『都市芸研』第十二輯/中国の影絵人形劇の改革とオブラスツォーフ

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中国の影絵人形劇の改革とオブラスツォーフ

山下 一夫

1.はじめに

中国の影絵人形劇――皮影戯は、現在主に2種類の演目が行われている。1つは主に農村部で上演されている伝統演目である。近年になって他劇種から移植されたものや、旧派武俠小説から改編されたものもあるが、大多数は人民共和国成立前から行われているもので、地域で伝統的に用いられている声腔によって上演するのが特徴である。もう1つは都市部の旧国営劇団にルーツを持つ、人民共和国成立後に作られた新作演目である。一般的に伝統演目に比べて上演時間が短く、また西洋音楽の影響を受けたメロディが用いられることが多い。現在でも都市部の劇団では多くがこちらを上演している。

前稿では後者の新作演目の中から、黒竜江省木偶皮影芸術劇院が行った神話劇『禿尾巴老李』を取り上げ、その成立と現在の状況について考察を行った*1。その際、同傾向の他の演目、特にソ連のオブラスツォーフの影響で成立した演目について多少触れながらも、詳しく述べることができなかった。しかしこの問題は新作演目の性質を考えるのに重要なだけでなく、今日の中国の影絵人形劇のあり方を検討するのにも有益な材料である。そこで本稿では、オブラスツォーフの訪中が中国の影絵人形劇の改革に与えた影響について、新作演目成立のメルクマールとなった作品『亀と鶴』の製作を中心に検討してみたいと思う。

2.オブラスツォーフの訪中

前稿でも述べたように、影絵人形劇のメディアとしての有用性に注目した中国共産党は、日中戦争期からすでに一部地域で党の宣伝媒体に利用し、共産党の女性闘士を描く『劉胡蘭』や、趙樹理の小説に基づく『小二黒結婚』などの上演を行っていた*2。中華人民共和国成立後、1951年5月に政務院が周恩来の名義で六項目から成る「戯曲改革工作についての指示」を出し*3、全国の伝統演劇の全面的な改革に着手する。影絵人形劇も例外ではなく、「指示」に従って伝統演目の修正や新作演目の作成などが急がれる中、1952年11月にオブラスツォーフがソ連芸術代表団のメンバーとして中国を訪問する。

オブラスツォーフ(セルゲイ・ウラジーミロヴィチ・オブラスツォーフ、Sergei Vladimirovich Obraztsov)は、現在「ソ連人形劇の父」と称されている人物である。1901年にモスクワに生まれ、はじめ美術を学ぶが、在学中の1918年から俳優として舞台に立った。1920年から人形劇を志し、1931年にモスクワに児童芸術教育会館付属人形劇団(現在の中央人形劇場)を創設して、1992年に亡くなるまで団長を務め、スタニラフスキー・システムを応用した近代的な人形劇を確立したとされる。

オブラスツォーフ(オブラスツォーフ(著)、大井数夫(訳)『人形劇――私の生涯の仕事』(晩成書房、1979年)、背表紙。)

オブラスツォーフは1952年11月に北京に入り、1953年1月までの2ヶ月間で上海・瀋陽・済南・太原・広州・長沙・成都など様々な都市を訪問し、最後に北京に戻って、そこからシベリア鉄道で帰国した。滞在中ホスト役となったのは、以前からオブラスツォーフと面識のあった梅蘭芳と田漢である。梅蘭芳は1935年にモスクワ公演を行った際、かれに面会して人形劇の上演を見ており、また田漢は1949年にプラハで開かれた平和擁護世界大会に郭沫若と一緒に出席した際、オブラスツォーフの公演に行っている*4

オブラスツォーフは中国滞在中、ほぼ毎日地方劇・人形劇・伝統曲芸などの上演を見たという。また各地で様々な演劇研究者と接触しており、帰国前には北京の北海公園で欧陽予倩・梅蘭芳・田漢らと座談会も開いている。自らが人形劇上演者であることもあり、中国の伝統的な人形劇には特に大きな関心を寄せた。

注意すべきは、この訪中は単なる「中ソ友好の証」の文化交流事業ではなく、中国が戯曲改革工作に役立てるため、オブラスツォーフを通してソ連の「先進的な意見」を取り入れる企画だったということである。したがって中国側はオブラスツォーフの発言をたいへん重視し、可能な限りそれを実行しようとした。例えば周恩来は1952年11月14日付で発表した「戯曲改革の幾つかの問題について」の中で以下のようにオブラスツォーフに言及している*5

埋もれてしまっているたくさんの演劇芸術を、我々はいま発掘しなければならないが、我々はこの仕事をまだほんの少ししかできていない。今回訪中した人形劇の専門家のオブラスツォーフ氏は、我々の人形劇にたいへん関心を持ち、こう言っている。「あなたたちは影絵人形劇を発展させるべきです。また、埋もれてしまっているのは影絵人形劇以外にもたくさんあります。」我々は民間に埋もれている演劇芸術をきちんと発掘し、発展させることに力を注がなければならない。したがって、今はレベルの高低については考えず、まずは「百花斉放」とさせなければならない*6

例えば現在、国家を代表する人形劇団となっている中国木偶劇院も、オブラスツォーフの要求が契機となって成立している*7

解放初期、ソ連は専門家を派遣して新中国の建設に協力した。その中に人形劇芸術家のオブラスツォーフがいた。かれは周恩来総理に聞いた。「あなたたち中国は国立の人形劇団を持っていますか」。当時文化部副部長だった夏衍は「はい、あります」と答えた。するとこのソ連の専門家は、すぐに中国木偶劇団の上演を見たいと申し出てきた。当時は遼西文工団木偶劇隊が東北地区唯一の職業的団体であったため、毎晩北京に呼んでこの外国の専門家たちのために上演を行ったところ、肯定的な評価を受けて大変歓迎された。1953年の初め、文化部は遼西文工団木偶劇隊の23名のメンバーを全員北京に配置換えし、中国木偶芸術劇団を成立させた*8

遼寧省西部の遼西文工団木偶劇隊は、党の政策宣伝を担うために、人民共和国成立後まもなく遼寧省錦州で設立された糸操り人形劇団である。オブラスツォーフの訪問にあたって北京に呼ばれたのは、地理的に近かったためだろう。そしてかれらはそのまま中央に居残って、中国木偶芸術劇団(中国青年芸術劇院木偶劇団)となり、現在の中国木偶劇院となった。

オブラスツォーフ訪問をきっかけに劇団組織が整えられた例は中央だけでなく、地方にも見られる。例えば広東省の糸操り人形劇団である梅県木偶劇団も、広州で上演を見たオブラスツォーフに認められたことをきっかけに整備され、その後ソ連公演を果たしている*9

梅県木偶劇団は、楽堯天戯班を核として、楽堯天・奏吉祥・栄華堂・富天彩・合一声・楽昇平の6つの糸操り人形の既存の戯班の芸人を吸収し、1951年3月に成立した。劇団員は全部で20数名、著名な人形劇芸術家の謝発が団長となった。建国後50年の間、梅県木偶劇団は芸術の上でゆるやかに前進し、輝かしい成績を残してきた。1952年春、謝発はソ連の芸術功労者で、モスクワ人形劇団団長のオブラスツォーフと広州で芸術交流を行った。かれが上演した糸操り人形劇『化子進城』で、「蛇操り」や「獅子舞」などの特技を見たソ連の専門家は心から敬服し、謝発が10本の指を巧みに操った様を、まるでピアノ演奏者のようだと絶賛し、かれをソ連に招待してさまざまな大都市で上演させた*10

また、現在四川省を代表する人形劇団である成都木偶皮影劇院も、人民共和国成立後作られた成都市木人組がオブラスツォーフの成都訪問をきっかけに公的劇団としての体裁を整えた*11

1952年11月、ソ連人形芸術劇団の団長であるオブラスツォーフは成都で成都市木人組(現在の成都木偶皮影芸術劇院の前身)が上演した『情探』を見てたいへんに褒め称え、帰国後はかならず中国の人形劇芸術をよく研究すると述べた*12

福建の糸操り人形劇を代表する劇団として有名な泉州木偶劇団も、手袋人形劇の漳州布袋木偶の芸人たちとともに、オブラスツォーフ訪問に合わせて上海にやってきて上演を行っている*13

(泉州木偶劇団は)1952年の冬、「華東地区中ソ友好月間」大会の招聘で漳州布袋木偶と一緒に初めて上海にやって来た。かれらが上演した『木蘭従軍』は、ソ連の人形劇の専門家オブラスツォーフ同志に賞賛された。(かれは)糸操り人形の手が、剣を抜き、剣を刺し、筆を持ち、カップを手渡すことができるのは奇跡であり、大変敬服に値すると述べた*14

人民共和国成立後、各地の芸人は党によって設立された公的劇団に組織化されたが、急ごしらえだったために体制は脆弱で、「戯曲改革工作についての指示」についても、どのように進めたら良いのか暗中模索の状態にあった。そこにオブラスツォーフがやってくることで、現地の劇団は否応なしに組織を整備することになった。なおどの劇団も「自分たちの芸をソ連のオブラスツォーフが賞賛した」という主旨の発言をしているが、これは「先進国」ソ連の専門家に認められ、初めて自分たちの芸に自信を持ったことの裏返しだと思われる。いわばかれらは、オブラスツォーフの前に出ることで、自らのアイデンティティを確立したのである。

3.オブラスツォーフの上演

オブラスツォーフは、単に中国の人形劇の上演を見て回っただけではなく、自分でもモスクワのレパートリーを各地で上演し、さらに幾つかの劇団に対しては自ら指導に当たった。例えば前述した中国木偶芸術劇団について、オブラスツォーフは以下のように述べている*15

中国木偶芸術劇団の前身は、中国青年芸術院附属の木偶劇団である。中国青年芸術院の院長である呉雪同志が、私にかれのところの若い同業者たちを紹介した。私はかれらに私の演目を幾つか上演して見せ、さらにかれらにソ連人形劇の状況について教えた*16

また田漢は、オブラスツォーフが北京で上演した演目について具体的に言及している*17

1952年冬、中華人民共和国成立後3年目に、この優れた芸術家がソ連の芸術代表団に参加して訪中したことで、我々は再びかれのすばらしい上演を鑑賞する機会に恵まれた。かれが創造した、あの誇張された表情の女性歌手や、グラスを持ち上げて我々にウインクする面白い酔っぱらいや、油断して最後に虎に食べられてしまう調教師などは、今思い出してもつい笑ってしまうくらいだ*18

「誇張された表情の女性歌手」は、かれのレパートリーである『かえってきて、みんな許すわ』を指すものと思われる。最初に手で表情を作って様々な演技をした後、女性歌手の人形がピアノに合わせて歌い、顔の表情が変化するというものである。これは、モスクワ人形劇団の美術スタッフであるニコライ・ソーンツェフが目と口の動く女性歌手の頭を制作したので、オブラスツォーフがこれに自分の手を付けて演技したら面白いだろうと思って作ったのだという*19

『かえってきて、みんな許すわ』(『人形劇――私の生涯の仕事』、口絵。)

また「グラスを持ち上げて我々にウインクする面白い酔っぱらい」は、酔っぱらいが酒を飲んでくだを巻く内容の『酒を注げ』だろう。作中では、最初に人形が本当に酒を飲んだ後、以下のような歌を歌う*20

酒を注げ、盃がからだぞ!
酒がなければ、歌もない。
酒の中にこそ、人生がある。
飲めば世界もせまくなる。
ゆかいな酒を飲みほしたら、
盃をうちくだけ!――どうせ、
おまえの人生は、くだけ散ってしまったのだ!
酒を注げ!彼女はいってしまった!
もう、あの子は、もどってこない!
ほかの男と、しあわせになってしまった!
さあ、飲め、もう一杯、涙ながして!

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「油断して最後に虎に食べられてしまう調教師」は『虎つかい』を指す。サーカスで調教師が虎に食べられるふりをしているうちに、本当に食べられてしまうという内容の演目である。オブラスツォーフが以下のように述べているとおり、この作品は他と異なりほぼ完全なパントマイム劇である*21

私はなんにもうたわず、ごくすこししかしゃべらない。これはほとんどパントマイムであり、冒頭の調教師の「調教の奇蹟にご注目ください――放たれた虎」という言葉と、「調教」のときにときどき発する特徴的な「アプ!」のほかは、まったく言葉はない。

『虎つかい』(『人形劇――私の生涯の仕事』、口絵。)

これらの作品を裏付けるオブラスツォーフの人形劇に対する考え方は以下のようなものである*22

人形劇とは、――このばあい、立体および描画のアニメーション映画もそれに含めるが――すべての演芸芸術形態のなかでもっとも比喩的なものである。人形はすでに、それが入間でなく、一般に、生きものでなくて、物である、ということによって、本質において比喩的である。あらゆる芸術作品は、発見の奇蹟である。連想的・情緒的発見の奇蹟である。人形が演じること――それは、生命のないものの蘇生の奇蹟である。もっと正確にいうとこうだ――観客にとっては蘇生した物の奇蹟であり、俳後にとってはその蘇生の喜びである。

オブラスツォーフは、人形劇は「本質において比喩的」であり、「生命のないものの蘇生の奇蹟」であるとする。こうした考えは、スタニスラフスキーとの交流の中で徐々に形成していったものとされるが、こうした発想に裏打ちされ、人形の表情や動きの表現に非常に拘る上演技法は、伝統的に人形の表情が乏しく、また比喩性という発想も持っていなかった当時の中国人には大きな衝撃であった。

またオブラスツォーフは、観客の年齢によって内容や上演時間を使い分けるという考えも持っていた。

二十歳と三十歳と三十五歳のひとたちは観客席にいっしょにすわっていることができるし、彼らの反応のちがいは、気質や、職業や、劇の主題と彼らの個人的興味の遠近のちがいによるだけであって、彼らの年齢の差にはかかわりない。ところが、五歳と十歳と十五歳の子どもたちでは——これは完全に異なる人間であり、完全に異なる観客である。彼らにおなじ劇を見せることは、まったく無意味であり、そうでなければ、有害である。…(略)…だが、観客席がごく小さいとしても、それがふつうの部屋で、その部屋にいるのが十―二十人の小さな子どもたちだけだとしても、それでも上演時間は十五―三十分以内であるべきである。けっしてそれ以上ではならない。

こうした考えの延長線上には、やはり従来の中国には無かった、大人向けとは別の「児童向け人形劇」が導き出されることになる。実際、オブラスツォーフが北京で上演した『虎つかい』は上演時間も短く、内容的にも児童向けの演目だった。

オブラスツォーフが持ち込んだソ連近代人形劇の受容は、かれ自身の演目を中国人が模倣して上演するという形で現れた。オブラスツォーフは、1957年における中国木偶劇団の演目について以下のように述べている*23

中国木偶劇団の演目には3つのソースがある。1つ目は現代作家が現実の生活の題材に基づいて書いた現代劇であり、2つ目は現代の観客の趣向と需要にも合致した古典劇であり、3つ目はソ連の人形劇団で上演されたものも含む、外国の人形劇の演目である*24

「1つ目」は趙樹理の小説に基づく『小二黒結婚』などを指し、また「2つ目」は伝統演目の中で当時上演が許されたもの、そして「3つ目」はオブラスツォーフ自身がかれらに教えた演目であろう。「戯曲改革工作」の中で、オブラスツォーフの演目が学習の対象として上演されたのであれば、結局はこれが移植されるのはいわば当然であった。また、オブラスツォーフが訪中した1952年を境に、中国各地で西洋風の造形を持った人形劇が次々と出現して来たのを見ると、そうした事態は中央の中国木偶劇団に限らず、地方でも広く進行したものと思われる。

4.『亀と鶴』の製作

オブラスツォーフの上演は糸操り人形劇と手袋人形劇が中心で、また棒操り人形劇もレパートリーとして持っていたが、自分では影絵人形劇を行ったことがなかった。トルコのカラギョスなど、影絵人形劇の存在自体は知っていたようだが、大量に見たのは中国に来てからが初めてだったようである。周恩来に対して影絵人形劇の重要性を訴えているのも、そうした理由に依るものだろう。

糸操り人形劇や手袋人形劇の場合、オブラスツォーフの演目を移植することは簡単だが、人形の造型や上演技法が根本的に異なる影絵人形劇の場合はそのまま行うわけにはいかない。これに合わせた改変作業なども必要となるし、そうするとそこにはまた受容者側の創作の要素も入り込んでくることになる。そうした状況のもとで成立したのが、影絵人形劇『亀と鶴』である。

『亀と鶴』(『皮影生涯三十年』、6頁。)

『亀と鶴』は、岩場に飛んできた鶴と、水面から現れた亀とが争い、最後に亀が鶴を撃退するという内容のパントマイム劇である。亀はプロレタリア階級、鶴はブルジョア階級の比喩だとされるが、2匹の動物の滑稽な動作は子どもにも楽しめるものとなっている。バックグラウンドには西洋風の音楽が用いられ、また上演時間も10分程度と、中国でそれまで一般的だった影絵人形劇に比べると圧倒的に短い。

『亀と鶴』は現在、旧国営劇団にルーツを持つ芸人たちによって、全国的に行われている新作演目であるが、最初に作ったのは湖南省長沙の劇団である*25

1952年、ソ連の著名な人形芸術家であるオブラスツォーフが湖南まで上演にやって来た。影絵人形劇芸人の何徳潤と譚徳貴は、オブラスツォーフの上演した動物ものの『虎つかい』と『きみといっしょにいたかった』にたいへん興味を覚え、啓発を受けた。かれらが伝統の中から貴重な宝を探した結果、伝統的な影絵人形劇の『玩故事』の中に、鷺と亀という特徴的な動物(の人形)を見つけ、これを利用して発展させれば、面白く有益なパントマイムの影絵人形劇を作り出すことができると考えた。そこで創作をすすめることにし、かれらが骨格を作り終えたところで、(美術スタッフの)翟翊同志がやって来た。芸人たちの創作意図を理解した翟翊同志は大いに興味が湧き、すぐさま動物のデザインと背景の設計に取りかかり、また全員で一緒に演目の思想内容と表現方法を研究した。こうして、美術スタッフと影絵人形劇芸人の協力による最初の成果として『鷺と亀』が――その後、鷺を仙鶴に変え、名前も『亀と鶴』と改めた――影絵のスクリーンに登場した*26

ここで名前が挙がっている何徳潤・譚徳貴・翟翊は、1951年に成立した湖南軍区文工団のメンバーである。前述したさまざまな地方劇団と同じく、この劇団もその後、湖南省を代表する人形劇団として体制を整え、現在は湖南省木偶皮影芸術劇院となっている*27

かれらが『亀と鶴』の参考にしたと言っている2つの演目のうち、『虎つかい』の内容は先に述べた通りで、もう1つの『きみといっしょにいたかった』は、恋に苦しむ男性の独白から成るハイネの詩にグレチャーノフが曲を付けた同名の歌曲が流れる中、雄猫が雌猫に求愛して追い回すという内容の動物劇である。

『きみといっしょにいたかった』(『人形劇――私の生涯の仕事』、口絵。)

『亀と鶴』の特徴である2匹の動物の争い、短い上演時間、西洋風のバックグラウンドミュージック、パントマイム劇といった要素は、明らかにこの『虎つかい』および『きみといっしょにいたかった』に由来している。

数ある演目の中でオブラスツォーフが湖南での上演にこの2つを選んだのは、言語の問題があったのだろう。中国人の観客はもちろんロシア語が分からないので、台詞を聴き取らないと楽しめないような演目は、当然受けが悪くなってしまう。実際田漢は、1949年にプラハでオブラスツォーフの上演を見た時の体験について、以下のように述べている*28

かれは演技をしながら台詞を述べ歌をうたった。フェドレンコ同志が私に言った。「もしあなたがかれの話を聞き取れたらもっと面白く感じるはずです。なぜならオブラスツォーフは優れた芸術家で、かれは話術がとてもすばらしいからです。」*29

前述のように、オブラスツォーフは北京で『虎つかい』のほか、台詞や歌で登場人物の境遇を語る『かえってきて、みんな許すわ』や『酒を注げ』も上演しているが、これを見た田漢の感想が人形の滑稽な表情や動作しかないことからしても、後ろの2つは話があまり解らなかったものと思われる。おそらくオブラスツォーフもそれを自覚していて、北京の後で訪問した湖南ではパントマイム劇の『虎つかい』だけを残し、ほかは演目を変えたのだろう。そして登場する雄猫と雌猫に台詞が無く、曲の歌詞が聴き取れなくても追いかけっこを見れば楽しめる『きみといっしょにいたかった』を選んだものと思われる。

ところが上演を見た湖南の芸人たちは、「ソ連の人形劇はパントマイムなのだ」と誤解し、自分たちもその方向に進んでしまったのだろう。また、記事はいかにも本人たちが自主的に取り組んだかのように書かれているが、戯曲改革工作の一環としてオブラスツォーフが訪問した経緯を考えると、ここは割り引いて考える必要がある。おそらく、オブラスツォーフの演目のようなものを作るよう指示されたのだろう。

『鶴と亀』の人形の元になった『玩故事』という演目については不明だが、タイトルからしてストーリー性のあるものとは思われず、おそらく陝西省の影絵人形劇で行われる「社火戯」のような、様々な神仙や動物などが登場し、滑稽な動作を行う幕間の出し物の類だろうと思われる*30。その中から鷺と亀を見つけてきて、両者の掛け合いでオブラスツォーフのような演目を作ろうと考えたのだろう。

なお、現在『亀と鶴』で用いられる鶴の人形を見ると、首の部分が多くのパーツのつなぎ合わせでできていて、伝統的な人形よりも細かい動作を表現することができる構造になっている。元は伝統的な鷺の人形だというが、翟翊が「動物のデザインと背景の設計」を行ったという記述から考えても、この部分は新たに設計し直したのだろう。かれらは「生命のないものの蘇生の奇蹟」というオブラスツォーフの言説自体を知っていたわけでは無いだろうが、そうした発想に裏打ちされている人形の表情豊かな動きを見て、これをできる限り再現しようと考えた結果だと思われる。

人形が初め鷺だったのが途中から鶴に変わったのは、明らかに亀との対で吉祥物にできるという中国的な考えに基づいている。またオブラスツォーフは確かに演目の比喩性を説いたが、動物の掛け合いで階級闘争を表すというような単純な比喩は志向していないため、これも中国側の発想と考えられる。

こうしてできあがった『亀と鶴』は、1955年に北京で開催された「第一届木偶戯皮影戯観摩演出会」に出品された。これは全国32の主要な人形劇団が一堂に会し、お互いの上演を見て学習しあうというもので、ここで『亀と鶴』が田漢によって賞揚されたため、各劇団がこの演目を持ち帰ることになった。現在でも旧国営劇団にルーツを持つ都市部の影絵人形劇団がみなこの演目を自らのレパートリーとしているのはこのためである。全国的な共有が可能だったのは、『亀と鶴』が台詞の無いパントマイム劇で、かつバックグラウンドに西洋的な音楽を使っていたため、方言や音楽などの地域的相違を超越することができたからだろう。

なお各地の劇団は、湖南の芸人たちが作ったものをいわば「借りて来ただけ」なのにも関わらず、『亀と鶴』を自分たちの代表的演目として喧伝する傾向がある。これは、「児童向けの上演」という都市部国営劇団のあり方が、この『亀と鶴』によって実質的に確立したので、そうした点でまさにかれらのアイデンティティそのものとなっているからである。ただそれは同時に、「大人向けの上演」である伝統的な影絵人形劇の放棄も意味していた。1950年代当時の芸人たちは、もちろん上演しようと思えば従来の伝統演目もできたが、かれらの弟子や孫弟子の世代は、『亀と鶴』に始まる児童向け演目しか受け継いでいないため、現在では多くの都市部劇団が伝統演目を上演できなくなっている。

なお、『亀と鶴』が地域性を超越したために全国で共有されたと言っても、矛盾するようだが必ずしも各地で完全に同じものが行われたわけでは無い。例えば河北省の唐山では、湖南からの移植にあたって以下のような改変が加えられている*31

唐山の影絵人形劇でこの演目の稽古をした時、自分たちの上演方法と皮の材料に基づいて絶えず加工と改革を行い、劇中の場面や相互関係も北方の習俗に基づいて手を加えた。湖南の影絵人形劇の『亀と鶴』は鶴が悪で亀が善だと表現しているが、唐山の影絵人形劇で改編した『鶴と亀』は、鶴は善良で亀は凶悪なものとして表現し、さらに鶴が蛙を助ける場面を加えるなど、話全体を豊かなものとしている。斉永衡はこの演目の再創作に大変な心血を注ぎ、何度も動物園に行って鶴の動作を確認し鶴の人形の操作の問題に真剣に取り組んだ*32

例えば映画やアニメーションであればフィルムのコピーを持ってくるだけだが、影絵人形劇は生身の人間が行うため、そもそも完全に同一の内容を再現することは難しい。しかも対象は従来と異質の演目で、それを自分たちのレパートリーとするまでには一から組み立て直す必要もあり、その過程でまた変更点も生じ得る。そうした努力は「この作品は自分たちで作り上げたものだ」という感覚を抱かせるのに充分だっただろう。タイトルの『亀と鶴』をひっくり返して『鶴と亀』とし、別の作品のように扱っているのも、そうした自信に基づくものと思われる。

5.おわりに

1950年代前半は、中国全体がソ連に学んで国家建設を行おうとした時期であり、影絵人形劇に限らず多くの分野でソ連の模倣・導入が行われている。例えば児童文化という点で影絵人形劇に近いアニメーションなども、人民共和国成立後設立された上海電影製片廠美術片組のスタッフは、1951年にソ連アニメ『灰色首の野鴨』を繰り返し見て「学習」し、その結果1955年に『カラスはなぜ黒いのか(烏鴉為什麼是黒的)』を発表している*33

一九五五年に完成した一巻ものの短編「烏鴉為什麼是黒的」(カラスはなぜ黒いのか)が、中国で最初の彩色動画(セルアニメ)となった。…(略)…このアニメは、完全にソ連の「灰色首の野鴨」の影響のもとに作られているのが一目瞭然である。森の樹々を上から見おろす構図のとりかた、木の枝の張りぐあいなど、それはソ連アニメのなかの風景であり、動物たちのデザイン、動き、冬をすごす森の動物たちの物語――というテーマすら「灰色首の野鴨」に似通っている。…(略)…「灰色首の野鴨」のすばらしさに感心し、その徹底した分析研究によって、アニメーターたちが腕をみがいたことははっきりわかるし、ソ連アニメの水準に迫ろうとした努力は、「カラスはなぜ黒いのか」のなかで成果をあげている*34

現在であれば「盗作」として非難されかねないような行為だが、これに対してソ連側は特に抗議などは行っていない。それはオブラスツォーフも同様で、そもそも中国木偶劇団が行っているモスクワのレパートリーは自分で教えたものだし、『亀と鶴』の「第一届木偶戯皮影戯観摩演出会」出品に際しても賛辞すら送っている*35。当時、社会主義諸国はソ連の主導で作品が共有される「コンテンツ共産制」ともいうべき状態にあり、著作権などはあまりうるさく問われない状況にあった。中国の児童向け影絵人形劇も、そうした中で生まれてきたものであり、そのメルクマールとなったのが『亀と鶴』だったのである。

なお、現在中国政府が進めている非物質文化遺産保護政策では、影絵人形劇は伝統演目・新作演目ともに保護の対象となっているが、申請や報告の中ではどうしても「中国の伝統文化」という部分が強調される傾向がある。もちろん、そうした主張をしないと許認可が下りづらいという中国内部の問題もあるのだが、そのために外国の影響について言及されないとすれば、実態を大きく見誤ることになるだろう。本稿で検討してきたように、人民共和国成立後の児童向け影絵人形劇は、オブラスツォーフの訪中を契機として導入されたソ連人形劇の延長線上にあるものと言えるのである。

なお1950年代後半以降、中国の児童向け影絵人形劇は中国の国産アニメーションとジャンル的に一体となって様々な展開を見せてゆくが、本稿ではこうした『亀と鶴』成立後の問題については詳しく取り上げることができなかった。これについてはまた稿を改めて検討したいと思う。

*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中国における伝統芸能の変容と地域社会」(平成22~25年度、基盤研究(B)、課題番号:22320070、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。


*1 拙稿「竜江皮影戯の成立と哈爾浜児童芸術劇院」(『中国都市芸能研究』第十一輯、2012年、5―22頁)、および拙稿「黒竜江省の影絵人形劇――その系統と伝承」(氷上正・佐藤仁史・太田出・千田大介・二階堂善弘・戸部健・山下一夫・平林宣和『近現代中国の芸能と社会』、好文出版、2013年、155―177頁)。
*2 「黒竜江省の影絵人形劇――その系統と伝承」、162頁。
*3 周恩来「関於戯曲改革工作的指示」、『人民日報』1951年5月7日。
*4 謝・奥布拉茲卓夫(著)、林耘(訳)『中国人民的戯劇』(中国戯劇出版社、1961年)、1―8頁。当該書はオブラスツォーフ『中国人民の演劇』(「芸術」出版所、1957年)の中国語版。
*5 周恩来「関於戯曲改革的幾個問題」1952年11月14日、『周恩来文化文選』(中央文献出版社、1998年)、122頁。
*6 有很多被埋没了的戏曲艺术,我们今天就要把它挖掘出来。这个工作,我们还做得太少。这次来中国的傀儡戏专家奥布拉兹卓夫,他非常关心我们的傀儡戏,向我们说:你们怎么不把影子戏发展起来呢?被埋没了的,何止影子戏?因此,我们一定要花一些力量,把埋没在民间的戏曲艺术都很好地挖掘和发展起来。所以,现在不要忙于分高低,要让它们“百花齐放”。
*7 杜一明「遼西木偶・民間的芸術瑰宝」、『今日遼寧』2009年2期、55―57頁。
*8 解放初期,苏联派专家协助中国建设,其中有木偶艺术家奥布拉兹卓夫。他问周恩来总理,“你们中国有国立木偶剧团吗?”时任文化部副部长的夏衍肯定地回答,“有”。苏联专家立刻提出要看看中国木偶剧团的表演。当时的辽西文工团木偶剧队是东北地区惟一的专业团队,连夜赴京,为外国专家们演出,受到热烈欢迎和充分肯定。1953年初文化部决定将辽西木偶剧队一行23名队员全部调往北京,成立了中国木偶艺术剧团。
*9 梁德新「闽粤客家地区提线木偶戏的渊源、流传、现状」、http://lhm.pynet.net/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=635(2014年2月16日閲覧)。
*10 梅县木偶剧团成立于1951年3月,是吸收乐尧天、奏吉祥、荣华堂、富天彩、合一声、乐升平6个提线木偶老戏班中的艺人,以乐尧天戏班为基础建立起来的全团人数20多人。由著名木偶艺术家谢发担任团长。在建国后50年的时间里,梅县木偶剧团在艺术上稳步前进,取得了辉煌卓著的成绩。1952年春,谢发在广州与苏联功勋艺术家、莫斯科木偶艺术剧院院长奥布拉兹卓夫进行艺术交流。他表演了提线木偶《化子进城》中的“弄蛇”、“舞狮”等绝招,苏联专家看后为之心折,盛赞谢发控线的10个指头灵巧得堪与钢琴家相媲美,并邀请他到苏联各大城市表演。
*11 文謹「四川木偶戯古今談」(『四川戯劇』、1994年第1期、60―62頁)、62頁。
*12 1952年11月,苏联木偶艺术剧院院长奥布拉兹卓夫在成都观看了由成都市木人组(即今成都木偶皮影艺术剧院前身)演出的《情探》后,赞不绝口,表示回国后一定要好好研究中国的木偶艺术。
*13 虞哲光「泉州木偶劇団的提線芸術」(『上海戯劇』、1961年第4期、21―22頁)、21頁。
*14 (泉州木偶剧团)1952年冬,应华东“中苏友好月”大会之邀,和漳州布袋木偶戏一起首次来上海。他们演出的《木兰从军》一剧,深得苏联木偶专家奥布拉兹卓夫同志的赞赏,认为提线木偶的手能拔剑、插剑、执笔、递杯是奇迹,非常钦佩。
*15 『中国人民的戯劇』、156頁。
*16 中国木偶艺术剧团的前身是中国青年艺术剧院附设的一个木偶剧团。中国青年艺术剧院的院长吴雪同志介绍我和我的这些年青同行们认识了。我给他们表演了几个我的节目,并告诉了他们苏联木偶剧的情况。
*17 「田漢序」、『中国人民的戯劇』、1頁。
*18 一九五二年冬,中华人民共和国成立后的第三年,这位卓越的艺术家参加了苏联艺术代表团访问中国,我们有机会再度欣赏他的精彩表演。他所创造的那位有着夸张表情的女歌唱家,那位举起杯子向我们眨着一只眼睛的有趣的醉鬼,那位终于给老虎吃掉的麻痹大意的训兽演员,至今想起来还使我们忍不住要发笑。
*19 『人形劇――私の生涯の仕事』、212―214頁。
*20 『人形劇――私の生涯の仕事』、249―250頁。
*21 『人形劇――私の生涯の仕事』、218頁。
*22 オブラスツォーフ(著)、大井数夫(訳)『続人形劇――私の生涯の仕事』(晩成書房、1984年)、85頁。
*23 『中国人民的戯劇』、156頁。
*24 中国木偶剧团的剧目共有三个来源:一是由现代作家根据现实生活的题材编写的现代戏;二是合乎现代观众的兴趣和需要的古典戏;三是包括曾在苏联木偶剧院上演过的外国木偶剧目。
*25 「翟翊同志与湖南皮影」、李軍『皮影生涯三十年』(著者自印、1999年)、198―201頁。
*26 一九五二年,苏联著名木偶艺术家奥布拉兹卓夫来湖南访问演出,皮影艺人何德润、谭德贵等对奥氏演出的动物节目《驯虎》和《两只猫》很感兴趣,并从中得到启发。他们从挖掘传统中找瑰宝,终于发现,传统皮影戏《玩故事》中的鹭鸶与乌龟,是两个很有特点的动物,利用它们加以发挥,可以搞出有益有趣的皮影寓言剧。于是,试探着进行创作。他们刚把架子搭好,翟翊同志来了。了解了艺人们的创作意图后,翟翊同志兴致勃勃,立即动手设计动物形象和布景,与大家一道研究节目的思想内容和表现方法。这样,美术工作者与皮影艺人相结合的第一个结晶《鹭鸶与乌龟》――以后,把鹭鸶改成仙鹤,更名为《龟与鹤》――在皮影银幕上出现了。
*27 なお湖南の影絵人形劇については、千田大介「湖南影戯研究の現状と課題」(『中国都市芸研研究』第五輯、2006年、53―74頁)を参照。
*28 「田漢序」、『中国人民的戯劇』1頁。
*29 他是一面表演,一面说唱的。费德林同志告诉我:“你若听得懂他的话你会更感兴趣,因为奥布拉兹卓夫是一位卓越的艺术家,他的语言也是那样的美妙!”
*30 社火戯については、楊飛(編著)『陝西皮影藝術』(好文出版、2008年)、25頁を参照。
*31 魏力群『冀東皮影戯』(科学出版社、2009年)、85頁。
*32 唐山皮影排演这个节目时,依据自己的表演手法和皮质材料不断进行加工与革新,剧中的情节与相互关系也根据北方的习俗做了改动。湖南皮影的《龟与鹤》,表现仙鹤是恶的、乌龟是善的、而唐山皮影改编的《鹤与龟》表现仙鹤是善良的、乌龟是凶恶的,而且在整个故事情节上进行了丰富,增加了仙鹤救助青蛙的情节等等。齐永衡先生为这个剧目所进行的再创作也耗费了很大心血,他常常到动物园观察仙鹤的动作,认真琢磨仙鹤形象的操纵表演问题。
*33 小野耕世『中国のアニメーション』(平凡社、1987年)、85頁。
*34 『中国のアニメーション』、93―96頁。
*35 『中国人民的戯劇』、153頁。

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