには何らかの政策的バックグラウンドがあったのであろうか。

中華民国の国家レベルでの文化政策が一応の形を整える端緒となったのは、国民党第五次全国代表大会における中央文化事業計画委員会の設置(1935年)である。その後「文化事業計画綱要」に基づく民族的・復古的精神が強調された内容の「確定文化政策案」が国民党臨時全国代表大会で承認され(1938年3月31日)、これが当時の文化政策の基調となっている*2。また、この状況下での演劇に対する政策としては、中央文化事業計画委員会のもとに組織された演劇研究会の活動が挙げられるが、参加メンバーを見ると、伝統演劇関係者は必ずしも多くはなく、また企画そのものも日中戦争勃発の影響から、結局実現されることなく終わったようである((一戸務「支那の演劇」(『現代支那の文化と芸術』松山房、1939年11月、44-45pp.)に以下の記載がある。
昭和十一年の秋、南京で中央文化事業計画委員会の演劇研究会が主催となって、衆議が行われたことがある。特に全国にわたって劇関係者を一堂に招待して、戯曲研究の会議を開いた。熊仏西・余上沅・謝寿康・溥西園・王泊生など一流の演劇関係の学者文人の賛同で、改良意見が討論された。これは、支那の演劇運動が近年来愈々進歩発展してきたのに対して、支那の新劇旧劇に改革を齎そうとする企図であった。
例えば、戯劇事業委員会を作って各種演劇の発展を計り、または旧劇の整理の問題、演劇図書館、演劇陳列館の設立、脚本の審査、創作奨励等に当たるの件、また演劇制度を確立するの件、また経費額を定めて演劇研究機関を設け、各地にもこれを普遍することなど種々の論議が行われた。特に昨年の上半期を期して「戯劇節」と呼ぶ一種の支那演劇祭なるものを行って、全国の劇団を集め、これを南京の国立戯劇音楽研究院で上演する手筈であった。著々その準備に取りかかっていたらしい。こんなことで支那の演劇発展は益々促進され、熊仏西などの盛んに主張している演劇大衆化の希望が、かれこれ相俟って、新旧演劇に発展改良の風潮が、漸次に表面化するのではないか信じられていた矢先に、今時の事変が勃発した。支那の演劇界は再び幾年かの後退を余儀なくされている。))。

中華戯校の開校は1930年のことであり、中華民国の国家レベルでの文化政策のスタートが1935年以前に遡れないとすれば、もとより両者の間に直接の因果関係はない、ということになる。加えて国民党中枢、特に欧米留学経験者達は、そもそも伝統演劇を一種の旧弊と見なしており、全般的に良い印象を持っていなかったとの説もある*3。いずれにしても中華戯校の開設に対する国家レベルの文化政策の関与は、ひとまず無かったと見て良いだろう。

実際のところ、中華戯校はその開校から閉校に至るまでの十年間、一貫して私立学校として運営されており、北平市教育局の管理を受けながらも、基本的にはあくまで民営の組織であった。当時も公立学校と誤解されがちだったようだが、少なくとも経営レベルにおいては、従来の科班と大きな違いはなかったわけである。しかし一方で、開設と運営に携わった人々の人脈により、政財界や学術教育界との太いパイプが築かれていた痕跡も、少なからず見受けられる。そのあたりの消息を、運営の中心に位置した人物たちとともに若干検討しておこう。

中華戯校の創設に関わり、その後も長期的に運営に参与した者として、李石曾、金悔廬、程硯秋、焦菊隠の四人が挙げられる。程硯秋は周知のごとく梅蘭芳とともに四大名旦の一人として名を馳せた男旦俳優であり、また初代校長となった焦菊隠も、以後長く演劇活動に携わることになる芸術家として著名である。一方の李石曾、金悔廬の二人は本来政界の人間で、特に李石曾は国民党の元老派の一人として当時も旺盛な政治活動を行っており、また教育文化関係の事業を多く手がけたため、「文化膏薬」の異名をとっていた*4。このうち中華戯校の創設にとりわけ力があったのは、李石曾と焦菊隠の二人である。

中華戯校の初代校長を務めた焦菊隠が、1930年代後半のフランス留学時に提出した博士論文「今日的中国戯劇」*5の一節に、中華戯校の「創立者は李煜瀛(=李石曾)教授であり、彼は知識層、及び国際協力機関のリーダーである」との記述が見られる。一方、後に中華戯校の戯曲改良委員の一人となり、学生のために多くの劇本を書いた翁偶虹は、その回想録である『翁偶虹編劇生涯』*6のなかで、中華戯校は焦菊隠とその妻の林素珊によって作られたと述べている。さらに、後の1960年代、北京人民芸術劇院の演出家をつとめる焦菊隠に直接インタビューをした葛献挺氏によれば、中華戯校は焦菊隠の申し出により李石曾の資金援助を受けて開校したもの、と焦本人が語っていたという。開設に至るプロセスを記す具体的資料が無いため、二人のうちいずれを正式な創設者とするかは判断し難いが、おおよそコンセプトは焦菊隠、資金の工面は李石曾によるもの、と考えるのが妥当と思われる*7

さらに当時、李石曾周辺に集っていた人々の陣容をうかがわせる記述が、中華戯校の上部組織であった中華戯曲音楽院に関する資料の中に見られる。「中華戯曲音楽院之盛会」というタイトルで『劇学月刊』第1巻3期(1932年3月)に掲載された記事は、1931年7月1日に催された中華戯曲音楽院主催のパーティの様子を述べており、李石曾、焦菊隠、林素珊(中華戯校校務長を務めていた)等がホストをつとめ、蔡元培をはじめとする北平市の学術教育、政治各界の名士、また余叔岩、程硯秋等の俳優が招かれたとしている。またそのパーティの挨拶で李石曾は、「本院は北平の胡市長、周市長、南京の魏市長、上海の張市長など地方当局の提唱を経、さらに経済界、たとえば北平の周作民、岳乾斎、王紹賢の諸氏、上海の張公権、馮幼偉、雷建泉、胡孟加、銭新之、徐寄廎、呉震修諸氏の大きな助力を得た。このほか各界、各専門家からの援助は数え切れないほどである」と述べている。この挨拶文の内容から、詳細ははっきりしないながら、李石曾の周囲に集まり、中華戯校及びその周辺組織に対する政治的、経済的援助を行っていた人々の陣容がうかがわれる。このように中華戯校は、国家レベルでの文化政策の産物ではない一方、李石曾のような政治家が、個人的な人脈を活用して政財及び教育学術各界の援助を得、実質ローカルな事業でありつつも一種公的な面目を保って立ち上げた組織である、といってよいだろう。

四. 中華戯校の周辺組織

中華戯校運営の中核にいた先述の四人は、同時にいくつかの演劇関係の組織に関与していた。それらの組織とは、中華戯曲音楽院、南京戯曲音楽院北平分院、および雑誌『劇学月刊』編集部の三つであり、各々が中華戯校に対して一定の影響力を持っていた。たとえば中華戯校校長の焦菊隠は、同時に中華戯曲音楽院主任秘書であり、かつ南京戯曲音楽院北平分院研究所研究員もつとめている。これらの組織はいずれも主として李石曾を中心に創設されたものだが、前節で触れたように、おそらくは彼が集めた資金により作られた民間団体であったと考えられる。

中華戯曲音楽院は中華戯校の上部組織であり、先に挙げた「中華戯曲音楽院之盛会」の記述によると、清末に李石曾が呉稚暉、張静江等と組織した世界社における芸術研究構想がその発端となっている。発起は1926年、三年後の1929年に成立し、当初は中華戯曲学院という名称で、崇文門外木廠胡同に北京事務所を開設した。1930年秋に付設の戯曲専科学校を開学*8、1932年の南京事務所開設に際し、教育部の規定により中華戯曲音楽院(後さらに中国戯曲音楽院と改称されたようだが、時期理由ともに不明)と改称している。

この中華戯曲音楽院に続いて創設されたのが、北平南京両戯曲音楽院である。北平戯曲音楽院は梅蘭芳の訪米公演をきっかけに設立され、院長を梅蘭芳、副院長を斉如山がつとめた。一方の南京戯曲音楽院は、1930年、蒋介石主催の第一次歌舞昇平の宴に際して、有志が金悔廬・程硯秋の二人に設立を委託したことを発端としている。その後李石曾、張公権の催促により、1931年夏に北京にて合議の結果、南京本院と各所分院を設立、院長を李石曾、副院長を金悔廬と程硯秋の二人がつとめることになった*9

張伯駒の回想によると(前掲「北平国劇学会成立之縁起」)、戯曲音楽院関係者に有力なパトロンが多かったためか当時は程硯秋の進境が著しく、本来師匠筋にあたる梅蘭芳の面目が立たないため、斉如山等が別に国劇学会を設立してしまい、北平戯曲音楽院は実質的にほとんど機能しなかったようである。また、南京戯曲音楽院も、南京本院を南京新街口、上海分院を福開森路、北平分院を木廠胡同に開設とあるものの(前掲「南京戯曲音楽院成立之経過」)、実際にどのような活動をしていたか、確認できる資料はほとんど見られない。この点は中華戯曲音楽院も同様であり、さらに中華戯曲音楽院と北平南京両戯曲音楽院との関係がどのようなものであったかも、今ひとつはっきりしていない。中華戯曲音楽院、南京戯曲音楽院北平分院、および中華戯校の住所が全て同じ木廠胡同であることからも、実体としては一つしかなかったのではないかとも考えられる。

唯一、南京戯曲音楽院の活動の痕跡として今日はっきりと確認できるのは、南京戯曲音楽院北平分院研究所が発行していた雑誌『劇学月刊』である。南京戯曲音楽院北平分院研究所は、中海福禄居世界学院内に事務所を置き、1932年1月に『劇学月刊』を創刊、以後5巻8期まで刊行している。創刊号の奥付によれば、発行所が南京戯曲音楽院北平分院研究所、主任は金悔廬、副主任は程硯秋、また主編が徐凌霄、編輯兼発行者が張敬明となっている。創刊号には李石曾、金悔廬、程硯秋がそれぞれ文章を寄稿し、焦菊隠もたびたび文章を投稿していた。全般に学術的色彩の濃い記事が多く、中国国内における演劇関係の調査報告や、欧米の演劇状況の紹介など、当時としてはかなりレベルの高い演劇雑誌であったと考えられる。また、中華戯校についての文章も時折掲載され、運営メンバーが重複しているため当然といえば当然だが、両者のつながりが大変密接であったことも容易に確認できる。

この雑誌には、李石曾、金悔廬、程硯秋等、中華戯校首脳陣の伝統演劇に対する態度をうかがわせる文章が一定量掲載されている。以下各々の文章を簡単に検証し、当時の彼らの価値観を検討してみたい。

五. 中華戯校運営陣とそれぞれの伝統演劇観

中華戯校設立に関わり、その後も学校運営に一定の影響力があったのは、先述のように李石曾、金悔廬(後期校長)、程硯秋、焦菊隠(前期校長)の四人である。先述のようにこのうち前三者が、『劇学月刊』創刊号に「戯曲之我観」、「戯劇月刊発刊詞」、「我之戯劇観」という文章を寄せ、それぞれの演劇観を披瀝している。

まず、李石曾は「戯曲之我観」の中で、以下のように述べている。

我が国の過去の一般的通念では、演劇とは至極単純なもので、一種の娯楽と見なされていた。実のところ、演劇とはそれほど単純なものではなく、また単に娯楽にとどまるものでもない。というのも、教育が達成できないところは、多く小説や演劇によってこれを補えるからである。演劇がかくも重要なものであるにもかかわらず、社会がこれを軽視するのは、演劇が人生あるいは学術など様々な側面で備えている尊重すべき地位や価値といったものを、一般的通念が認識していないからである。

これに続いて李石曾は、演劇が人間の心理に与える影響は、映画や学校教育を凌駕するものであると主張している。

また、金悔廬は「戯劇月刊発刊詞」の中で、

(演劇の)効用は教育に十倍、百倍するものであり、戯曲文学は民間に広く普及している。その潜在的な力はまた、社会を左右することも可能なのである。演劇は「小道」と呼ばれるが、我々はその言い方に与することはできない。戯曲音楽院研究所を作った所以はここにあるのである。

と述べている。発刊詞という性格上、簡便な記述となっているが、金悔廬の基本的な認識は、李石曾と同様にやはり演劇の教育効果の重視という点にある。

以上の二者の演劇に対する価値観は、伝統的な「高台教化」という発想に、清末の戯曲改良運動期以降頻繁に見られる演劇=教育機関説、およびそれを根拠とする演劇の社会的価値の見直しという言説を加味したもので、当時としては必ずしも新味のあるものとは言えないだろう。それでは、政界出身の二人に対し、俳優である程硯秋はどのような考えを持っていたのだろうか。「我之戯劇観」は、1931年2月25日に中華戯校で行われた程硯秋の講演をそのまま口述筆記したものだが、その中で彼は目の前の学生に対し、以下のように述べている。

我々が労働者や農民と同様に、この職業で衣食を得ているということを否定はしない。しかし、我々が社会に対して負っている責任も忘れてはいけない。労働者や農民は、労働によって生活に必要なお金を得ているだけではなく、社会に対して物資を生産するという責任を負っている。そして我々は、芝居を演じて生活費を得るだけではなく、社会に対して勧善懲悪を行うという責任を負っているのだ。それゆえ、我々が一つの芝居を演じるとき、その芝居にはその芝居固有の意義がなければならない。要するに、全ての芝居には、人類の生活目標の向上を求める意義がなくてはならないのだ。

ここで述べられている、演劇によって勧善懲悪を行うという発想は、基本的には前二者の考えと大きな違いはないと言っていいだろう。しかし、自身徒弟制の下で苦しい修業時代を送った程硯秋は、講演の冒頭で以下のようなことばも述べている。

私の知識は限られている。というのも職業上の制約から、勉強する機会があまりにも少なかったからだ。皆さんは私に比べて非常に幸運である。演劇の勉強をしながら、多くの普通教育を受けられるというのは、かつての役者達が得られなった幸運である。もし私が小さい頃にこのような学校を卒業していたら、私の演劇に対する貢献も多少は大きくなっていただろう。というのも演劇は実人生を基礎としており、人生の常識は普通教育の中から得られるものだからだ。

ここでは、演劇の社会的な効能ではなく、俳優自身の基礎的な素養の問題が述べられている。この点は、李石曾と金悔廬の演劇に対する価値観の中には含まれていなかったものであり、また次に述べる焦菊隠の発想に通じるものでもある。それでは、残る焦菊隠が考えていたコンセプトとはいかなるものだったのか。

六. 前期校長焦菊隠の運営コンセプト

中華戯校の開校から五年間校長を務めた焦菊隠は、家庭の貧困故に苦学しながらも、最終的には燕京大学を卒業した、当時の知識青年であった。開学当初の彼の所感を伺い知ることのできる短い文章が、『北洋画報』(1930年12月27日)に掲載されている。「創辦北平戯曲専科学校之意義」と題したその資料には、以下のような記述がある。

北平戯曲専科学校は中華戯曲学院の一部分であり、一つの演劇教育機関である。(中略)本校創設の意義は五つある。一つは、芸術の発展、二つ目は社会教育、三つ目は国劇の国際的地位の向上、四つ目は俳優の社会的地位の向上、そして最も重要なのは、我が国の演劇教育の先駆となることである。

開学からほぼ四ヶ月後に公にされた文章であるが、要約すると、社会教育の機能を持つ演劇の担い手である俳優の社会的地位を向上させ、その基礎の上に中国演劇の発展を促し、かつその国際的地位を高めることが、これからの演劇教育機関の真の役割である、ということになろう。先に見た三者の発想はおおよそすでに織り込んであり、より包括的な内容となっているといえるが、一方で短文故のおおざっぱな印象も免れない。焦菊隠の演劇教育に対する思惑をより明確に知りうる資料として、この文章の発表から十年後、フランス留学から帰ったのちに執筆された演劇学校論がいくつかある。開学から十年のタイムラグがあるが、およそ1930年代の焦菊隠の発想を代表するものと考えていいだろう。1940年9月に書かれた「旧時的科班」*10と題された文章には、以下のような記述が見られる。

過去の旧劇俳優の中にも、演劇改良にあこがれる人々はいた。しかし、大胆に言わせてもらえば、旧劇の俳優の大多数は演劇に対し十分な理解を持っておらず、いかに彼らの個人的な芸術上の成就が崇高で、舞台での演技が素晴らしく、また多くの経験を積んでいるといっても、演劇理論というものに対しては、結局のところ素人なのである。これまで梅蘭芳や程硯秋の演じてきた改良劇を見れば、彼らが旧劇の構造や特質をきちんと理解していないことが見て取れる。また同時に多くの俳優が生半可に演劇は「高台教化」であるとか、「教育の武器」であるなどと語っているが、真に教育のために努力し、宣伝のために劇を演じている人々は結局少数中の少数である。

我々がもし旧劇の学校を計画するとすれば、従来の科班の実状に対し、教育的、科学的な原理に依拠してその長所を取り短所を除かなければならない。また、実地の経験に基づいて新たな経験と訓練方法を創造しつつ、同時に以下の三点に留意すべきである。
一つには、全く知識を持たない学童を、常識を備えた公民となるよう教育すること、二つにはこうした公民としての水準を満たす俳優によって、自発的に演劇を改良させ、演劇の持つ教育上の責任を理解させること。さらに、伝統的な旧劇に随時改修を加え、教育者や芸術家が彼らのかわりに改良するのを待たずにすむようにすること、三つ目は、これら常識を備え、かつ演劇改良の行える俳優たちを、如何にして優れた俳優に仕立て上げていくか、である。

焦菊隠は「旧時的科班」の続編として書かれた「桂劇演員之幼年教育」*11においても、ほぼ同様の主張をより詳細に繰り返している。引用文からもわかるように、焦菊隠は当時の俳優の教育レベルについて、かなり悲観的な見方をしており、京劇界の最高峰に位置した梅蘭芳や、同僚であった程硯秋に対してすら、相当辛辣な意見を吐いている。ここでの焦菊隠の主張を要約すると、演劇の改良は、一定の知識水準を持った「公民」としての俳優達によって担われるべきだ、したがって、演劇学校は技術の伝授だけではなく、俳優の卵達に普通教育を施さなければならない、ということになる。旧劇を美学的に洗練させる、あるいは演劇の持つ教育機能を十全に発揮させるためには、まずその担い手たる俳優たちをまともな公民とすべく、彼らに適正な普通教育を施さなければならない、という認識が、1930年代の焦菊隠によって強く自覚されていたわけである。

演劇を教育宣伝の手段として利用しようとする発想は、先述のように清末の戯曲改良運動の時期から繰り返し主張されてきた。それはヨーロッパ近代の演劇論の影響を受けつつ、一方でまた中国社会が従来から保持してきた演劇に対する価値観を部分的に引き継ぐものである。しかし戯曲改良運動期には、俳優の社会的地位および知識水準の向上という、それまでの中国には存在しなかった主張も同時に生まれている。以降、榛苓小学と春航義務学校では梨園の子弟たちへの普通教育が、また欧陽予倩が主催した南通伶工学社と広東戯劇研究所では、俳優の技術訓練と並行した普通教育が実践に移されたが、いずれも長期にわたって十分な成果を上げたとはいえないようである。ようやく1930年代の中華戯校開学の段階にいたって、伝統演劇の俳優に対する普通教育の実施という近代的理念が、長期的実践の場を得ることができた、ということができるであろう。

閉校二年前の1938年4月に出版された中国高級戯曲職業学校編『北京市私立中国高級戯曲職業学校章則彙覧』(中国高級戯曲職業学校は中華戯校の改称後の名称、以下『学校章則彙覧』と呼ぶ)には、戯校の主旨を「時代に適合した演劇関係の人材を育成し、改良された創造的な演劇芸術を実施することを旨とする」(章則第一章第二条)としている。では、時代に適合した俳優達を育成するために組まれた、中華戯校の具体的カリキュラムとはいかなるものだったのか。中華戯校が運営されていた1930年代の資料がいくつか残されているので、それらを以下に検討してみよう。

七. 中華戯校の体制とカリキュラム

中華戯校は、「双層領導(二重の指導)」という体制の元で運営されていた*12。「双層」の一つは北平市教育局で、市の規定に基づき六年間の就学の後に卒業証書を授与、という体制が義務づけられている。一方、従来の科班の伝統に基づいて、中華戯校独自の七~八年間という就学年限も同時に履行されていた。つまり、学生達はまず六年間中華戯校で学ぶことにより教育局の管轄下で発行される卒業証書を手にし、その後さらに若干年俳優修行を積んで、あらためて学校を卒業するという形式になっていたわけである。そのカリキュラムについては、当時の資料が複数残されているが、初期の体制をうかがわせるものとして、1932年時点での歌劇系戯曲組(実質は京劇俳優養成コース)のカリキュラムが、『劇学月刊』1巻10期(1932年10月)に発表されている。

第1年から第4年:昆曲、皮黄、武功、国文、英文、法文、公民、演劇実習

第5年から第7年(括弧内の数字は学年を表す)
三年間必修:党義(三民主義)、国文、英文、法文
(外国語は会話と外国名作劇重視)
詩(5)、詞曲(6・7)、中国戯曲史(6)、芸術概論(7)、西洋戯劇史(7)、西洋名劇選(7)演劇実習(5~7)、教学実習(5~7)

また、1938年時点での俳優養成カリキュラムとして、前掲『学校章則彙覧』(86-88pp.)に以下の記載がある。

楽劇科職業学科:戯劇基礎技術、戯劇

普通学科(必修科目):修身、衛生、体育、国文、算学、外国語、歴史、地理、音韻学、劇本選読、作劇法、戯劇常識、中国戯曲史、音楽常識

実習:演劇実習(楽劇科)

さらに翌1939年の情報として、粋維「参観中国戯曲学校詳記(上)」(『半月戯劇』2巻5期、1939年5月28日)には、次のように記されている。

普通学科:修身、国文、日語、数学、歴史、地理、音韻学、劇本選読、作劇法、 戯劇常識、中国戯劇史、音楽常識

『学校章則彙覧』(89p)によれば、一週間の授業時間は48時間で、第一学年は職業学科(演劇の実技教育)に36時間、普通学科(普通教育)に12時間をかけ、以後第二学年からは職業学科18時間、普通学科12時間、実習(舞台公演)18時間という構成になっている。一週間のうち普通学科に当てられる時間数は全体の四分の一で、資料により名称や構成が若干異なるが、国語、算数、外国語、地理歴史などの普通教育と、演劇史や劇作法など専門知識の教育が行われている。また、王金璐氏によれば、毎週土曜日には話劇実習という形の課外活動なども実施されていたようである。「学校章則」は市教育局の職業学校規定に基づいて作成された拘束力のあるものであり、また卒業生達の回想録などからも、上記のカリキュラムが計画通り実践されていたことはほぼ間違いないようである。それでは、実際にこの学校に学び、卒業をしていった学生達は、焦菊隠が望んだように近代的な教養を身につけ、またかつてのように下九流と蔑まれずに社会に迎えられたのであろうか。

八. 養成された俳優と社会の側からの対応

中華戯校を卒業した俳優達が、同世代の科班出身の俳優に比べ芸術的に遜色のない実力を得ていたことは、すでにほぼ評価が定まっているため、ここでは特に触れないでおく。一方、俳優としての水準とは異なるレベルで、一般社会の側はどのような態度で彼らに接していたのか、関係者の回想を主な材料として検討してみたい。

最も身近に接する機会のある観客達との関係については、彼らが従来の科班ではなく、正規の学校の学生であることから、特に一般の学生達や教育関係者との間に、従来にない親密な関係が築かれたようである。当時女学生であった李墨瓔氏の回想によれば、中華戯校の公演を見に来る観客には学生が多く、演劇が必ずしも現代のように芸術とは見なされていなかった時代にあって、中華戯校の舞台に足を運ぶことは、その他の戯班や科班の公演に赴くより抵抗が少なかったということである。また、中華戯校には華粋深、呉暁鈴など当時の知識人達が複数講義に訪れており、同時に地方の教育機関への出張公演なども行われていた。さらに、清潔な寄宿舎や食堂を備えた中華戯校の校舎には、その運営方法に学ぼうと開学当時から見学者が多く訪れていたという。俳優と観客との舞台外での直接の接触は、学校側によって厳しく制限されていたが、観客の側、特に学生や教育関係者達の彼らに対する視線は、おおむね好意的なものだといってよいだろう。

そうした関係を最も象徴的に表しているのが、王金璐氏と李墨瓔氏との婚姻である。王氏は調理人の家に生まれ、家庭の貧困を主な理由として中華戯校に入学しており、むしろ従来の科班に身を投じた子供と同じような境遇にあった。一方の李氏は、黄埔軍校を卒業した軍人を父に持ち、貝満女学に通学していた上流階級の子女である。李墨瓔氏はこの婚姻によって父親に勘当されてしまうが、梨園の外の人間、特に上流階級の人間と俳優との結婚は、当時としては画期的なことであり、『立言画報』のような大衆雑誌でたびたび取り上げられている。

彼らが中華戯校において教育を受けていたことは、このように一般社会の俳優に対する視線に一定の変容をもたらし、焦菊隠が企図していたように、俳優達の社会的地位の向上に効果を上げたようである。しかし、全てが彼らの意図したように順調に変化していったわけではない。王金璐氏と李墨瓔氏のような俳優と梨園外部の人間との結婚は、当時としてはまだまだ例外的な事例であったし*13、俳優たちの教育レベルも焦菊隠が期待したほどに改善されていないところがあった。たとえば、中華戯校は従来梨園が行業神として信仰していた祖師爺を信じることを禁じたが*14、学校の講師陣として招かれた俳優は祖師爺に対する信仰心を持っているものが大多数であり、彼らの影響を受けた学生達がこっそりとこれを信ずる、といった事情もあったようである*15。また、当時の人々の伝統演劇に対する態度を端的に示すものとして、焦菊隠の中華戯校校長辞任にまつわる以下のようなエピソードがある*16

戯校の改革はたびたび困難にさらされていた。李石曾は戯校をある政治派閥のプライベートな劇団(原文では班底)にしようと考えたが、焦菊隠はこの考えに同意しなかった。彼は、戯校は演劇界の全面的な支持を受け、各派の長所を吸収しつつ、真の演劇教育機関となるべきだと考えていたが、彼のこの考えは全く実現するすべがなかった。金融界の政客達は真の芸術を理解しようとせず、焦菊隠の抱負や理想にはなおさら理解を示さなかったのである。古い習慣を保持した人々は、戯校の教学方法を非難し、行政機関と結託して学校に様々な圧力を加えた。理事会もこれに乗じて妨害を行い、学校の経理に大きな困難をもたらしたのである。最後に焦菊隠は辞職を迫られ、1935年に戯校を離れることになった。李石曾は焦菊隠を慰めるために、戯校の理事会から銀行経由で焦菊隠夫妻に一定額の費用を送り、彼らをフランスに留学させたのであった。

この文章は1985年に大陸で書かれたものだが、その後台湾に移った李石曾や、当時の資本家に対する視線のバイアスを差し引いても、焦菊隠のコンセプトに理解を示さない保守的環境が存在していたことは確かであろう*17。特に彼自身、先に引用した「今日的中国戯劇」の一節において、自分の戯校に対する指導は1933年までとしており、中華戯曲音楽院の直接の傘下に入ってから辞職までの二年間を自身の指導期間にカウントしていない。ほかならぬ戯校立ち上げを積極的に支援した人々の中にも、焦菊隠の発想とは相容れない旧来の価値観が、依然として強固に残っていたのである。

最後にもう一つだけ、伝統的価値観の残存の例を挙げておこう。『学校章則彙覧』(140p.)に織り込まれた、中華戯校入学時に提出される学生の親族の誓約書には、「天災病症、各由天命」という文言がある。かつての科班では、この文言はおおよそ「疾病残廃、生死存亡、各憑天命」と表現されていた(焦菊隠「旧時的科班」、31p.)。学生の生死に組織として責任は負わない、という文言は削られているものの、その大意はほとんど変わっていない。ここにも、中華戯校の過渡期的性格を見て取ることができるであろう。

九. むすび

以上、中華戯校をめぐる文化政策にはじまり、運営陣のコンセプトとそれを反映したカリキュラム、および俳優と一般社会との関係の変容まで、冒頭で提示したいくつかの問題を一通り検討してきた。文化政策に関しては、中華戯校の開学に、国家レベルの文化政策の影響はほとんど見られず、むしろつながりの深い政治家や財界の人間による、半ば個人的な援助を基盤にスタートしたことが明らかになった。また学校運営のコンセプトについては、運営に当たった首脳陣の啓蒙主義的な価値観の影響が色濃い一方で、前期校長をつとめた焦菊隠による、演劇の改良のためには俳優を「公民」にしなければならず、常識を備えた俳優によってこそ演劇は芸術的にも社会的にもより高いレベルに達するのだ、という主張も強く反映されていることが確認された。

そして実際に中華戯校で養成された俳優たちは、従来の科班で教育を受けた俳優とは異なる形で一般社会との関係を築き上げており、焦菊隠の所期の構想が一定のレベルで実現されていたことが見て取れる。しかし、演劇をめぐる伝統的価値観が依然として根強く存在したことも確認され、清末に始まる伝統演劇近代化の発端から、中華人民共和国建国後の総国有化までの流れの中での、中華戯校の過渡期的な性格が明らかになった。小論が当初設定した、1930年代中国における伝統演劇の社会的位置づけの一端を明らかにするという目論見は、不十分ながらも一通り達成されたといえるだろう。

なお、今回小論では、中華戯校のコンセプトのうち、特に芸術的側面に関する個別の方針はほとんど論究の対象として扱っていない。中華戯校の学生達とほぼ同世代の劉曽復氏によると、中華戯校は開学当初、伝統演目の古典化を一つの作業課題として設定していたという。また、後に中華戯校の経営状態が悪化した際、商業主義的な新作演目も一定量上演されていた、という翁偶虹の回想もある。さらに中華人民共和国建国後になされた演出上の改変のうちいくつかは、この時代の中華戯校の試みに端を発するものと考えられる。以後はこうした芸術的な側面に関してもある程度の検討を加えていく必要があるだろう。

小論の執筆に際しては、王金璐・李墨瓔御夫妻、李金鴻氏、劉曽復氏、朱家溍氏等1930年代の中華戯校の状況を知るインフォーマントの方々、および民国期の京劇史に詳しい元北京市芸術研究所研究員の葛献挺氏に、実に多くの情報をご提供いただいた。お話しいただいたことのごく一部しか小論には反映されていないが、それらの貴重な情報は将来あらためて活用させていただきたいと考えている。また、インフォーマントの取材に際しては、石宏図氏、靳飛氏のご協力を、文字資料の収集に関しては、特に北京市芸術研究所のご協力をいただいた。さらに、個々のお名前は挙げきれないが、国内の研究者の方々からも数多くの助言を得ている。ここに深く御礼を申し上げる。なお、言うまでもないことであるが、小論の記述、内容に関する責任はひとえに筆者自身にある。

中華戯校関連の主要参考文献:

  • 北京人民芸術劇院 杜澄夫・蒋瑞・張帆『焦菊隠戯劇散論』中国戯劇出版社、1985年
  • 程硯秋『程硯秋赴欧考察戯曲音楽報告書』世界編訳館北平分館、1933年
  • 焦菊隠文集編輯委員会『焦菊隠文集一~六巻』文化芸術出版社、1988年
  • 劉曽復『京劇新序』北京燕山出版社、1999年
  • 蘇民・左莱・杜澄夫・蒋瑞・楊竹青『論焦菊隠導演学派』文化芸術出版社、1985年
  • 翁偶虹『翁偶虹編劇生涯』中国戯劇出版社、1986年
  • 翁偶虹『翁偶虹劇作選』中国戯劇出版社、1994年
  • 呉小如『呉小如戯曲文録』北京大学出版社、1995年
  • 謝武甲『賀龍與程硯秋』華文出版社、1999年
  • 徐慕雲『中国戯劇史』世界書局、1977年(1938年初版)
  • 于是之他『論北京人芸演劇学派』北京出版社、1995年
  • 中国高級戯曲職業学校編『北京市私立中国高級戯曲職業学校章則彙覧』中国高級戯曲職業学校、1938年
  • 中国人民政治協商会議北京市委員会文史資料研究委員会編『京劇談往録』北京出版社、1985年
  • 中国人民政治協商会議北京市委員会文史資料研究委員会編『京劇談往録続編』北京出版社、1988年
  • 中国人民政治協商会議北京市委員会文史資料研究委員会編『京劇談往録三編』北京出版社、1990年
  • 中国人民政治協商会議北京市委員会文史資料研究委員会編『京劇談往録四編』北京出版社、1997年
  • 朱継彭『武生泰斗王金璐伝』中国戯劇出版社、1999年
  • 鄒紅『焦菊隠戯劇理論研究』北京師範大学出版社、1999年

*1 南通伶工学社と広東戯劇研究所については、松浦恆雄「欧陽予倩と伝統劇の改革―五四から南通伶工学社まで」(『人文研究』、第40巻、1988年)、および松浦恆雄「欧陽予倩と広東戯劇研究所(上・下)」(『人文研究』、第45・48巻、1993・1996年)に詳しい。
*2 阪口直樹『十五年戦争期の中国文学』研文出版、1996年、249-250pp.
*3 元北京芸術研究所研究員葛献挺氏のご教示による。彼らは特に堂会における伝統演劇の上演を過去のいかがわしい習慣と考え、その存在を軽視していたという。
*4 張伯駒「北平国劇学会成立之縁起」、中国人民政治協商会議北京市委員会文史資料研究委員会編『京劇談往録』北京出版社、1985年、129p.
*5 1938年にパリ大学に提出された。焦菊隠文集編輯委員会『焦菊隠文集第一巻』文化芸術出版社、1988年所収。該当個所は214p.
*6 中国戯劇出版社、1986年、17p.
*7 開設資金については庚子賠款を用いたとする説と、上海の金融界からの援助を得たという二つの説がある。インフォーマントの李墨瓔氏が金悔廬の子孫に聞いたところでは、後者の説が正しいということだが、詳細は確認できていない。
*8 焦菊隠の記述によれば、「この学校(中華戯校)は1930年から1933年までの間は独立した学校であり、経費についてのみ中国戯曲音楽院と協力関係にあった。1933年以降、ようやく該院の付属学校となったのである。1930年から1933年までは、焦承志(=菊隠)がこの学校の指導にあたった」(「今日的中国戯劇」214p.)とあり、開校当初は完全な付属学校ではなかったことがうかがわれる。
*9 金悔廬「南京戯曲音楽院成立之経過」、『劇学月刊』創刊号所収。
*10 『焦菊隠文集二巻』所収、24p.、22p.
*11 『焦菊隠文集二巻』所収。
*12 「双層領導」ということばも含め、李墨瓔氏の御教示による。
*13 中華戯校の卒業生である李金鴻氏の御教示によれば、こうした事例は他に一つしかなかったという。氏自身も李万春の家系に属する女性と結婚している。
*14 王金璐「回憶中華戯曲学校」、前掲『京劇談往録』所収、74p.
*15 王金璐氏のご教示による。当時一般の劇場の舞台裏には祖師爺が祀られていたが、戯校の学生は劇場入りする際それに一礼するという梨園のしきたりを禁じられていた。しかし王氏はお辞儀こそしなかったものの、心の中では常に一礼をしていたという。
*16 蒋瑞「焦菊隠的芸術道路」、『焦菊隠戯劇散論』中国戯劇出版社、1985年、447p.
*17 李墨瓔氏の回想によれば、中華戯校の開設には一定の投機的意味合いがあったらしい。つまり、従来の科班と同様俳優の卵に投資をして、将来の利益に結びつけようという出資者達の思惑が、一定のレベルで働いていたようである。