『都市芸研』第十七輯/台湾における総合的社会教育機関の変遷 の変更点

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*1940年代後半から1960年代台湾における総合的社会教育機関の変遷――民衆教育館・流動教育施教団・社会教育館―― [#a30775bb]
RIGHT:戸部 健
#CONTENTS

*1.戦後台湾における民衆教育館・社会教育館に関する研究動向 [#m958be0f]

中国において本格的に近代教育が導入されるようになったのは20世紀以降である。1904年に発布された「奏定学堂章程」により小学校から大学まで続く一連の教育体系が整備され、12年の「学校系統令」によって四年間の義務教育が規定された。そうした流れのなかで全国的な規模で小学校が増えていった。ただし、政治的な混乱もあり、それが十分に普及するのには時間がかかった。また、民衆の多くにとっても、子供を小学校に通わせるだけの経済的余裕はなかった。そのため、義務教育といっても名ばかりで、学齢児童であるにもかかわらず小学校に行かない子供がたくさん存在し、彼らの多くは読み書きができないまま大人になった。そうした人々は、当時中国において「失学者」と呼ばれ、彼らへの対処が政府、および教育に関心のある人々にとって喫緊の課題となり、様々な教育活動が実施された。主に学校教育の枠外で行われたそのような教育活動は、中国において日本と同様「社会教育」と呼ばれたが、その内実は多くの点で日本とは異なる独自のものであった。

中国における近代的な社会教育は20世紀初頭に始まり、特に1930年代以降に大きく発展した。社会教育の施設には図書館や博物館、美術館など多様な形態があったが、なかでも中国独自のものとして注目すべきなのが民衆教育館である。民衆教育館は、社会教育という立場から南京国民政府による「訓政」を支えるという目的で1920年代後半に誕生した。その活動内容は、失学者に対する識字教育、講演所やラジオなどを使った教育・宣伝活動、貧しい人々の経済的・衛生的問題を改善する取り組み、芸能などを利用したリクリエーション活動などに至るまで、多岐にわたっていた。まさしく総合的社会教育機関という位置づけを与えられていたわけだが、こうした民衆教育館が、1949年以前の中国大陸において最大で1500館以上存在していた。

民衆教育館に関する従来の研究は、その多くが教育学の視点によるものであったが、近年歴史学的な観点からの研究も増えてきている。代表的なのは、1949年以前の中国大陸における民衆教育館の動向を総合的に論じた周慧梅の研究である((周慧梅『近代民衆教育館研究』北京師範大学出版社、2012年(台湾版:『民衆教育館與中国社会変遷』秀威資訊科技、2013年)。))。そのほか、各地方の民衆教育館のありようを明らかにする研究も出てきており、例えば朱煜((朱煜『民衆教育館與基層社会現代改造(1928~1937)―以江蘇為中心―』社会科学文献出版社、2012年。))は江蘇省、劉暁雲((劉暁雲『近代北京社会教育発展研究(1895~1949)』知識産権出版社、2013年。))は北京での事例について検討している。また、筆者もかつて天津での事例を検討したが、その際中国大陸における民衆教育館の後継組織として1950年代以降爆発的に増加した(人民)文化館との繋がりについても考察を行った((戸部健『近代天津の「社会教育」―教育と宣伝のあいだ―』汲古書院、2015年。))。

台湾にも民衆教育館は存在していた。しかし、それらに対する専門的な研究はほとんどなされていない。1946年に設立されてからわずか2年で廃止されてしまったこともその理由として考えられる。とはいえ、その機能を多く受け継いだ社会教育館という施設が5年後の1953年に誕生している。台湾の民衆教育館および社会教育館の歴史については李建興・宋明順『我国社会教育館的現況及改進途徑』(台北、行政院文化建設委員会、1983年)が最も詳しい。ただし、社会教育館に関する具体的な記述は主に1970年代以降のものであり、それ以前の活動について十分に知ることができない。中国大陸の(人民)文化館は、文化大革命以前の社会教育、および文化を利用した宣伝活動においてそれなりの影響があったようだが、台湾の民衆教育館や社会教育館も同様の役割を果たさなかったのだろうか。戦後台湾における社会管理や民衆動員においてそうした機関による教育活動はどのような意味を持ったのだろうか。それらを考える上でも、1960年代以前の両館の動向を明らかにする必要がある。また、民衆教育館の廃止(1948年)と社会教育館の誕生(1953年)との間の時期における関連事業についても、もしそのような動きがあるのであれば検討しなければならない。

とはいえ、当該時期台湾の民衆教育館・社会教育館に関する史料の残存状況は決して恵まれているとは言えない。記念誌の類がいくつかの館によって出版されているが((例えば以下などがある。『台湾省立台南社会教育館成立二十週年館特刊』台南社会教育館、1975年。『台湾省立新竹社会教育館三十年紀年専輯』台湾省立新竹社会教育館、1984年。))、年度報告のように記載の詳しいものはほとんど残っていない。各館が刊行した定期刊行物についてもまとまったものは現時点でほとんど見つかっていない。そのようななかで比較的史料の残りがよいのが高雄県立社会教育館である。1961年に同館によって刊行された『高雄県教育志社会教育篇』((邱士錦編纂『高雄県教育志社会教育篇』高雄県立社会教育館、1961年。))は、1950年代から60年代初頭の同館の様子をよく伝えている。以下では、それに新聞や雑誌などから得た情報を加えながら、当該時期台湾における総合的社会教育機関の動きについて初歩的な考察を行いたい。

なお、今後さらに研究を深化させるためには、檔案史料(公文書)、とりわけ市・県政府の檔案史料の利用が必須であろう。そうした観点の下、筆者はすでに高雄市政府(2010年に高雄県と合併した)において史料調査に取り組んでおり、社会教育館関係の檔案史料の一部(地方戯劇大会や芸能管理に関するものを中心に)を閲覧している。それらを利用した研究成果については、現在別稿を準備している。

*2.民衆教育館 [#db0134e6]

日本の敗戦によって台湾は1945年に中華民国に返還されたが、その翌年から台湾にも民衆教育館が設置された。46年4月7日の『民報』には、行政長官公署教育処が同年度に台北・台中・台南に省立民衆教育館を設置する旨が載せられてい
る((「推進本省社会教育、設立民衆教育館」『民報』1946年4月7日。))。それらはその後すべて開館し、さらに台東にも省立民衆教育館が誕生した。『第三次中国教育年鑑』によるとそのほかに県・市立民衆教育館が13館設置されたようである。民衆教育館のなかには植民地時代の公会堂や神社、青年訓練所を改築したものもあった((教育部教育年鑑編纂委員会編『第三次中国教育年鑑』正中書局、1957年、838~840頁。「台湾教育全貌」『天津民国日報』1948年1月8日。ちなみに、省立台北民衆教育館の建物はかつての台北神宮、同台中民衆教育館の建物はかつての台中州教化会館、同台南民衆教育館の建物はかつての公会堂であった(『台湾現況参考資料』台湾省行政長官公署宣伝委員会、1947年、46頁)。))。

こうした民衆教育館のなかで管見の限り最も詳しい記録が残されているのは省立台東民衆教育館である。台東民衆教育館は46年8月に郷土館として成立し、10月に民衆教育館に改組された。建物は植民地期の武徳殿と台東鎮公所の建物を利用した。総務・教導・生計・芸術・研究輔導の五部からなり、次のようにそれぞれ2、3の組を設けていた。1.総務部(文書組・会計組・庶務組)。2.教導部(教学組・閲覧組・健康組)。3.生計部(職業指導組・実習推広組)。4.芸術部(電化教育組・歌劇教育組・美術教育組)。5.研究輔導部(研究組・輔導組)。それらに加えて、社会教育研究会と経済稽核委員会が設置されていた。館員は全部で18名、女性1名を除きすべて男性であった。籍貫が台湾なのは3名のみで、その他は浙江省が9名、福建省が6名であった。学歴などと合わせて判断するに、館員の多くが中国大陸で生まれ育った者であったのだろう((台東省立民衆教育館『半年来館務実施概況』1946年、2~8頁。))。上記の部・組の構成は1939年に教育部から公布された「民衆教育館規程」におおむね準拠したものだが、それだけの規模の活動を維持するためには本来であれば30名ほどの人員が必要であり、その点からすると18名では不足していたと言わざるを得ない((同上、6頁。周慧梅前掲書、418~422頁。))。

同館が刊行した『半年来館務実施概況』に46年6月~12月の館務状況が掲載されているが、目を引く活動に以下などがある。『東台壁報』の刊行、識字牌の設置、管轄範囲内の郷鎮訪問・流動展示、国語講習班・読書会の組織、通俗講演・学術講演・全県運動会・卓球大会・将棋大会・音楽会などの挙行、劇団の結成、北平・上海・杭州の社会教育事業を参観((前掲『半年来館務実施概況』24~31頁。))。

1939年に教育部から発布された「民衆教育館輔導各地社会教育辦法大綱」には、「省立民衆教育館は、各該民衆教育施教区の民衆教育館およびその他社会教育機関を輔導する責を負わなければならない」と書かれている((周慧梅前掲書、440~441頁。))。それに基づくならば、省立台東民衆教育館も自らが管轄する民衆教育施教区内(理論的にはおよそ台湾本島の四分の一)の社会教育事業を中心機関として導く必要があった。ただ、区域は明確でなかったし、経費も足りなかったため、新生活運動に関する番組をラジオで流したり、学術講座や公民訓練をしたりする以外に、十分な輔導活動をすることができなかったようである((前掲『半年来館務実施概況』68頁。))。

他の民衆教育館の活動内容については新聞記事などから断片的な情報を拾えるに過ぎない。例えば以下などである。台北(映画放映((「省教育処挙辦、社教運動週」『民報』1946年11月21日。))・舞踊公演・写真や図書展示((「民衆教育館、募捐演劇大会」『民報』1946年12月29日。))・電化教育隊((「電化教育、電教隊訂日程」『民報』1947年2月26日。)))。台中(時事書画展((「台中民衆教育館挙辦時事展覧会」『民報』1946年8月8日。))・各界聯誼会((「台中民教館挙行聯誼会」『民報』1946年9月23日。))・巡回施教隊((「台中民教館、施教隊収效甚大」『民報』1946年12月15日。「台中県民教館、巡廻施教歌詠」『台湾民声日報』1948年2月19日。))・美術展覧会((「県民教館挙行美術展覧」『台湾民声日報』1948年3月26日。)))。台南(時事書画展((「台南市民教館挙行時事画展」『民報』1946年7月16日。))・巡回映画放映((「電影巡回放映記」『民教』(台湾省台南民衆教育館)第1期、1948年、4頁。))・巡回図書展示・語文班・国語演説・朗読大会・社会調査((「本館動態」『民教』第1期、1948年、4頁。)))。花蓮(国語伝習会((「花蓮民教館、開国語伝習会」『民報』1946年10月30日。)))。員林(壁報((「員林民教館出版県報」『民報』1946年11月11日。)))。新竹(チャリティー演劇公演((「民衆教育館、募捐演劇大会」『民報』1946年12月29日。)))。基隆(児童歌詠会((「台東壽備読書会」『民報』1947年2月21日。)))。高雄(図書閲覧((「県民教館派電影巡廻隊、赴山地推行電化教育、第二届美術展覧正壽備中」『民報』1948年3月7日。)))。報道されないだけで、実際には各館の活動はより広範にわたっていたであろう。特に、植民地期に学校教育を受けた経験がありながらも、国語(中国語)に不慣れなために「失学者」とされた人々に対する国語教育は各館で盛んに行われたものと推察する。また、郷・鎮を巡回しての教育がこの時期から各地で行われていたことも、次章との関係から注目に値する。例えば、省立台南民衆教育館では、47年11月22日から12月4日まで、電影(映画)巡回工作隊を台南市各区と嘉義市の新北区・西区・東区・新店・新東市場・水上区・林柳などに派遣して、『祖国抗戦八年史』という映画を放映させた。期間全体で約18,000人以上を集めたという((前掲「電影巡回放映記」。))。

このように、民衆教育館は台湾各地で様々な活動を展開しており、それは1947年の二・二八事件後も途切れなかった。47年9月に開催された中国国民党第6回中央執行委員会全体会議においても、引き続き民衆教育館を普遍的に設立すべきとの意見が出されている((「澈底実行社会教育普及人民知識俾資推行地方自治」1947年9月6日(中国国民党文化伝播委員会党史館館蔵資料、會6.2/83.32.2)。))。しかし、翌48年1月に開催された台湾省参議会でそれらを撤廃する案が出され、了承されてしまった。台湾省政府教育庁のスポークスマンは、直後の談話で「民衆教育館の廃除は、需要の上から言って不可能なことである」((「全省民衆教育館可能不致撤銷」『台湾中華日報』1948年1月12日。))と不満を述べている。また、その後もしばらく活動を続けた館があったことは新聞報道などから確認できるが、結局同年中にそれらを含むすべての民衆教育館が廃止されるに至った(ただし、省立台東民衆教育館と高雄県立民衆教育館の建物はその後も図書館として存続した)。前述のスポークスマンは「一般市民はその活動目的と宗旨をいまだに理解できていない」と、教育活動の上での困難を自ら吐露しているが、どのような問題が民衆教育館の廃止に直接つながったのかについては、現時点でよく分かっていない。今後の課題となろう。

*3.流動教育施教団 [#p3b66ff3]

民衆教育館の廃止から社会教育館の誕生までの5年間の動きについては不明な点が多いが、新聞報道や地方志の記述を見ると、流動教育施教団というかたちで活動が続けられた地域があることが分かる。少なくとも新聞の記事から、台北((「教育巡廻施教団将出発工作」『更生報』1955年10月4日。))・
屏東((「白天訪問家庭、晩上来教育別人、出版民生壁報挙辦巡廻文庫、屏市流動施教団工作已決定」『台湾民声日報』1950年5月14日など。))・台中((「本市将利用暑暇試辦、流動教育施教団」『台湾民声日報』1950年6月30日など。))・台南((「展開三民主義文化運動、台湾組流動施教団、自明天起巡廻各地施教」『台湾民声日報』1950年7月14日など。))・彰化((「彰化流動施教団赴各郷放映電影、挙行演講推行義務教育」『台湾民衆日報』1952年6月23日。))・高雄((「明慶祝光復節演戯招待市民」『台湾民衆日報』1954年10月24日など。))・基隆((「基流動施教団、熱烈展開工作」『台湾民衆日報』1954年10月22日など。))などにおいて流動教育施教団が発足していたことが確認できる。

例えば台中県ではもともと巡回施教隊の活動が盛んだったが、1950年8月12日以降、同県の流動教育施教団の記事が新聞にたびたび掲載されている。同年8月16日の『台湾民衆日報』は、同施教団が集集鎮にて反共漫画展示会の挙行した様子を報じている。それによると、同地の国民学校に150枚の反共漫画が展示され、さらにグラウンドにおいて「美国農村(アメリカの農村)」「眼之衛生」「児童之前進」「美国鉱山(アメリカの鉱山)」などの映画が上映され、それを見るために多くの民衆が集まったという。県下の郷や漁村での巡回映画放映はその後も積極的に行われており、例えば51年9月13日~20日の間に8つの郷を回って映画が上演されている((「中県施教団」『台湾民声日報』1951年9月13日。「教育施教団赴漁村放映」『台湾民声日報』1952年2月12日。))。映画以外に、民俗・衛生を改善するよう宣伝したり、歌謡会を開いたりすることもあった((「台中県流動教育施教団」『台湾民声日報』1952年9月8日。))。こうした動きは台中県以外でも広く行われていたようで、例えば屏東県の流動教育施教団も52年4月7日~6月15日の間に39の集落を回って映画を上映している((「提唱体育増進健康、屏挙行各類球賽」『台湾民声日報』1952年4月8日。))。

流動教育施教団の組織化も進んだ。53年2月の段階で台中県流動教育施教団には19名の団人がおり、団長・副団長以下、総務組・公民教育組・生計教育組・文化教育組・康楽教育組・電影巡回放映隊に分かれ、活動を展開した。こうした組織化は他地域の流動教育施教団でも見られ、屏東市では総務組・教務組・機務組に分かれていた((前掲「白天訪問家庭、晩上来教育別人、出版民生壁報挙辦巡廻文庫、屏市流動施教団工作已決定」。))。高雄市では電教股・芸術股・輔導股・総務股に分かれ、音楽・戯劇・映画・ラジオ・文芸作品などを使った教育や、記念日のイベントなどを行っていた。ただ、これほどの組織を運営するための人員を揃えるのは容易ではなかったはずで、高雄市の場合は市立学校や市教育科の人員が兼任することもあったという。ちなみに経費についても、高雄市の場合は市の教育事業費から毎年支出されていた(1954年=29,600元。55年=17,100元。56年=44,150元)((『高雄市志教育篇』巻下、高雄市文献委員会、1962年、170~172頁。))。こうして見ると、流動教育施教団の運営自体は、専用の建物がない(高雄市の場合、市立体育場の一室を間借りしていた)ことを除けば、それ以前の民衆教育館とそれほど変わらないことが分かる。実際、高雄市流動教育施教団はその後市立社会教育館に改組された。同様の事例は高雄県の流動教育施教団がのちに県立社会教育館に吸収されたように、ほかにも見られる。このようにして見ると、流動教育施教団は、民衆教育館とその後に誕生する社会教育館(特に県・市立)とを繋ぐ役割を果たしていた、と言うことができよう。ただし、次に述べるように、流動教育施教団が行った教育の内容には、「反共」の要素がそれ以前よりもより多く混入されていたことも無視できない。

*4.社会教育館 [#s66c911a]

**(1)社会教育館の誕生((本節において、特に註を付けてない記述は、主に以下の文献に拠っている。李建興・宋明順前掲書、41~55頁。)) [#md316ff4]

流動教育施教団が各地で活躍していた50年代前半、政府でも台湾における社会教育の方針を策定し直す作業に入ってい
た((戦後台湾における文化政策の変容については以下に詳しい。菅野敦志『台湾の国家と文化―「脱日本化」・「中国化」・「本土化」―』勁草書房、2011年。))。まず、50年6月に教育部は「戡乱建国教育実施綱要」を出した。それは、「全国の教育施設はみな戡乱建国(共産党の反乱を鎮め、建国する)を中心とし、偉大な新たな力を生み出すようにしなければならない」と述べ、特に社会教育に関しては社会の気風の転換において力を発揮するよう求めている。具体的には、以下のような活動が想定された。①国に殉じた忠義の士に関する古今の事績をまとめた書物を刊行したり、映画・歌曲・劇本を制作したりすることで民族の気概を高める。②社会正義を極力提唱し、公平無私の精神で青年と一般民衆を導き、社会公正の気風を打ち立てる((「戡乱建国教育実施綱要」前掲『第三次中国教育年鑑』12~13頁。))。

社会教育そのもののあり方についても検討がなされた。1951年7月には行政院設計委員会教育文化小組委員会において、「社会教育改革綱要草案」が審議されている。草案は、実施項目として公民教育・語文教育・生計教育・健康教育・科学教育・芸術教育を挙げ、とりわけ公民教育に重点を置くとしている。また、その実施方法については、「文学・美術・戯劇・音楽・新聞・ラジオ・映画・体育を用いて三民主義文化運動を展開することで共産主義の毒素を消滅させ、全国人民の思想を疎通させ、その意志と力を集中させる」としている。注目すべきは、ここで社会教育館に関する検討が行われていることである。それによれば、各郷・県・省にそれぞれ社会教育館を設置し、それぞれの領域における「社会教育の中心機関」とすること、また、省と県の社会教育館には各種補習学校と流動施教隊を付設することが議論されている((「社会教育改革綱要草案」1951年7月(中国国民党文化伝播委員会党史館館蔵資料、一般557/429)。))。

53年には、戦後台湾における社会教育の最高指導原則として「社会教育法」が発布された。その第4条には「省(市)政府は社会教育館を設置し、各種社会教育事業を実施し、当地社会教育の発展を輔導しなければならない。県(市)郷(鎮)はその財力と需要により、社会教育館あるいは社会教育推行員を設置することができる」((「社会教育法」台湾省政府教育庁ほか編『台湾教育発展史料彙編』台湾政府教育庁、1989年、67頁。))と明記され、これにより社会教育館の法的地位が確立された。

こうした動きを背景に、53年以降教育部は社会教育館の設置に向けた準備を本格化させ、同年に新竹に、55年に彰化・台南・台東に省立社会教育館を成立させた。図書館(かつての民衆教育館)を改築した台東を除き、すべて新たに開設されたものである。それぞれの館の管轄地域は以下の通り。

-省立新竹社会教育館:新竹県・苗栗県・桃園県・宜蘭県・台北県・台北市・基隆市・陽明山管理区
-省立彰化社会教育館:台中市・台中県・彰化県・雲林県・南投県
-省立台南社会教育館:台南市・高雄市・台南県・嘉義県・高雄県・屏東県・澎湖県
-省立台東社会教育館:台東県・花蓮県

このほか県立・市立の社会教育館が以下のような場所で設立された。高雄県(成立年は1957年:以下同じ)・台北市(1961年)・金門県(1961年)・台中県(1963年)・高雄市(1964年)・連江県(1968年)。前述のように、このうち高雄市立社会教育館は同市の流動教育施教団を改組したものであり、高雄県の流動教育施教団ものちに同県の社会教育館に合流した。ただ、その他の社会教育館と流動教育施教団との関係については現時点でよく分かっていない。また、法令上、省立社会教育館は県立社会教育館を輔導する役割が与えられていたが、実際にそのような関係で結ばれていたのかどうかは今のところ不明である。いずれも今後の課題となろう。

省立社会教育館の活動内容については、台湾省教育庁が1956年に制定した「省立社会教育館的工作実施要点」に次のように述べられている。「公民教育・語文教育・生計教育・健康教育・科学教育・芸術教育を主要項目となし、国民生活を充実させ、社会の気風を転換させ、国民気質を改変し、反共のための潜在力を発揮させることで国富民強を達成する」。前出の「社会教育改革綱要草案」(1951年)の内容とそれほど変りがないことが分る。なお、「省立社会教育館的工作実施要点」には6つの主要教育項目ごとに、想定される具体的な活動内容が列挙されているが、実際には各社会教育館で地域の実情に合った活動がなされていたようである((李建興・宋明順前掲書、55~60頁。))。例えば、李建興・宋明順『我国社会教育館的現況及改進途徑』には、1962年度における省立新竹社会教育の活動内容が掲載されている。本稿の冒頭でも書いたように、1950~60年代の社会教育館の活動についてはよく分っていないことが多く、その点で同書の記載は貴重と言える。ただ、活動の具体的な成果や参加人数などに関する記載に欠けており、実態をつかむのに十分とは言えない。

**(2)高雄県立社会教育館の事例 [#xee5f28c]

そうしたなかで、以下で紹介する『高雄県教育志社会教育篇』は、極めて貴重な史料と言える。同書を編纂したのは、戦後高雄県の社会教育に長らく携わり、1957~78年まで同県立社会教育館の館長をつとめた邱士錦である。もともとは『高雄県志稿教育志』((高雄県文献委員会編『高雄県志稿教育志』1961年。))のために書かれた文章であったが、字数制限に不満を持った邱がそれに加筆し、独立した書籍として刊行した。

同書は社会教育館成立以前の状況についても記載している。以下、簡単に整理する。1948年1月に県立民衆教育館が設立されたが、同年9月に県立図書館に改組された。その後、50年に邱士錦隊長(県政府社教股長を兼任)のもとで電影隊(37年に活動を開始したが、機材故障のため一時休止していた)の活動が活発化し、映画の巡回放映を積極的に実施した((前掲『高雄県教育志社会教育篇』41~42頁。))。ついで51年1月に流動教育施教団が成立し、政治教育・生産教育・文化教育・健康教育を主に行った。主任(やはり県政府社教股長の邱士錦が兼任)のもとに三人の幹事(同教育科職員が兼任)と若干の団員がおり、上述の電影隊とも連携して活動を展開した。とりわけ52年に国防部女青年大隊との連合で行った二ヶ月間の教育活動は大きな成果を上げたとしている((前掲『高雄県教育志社会教育篇』10~11頁。))。そのほか、ラジオを利用した教育にも力を入れ、50年に播音支站(ラジオ支局)を設立した。教育科長が幹事を兼任し、邱士錦が助理幹事を兼任し、それを監理員一人が補佐した。その後、県内にはラジオの放送局と受信局が急速に増えていくことになる((前掲『高雄県教育志社会教育篇』42~45頁。))。

そして55年以降、県立社会教育館の設置に向けた動きが始まった。ただ、当時は資金が十分でなかったため、まずは郷鎮社会教育館を設立することから着手した。岡山・仁武・旗山・甲仙の各郷に試験的に社会教育館を置き、活動を展開したところ、仁武郷で成功した。そこで翌年から県立社会教育館の設立に向けた具体的な動きが始まり、57年6月に無事開館に至った。その際、以上で述べた電影隊・流動教育施教団・播音支站はみな県立社会教育館に合流した。ここから、県立社会教育館が50年以降の高雄県における社会教育事業の一部を引き継ぐかたちで成立していることが分かる。したがって、同館の初代館長に邱士錦が就任したのは当然の成り行きであろう。なお、仁武郷社会教育館はその後も活動を継続した。

県立社会教育館が行った活動は多岐にわたる。参考までに、開館以来三年間の活動を表1で示した。活動内容は、大きく以下のように分類することができる。(1)図書・運動機材などの貸出。(2)各種大会(言論・運動・芸術)や展示会・夜会の開催。(3)民衆補習班の運営。(4)映画やラジオを利用した教育・宣伝。(5)雑誌の刊行。(6)反共宣伝などの実施。(7)その他。なかでも目を引くのが(4)である。映画を利用した巡回教育・宣伝に関しては年に55~104回実施されている。また、ラジオの放映に関しては同時期に年788~1004回行われた。人々の耳目を集めやすい映画やラジオなどを利用することで、県内のより広い地域にまで教育・宣伝を普及させようという同館の姿勢が看取できる。

|>|>|>|【表1】高雄県立社会教育館の活動内容(1957年6月~1960年6月)|h
|期間|1957.6-1958.5|1958.6-1959.5|1959.6-1960.6|h
|書籍・新聞・雑誌の貸出・閲覧|13,800人|11,105人|13,358人|
|囲碁などの用具の貸出|4,690人|2,897人|874人|
|運動器具の貸出|2,240人|2,130人|189人|
|休日の球技大会|9回|||
|祭日の球技大会|4回|6回|3回|
|囲碁等の大会|4回|4回|1回|
|国語演説大会|1回(2日)||1回|
|婦女演説大会|1回|1回||
|民衆班学生演説大会|1回(3日)|||
|図書・雑誌の準備|3,570冊|398冊||
|登山活動||1回||
|民衆補習班の開設|4班(200人)|||
|民衆(兵役につく男子)補習班の監督|70日|78日||
|自転車スピード大会|1回|||
|柔道大会|||1回|
|民衆班学生音楽大会|1回(3日)|||
|民族舞踏大会|1回(3日)|3回(6日)|1回(1日)|
|反共話劇大会|1回(3日)|1回(6日)|1回(3日)|
|音楽(合唱)大会|1回(2日)|3回(5日)|1回|
|地方戯劇(掌中・皮劇)大会|1回(40日)|1回(13日)|1回(13日)|
|美術大会展示|1回(2日)|2回(6日)|1回(8日)|
|書道大会展示|2回(4日)|2回(6日)|1回(8日)|
|映画巡回教育|55回|80回|104回|
|教育ラジオ放送|1,004回|820回|788回|
|特集冊子の出版|2回|9回|5回|
|「民衆簡報」の出版|16回|20回|13回|
|図画・写真展示|16回|20回|13回|
|(ミサイル・ロケット)人工衛星展示||1回||
|科学展示|1回(3日)|||
|民族精神画の展示|1回(3日)|7回(13回)|2回(11日)|
|中国におけるソ連に関する連環画展示|1回(3日)|7回(13回)|2回(11日)|
|民教班に関する資料展示|1回(2回)||1回(6日)|
|文献資料展示|1回(2回)||1回(6日)|
|社会教育活動写真展示||2回(4日)|2回(11日)|
|週末夜会|18回|40回|48回|
|社会教育夜会|1回|1回|1回|
|児童節夜会|1回|1回||
|教師を尊ぶ夜会||1回|1回|
|舞踏節夜会|1回|1回|1回|
|共産党による人民公社での暴政を暴露する宣伝||4回(28日)|2回(11日)|
|幻灯放映によるスローガン宣伝||3回(42日)|4回(51回)|
|国語文・英語補習班|||3班|
|国術訓練班|||1班|
|水泳大会|||1回|
|ボクシング大会|||1回|
|その他演説大会|||2回|
|八七水害への対応のためのチャリティー公演|||1回(38場)|
|漫画大会|||1回|
|電化教育(テレビジョン)実演|||9日(48場)|
|社会教育研究書籍・雑誌の出版|||1回|
|>|>|>|(出典)邱士錦編纂『高雄県教育志社会教育篇』高雄県立社会教育館、1961年、4~7頁。|f

各種大会も教育・宣伝の普及化のために実施されたものである。それぞれの大会には一次予選・二次予選・決勝があった。一次予選は各郷鎮と学校が主催し、郷鎮内の住民や学生がそれに参加した。成績優秀者は二次予選に進むことができた。二次予選は鳳山・岡山・旗山の三区でそれぞれ行われ、各区の成績優秀者が決勝に臨んだ。そして最後に、決勝が県立社会教育館などで開催された((前掲『高雄県教育志社会教育篇』3頁。))。例えば、1957年の地方戯劇(掌中戯・皮影戯)大会においては、県内から少なくとも19の掌中戯団、7の皮影戯団が参加し、一次予選・二次予選を勝ち抜いた劇団が県立社会教育館での決勝で対決した。各劇団が演じる劇目に関しては、「民族精神や社会教育の意義に富むもの」という縛りがかけられていた。他方、各予選および決勝には一般民衆も招かれていた。こうした活動を通して、社会教育館が演劇をより良質なかたちに改良しようとしたことは否定できない。ただ、各劇団によるやや宣伝性の強い演目を観賞させることで、県内に住む広範な民衆を感化する意図も一方にはあったのである((前掲『高雄県教育志社会教育篇』36~37頁。))。

他方、活動内容全般に関して言えば、58年6月~59年5月を境に中国共産党やソ連の否定的な面を強調したり、台湾の民族精神を鼓舞したりする宣伝や、中国の伝統文化(国術など)や西側諸国、特にアメリカの科学技術(人工衛星など)を称揚する活動が多くみられるようになる。逆に、予算などの都合からか、図書などの貸出事業は停滞している。これはおそらく中国大陸における大躍進政策を意識した台湾政府の文化政策の変化に影響されたものであろう。

このように、高雄県立社会教育館は様々な手段を使って教育・宣伝の効果をより広く、より深く浸透させようとした。また、それは中国大陸を意識した台湾の文化政策とも連動したものであった可能性が高い。もちろん、『高雄県教育志社会教育篇』の記述は、編者である邱士錦による自画自賛も多いだろう。ただ、それを差し引いても、同館の実績は1950~60年代の時点でかなりの水準に達しており、同時期の省立社会教育館と比べてもそれほど遜色ないものであったと言える。

*5.おわりに [#od3df84c]

以上、1940年代後半から1960年代までの台湾における総合的社会教育機関の変遷を民衆教育館・流動教育施教団・社会教育館を中心に見てきた。台湾における民衆教育館の活動期間は非常に短かったが、同様の活動は流動教育施教団・社会教育館というかたちで50年代以降も続いていたことが明らかになった。もちろん、教育・宣伝の内容や形態は時代・地域によって異なっていたが、高雄県の事例からは、映画やラジオなどを利用したり、文化・体育関係の各種大会などを勝ち抜き方式で開催したりすることなどを通して、その影響力を郷・鎮にまで広めようとしていたことが分かった。

ただ、本稿での検討は、史料の関係から依然として表面的なものにとどまる。上述したように、今後は檔案史料を利用したより深い考察が必要であろう。また、冷戦構造のなかにあって、当時の台湾の社会教育においてはアメリカの影響が散見されるが、それについても注目すべきである。いずれも今後の課題としたい。

&size(10){*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。};