『都市芸研』第七輯/江南皮影戯初探

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江南皮影戯初探

千田 大介

はじめに

皮影戯、すなわち皮革や紙を切り抜き彩色した人形を、スクリーンの後ろから灯火で透かして投影し演じる影絵人形劇は、宋代に文献にあらわれ、旧時、中国の各地で広く行われていた伝統芸能である。清末から民国時期にかけて最盛期に到達した後、伝統社会の変容、近代的な娯楽メディアやコンテンツの出現といった環境の変化によって、今や老芸人と老観客によってかろうじて命脈を保っている状況である。

現在、中国で皮影戯が盛んな地域としては、河北・東北、陝西・甘粛、四川、湖南などが知られているが、その大半は北方・西北・西南などの経済的にやや立ち後れた地域である。一方、古来、中国経済の中心地域である長江デルタ、いわゆる江南地方にも皮影戯が存在している。

北方の皮影戯は、主要な劇種として地域社会に大きな影響を与えているものが多いが、江南には多くの伝統劇・芸能が存在しているため、皮影戯の影響力は比較的弱いと思われる。そのためか、江南皮影戯に関する研究はさほど多くない。しかしそれ故に、皮影戯という劇種の他の伝統劇・芸能に対する特色を明らかにする恰好の素材となり得るであろうし、また、皮影戯を通した地域社会の比較も可能となろう。

かかる見地から本稿では江南の皮影戯を取りあげ、主に文献資料の調査・分析を通じて、皮影戯の分布や歴史について、その概略を明らかにしたい。

ある地域に皮影戯が存在するか否かを把握するために、本稿では、論文・調査報告や雑誌・新聞記事等のほか、新編地方志をも活用する。1980年代以降、各地方政府によって編纂されている新編地方志は、記述がともするとステレオタイプ的で、時に実際に取材しているのか否かが疑わしい記事が混入している点には留意が必要であるものの、民間芸能や演劇などについても項目を立てているものが多く、行政単位ごとに皮影戯の存在状況を確認する上でうってつけの素材であると言える。

1 海寧皮影戯

1-1 海寧皮影戯の流行地域

江南地方で皮影戯が行われている地方はごく限られているが、その中で、とりわけよく知られているのは浙江省嘉興市海寧市の皮影戯である。その流れを汲む皮影戯の劇団は、嘉興のみならず上海にも存在しており、それが江南においてもっとも影響力の大きい皮影戯劇種であることは論を俟たない。この皮影戯を本稿では、海寧皮影戯と呼ぶことにする。

皮影戯研究の一つの金字塔である、江玉祥『中国影戯与民俗』*1が言及する江南地方の皮影戯は、二つある。一つは、劉煥林「澄西農村的演劇和雑戯」*2に見える、江蘇省無錫市江陰市の農村で行われていた紙影戯で、同論文以外の資料に見られないものである。もう一つが“浙江皮影”、すなわち本稿でいうところの海寧皮影戯である。同書では、全国の皮影戯を七系に分類した中に「杭州影系」を立て、その下位分類である「浙江皮影」の行われている地域が、杭州・寧波・紹興・餘杭・海寧・平湖・海塩・桐郷・徳清であるとする。

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筆者が浙江省の新編地方志で確認したところでは、海寧皮影戯に言及しているのは、嘉興・桐郷・海寧・海塩にとどまった。いずれも、嘉興市に属している。江玉祥が挙げる地名ではこのほか、日中戦争の激戦地として知られる平湖が、嘉興市に属している。また、杭州に関しては、省の皮影劇団が組織されたので皮影戯が存在したことがあるし、余杭についても嘉興市に隣接するため、海寧皮影戯の劇団の活動範囲内であったと思われる。ただ徳清については、湖州市の中南部で嘉興市から隔たっているため、多少の疑問が残る。また、海寧と杭州湾を隔てた寧波・紹興に関しても、やはり具体的な資料が見つかっておらず、今後の確認が必要である。いずれにせよ、海寧皮影戯の中心的な流行地域は、上海・嘉興・杭州を結ぶライン、すなわち京杭大運河および鉄道滬杭線よりも南東側の一帯ということになる。

しかし、新編地方志に記事がある地域でも皮影戯が現在残っているわけではない。

50年代以降しだいに衰退し、現在は跡形もない。(『海塩県志』*3pp.774)*4

1956年に崇徳県皮影戯劇団が成立した。……1983年に上演を停止した。(『桐郷県志』*5pp.1173)*6

嘉興市で現在も皮影戯の芸人が存在するのは、海寧市の塩官付近に限られている。

江玉祥は、また、浙江皮影戯と同系統の「上海皮影」について、「南匯および浦東全区」で流行しているとする。

この皮影戯については、江氏の著書刊行後に世に出た新編地方志『上海県志』*7が、特に一項を立てて詳述している。それによると、上海の西南部、地下鉄一号線の終着駅である莘荘にほど近い七宝鎮に皮影戯の劇団が存在していた。その皮影戯の由来については、以下のように述べる。

清の光緒年間の初め、七宝の毛耕漁は浙東の皮影芸人・殷茂功から学び取って帰郷し、高台山歌の名手・趙少亭(阿全)を弟子に収めた。師弟は影人を作り、道具を準備して、一年あまりで用意が調った。そこで、礫琳廟の釈懐周を笛師に、鍛冶屋の主人・銭連奎を糸竹に、道士・陳妙根を鼓手として、皮影劇団を組織した。後に、青浦の武学生員・蔡鴻儀が「鴻緒堂」という額を贈った。1880年(光緒六年)春、七宝鎮の解元庁で初めて上演し、一気に名をなした。おこなわれた範囲は、県外の奉賢にまで及ぶ。(pp.1283)*8

毛耕漁が皮影戯を学んだ具体的な場所については、以下のように見える。

友人を金山に訪ねた際に浙東皮影戯を見て、どうしてもやってみたくなり、殷茂功に弟子入りした。(pp.1283)*9

金山とは、すなわち上海市の浙江省境にほど近い杭州湾沿岸の町・金山衛のことである。浙東とは、一般に紹興・寧波など銭塘江以南の東部地域を指すが、ここでは浙江省の北東にあたる嘉興市のことを指すのであろう。実際、同県志が掲げる影人の図像の造形は、あきらかに海寧皮影戯の流れを汲むものである。金山衛で皮影戯が行われていたことは他の資料に見えないが、しかし嘉興市と接する杭州湾沿いの都市であり、地域的に連続性があるので、海寧皮影戯が進出していたと見て問題なかろう。

上海七宝皮影戯影人(『上海県志』)

七宝の皮影戯については、このほか璩墨熙口述・段煉整理「皮影人生――上海七宝民間芸人訪談録」*10にも詳しいが、皮影戯成立の経緯については『上海県志』と一致する。それらの資料によると、七宝の皮影戯は、海寧皮影戯の基礎の上に上海的な要素を加えた、独自の洗練された風格を形成したとされる。

なお、七宝の皮影戯は2004年に数十年ぶりの復活公演が行われ*11、2008年には皮影戯館がオープンして固定の上演・展示場所が確保されている*12。前者の復活公演が、上海在住のオランダ人女性・孟瑪莉氏が上海文聯に働きかけて実現したものであり、また皮影戯館の成立が2006年に始まった中国国家級非物質文化遺産登録申請の狂騒とリンクするものである点は、皮影戯の現代的な存在価値を端的に物語るものであると言えよう。ただし、現在の七宝皮影戯で演じられる台本は2000年以降に再創作されたものであり、影人も同時期に収集・補充されたものであるというので*13、必ずしも伝統的な芸が忠実に継承されているとは限らないようだ。こうした点については、今後、現地調査を通じて明らかにする必要があろう。

1-2 海寧皮影戯の特色

海寧皮影戯に関しては、筆者は既に数次の現地調査を実施し、老芸人へのインタビューなどを蓄積している。しかし、現地調査は未だに継続中であるため、本稿では老芸人のライフヒストリー、劇団や海寧皮影戯の社会的位置づけといった問題に関する詳細な考察には踏み込まず、主に文献資料によってその概略をまとめ、清代以前の歴史について検討することにする。

1-2-1 影人と名称

海寧皮影戯は、現地では「影子戯」・「百紙頭阿三」・「紙人」などと称されている*14。「紙頭」・「紙人」と呼ばれるのは、『都城紀勝』・『夢梁録』の、当初紙製であった影人が後に羊皮で作られるようになった、という記述に対応するものである。

影人の材質については、各種文献資料は羊皮であるとしているが、江玉祥は近年、牛皮およびセルロイド製のものが出現したとしている。海寧市档案局『海寧皮影戯(図文版)』*15によれば、近年、製革技術の向上によって、何層かに剥いだ薄手の牛皮が作られるようになったので、羊皮から牛皮に改められたのだという。

海寧皮影戯の影人の画像は、『海寧皮影戯(図文版)』が豊富に掲載している。それらの図版から窺える海寧皮影戯影人の造形上の特色としては、まず頭が輪郭を残してくりぬいた「空臉」ではなく、顔の形に切り取った皮革に目鼻などを描いた「実臉」である点が挙げられる。中国の皮影戯で実臉を採用するものとしては、河南省の桐柏皮影戯が知られている。あるいは、北宋の首都のあった河南と南宋の首都が置かれた浙江の皮影戯が共通する特色を有するのは、宋代皮影戯の遺風をとどめるからであるとも思えるが、しかし、桐柏皮影戯が行われる河南省信陽市が、湖北省との境界に位置し、鄭州・開封などの黄河流域よりも、むしろ武漢に近い地域であることを考えれば、その蓋然性は低いと言えよう。

海寧皮影戯影人(『海寧皮影戯(図文版)』)

もう一つの造形上の特色としては、腕と足の処理が挙げられる。『海寧皮影戯(図文版)』に挙げる影人の多くは腕が一本だけであり、また、両足を分けずに一体に彫刻したものも多く見られる。ただし、全てが一本というわけではなく、両手・両足が動くように出来たものも見られる。そうした影人は、立ち回りに用いられるものが多いように見受けられる。おそらく手・足一本ずつの影人が基本形で、上演におけるニーズにあわせて、二本のものも用いられるのであろう。手が一本の影人は、他に湖北の雲夢皮影戯にも見られる。

影人のサイズは30~33cm、すなわち一尺である。

1-2-2 音楽

海寧皮影戯の音楽については、前掲『海寧皮影戯(図文版)』と崔金華・石晨陽「走進民間芸術――徴集海寧皮影戯資料隨筆」*16に詳しい。以下、それらの記述に基づいてまとめる。

海寧皮影の演目は、開台戯と正本戯に分かれ、それぞれ音楽が異なっている。

まず開台戯は、すなわち開場戯のことであり、多くが武戯である。音楽は乱弾が用いられる。乱弾は弋陽腔とも称されるというが、要するに皮黄である。曲牌として、回竜・三五七・文二凡・武二凡・武三凡などが挙げられる。しかし、皮黄は板腔体であるから、板式と呼んだ方が正確だろう。伴奏楽器は、回竜・三五七では笛子が、それ以外では小二胡、すなわち京胡が用いられる。曲調は激しく高らかで、朝廷の大臣や英雄豪傑の歌唱に適している。

正本戯の音楽は長腔・塩曲・阿拉腔・高腔などと称される。「阿拉」とは現地の方言で、「我々の」というような意味である。曲調は穏和で情緒纏綿としており、才子佳人などの叙情的な場面の歌唱に適している。伴奏楽器には、笛子・二胡が用いられる。

主要な曲牌には以下のものがある。

酒満金杯、八仙慶寿、当頭君官、忙下跟感謝、皇榜招賢、十載清灯、酒色財気、学余攻書、歩出蘭王、見紅秋生、死去還魂、祥雲万道、混江竜、進花園、桂枝香、鎖南子、上朝例、下江関、歩歩高、浣紗調、叫王竜、想夫君、蔣世竜、山坡羊、嘆無常、男引子、女引子、数十殿、双落尾、常腔、尾声、招供、哭腔、吊腔、魚曲、上告、出猟、長腔双落尾、南腔十八板、哭書担、急板似雲飛、訓子、小団円、夜蟠桃、跌雪、日出扶桑

以上は『海寧皮影戯(図文版)』から引用したが、「歩出蘭王」は「歩出蘭房」、「鎖南子」は「鎖南枝」の誤りであろう。「叫王竜」は「降黄竜」であろうか。

「八仙慶寿」・「混江竜」・「桂枝香」などのように、明清の南曲や崑曲などと共通する曲牌名が見える一方、「酒色財気」・「魚曲」・「招供」・「跌雪」などは、呉梅『南北詞簡譜』にも見いだせない。こうした曲牌の用いられ方について、『海寧皮影戯(図文版)』は以下のように述べる。

兄弟の挨拶では「桂枝香」を、奏上の時には「臣奏明君」を、狩りの時には「出猟」を、酒を飲むときには「酒満金杯」を歌う……。(pp.51)*17

固定の曲牌が用いられているとはいえ、それは物語上の場面によって取捨選択されて用いられるものであり、宮調に基づいて排列が決まっているわけでは無い、つまり純粋な曲牌聯套体ではないようである。

1-2-3 劇団

海寧皮影戯の劇団については、『海寧皮影戯(図文版)』が詳しい。それによると、清末から民国時期にかけて海寧には12の皮影劇団があり、斜橋・郭店・周王廟・路仲・長安鎮など、海寧の西部に分布していた。

中華人民共和国建国後は、1955年に海寧の皮影芸人によって杭州に浙江省木偶皮影芸術劇団が組織されるが、58年にはそのうちの皮影隊が浙江省皮影劇団と改称され、海寧に「下放」される。その後、1959年には全国皮影木偶観摩演出に参加している。文革後は、1979年に省文化庁によって朝陽青年皮影隊が組織されるが、1986年に活動を停止している。その後は1995年には影人彫刻家として知られる王銭松の主導によって、斜橋鎮文化站皮影班子が成立するが、2年余りで解散する。その後も、主に観光資源としてのニーズによって、臨時に劇団が組織されていたが、2003年、銭塘江の逆流観覧スポットとして知られる塩官に整備された古鎮風の街並み、塩官風情街に上演場所が設けられ、塩官風情街演出班子が常駐している。一方、2004年には沈聖標氏が江南皮影芸術団有限公司を設立、海寧皮革城などで皮影戯を上演している。

劇団については、劇団員へのインタビューを元に、稿を改めて詳細に論ずる予定である。

1-2-4 劇団構成

海寧皮影戯の劇団は、5名で構成され、「五人忙」と称される*18。皮影戯は一般に、冀東・北京・山西・陝西など北方では「七緊八忙九稍停」と言われるのに対して、海寧・河南・湖北などでは5人程度が一般的である*19

劇団の分担は以下の通りである*20

  • 簽手(灯底下):スクリーン中央:歌唱・影人操作
  • 前手:簽手の左:嗩吶・竹笛・堂鼓などの演奏
  • 下档(翻箱):簽手の右:影人の整理
  • 上档:簽手の右後方:二弦・大号
  • 後曹:簽手の左後方:二胡・板胡・鼓板

1-2-5 上演地域・文脈

海寧の劇団は、旧時、海寧県内にとどまらず、桐郷・嘉善など、嘉興地区の各地にまで上演に出かけたという。清末民国時期には、海寧県内の農村で広く受容され、農村の「大戯」であった*21

皮影戯の上演の文脈には、

  • 家庭の喜慶・敬神等
  • 廟会
  • 「蚕花戯」

などがある*22。「蚕花戯」は、清明のころ、その年の養蚕の順調を蚕神に祈祷するために、夜通し皮影戯を上演するものである。上演後、スクリーンの桃花紙を招請者に贈り、蚕棚に貼り付けるという。中国有数の絹糸の産地である同地域ならではのものであると言えよう。蚕花戯についての詳細な考察は、本誌所収の山下一夫氏の論攷に譲る。

各劇団のレパートリーは100から300に達し、上演時に招請側が「点戯」する*23。報酬は、民国時期以前は物納で、上演一回ごとに米7斗であった*24

上演の文脈は、概して他の地域の皮影戯やその他の伝統芸能と大差ない。旧時、上演の報酬に農作物を物納していたことは、山西・陝西など北方の皮影戯でも広く見いだせる現象である。

1-3 海寧皮影戯の歴史

1-3-1 形成と沿革

海寧皮影戯の起源について、確固たる資料はないが、南宋の都となった臨安で皮影戯が上演されていたことは『都城紀勝』・『夢梁録』に記載があるため、先行論のほとんどが宋の南渡によって皮影戯が伝播したとしている。

なかでも「海寧皮影与塩曲」は、以下のように述べる。

多くの宋皇室に従って南渡した移民の中に、一群の河南睢陽(今の商丘)地区の芸人がおり、こちらに到着した後に京城臨安近郊の塩官県(今の海寧市)に散らばった。*25

河南睢陽など具体的地名が挙げられているものの、その典拠は挙げられておらず、にわかには信じがたい。

皮影戯は宋の南渡期には既に開封にとどまらず、小規模な地方都市でも上演されていたことがわかっているので*26、江南の一大商業都市であった杭州への皮影戯伝播は、むしろ北宋にまで遡ると考えた方が自然である。

海寧皮影戯に関する確固たる資料としては、清の呉騫『拝経楼詩話』*27がもっとも古い。

影戯は、ある人は漢武帝の李夫人の事を模倣したものだと言っている。我が州の長安鎮ではこの劇が盛んである。査岐昌の『古塩官曲』に次のような詩が見える。「つややかに語る長安のよろしき子弟、衣をいぶして高らかに歌うは弋陽腔」。おそらく(人形は)はみな皮革に描いて作られているため、いぶすことによって虫をよけるのであろう。(巻三)*28

査岐昌も海寧の人である。詩の全文は以下の通り。

新年の影戯が灯火を集め、
鐘太鼓が村むらで夜の窓を賑わせている。
つややかに語る長安鎮のよろしき子弟、
衣をいぶして高らかに歌うは弋陽腔。*29

呉騫は海寧の人で蔵書家として知られ、嘉慶年間に81歳で没している。

また、清の光緒年間に閥閲門第での皮影戯上演が禁止されたとの説がある。例えば、「海寧皮影戯的伝入継承発展和創新」は以下のように述べる。

当時、高官や貴人、郷紳・金持ちの冠婚葬祭に奉仕しており、非常に栄えていた。しかし、清の光緒年間になって、理由はわからないが、朝廷は「閥門での上演を禁ずる」ことを命じた。これより芸人は民間に流入した。やがて、農村の庶民に愛され、ふたたび繁栄へと向かった。*30

『嘉興市志』*31も同様の説を載せる(pp.1819)が、いずれにせよこの説の典拠は見られない。考えるに、これは、北方の皮影戯に見える、白蓮教の乱で皮影戯が取り締まられたとの説を、よく確認しないままに海寧皮影戯史の記述に取り入れたものではなかろうか。

そもそも、前掲『古塩官曲』では「村村」と明記しており、また『拝経楼詩話』も「長安鎮」で盛んであるとしている。ここから、乾隆・嘉慶の頃には既に皮影戯は郷村の習俗として認知されていた事が知られるのであり、清末以降、初めて農村で盛んになったという説は、そもそも成立し得ない。戯曲史の常識からして、江南の富戸であれば堂会には人戯を用いたであろうし、家班を蓄えるものもあったことだろう。

1-3-2 海塩腔遺音説

また、海寧皮影戯の長腔には、海塩腔の遺音が含まれるとの説がある。これは『中国戯曲曲芸詞典』*32の「海塩腔」の項に見える。

現在の海寧皮影戯で歌われる「専腔」を、ある人は海塩腔の成分を未だに保存しているとしている。*33

しかし、この「ある人が」という書き方は、辞書の項目としてはいささか不自然であり、いかにも特定の個人だけが主張しており、広く賛同が得られている説ではないが無視もできない、と思わせるような書きぶりである。

筆者は、海塩腔遺音説の蓋然性は低いと考える。前に正本戯の曲牌について見たが、曲牌は場面ごとに選ばれて使われており、曲牌聯套体をなしていなかった。つまり、海寧皮影戯はそもそも南曲の声律を厳密に受け継いではいない。また、『海寧皮影戯(図文版)』が載せる海寧皮影戯の演目を見るに、大半が京劇などとも共通する、清代後期に流行した比較的新しい層の物語であり、明の万暦以前の南戯を忠実に継承する演目は見られない。皮影戯は一般に、現地で行われている人戯の音楽・レパートリーを取りこんで発展しているが、海寧皮影戯についても同様であると考えるべきであろう。

2 もうひとつの江南皮影戯

2-1 浙江省安吉・安徽の皮影戯

旧時、江南地方で行われていた皮影戯は、海寧皮影戯に留まらない。浙江省では、太湖の南岸一帯、嘉興市の西隣にあたる湖州市の安吉県にも皮影戯が存在していた。

『安吉県志』*34

皮影戯 外地から伝播した。解放前および解放初期に、県境北部と西部の安徽省と隣接する一帯で行われた。内容は、神話・歴史物語が主である。廟会・新春などの時節に、村民が資金を出し合って上演に招請する。(pp.501)*35

「解放前および解放初期に」行われていた、という書き方をするところからして、現在は既に滅びているのであろう。また、同地の皮影戯は「外地から伝播した」ものであるからには、古くから地域で継承されてきたものではない。竹の町として知られ、その竹林が映画『グリーン・デスティニー』のロケにも使われた安吉県は、浙江省の西北隅に位置しており、杭嘉湖平原から西へ莫干山を超えた所の盆地で、安徽省と境を接する一方、海寧とは直線距離にして100km以上の隔たりがある。「安徽省と隣接する一帯で行われた」からには、ここで言う「外地」は、距離・地勢上隔たりのある海寧ではなく、境を接する安徽省であると読める。

事実、安吉県と境を接する安徽省南東部の宣城市宣城県・郎渓県・広徳県一帯では、広く皮影戯が行われていた。以下、新編地方志の記述を列挙する。

『宣城県志』*36

清末以来、県内に流行した劇種に以下のものがある。……皮影戯。(pp.635)*37

60年代初め、県内のいくつかのプロ芸能団体が統廃合され、メンバーも転職した。多くの芸能に従事していた芸人が、公社や生産隊、親友の援助に頼って生活した。あるものは生計に迫られ、春節や節句に四五人が集まって、連絡を取り合って芸能活動を行い、生活の足しにした。文革時期には、彼らは「闇芸人・闇劇団・闇上演」のレッテルを貼られて、追及・取締された。中国共産党第11回三中全会以後、県文化局は調査研究を通じて、1989年6月から三ヶ月の時間を費やして、全県に散り散りとなった150人余りの民間芸人に対して、一斉調査・登録・審査・「民間芸人証」の発給を行い、各種ルール・制度を制定した。その結果、周王・五星・建国の三つの皖南花鼓劇団、黄渡越劇団、五つの皮影戯の“担子”、六つの雑伎・手品上演グループが明らかになった。それらは県内の農村のみならず、県や省を出ての巡回公演も行っていた。……1985年以降、農村へのテレビの普及に伴い、民間劇団とその他の芸術上演団体の活動は次第に落ち込んでいき、上演したり活動停止したりといったものもあれば、自ら解散するものもあり、多くの俳優・職員は現地の郷鎮企業に転入して仕事するようになった。(pp.637)*38

『郎渓県志』*39

郎渓の皮影戯は、“湖北影子”と呼ばれている。民国22(1933)年より前に、県内の南豊郷に出現した。老芸人の楊春発(広徳の人)が、弟子に伝授したものである。この種の皮影戯は、三~五人で劇団を組み演ずることができる。上演時には四本の竹竿で、一枚の長さ2メートル、幅1メートルの白い布(影幕)を支え、他に一枚の戸板で支えて舞台裏を作り、影絵人形と道具を置く。影絵人形の各種人物は、牛・羊革で作られ、彩色を施し、上演時には光線の反射を利用して影絵人形を影幕の背後から現し、正面から見ると生けるが如きである。

うたわれる曲調は、他の皮影戯と異なり、曲調は京劇・徽劇の劇団に起源するもので、節回しは高らかかつゆったりとして、常に京胡・京二胡・笛子・チャルメラと打楽器の伴奏が付く。聞いてみると、京劇のようで京劇でなく、独自の味わいがある。上演される出し物は、大半が『五虎平西』・『五虎平南』・『西遊記』・『三盆奇花』・『封神榜』・『秦香蓮』などの続きものである。

発掘と整理が行われなかったことから、郎渓皮影戯は既に跡形もなく消え去っている。(pp.799)*40

『広徳県志』*41

県皮影戯劇団  その前身は1956年に成立した広徳県芸明皮影劇団であり、城関鎮の指導下に置かれ、歩合制を実施した。1963年、集団所有制に改められ、県の文教科の指導下に置かれた。1966年6月、解散された。1979年3月に復活した。まもなくまたも民間経営プロ劇団に改組され、しばしば農村を巡回上演したが、後に自主的に解散した。(pp.492)*42

清末、湖北・河南などの地域から移民が大量に流入し、皖南花鼓戯と皮影戯が広徳の二つの主要劇種になった。……皮影戯は本県に流行する主要な劇種の一つで、県内に伝わって既に百余年の歴史がある。同劇種の音楽・節回しは激昂・奔放で、率直・豪壮な人物の性格を表現するのに適している。皮影は処理された半透明の牛皮で制作され、俳優がスクリーンの後ろで皮影を操作し物語を歌う。演目は多くが演義小説や伝統故事に取材しており、例えば『東周列国』・『三国演義』・『岳飛伝』などがある。1956年、広徳県芸明皮影劇団が成立してから、もとの伝統演目に対して全面的な審理が行われ、上演の質が向上した。1963年同劇団は浙江海寧皮影劇団を訪ねて学習し、童話劇・現代劇の制作・操作技術を基本的に習得し、移植された『智取威虎山』・『敵後武工隊』・『半夜鶏叫』などの現代劇をつぎつぎと上演し、観衆の好評を得た。文化大革命が始まると、皮影は封建・ブルジョア・修正主義の負の遺産と見なされて焼き払われ、劇団も解散させられた。1979年3月、県皮影劇団は復活したが、間もなく民営劇団に改組され、主に農村を巡回上演している。(pp.495)*43

『寧国県志』*44

皮影戯 「影戯」・「影灯戯」・「土影戯」とも呼ばれる。灯火で獣皮あるいは厚紙で作った人物の人形を照射し、物語を上演するもの。演目・唱腔は多く地方戯曲と相互に影響し合っており、芸人の歌に音楽をあわせる。皮影戯は北宋時代に既に演じられており、流行地域・曲調と人形の材料の違いにより多くの劇種が形成された。安徽南部で流行しているのは大小二種で、小影は京徽調を歌い、大影は民間の小調や花鼓戯を歌い、演じながら歌い、時に幇腔も使われる。寧国県で流行する皮影戯は、多くが大影に属する。

芸人・徐雲清によれば、清の咸豊年間(1851~1861)の兵乱の後、寧国の人口は激減し移民が大量に流入した。湖北移民の中の黄・杜二人の皮影戯芸人が、県内で皮影戯を伝授し、徐雲清はその五代目の弟子である。当時はただ「求神還願」のためにしか上演されず、観客も多くなく、あまり広まっていなかった。ただ、虹竜の成亮・徐雲清、城関の陳正義、東岸の何顔青、港口の呉秀権、姚高の李志清など10人しか従事していなかった。解放後、その多くは跡形もなくなってしまい、ただ、徐雲清・陳正義の二人だけが、県・鎮政府の批准を経て、河瀝渓鎮皮影戯演出隊を組織した。劇団員は4~5人で、農閑期に宣城・郎渓・広徳・寧国など4県の農村で上演したが、1981年に活動を停止した。皮影戯の主な伝統演目には、『三打祝家寨』・『唐明皇遊月宮』・『五虎平南』・『朱洪武起義』などがある。(pp.689)*45

これらの地域は、いずれも地区級市である宣城市に属する一体性を持った地域であり、かつ、上記の資料中でも、広徳の皮影芸人が郎渓に皮影戯を伝え(『郎渓県志』)、寧国の劇団が宣城・郎渓・広徳でも上演したとされる(『寧国県志』)など、同じ系統の皮影戯が流行していたことが推測される。また、同地域の皮影劇団は省外にまで足を伸ばすことがあった(『宣城県志』)とされるから、浙江省安吉県で行われていたのもこの皮影戯であったことになる。以下これを、皖南皮影戯と呼ぶことにする。

従来の皮影戯研究で、皖南皮影戯に言及したものは見あたらない。中華人民共和国成立後、調査や全国匯演などを通じて、全国の伝統芸能の状況が明らかにされているが、そうした成果を反映したと思われる「対全国皮影戯初歩統計」*46でも、安徽に皮影戯が存在することには言及していない。おそらく何らかの理由で統計調査から漏れたため、学界から存在を認知されることが無かったのであろう。

2-2 皖南皮影戯の特色

以上の新編地方志の簡略な記述から、皖南皮影戯の特色を分析してみよう。

まず注意すべきは、大影・小影の二種類があったという点である(『寧国県志』)。この呼称は影人の大きさに基づくものと思われるが、大影は「小調や花鼓戯」を歌い、小影は「京徽調」すなわち皮黄を歌ったとされるように、全く異なる皮影劇種であったようだ。皖南皮影戯は湖北・河南の移民がもたらしたものであるとされるから、大影と小影はそれぞれ別の地域に起源すると考えられよう。

新編地方志に皖南皮影戯の影人の画像は見られないが、最近の新聞記事に写真を掲載するものがあり、ネット上で閲覧することができる。寧国の大影については、「皖南皮影,正在消失的舞台風景」*47に写真が掲載されるが、影人の大きさ、丸みを帯びた造形、比較的粗い彫刻、および影人の胴体を操作する棒「命棍」を首の後ろに付ける点など、湖北の仙桃皮影戯に酷似している。

皖南皮影戯影人(寧国)(「皖南皮影,正在消失的舞台風景」)
仙桃皮影戯影人(『民間美術』湖北美術出版社、1999)

一方、「打開文化的窓」*48には宣州区(すなわち宣城)の皮影戯の写真が掲載されるが、サイズは寧国のものより明らかに小振りで、しかも頭を彫刻せずに彩色する「実臉」である。実臉の皮影戯としては、海寧皮影戯と河南桐柏皮影戯が知られるが、鼻や口を際立たせない造形は、桐柏皮影戯に酷似する。

皖南皮影戯影人(宣州)(「打開文化的窓」))
仙桃皮影戯影人(桐柏皮影戯影人(『中国民間美術全集』山東教育出版社・山東友誼出版社、1995)

高順艶「太平天国戦争後的広徳県移民」*49には以下のように見える。

同治年間、河南羅山県の皮影戯芸人である張雁斌・汪金生らが、広徳の河南移民地区で皮影戯上演で生活していた。同劇種の芸術的特色は、唱腔が雄大・奔放で、人物の性格的特色の表現に富んでおり、内容は“封神戯”が主体で、しばしば豊作祈願や厄除けに用いられ、次第に広徳の人々に好まれるようになっていった。後に、光山県の皮影芸人である余雁堂・肖軒元らが相次いで広徳に移住してきて、現地土着の人が師に仰いで芸を学ぶようになり、皮影戯の伝播する範囲をさらに広げた。河南皮影戯と比べて、湖北皮影戯はいささか見劣りし、自らの唱腔が無く、歌われる内容も比較的狭く、影響を及ぼした範囲も相対的に狭い。(pp.50)*50

いかなる資料に基づくのかが明記されていないのが気になるが、記述は相当の具体性を持っている。これによれば、羅山県・光山県に由来する皮影戯、すなわち現在の河南省信陽市の桐柏皮影戯と、湖北系の皮影戯が皖南には存在していた。前者がすなわち小影で、後者が大影であると考えられよう。

しかし、河南皮影戯は皮黄を歌わないし、仙桃皮影戯も花鼓戯を歌わない。ところで、現在同地域で演じられている皖南花鼓戯は、湖北東路花鼓調と河南曲子それと現地の民謡が融合し、説唱芸能・小戯そして人が上演する演劇へと発展したものだとされる*51。また、清末民初には、全国的な流行を見せていた京劇も、当然のことながら伝播していた。ともなれば、皖南皮影戯大影・小影の曲調は、本来の湖北・河南の曲調を保っているわけではなく、同地域に形成・流行した人戯劇種の影響を受けているものと考えられよう。

上演に要する人数は、5人以内であるとされる(『宣城県志』・『郎渓県志』・『寧国県志』)。海寧皮影戯の「五人忙」という言い方を彷彿させる。

中国の皮影戯は大半の地域で歴史ものと神怪ものをレパートリーの中心にするが、皖南皮影戯もその例に漏れない。演じられる歴史物語は、『五虎平西・平南』・『朱洪武起義』といった、清代の比較的新しい層に属するものが目立っている。

ところで、新編地方志の記述からは、皖南皮影戯の劇団が1990年代には絶滅状態にあったことが窺えるが、しかし前掲のニュース記事から見るに、現在は複数の劇団・芸人が活動しているようである。これは非物質文化遺産ブームを受けて、地方政府がてこ入れした結果であろうが、いずれにせよ、老芸人への詳細なインタビューを実施して、皖南皮影戯の歴史と実態を記録することが急務である。

おわりに

新編地方志によれば、皖南皮影戯は、湖北・河南などの移民がもたらしたものであるという。移民が生じた原因となったのは、「咸豊年間の兵乱」(『寧国県志』)、すなわち太平天国の乱である。太平天国は広西に発祥するが、1853年に南京を攻略して首都を置き、以来1864年の南京陥落まで、前後11年に及んで清王朝と激戦を繰り広げる。その主戦場となった南京周辺の江蘇・安徽などでは、荒廃が進み人口が激減している。

皖南一帯の人口も、太平天国の乱を通じて大幅に減少しており、例えば広徳県では、1855年に310,994人であった人口が、1865年にはわずか6,328人になっている*52。浙江省についても、とりわけ杭州・湖州の被害が甚大で、安吉では人口損耗率が96%との推計がある*53。しかし、太平天国後の復興の結果、各地の人口は急速に回復している。例えば広徳の人口は、1880年には129,548人となっている。それは外地からの移民受け入れの結果であり、清末、広徳土着の住民は全体の二割を下回っている。こうした状況は寧国・宣城など皖南一帯、そして浙江省湖州などでも変わらない。そうした移民の供給源となったのが、太平天国による人口の損耗が比較的軽微であった、周辺地域、湖北・河南である。

中国文化史上において、戦乱・災害などを契機とする移民の発生は、地域文化の伝播と交流に大きな作用を果たしてきたが、それは太平天国でも同様であった。江南文化の中心が蘇州から上海に移ったことは夙に知られているが、前掲「太平天国戦争後的広徳県移民」によれば、白花菜(風蝶草)・ニンジン・空心菜・甘薯などの作物が河南・湖北移民によって皖南にもたらされるなど、食文化も大きく変化している。皖南皮影戯もそうした文化伝播の典型的な一例であると言える。

一方、海寧皮影戯が流行する嘉興府における太平天国の被害も決して小さくはなく、人口損耗率は70%前後に上っている。それでも、損耗率が90%を上回る皖南・湖州などの地域に比べれば、文字通り桁が一つ違っており、外地からの移民受け入れもさほど多くはなかった。それゆえに、皮影戯など、乾隆・嘉慶以来の地域の伝統文化を保持することができたのであろう。こうしてみると、太平天国は浙江を含む江南の文化的地図を書き換える、大きな契機であったことが改めて確認される。

また、『中国移民史』では、太平天国後の江南について、次のようにも述べる。

蘇州・嘉興などの府の例はまた、戦前の人口が既にして過剰であり、かつ大規模に移民を受け入れなかった地域では、戦後の人口増加速度が戦前とほぼ同じであり、補償的な急激な増加が見られなかったことを示している。人口の減少は一人あたりが占有する資源の増加を意味し、そのため、多くの地域で、戦後の人々の生活は明らかに戦前よりも向上した。(pp.470)*54

そうであるならば、海寧皮影戯や皖南皮影戯が清末から民国時期にかけて最盛期を迎えたのは、人口圧力の低下による生活の向上によって、農民に個人で皮影戯の上演を招請できるだけの余力が生まれたことに一因があるとの推論が成り立つ。

清末から民国時期にかけての皮影戯の隆盛は、全国各地に共通して見られた現象だが、その理由は従来必ずしも明らかになっていなかった。海寧皮影戯や皖南皮影戯の事例は、各地の皮影戯が同時的に隆盛した背景に、戦乱・移民といった地域の枠を超えたマクロな社会・経済環境の変化が存在することを示唆しており、皮影戯研究に新たな視座を提供するものであると言えよう。

以上、文献資料の整理・検討を通じて、海寧皮影戯と皖南皮影戯の姿を明らかにしてきた。各地の皮影戯の実像をある程度明らかにし得たと思われるが、一方で、芸能としての皮影戯の実態や、その社会経済史的背景など、新たな課題も多々浮上している。その解明については、フィールドワークを含めた今後の調査・研究に期したいと思う。


*1 淑馨出版社、1999。
*2 『民衆教育』第五巻四・五期合刊「民間芸術専号」、1937。
*3 浙江人民出版社、1992。
*4 50年代起日渐衰落,今已绝迹。
*5 上海書店出版社、1997
*6 1956年成立崇德县皮影戏剧团。……1983年停演。
*7 上海人民出版社、1993
*8 清光绪初年,七宝毛耕渔从浙东皮影艺师殷茂功学成回乡,收高台山歌能手赵少亭(阿全)为徒。师徒制配皮人,准备道具,年余就绪,遂由砾琳庙释怀周为笛师,铁铺铺主钱连奎主丝竹,道士陈妙根充鼓手,组成皮影班,后由青浦武学生员蔡鸿仪题赠额名“鸿绪堂”。1880年(光绪六年)春,首演于七宝镇解元厅,一举名传。流传所及,县境外兼达奉贤。
*9 方友于金山,观浙东皮影戏,跃跃欲试,拜艺师殷茂功。
*10 『史林』、2006年S1期
*11 張菡「四十年,江南皮影重現江湖」(『上海戯劇』2004年3期)
*12 「百年海派皮影有望傳承 七宝皮影芸術館14日開放」(『解放日報』2008.6.18)
*13 「四十年,江南皮影重現江湖」。
*14 倪鑫竜「海寧皮影戯的伝入継承発展和創新」(『戯文』2004年4期)、陳宰「海寧皮影戯与塩曲」(『戯文』2005年3期)
*15 山西古籍出版社、2007。
*16 (浙江档案、2007年第2期)
*17 拜弟兄唱“桂枝香”;保本时唱“臣奏明君”;打猎时唱“出猎”;喝酒时唱“酒满金杯”……。
*18 『海寧皮影戯(図文版)』
*19 『中国影戯与民俗』第七章「中国影戯的流派及其分分付地域」
*20 蔣連根「海寧皮影風采依旧」(『文化交流』2003年第5期)
*21 『海寧皮影戯(図文版)』
*22 「海寧皮影戯与塩曲」
*23 「海寧皮影戯的伝入継承発展和創新」
*24 『海寧皮影戯(図文版)』
*25 在众多的随宋室南渡移民中,有一批河南睢阳(今商丘)地区的艺人,到这里后散居在京城临安近郊的盐官县(即今海宁市)。
*26 拙論「宋代影戯とその特色」(平成17~19年度科学研究費補助金(基盤研究(B)、研究代表者:氷上正)「近現代華北地域における伝統芸能文化の総合的研究」研究報告書、2008.3)参照。
*27 『新編叢書集成』所収本。
*28 影戲或謂昉漢武時李夫人事,吾州長安鎮多此戲。查巖門SUB{歧昌《古鹽官曲》:「艷說長安佳子弟,熏衣高唱弋陽腔。」蓋緣繪革為之,熏以辟蠹也。}
*29 新年影戲聚星缸,金鼓村村鬧夜窗。艷說長安佳子弟,薰衣高唱弋陽腔。
*30 当时服务于达官贵人或乡绅富户的婚丧喜庆,盛极一时。但到了清光绪年间,不知何故,朝廷下谕“禁在阀门演出”。从此艺人流入民间。久之,便为乡间百姓喜爱,复趋繁荣。
*31 中国書籍出版社、1997。
*32 上海辞書出版社出版社、1981。
*33 现海宁皮影戏所唱的“专腔”,有人认为还保存了海盐腔的成分。
*34 浙江人民出版社、1994。
*35 皮影戏 由外地传入。解放前及解放初期,流行于县境北部与西部邻皖省一带。内容以神话历史故事为主。与庙会、新春时节,由村民集资请来演出。
*36 方志出版社、1996。
*37 自晚清以来,境内先后流行的剧种有:……皮影戏(pp.635)
*38 60年代初,县内一些职业文艺团体被精简,人员改从他业,许多以从艺为生的艺人,生活依赖社、队和亲友接济。有的迫于生计,逢年过节三五一伙,串连行艺,贴补生活。“文革”时期,被扣上“黑艺人、黑剧团、演黑戏”的帽子,受到追查、取缔。中共十一届三中全会以后,县文化局经过调查研究,于1989年6月开始,用了近三个月的时间,将流散在全县的150多名民间艺人进行普查、登记、考核,发放“民间艺人证”,制定各种规章制度,足见其周王、五星、建国3个皖南花鼓戏团,1个黄渡越剧团,5个皮影戏的“担子”,6个杂技魔术演出小组。不仅在境内农村演出,还出省出县巡回演出。……1985年以后,随着农村电视的普及,民间剧团和其它艺术表演团体的活动减趋低落,有的时演时停、有的自行解散,不少演职员转入本地乡镇企业工作。
*39 方志出版社、1998。
*40 朗溪的皮影戏,人称“湖北影子”。民国22年(1933年)前,出现在县内南丰乡。由老艺人杨春发(广德人),带徒传艺。这种影子戏三五人为一班即能表演。表演时用4根竹竿,撑起1幅长2米、宽1米的白布(即影幕),另用一块门板支持作后台,放影子和道具。影子的各种人物造型,借用牛羊皮制作,施以彩绘,表演时利用光线的反射显出影子于影幕的背后,正面观赏栩栩如生。
其演唱曲调与其它影戏不同,曲调来源于京徽剧团,行腔高亢悠扬,常与京胡、京二胡、笛子、唢呐和打击乐伴奏。听起来似京非京,别具韵味,所唱剧目大多是《五虎平西》、《五虎平南》、《西游记》、《三盆奇花》、《封神榜》、《秦香莲》等连台本戏。
由于没有挖掘和整理。郎溪影子戏已湮没无闻了。

*41 方志出版社,1996。
*42 县皮影戏剧团  其前身为成立于1956年的广德县艺明皮影剧团,属城关镇领导,实行“拆帐制”。1963年,改为集体所有制,属县文教科领导。1966年6月被撤销。1979年3月恢复。不久又改为民办职业剧团,多串乡演出,后自行解散。
*43 清末,随着湖北、河南等地移民的大量涌入,皖南花鼓戏和皮影戏遂成为广德的两个主要剧种。……
皮影戏 是本县流行的主要剧种之一,在县内流传已有百余年的历史。该戏音乐唱腔激昂奔放,宜于表现直率、豪爽的人物性格。皮影是用经过处理的半透明的牛皮制作而成,由演员在幕后操作皮影演唱故事。剧目多取材于历史演义和传统故事,如《东周列国》、《三国演义》、《岳飞传》等。1956年,广德县艺明皮影剧团成立后,对原传统剧目进行全面审理,演出质量有了提高。1963年该团前往浙江海宁皮影剧团学习,基本上掌握了童话剧、现代戏的制作和操作技术。陆续上演移植的《智取威虎山》、《敌后武工队》、《半夜鸡叫》等现代剧目,获得观众好评。“文化大革命”开始,“皮影”被视作“封资修”黑贷,付之一炬,剧团也被撤销。1979年3月,县皮影剧团恢复,不久便改为民办剧团,主要在农村巡回演出。

*44 三聯書店,1997。
*45 皮影戏 也叫“影戏”、“影灯戏”、“土影戏”。用灯光照射兽皮或纸板作成的人物剪影以表演故事情节。剧目、唱腔多与地方戏曲相互影响,由艺人一边演唱,并配以音乐。皮影戏在北宋时已有演出,由于流行地区、演唱曲调和剪影材料的不同而形成许多剧种。在皖南流行的有大小两种,小影唱京徽调,大影唱民间小调或花鼓戏,边演边唱,时有帮腔。在宁国县流行的皮影戏多属大影。
据艺人徐云清介绍:清咸丰(1851~1861)兵乱后,宁国县人口大减,移民大量涌入。湖北移民中黄、杜两位皮影戏艺人,在县内传授皮影戏,徐云清是其五代弟子。当时仅为“求神还原”演出,每场观众不多,流传不广,只有虹龙徐成亮、徐云清,城关陈正义,东岸何颜青,港口吴秀权,姚高李志清等10人从业。解放后大都消声匿迹,唯徐云清、陈正义两人,经县、镇政府批准成立河沥溪镇皮影戏演出队,成员4~5人,农闲在宣城、郎溪、广德、宁国4县农村演出,1981年停演。皮影戏传统节目主要有《三打祝家寨》、《唐明皇游月宫》、《五虎平南》、《朱洪武起义》等。

*46 『戯劇論叢』第一輯、1957。
*47 中安在線(http://cul.anhuinews.com/system/2008/08/18/002093288.shtml
*48 http://news.newsxc.com/sdjj1/200901/20090106101957_23760.shtml
*49 『安慶師範大学学報(社会科学版)』第23巻第1期、2004。
*50 同治年间,河南罗山县皮影戏艺人张雁斌、汪金生等人在广德河南移民区靠表演皮影戏过活。该剧种的艺术特点是唱腔宏大奔放,富于表现人物的性格特征,内容以“封神戏”为主,常用来祈求丰年,消灾袪祸,逐渐受到广德人民的喜爱。后来,光山县皮影艺人余雁堂、肖轩元等人也先后迁至广德,当地土着开始向其拜师学艺,进一步扩大了皮影戏的流传范围。与河南皮影戏相比,湖北皮影戏则稍显逊色,无自己的唱腔,演唱内容也较狭窄,影响范围相对来说较小。
*51 『中国戯曲劇種手冊』(中国戯劇出版社、1996)pp.364
*52 『中国人口史』第五巻(復旦大学出版社、2001)pp.493、『中国移民史』第六巻(福建人民出版社、1997)pp.455
*53 『中国人口史』第五巻pp.476
*54 苏州、嘉兴等府的例子还表明,在一些战前人口即已过剩且又未大规模接纳移民的地区,战后人口的增长速度与战前大致相同,并未出现补偿性的高速增长。人口的减少意味着人均占有资源的增加,所以,许多地区,战后的人民生活明显要好于战前。

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