『都市芸研』第十輯/「麒派」と民国期上海演劇文化

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「麒派」と民国期上海演劇文化

藤野 真子

はじめに

上海の伝統演劇界において、老生で麒派の創始者である周信芳(麒麟童、1895~1975)は、いまだに特別な存在であり続けており、地元の京劇院には必ず麒派老生がいなければならないとされる。そして、周信芳の本拠地上海で「麒派」の看板を背負うことになった老生俳優たちは、常に周囲の期待と圧力を受ける羽目になる。例えば、1994年末から始まった梅蘭芳・周信芳生誕百周年記念公演に際して、上海京劇院による連台本戯『狸猫換太子』のリメイク上演が行われた。主役の陳琳を演じた麒派老生の陳少雲(1948~)は、当初湖南省京劇団からの客演だったが、演技を高く評価され、後日、正式に上海へ移籍する。麒派伝承者の一人で周信芳の子息である周少麟(1934~2007)が、文化大革命終結後ほどなくして海外移住してしまっていたこともあり、待望の本格的な麒派俳優が上海へやって来たとして、陳少雲の舞台は戯迷たちの注目を集め、新聞や雑誌にもさまざまな批評文が書かれることになった。

上海ではまた、この陳少雲を中心に、麒派演目の上演大会が時折行われる。他の流派でも同様のことは当然行われているが、伝承者の少ない麒派については、こと「流派の伝承」を確認しようとする意識が強いように思われる。伝承という観点からさらに付け加えると、戯曲学校の学生公演を観る限り、数は多くないものの、やはり意識的に麒派の後継者養成が行われている。

現在、建国後のさまざまな舞台改革を経て、中国の京劇界は旧来のあり方――一世を風靡した先達の演技を尊重し、その伝承を一つの課題とする――に回帰しているように見受けられる。これらの現象は、「今後新しい流派は発生しうるか」(例えば、梅派から出た張君秋の演技を、独立した「張派」と見なすか否かなど)といった議論とともに、伝統演劇のあり方を問う際のテーゼとして、しばらく注目され続けることであろう。この傾向は伝統的に北方でより強いように思われるが、上述の上海における麒派伝承への強い執着も、同じくその流れの一環と捉えることができよう。

さて、周信芳その人に対する、「公的」な評価については、建国後の党の文芸政策に対する貢献ぶりが加味されていることを幾分差し引いて見なければならない。しかし、それは決して周信芳の舞台芸術における成就を損なうものではなく、民国期から文化大革命前夜に至るまで、彼の芝居が多くの観客に歓迎され、演劇界で圧倒的な影響力を持ったことは揺るぎない事実である。その演技の特色に関してはすでに多くの場所で語られており、筆者自身も何度か言及している*1

ここであらためて、今回言及対象とする他の俳優との比較のため、『申報』に掲載された民国期の評価の中で、最も早く、且つ海派への偏見の少ないニュートラルな立場でその演技を具体的に評した文章を挙げておく。

……麒麟童の『打厳嵩』は、表情が生き生きとして、一語一語の舌鋒は鋭く非常に気概がある。特に素晴らしいのは、才気ある鄒応龍が、一種の巧みな偽装で臨機応変に体面を造りだし、厳嵩を殴る際は義憤の気概がことばに溢れ、徹底的に痛打し罵倒するところで、客席はみな快哉を叫び、拍手が雷鳴のごとく鳴り響く。忠臣も奸臣も滅びることはないが、芝居が人を感動させることかくのごとしと言えよう。上殿の時の「忽聴万歳伝応龍」から「白玉階前臣見君」までの唱は、一句一句枯れて力強く、(曲の)区切りや抑えも自由自在で、得難いものである。(後略)(健児「『収関勝』、『悪虎村』、『打厳嵩』」1912年9月6日)

評者「健児」はこの時期の『申報』紙上で非常に多くの記事を書いた劇評家で、これ以外にも「科白も手さばきも隅々まで神経が行き届いている」*2等々、周信芳の科白や仕草を評価する劇評を幾つか残している。

実はこうした評価の中身については、民国期を通じて大きく変わることはなかった。付け加えるならば、周信芳の舞台が批判を受ける際は、「正統」ではない海派の俳優であるという前提のもと、その声が嗄れていること、仕草や表情が不自然なほど過剰であることをあげつらうことが多い。しかし、演技に対する毀誉褒貶いずれの評価においても共通するのは、上記劇評にあるような唱、科白、仕草、表情の全てにおける「明確な表現」と、客席への「感染力」である。どちらも、幅広い層の観客に支持されることを第一に考えた場合、欠くべからざる要素であると言えよう。

以上、民国期の周信芳が観客に受け入れられ、高い評価を確立したことを前提に、小論では周信芳が「周辺」に及ぼした影響を、本人自身に関するものではなく、同時代の他の俳優に関する文献を中心に据えて読み取っていく。その際、基本的に本職の俳優に言及した言説のみを対象とするが、そこにおいては直接演技上の手ほどきを受けた者、麒派の演技を断片的に受容した者、単に影響を受けただけの者、さらには麒派人気に便乗したと思しき者も同列に論じることとする。

麒派人気にあやかり、演技上の特徴をそっくりコピーし、それを看板にしていた俳優がいたとしても、エピゴーネンはあくまでエピゴーネンでしかない。他方、たとえ正式な伝承者たる弟子であっても、常に肯定的な評価を受けていたわけではない。しかし、そんな彼ら・彼女らを論じる言説の中には、周信芳が何故あれほどまでに受容されたかを証明する言辞が見受けられる。さらに、それは京劇のみならず地方劇――特に1930年代に大変な勢いで勢力を伸ばした越劇、および滬劇に関する発言にも見出される。当時、上海を中心とする江南地区全般に「麒麟童」の影響が波及し、「麒麟童」自身の存在が、海派の演劇文化を象徴するある種のアイコンと化していたことが、これら地方劇への言及からも明確になると考えられる。

なお、言うまでもないが、こうした文化的アイコン化現象は他の俳優にも大なり小なりおこったことであり、特に同時代の京劇俳優としては梅蘭芳をまず念頭に置かねばなるまい。梅蘭芳の場合、ブレインたちの助言を受けながら美感に満ちた独自のスタイルを確立する一方で、その存在は直接の弟子のみならず多くの追随者を生み出し、影響は地方劇や説唱芸能まで全国に及んだ。特に、旦を専門とした俳優で、劇種や地名を被せて「××劇梅蘭芳」と称された俳優が多数出現している。

それに比べると、麒派の流行は上海および江南地区を中心とするローカルな現象であり、特に民国期に限った場合、梅蘭芳との影響力の差は歴然としている。しかし、影響力が特定地域に限定されたがゆえに、却って当該文化圏全般に麒派が深く根付くことに繋がったという見方もできよう。加えて、その定着ぶりが深く濃厚であったゆえに、周信芳本人が死去し、直接の後継者が十分に育たずとも、その影響力が長い時を経て現在にまで生き続けているとも言える。

以下、麒派の影響が周囲に波及していく過程を追っていくこととする。

1.「麒麟童」の京劇界における認知

「七齢童」が誤って広告に掲載されたことから「麒麟童」という芸名を用いるようになったとされる*3周信芳は、幼少時の変声前こそ「譚鑫培の衣鉢を継ぐ者」と期待されることがあった*4ものの、経験を積んでいく段階にあった1910年代~1920年代前半においては、技芸が熟練の域に達していなかったことに加え、南下する北方の俳優たちに対する崇拝にも似た視線、および上海京劇に対する低い評価と相俟って、いわゆる劇評家たちに「一流」として認知されることはなかった。もっとも、改革志向で新奇な演出を好む上海においては、海派京劇が正統か、俳優が一流かなどということに頓着する観衆は、実際のところ少なかったと思われる。俳優個人の演技の完成度が最重要項目とされなかった髦児戯(女性のみの芝居)や連台本戯の集客ぶりを見ても、それは明らかである。

他方、当時の京劇で最も重視された老生という役柄のみに注目した場合、上海で何度か長期公演を行った「伶界大王」譚鑫培が1917年に死去したのち、それに取って代わるほどの知名度と影響力を持った北方の老生は、余叔岩など若干名に限られていた。また、上海土着の京劇俳優の中で、観衆や劇評家に絶対的な支持を得ている老生は少なく、まだ年齢も若く、さまざまなスタイルの上演に意欲的な周信芳が頭角を現す余地は大いにあった。

「麒派」自体の確立と名称の認知は1920年代末~1930年代初めであると考えられるが、上海ではすでにある程度の人気と評価を獲得していたと考えられる現象を以下に挙げることとする。

(1)「坤伶」麒麟童

一人の俳優がある地域で一定の人気を博した場合、その名称にあやかろうとすることが度々生じる。二十世紀の上海に限定しても、早期上海京劇の名旦馮子和(旭、号は春航、1888~1942)の芸名は、先達の常子和にあやかったものであり*5、周信芳と同時期に活躍し、俳優としてのキャリア開始時には老生として舞台に立っていた海派武生の蓋叫天(1888~1971)の芸名は、言うまでもなく「叫天」と称された譚鑫培を意識したものである*6。周信芳も認知度が高まるにつれ京劇の老生はもちろん、後述するように同一地区で上演されていた地方劇においても、その名にあやかろうとする俳優が登場する。中には、「麒麟童」「周信芳」から1、2文字(「麒」と「麟」が多い)採った芸名を付ける者もおり、本家に対する強い意識をうかがうことができる。

そうした中で、最も早く明確に麒麟童を意識したと思われる例として、「坤伶」(女優)の「麒麟童」の存在を挙げることができる。1923~1925年頃の『申報』に掲載されていた、先施楽園などの中規模劇場の広告にその名が見えるが、当然ながら当時北方で長期公演を行っていた周信芳その人ではない。実は、この時期に上海の舞台に立っていた「麒麟童」については、幸いにして次のような記事が『申報』に掲載されており、その素性の一端をうかがい知ることができる。

 坤伶の麒麟童、年はおよそ16歳ばかり、才能も容色も大変すばらしい。鬚生を学び、譚(鑫培)の趣を得て、かつては天韻楼で主演を担っていたが、去年に先施楽園の優美班に所属を移した。一昨日の晩、『武家坡』を演じたが、登場時の「倒板」の「一馬離了西涼界」は大変声が澄んでいてのびやかであった。「不由我、一陣陣」の一段は調子がはずれるといった欠点が少しもなかった。彼女が演じることのできる芝居は数十本を下らず、『馬前溌水』、『汾河湾』、『慶頂珠』、『罵曹』、『打棍出箱』など、どの演目でも、常に規則が守られている。(兆慶「坤伶麒麟童之『武家坡』」『申報』1924年4月23日)

当時はすでに清末からの髦児戯隆盛を受け、女性老生*7の認知度も比較的高かったとはいえ、先施楽園のような上海でも最高級とは言い難い場所を本拠地とする俳優が、『申報』のような大新聞の劇評で取り上げられる例はそう多くない。まずは、「麒麟童」という芸名を用いて活動していた点が注目されたと考えるべきであろう。その背景には、当然のことながら、女優自身やその周辺による本家「麒麟童」の上海における活躍ぶりに対する強い意識があったと思われる。なお、この短い劇評の中には、『武家坡』、『馬前溌水』、『汾河湾』、『慶頂珠(打漁殺家)』、『(徐母)罵曹』、『打棍出箱』と六つの演目が挙げられている。一般的に上演演目の固定は、演技上の特質とともに「流派」を規定するにあたり外せない要素であり、特定の流派の伝承者、あるいはそれに私淑する者は、流派の「祖」が十八番とした演目を習得することからその流派へのアプローチを開始することが多い。この坤伶麒麟童の得意演目の中には、『打棍出箱』など本家の麒麟童が演じたものも含まれるが、どちらかというと、譚派などの歌唱重視の老生が上演することの多い演目が中心となっている。

また、この女優については、劇評の最後で「常に規範を守る」と述べられている。やや意地の悪い見方をすれば、この劇評は、正統的な発声や演技術を遵守せず、「規格外の老生」と見なされつつあった本家とは異なるという点を意識し、書かれているようにさえ思える。

なお、上海における「麒麟童」という芸名については、亢聞「周信芳演劇史料的幾点辯析」*8において、「三人の麒麟童」の存在が紹介されている。この研究ノートの筆者は、1913年から1915年にかけて小規模な劇場で上演活動を行っていた同名の女性老生を紹介しており、この人物と上記記事の麒麟童を同一人物と見なしているが、実際には年齢的にも別人であると考えられる。

後世、どちらかというと武骨で力強いイメージを帯びて語られる麒麟童の名が、この時期に女優の芸名として用いられたという事実自体は興味深い。後述するように、女子越劇においても麒派の影響を受けた老生が登場するなど、むしろその演技上の特徴や風格が「男性的」なものの象徴として意図的に用いられた可能性も考えられる。

(2)麒麟童の「弟子」たち

1920年代中盤に長い北方公演から上海へ戻って以降、当時絶大な人気を誇っていた連台本戯の制作上演に本格的に取り組んだ周信芳は、1928年初演の『封神榜』にて絶対的な評価を得る。他方、いわゆる麒派の代表演目として知られる『投軍別窰』、『徐策跑城』、『打厳嵩』といった伝統劇についても、平行して洗練の度合いを増していった。

さて、一人の俳優の演技を模倣し伝承していくことを考えた際、最も容易に思いつくのは、師弟関係を結び、直接指導を受けることであろう。周信芳の弟子として名前が知られている俳優として、周自身が若い時期に弟子となった高百歳*9(1902~1969)、さらには全盛期に弟子となった陳鶴峰*10(1904~1981)ら数名の名前を挙げることができる。新聞や雑誌に登場する彼らへの批評は、多くの場合師匠の周信芳と比較がなされて(もしくはどのあたりが「麒麟童的」かに言及されて)おり、ここからも麒派の演技がどのように認知されていたかを知ることができる。

高百歳
陳鶴峰

以下、すでに麒派に対する認識と評価が確立している1939年、同時期に集中して『申報』に掲載された「麒派評」三篇を挙げる。

①高百歳は字を伯綏といい、旧都(北京)の人である。著名な女性老生の恩暁峰の婿であり、恩維銘の夫である。幼い頃に富連成科で学び、頭角を顕した。民国9年(1920年)に南下して天蟾舞台に参加したが、密かに周信芳の仕草表情に心惹かれ、京派と麒派の長所を融合させ、その技芸は大いに進歩した。麒派唯一の入室の弟子であるが、靠把にも長じており、立ち回りは非常に激しく、南方の観客に大変歓迎されている。 (王虹霓「高百歳」2月8日)

②……麒社長(注:周信芳のこと)の唱、白、做で精妙ならぬ所はない。特に、科白、しぐさが最も優れている。(中略)その科白は明晰無比で、一字一字に力がある。表情は劇中の人物をよく描き出しており、(その人物に)似ていないものはなく、特に薛礼(『鳳凰山』)、崇禎帝(『明末遺恨』)が素晴らしい。(中略)高百歳は麒派伝承者の中で最も成功した人物で、声が高く響き、体つきも立派な点は、高の長所である。科白はいささか既製の様式から脱しており、歌唱はわずかに耳障りである。(中略)陳鶴峰の芸の進歩は大変早い。三年前に『追韓信』を聴いた時は、一つも取るべき所がなかった。しかし、昨春、大舞台で演じた『鴻門宴』、『斬経堂』には、大変な進歩が見られた。(後略) (思「麒派」2月14日)

③……(王)椿柏は麒派を学ぶことに心血を注いでおり、唱、做はみなちょうどよい水準まで達したが、特に武工については相当の基礎があるため、この点は百歳、鶴峰なども及ばない。信芳は若いころ武生を演じており、彼の演じる劇は、間接的に言えば、武工の相当な基礎がなければ良い成果を得られないものである。故に、信芳はかつてはっきりと、王椿柏こそが麒派を学んで成就する人物になるだろうと断言している。

 (高)百歳に至っては、その芸は椿柏をはるかに凌駕しているが、麒派を学ぶことでは椿柏の相手にはならない。百歳は元々劉鴻声を師としており、修行半ばで周信芳に弟子入りしたのである。実際、百歳はあれほど素晴らしい喉を持っていたのに、麒派を学んだことで台無しにしてしまった。百歳も武工の基礎があるが、姿は決して美しいものではない。特に台歩がいつも傾いていて、非常に見苦しい。歌唱と科白については麒派中最も優れた一人であるが、しぐさはぱっとせず、陳鶴峰の敏捷さには及ばない。陳鶴峰は若い頃、敏捷すぎて、ほとんどずる賢いといえるほどであった。最近の鶴峰は滓を除いて粋を残すことが大変上手くなり、以前のずる賢さには及ばないものの、むしろ取るべき所が多くなった。特に、その姿は美しく、水袖、跳袍の技術については、極めて粋に、美しく行うことができるようになり、その芸は確かに大変進歩している。(後略)

 (王唯我「我談麒派」2月22日)

麒派においては、いわゆる唱、念、做いずれにも強い個性があるとされるが、肯定的に評価される場合、外見、つまりしぐさや表情、あるいは全身のこなしに関するものが中心となろう。上記の文章は、いずれも伝統劇に相応の知見を持つ人物の手になるものと思われるが、麒派の伝承者と目される各俳優への評価には、それぞれ相違点がある。例えば、高百歳は②と③で歌唱に若干問題があると述べられ、①と③では立ち回りに相反する評価が与えられているものの、総じて高水準の伝承者であるとされている。他方、北方で修行を積み、生来すぐれた喉を持っていた点を踏まえて、麒派の単なるコピーではないとも評されている。陳鶴峰については今回の史料では具体的な描写が乏しいが、②、③より模倣を得意とする器用な側面が伺える。王椿柏は高、陳両名より知名度は落ちるが、③では麒派の基礎を形作ったとされる「武工」の確実さが、「師匠のお墨付き」を伴い積極的に評価されている。

さらに、幾つか麒派に関する評価として特徴的な点を個別に見ていくと、①の「激しさ」について言及している部分は、周信芳本人の演技に対する批評と共通性がある。類似の評語として、②の「力強さ」も挙げられるだろう。②ではまた科白の明晰さ、人物描写のリアルさが挙げられているが、現在に至るまでこれも麒派の特徴として認識されている部分である。③では陳鶴峰の「水袖」、「跳袍」が端正である様が述べられるが、いずれも衣装の一部を使い感情の起伏を表現する技術であり、特に『徐策跑城』で用いられることがよく知られている。また③では、高百歳が周信芳の嗄れた声を真似たことで、②に記される本来の明朗な声が損なわれたと述べられているが、およそ老生としては例外的な声もまた、第三者には、麒派最大の特徴と目されていた。

以上、弟子たちへの批評を見る限り、麒派を論じる際の常套句ばかりが並んでいるように見えるが、視点を変えると、これにより麒派の根幹となる部分が確認できる。

坤伶麒麟童の場合とは異なり、彼らの場合、弟子として師匠の芸を伝承しているという意味で、周囲から厳密な模倣が期待される部分があったことは想像に難くない。しかし実際のところ、表層的なコピーで終わってしまっては、一人の演技者としてそれ以上発展することは不可能となる。そういった点を考慮しつつ弟子たちへの評語を見直してみると、単なる模倣に終始していないという点で、高百歳に高い評価が与えられているのは当然であろう。また、③のように、器用だとされた陳鶴峰よりも、まだ発展の余地がありそうな王椿柏に好意的な評価が与えられている点も興味深い。いずれにせよ、この時点で成熟の域に達していた麒派が、直伝の弟子という狭い枠組みの中においても、すでに多様性をはらみつつあったことは確実だと言える。

2. 地方劇における麒派の影響

周信芳と時代を共にした俳優の中で、その影響を口にする者は多い。京劇界においては花臉の袁世海(1916~2002)が周信芳に傾倒していたことが知られているように*11、老生以外の行当にも、麒派の要素を自身の演技に取り入れたという発言が散見される。また、その影響は京劇のみならず、越劇、滬劇といった地方劇まで及んでいるのは先述のとおりである。

上海は浙江・江蘇を中心とする地方劇の集散地であり、加えて地方劇の発展、および交流活動が最も盛んだったのが民国期から人民共和国建国前夜にかけてのことであった。各劇種の具体的な様相を簡潔に述べると、崑曲を除いた最古参の劇種としての京劇は、上海で行われた改革や上演内容の変質に対する毀誉褒貶こそあったものの、民国期を通じて大きく凋落することもなく、一定の地位を保ち続けた。

このため、後発劇種の多くは、舞台におけるあらゆる側面において成熟した先行者たる京劇の要素を取り入れることになり、特に演目や演技面においてその痕跡を容易に見いだすことができる。

麒派についても、流派確立後、その強烈な個性により格好の模倣対象となったと考えられる。以下、主要な劇種を中心に、麒派の影響を見出していくことにする。

(1)越劇

民国期を通じて最も著しく成長し、現在も盛んに演じられている劇種の一つとして、越劇を挙げることに異論はないだろう。現在の越劇は女優のみの劇団がほとんどであり、劇中の主役的立場の男性も多くは小生が扮するものである。1942年ごろから魯迅の小説を舞台化するなどして「新越劇」を提唱し、越劇の演目や歌唱技術、演出、さらには諸制度の改革を志し、人民共和国建国前夜に名を馳せた袁雪芬をはじめとする、いわゆる「越劇十姉妹」の中に、我々は三名もの老生の名(張桂鳳、徐天紅、呉小楼)を見出しうる。しかし、越劇界全体への影響力を鑑みるに、やはり主演を張ることの多い花旦や小生には及ばない*12

とはいえ、越劇における老生の役割は決して小さくはない。むしろ、『紅楼夢』の賈政や『梁山伯と祝英台』の祝公遠など、中心人物たる才子佳人の前途に立ちはだかる威圧的な障害物として、時には度量の広い庇護者として、老生の扮する人物は劇中でも非常に重要な役割を果たしていることが多い。加えて、民国期のまだ成熟過程にあった越劇においては、才子佳人劇のみならず、歴史劇や活劇などが盛んに演じられるなど、現在よりも演目に多様性があったため、花旦と小生以外の行当が前面に出ているケースも現在よりはずっと多かった。先の章で述べたように、京劇の優れた女性老生に対して一定の評価が与えられていたことも、ここでは念頭に置いて考えていきたい。

以下、越劇が最盛期を迎えようとしていた1940年代の越劇専門小報『紹興戯報』(1941年1月6日~5月?)を同時代の史料として見ていくことにする。多くの演劇専門小報の例に漏れず、この『紹興戯報』も創刊後、半年足らずという短期間で発行停止となっており、ここから読み取ることのできる情報は、越劇史全体を俯瞰した場合決して網羅的だとは言えない。しかし、1940年代冒頭は、越劇が破竹の勢いで展開し、かつ内部ではすでに「三花一娟」(施銀花、趙瑞花、王杏花、姚水娟)の次の、袁雪芬、尹桂芳、徐玉蘭らの世代が活躍を開始した頃であり、全てが目まぐるしい変化の最中にあった。ゆえに、非常に短いとはいえ、この期間の一部を切り取って提示することには、相応の意義があると考える。

まず、この小報の特徴を簡単に述べておきたい。全体に、1940年代中盤以降に見られるような、女優たちをアイドル視した芸能雑誌的な紙面作り(映画雑誌も類似の様相を呈していた)はまだなされておらず、どちらかというと1910年代から続く演劇雑誌や小報の延長線上にあるといってよい。他方、典型的な演劇紙(誌)としての体裁を備えており、演目の紹介や劇評、舞台動向や個人紹介、越劇界を舞台にした小説、そして写真(戯装・平装ともに掲載されている)といったコンテンツから構成されている。なお、「紹興文戯」とも称された越劇のみならず、紹興地区で古くから行われていた紹興大班、すなわち現在の紹劇に関する記事にも一定の紙幅が割かれていた*13

これらを総覧すると、女子越劇に関する記事であっても、意外に老生や花臉に言及したケースが多いことが見て取れる。中でも注目すべきは老生の商芳臣(1920~2001)であろう。後述のようにこの時点で越劇界屈指の老生と見なされていた商については、『紹興戯報』第9号(1941年1月15日)において、次のような単独記事が掲載されている。やや長いが、扮装や歌唱技術にも言及しているため、全文を引用する。

 女子越劇で老生として女優たちを率いるのは、ただ商芳臣のみである(徐玉蘭は近々小生に転向するので例としない)。商氏もまた嵊県の産で字を雅卿といい、高陞舞台の第一期修了の老生で筱丹桂とは同期の姉妹であり、年は二十、聡明なことは人よりも優れている。老生としての、その扮装は意気軒昂に映り、立ち居振る舞いは老いた気魄に生命力が満ちあふれている。喉を惜しむこと命のごとくで、養生もしっかりしたものである。唱えばその響きは雲が流れるがごとく、余韻が漂う。上海へやって来てから、その芸はより佳境に至り、最高の水準まで来ている。平素から麒派に心酔しており、よく観劇に出向いているが、受けた益は浅からずで、彼女の『掃松』*14の張広才を見れば、足はこびも手さばきも、まったく信芳にそっくりである。長段の乱弾*15も、高山から水が流れ落ちるがごとくで、音の響きにも厚みがある。大班*16の笑面虎*17といえども、(この役を演じると)たいしたことはない。この劇は身のこなしが大変で、歌唱も複雑である。商氏はこれを一気呵成に演じるが、乱弾の基礎のない者では、この任に堪えることは難しい。最近、民楽*18では『唐僧』を上演し、商氏は斉天大聖(孫悟空)に扮している。この劇がかつて寧波で上演された時、(劇を観る人で)巷に人がいなくなるほどで、広く「生き悟空」の雅号を得た。このために民楽の舞台は連日満員となり、実に目論み通りとなったのである。商氏は老生戯や悟空戯に長じるのみならず、小生戯の素養も深く備えている。以前、姚水娟と共演した際は、苦難の時を経て成功し、上演成績も甚だよかった。商氏のような者は、まことに越国においても多く得ることのできない俊才である。 夢飛「老生主席商芳臣」

なお、この文に関連する情報を付加すると、『唐僧』は連台本戯形式をとっており、背景や仕掛け、そして起伏あるプロットが売りであったことは、京劇と同様である*19。その他、この「老生主席商芳臣」には、劇の名称は不明ながら、高官あるいは皇族の堂々たる扮装をした商芳臣の写真が付されている。また同紙1月18日号には背広を着て髪をオールバックにした男装写真が大きく掲載されているが、これらの写真はしっかりした顔立ちと相まって、男性性が強調されているようにも見える。

商芳臣(『紹興戯報』1941年1月18日)

実は、現在の越劇史や関連辞典において商芳臣に関する記載を読む限り、上海時代の彼女が周信芳の影響を受けたことを明確に述べているものはほとんどない*20。しかし、1940年代のこの記事には、彼女が麒派戯に傾倒していることがはっきりと語られている。その上で、得意演目として『掃松』という代表的な麒派戯が挙げられ*21、しかもその一挙手一投足が周信芳の演技を模していることが述べられている。ここからも「上海の老生」として、周信芳が大きな影響力を持ち、麒派的な演技を取り込むことが観客の支持に繋がると演じる側が考えていたことは明白であると言えよう。ただし歌唱については、やはり京劇の「一般的な」老生と同じく、恵まれた喉で流れるように唱っていたことがうかがわれる。この点は、先の高百歳と異なり、自身の生まれ持った長所を曲げてまで麒派に迎合する必要を感じなかったのであろう。

現在の越劇において、演技要素としては歌唱や科白、しぐさを重視し、立ち回りは少ないと認識されているが*22、一般的な老生の演技にも、類似する部分が多い。しかし、この記事にも書かれているように、商芳臣は『唐僧』*23に出演して孫悟空に扮している。京劇などの立ち回り専門俳優のような、アクロバティックな技芸こそおそらく行わなかったものの、後日の記事に記載されているように、熱心に演じすぎて怪我をする程度のアクティブさは備えていたようである*24。孫悟空は京劇において武生か武丑が扮するものであり、この「反串」経験については、彼女に関する後世の記述で必ず挙げられるトピックスとなっている。そういった演技上の幅を踏まえて鑑みるに、商芳臣は麒麟童のコピーではなく、老生、あるいは「生」としての総合的な演技要素の一部として麒派の演技を取り入れたと言えよう。

付け加えておくと、商芳臣以外にも刑湘麟*25、銭秀霊、筱霊鳳、任伯棠、そして小生に「改行」する前の徐玉蘭(この改行はちょうど『紹興戯報』刊行時期に行われた)などが越劇界の老生として名を馳せており、レパートリーとして『打漁殺家』や『武家坡』など、京劇と共通するものも見受けられる。また、商芳臣自身がすでに越劇老生の一つの規範と目されているかの如き記事も見受けられ*26、新興の劇種である越劇の、老生というさらに狭い枠内でも、特定の俳優のアイコン化の兆しがあったことが伺える。

(2)滬劇

上海方言を用いて上演する滬劇の展開は、越劇のそれとは異なっており、特に文明戯の脚本家が流入したことによる現代劇重視の演目構成により、行当の概念もまた他の伝統劇よりも話劇(新劇)に近いと言える。

他の伝統劇よりは行当毎の輪郭がいささか不鮮明であるとはいえ、滬劇にもやはり流派があり、それぞれ次世代への伝承が行われている。ここでは近年まで存命であった邵濱孫(1919~2007)を取り上げる。

邵濱孫は1935年に滬劇(当時の名称は「申曲」)の俳優として本格的な活動を開始した。師匠の筱文濱(1904~1986)は、当時、文月社という上演団体を率いており、その歌唱は「文派」と称され、優雅で柔らかいことで知られていた。滬劇自体が文明戯、話劇、映画とさまざまな要素を取り入れつつ大々的に発展していく中、邵濱孫は若くして文月社で頭角を顕し、洒脱な男性に扮することで人気を博した。

この邵濱孫について特筆すべきは、京劇俳優である周信芳に私淑するのみならず、直接弟子入りしたことである。本人の回顧録によると*27、若い頃から京劇をはじめとする他の劇種の舞台を好んで観に行き、中でも周信芳の舞台に魅せられていたが、1943年、先に挙げた周信芳の高弟・高百歳の仲介により、邵濱孫は正式に「拝師」の儀式を執り行う。このように系統の大きく異なる劇種の俳優同士が師弟の契りを結ぶのは異例のことだが*28、回顧録では、邵濱孫が麒派のいかなる部分に魅力を感じ、自身の演技に採り入れようとしたかということが述べられる。

 周先生は、鮮明で、強烈で、リズム感に富んだ優美な動作と表情とをうまく用い、力強い銅鑼太鼓の響きの中、登場人物の内心のリアルな感情を際立たせて描写した。彼の科白は一字一字きっぱりとしており、音の響きは濃厚で、歌唱は通俗的でのびやかで、気勢は勇壮であった。(中略)ある角度からすれば、邵派(注:邵濱孫の流派)の歌唱が演劇界で一角を占めることができたのは、麒派との密接な関わりによるものである。(中略)

 絶え間ない挫折と努力の中、麒派のある種の要素が次第に私の歌唱に入り込んで行った。私の歌唱は、穏やかで上品で、読書人的な風格に富んだ文派に基づいていたが、次第に剛柔互いに補い合い、雄渾で強烈な、調子の明晰な、リズム感に富んだ麒派へと変化していった。

滬劇は、ことによると越劇以上に、身体的表現よりも歌唱表現が重んじられるケースが多い。邵濱孫の場合も、演技上の要素で影響を受けたのは歌唱であることを最初に述べているが、この発言を読む限り、歌唱の風格には相当な変化がもたらされたと思われる。京劇などに比べると、その世界への参入が比較的容易であった滬劇の場合、多くの競合相手を押しのけ自己の個性を際立たせるためには、これぐらい大胆な挑戦が必要だったと見ることもできる。他方、身体的表現についても全く影響を受けなかったわけではなく、『徐策跑城』の「大円場」や「跪歩」などを、『楊乃武と小白菜』、『白毛女』で積極的に取り入れたと述べている。

なお、越劇とは異なり、滬劇においては古装戯の上演が極めて少ない。且つ、邵濱孫が周信芳に弟子入りした時期には、滬劇は時装戯*29を得意とするものという認識も定着していたと思われる。それでも邵濱孫自身は、麒派演目の『投軍別窰』、『斬経堂』、『香妃恨』などを滬劇で上演することで、自身の演技の中に麒派のエッセンスを取り入れようとした。この行為は「かなり稚拙で、強引に過ぎたきらいがある」と本人自身が否定的に述懐する結果となったようだが、結局のところ麒派的な要素は、先に述べたように現代劇での演技において存分に生かされる。言うなれば、邵濱孫は扮装や舞台設定など外面的な部分を継承したのではなく、演技そのものに同化された内面的な要素を継承したということになろう。

その他にも、淮劇の馬麟童(1912~1952)、周筱芳(1929~1977)など、京劇の影響を受け、且つ麒麟童・周信芳の名を意識した芸名を持つ俳優が民国期上海で活躍し、建国後も評価を保ち続けたが、史料上の制約もあるので本稿では割愛する。

結語

あらためて、中国の伝統演劇において、「芸を伝える」際にどのような形を取りうるのかを考えてみたい。二十世紀の京劇界、特に北京においてその代表格とされた譚鑫培と梅蘭芳の二人の状況を簡単に述べると、まず譚鑫培について述べると、多くの老生がその後継者と目されることを意識し、本人亡き後演劇界のトップの地位を争った。結果的に、余叔岩や馬連良といった優れた老生たちが、譚鑫培の演技術を吸収した上で独自の流派をうち立てることになった。梅蘭芳については、実子をはじめとする多くの弟子たちが遺響をそのまま継ぐことを目指し、多くの後継者を残したが、他方、独自の境地に至ったのは張君秋などごく少数に限られる。

対して、麒派においてその技芸をそっくりそのまま伝承した後継者は極めて少ない。麒派そのものの特質が周信芳個人の肉体的条件に依拠した部分が大きく、完全にコピーすることが難しかったという理由も、当然考慮せねばならないだろう。しかし、見方を変えれば、変化や多様性を好む上海の気質が、特定の俳優の演技をそのまま継承することに抵抗感を生じさせた結果だと考えることもできよう。

これまで述べてきたように、その影響は京劇にとどまらず、他の劇種や、場合によっては他のジャンルにまで拡大しており、それぞれの表現要素の中に浸透している。邵濱孫が自ら述べたように、それは自身がこれまで積み重ねてきた演技を変質させてしまう可能性さえあるほど強烈なものであった。

より具体的に述べると、上海を含めた江南の地において、麒派の伝播は時には歌唱やしぐさ、表情といったように「部分的」であり、また時には演目や一部の節回しのレパートリーへの取り込みに見られるように「表層的」でもあった。一方で「風格」や「精神」といった抽象的なことばで代表されるように、具体的な演技様式や演目ではなく、舞台に立つに当たって俳優が身に纏うある種の雰囲気に、麒派的なものを醸し出そうとするケースもあった。言い換えるなら、周信芳個人が備えていた麒派を形作るあらゆる要素が、さまざまな形で江南各地の演劇界に拡散して定着し、本人が死去した後も影響を保ち続けているのである。冒頭で述べたように、「麒派」は一つの演劇圏における文化的アイコンとなったのである。

その例は、上海に隣接する太湖地区で現在も盛んに上演される宣巻芸人の麒派に対する認識からも見て取ることができ る*30。宣巻は本来宗教系の説唱芸能で、現在でも地域の信仰と密接に結びつき、寺廟で催される大きな宗教行事で上演するほか、個人の願掛けや願解きを行い、さらには地域の娯楽としての性質も濃厚になっている。特に楽曲面では基本的な曲調の他、錫劇や滬劇など灘簧系地方劇の節が多く用いられるが、その他に評弾、江北の地方劇、越劇、京劇まで組み入れて唱われることがある。

その中で、40代の芸人・高黄驥は、地方劇のさまざまな楽曲を取り込み、緻密に組み立てることを得意とするが、麒派の地方劇における影響を肯定している*31。また、越劇俳優として修行した趙華は、30代という若さながら麒派の歌唱への強い愛着を口にしている*32

中国において、同一地区内に複数の上演芸術が併存していた場合、階層による嗜好の差により劇種の選択行動がなされると思われるが、言わば最も庶民的な宣巻の演者が、どちらかというと高級な部類に属する京劇に言及するという事実は興味深く思われる。

伝統芸能の流派は如何なる形で伝承されるべきかという問題については、おそらく十人いれば十通りの解答が示されることであろう。筆者自身は普段、流派のエッセンスとされる部分を意識的に守り続けつつも、伝承者たる俳優個人の個性と融合させることに意味があると考えている。しかし麒派については、そういった側面の他に、上海・江南地区で見られる影響の広範さ、深さを、また別の視点を備えた上で語るべきではないだろうか。

一人の俳優の演技術が、ひいてはその風格自体が、劇種・ジャンルを越え、幅広い観衆の間で「麒派文化」とも称すべき様態をもって受容されている事実は、さまざまな文化的事象全体における演劇文化のありかたとして、今後検討に値するものだとここでは結論づけたい。


*1 拙論「周信芳と梨園公報」(『野草』第60号 中国文芸研究会 1997年8月)、「周信芳評価の一側面」(『中国都市芸能研究』第一輯 中国都市芸能研究会 2002年7月)、「周信芳と「劇評家」」(『野草』第82号 2008年8月)。
*2 「初二夜之新新舞台」『申報』1912年7月18日。
*3 この説は一般に広く認知されているが、異説もある。
*4 譚鑫培を老生の規範とする考え方は、北方を正統視する立場のみならず、海派京劇を肯定する立場でも同様で、譚鑫培自身が民国期を通じて京劇老生の絶対的アイコンであったことは念頭に置いておくべきであろう。
*5 元々「小子和」と名乗っていたが、辛亥革命前後から自身の姓である「馮」を冠するようになった。
*6 譚鑫培はその父である譚志道が「譚叫天」と呼ばれていたため、「小叫天」という芸名を持っていた。それを「蓋」(しのぐ)という意図から蓋叫天という芸名が取られた。
*7 北方では恩暁峰(1887~1949)などの実力が評価されていた。また、孟小冬(1907~1977)も1923年に漢口で本格的な上演活動を開始するなど、女性老生が活躍する素地は出来上がりつつあったと言える。
*8 中国戯曲志上海巻編輯部編『上海戯曲史料薈萃』第五集(1988年5月)所収。
*9 周信芳の弟子になったのは1916年とされる。以後、1920年代の北方巡演にも同行した。
*10 1929年に来滬、周信芳と共演。自ら進んで病気の周の代演に立ち、その演技の類似ぶりに観客が驚いたという記録もある。1932年に正式の弟子となる。
*11 口述伝記『芸海無涯』において述べられているように、『封神榜』を携え北方を巡演していた周信芳の舞台を袁世海がこっそり観に行った話がよく知られている。
*12 現代においても、越劇の若手俳優を何人かフィーチャーし競わせる場合、必ず老生が含まれている。
*13 越劇が紹劇から取り入れた曲調や一部演目を除き、両者に劇種としての相関性は薄く、且つ出自的にも越劇の方がより卑俗な劇であったことは想像に難くないが、同地域の劇であるということで同じ紙面で扱われるという点は興味深い。なお、越劇老生の中には、後述の商芳臣や徐天紅のように、紹劇の歌唱に長けた人物が老生を中心に存在していた。
*14 『掃松(掃松下書)』は『趙五娘』の一場面。
*15 乱弾系である紹劇を指すと思われる。
*16 この部分文字不明瞭のため推定。「大班」、すなわち紹興大班(紹劇)か。
*17 笑顔でも内心の陰険な人物を指すが、ここでは笑顔で余裕のある人物ぐらいの意か。あるいは芸名の可能性有り。待考。
*18 民楽大戯院。商芳臣の率いる標準劇団が当時上演を行っていた舞台。
*19 「五集唐僧――日告満座」(『紹興戯報』第3号 1941年1月9日)。
*20 上海越劇志編集委員会他『上海越劇史』(中国戯劇出版社 1997年)、銭宏主編『中国越劇大典』(浙江文芸出版社 2006年)にそれぞれ所載の商芳臣の項を参照。
*21 この『紹興戯報』の上演広告を見る限り、他に『投軍別窰』の上演が確認できる。また、注21で挙げた各書籍では、民国期の商芳臣が『烏龍院』を演じたことが述べられている。なお、『掃松』は京劇同様、紹劇経由で徽戯から越劇に入った可能性がある。
*22 筆者はかつて、紹興の越劇団による立ち回りに長けた俳優を擁した公演を観たことがある。また京劇同様、越劇においても、吊毛程度であれば生が舞台で披露することもある。
*23 京劇では清末より『西遊記』の連台本戯はたびたび上演されてきたが、時期的に近く、且つ最も長い間上演されたものとして、1935年から1940年にかけて大舞台で上演された張翼鵬(蓋叫天の子息)主演の『唐僧取経』全42本が挙げられる。
*24 「商芳臣受傷」(『紹興戯報』第43号 1941年2月24日)によると、演技中に食指、すなわち人差し指に怪我をしたとのことだが、詳細は不明。
*25 珍英「芸人群像――刑湘麟」(『紹興戯報』第36号 1941年2月17日)によると、一時期、刑と商芳臣、姚月明、徐玉蘭を「越国四大老生」と称したという。
*26 「王雪影――今日在西摩」(『紹興戯報』第27号 1941年2月8日)には、王雪影という若い老生の表情、態度が商芳臣に非常に似ているとの記述がある。また、同様の劇評が翌々日にも掲載されている。
*27 中国人民政治協商会上海市委員会・文史資料委員会編 上海文史資料選輯第六十二輯(戯曲専輯)『戯曲菁英』(下)所収「従芸歳月」(邵濱孫、唯真整理)による。なお、口述記録をリライトしたものであるため、内容的に若干の装飾性を差し引いて読む必要がある。
*28 注27参照。なお、邵濱孫の弁によると、他劇種の俳優で周信芳の弟子になったのは彼だけだとのことである。
*29 邵濱孫は生涯にわたって何度も曹禺の『雷雨』を演じているが、周信芳も1940年に話劇『雷雨』で周僕園を演じている。
*30 以下、佐藤仁史、太田出、藤野真子、緒方賢一、朱火生編著『中国農村の民間藝能』(汲古書店 2011年)に拠る。
*31 注30参照。
*32 注30参照。

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