『都市芸研』第三輯/ある地方劇と知識人の人生 の変更点

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*ある地方劇と知識人の人生-周良材「亦嗔亦喜的芸術人生」に寄せて [#l20a4852]
*ある地方劇と知識人の人生-周良材「亦嗔亦喜的芸術人生」に寄せて [#z2b9f343]

RIGHT:藤野 真子

私たち中国都市芸能研究会江南プロジェクト構成員三名(三須祐介氏(広島経済大学)、佐藤仁史氏(滋賀大学)、筆者)が初めて周良材氏と会ったのは、1998年の早春、みぞれの降る寒い日のことであった。その数日前、我々は佐藤氏の上海での師である上海史研究者・顧炳権氏(1999年11月逝去、本誌第一輯 佐藤仁史「[[地方志工作者と地域史研究-追悼顧炳権先生>『都市芸研』第一輯/地方志工作者と地域史研究]]」参照)を浦東のオフィスに訪ねた。当時の私たちはまだ全員が博士課程在学中であったが、同じく江南をフィールドとする者として知り合ったことを機に、何か共同で研究できないかと対象を模索しているところだった。その過程で、上海の地方劇である滬劇をそれぞれ興味の範囲に応じ、多角的に扱う話が浮かび上がっていた。もっとも、滬劇について十分な知識を持ち合わせていた者は一人もなく、わずかに散発的に舞台を観たことがあるのみで、研究蓄積の状況はもちろん、どんな専門家がいるのかさえ知らなかった。そこで顧氏に面会した折、上海の地方劇に詳しい研究者の紹介をお願いしたところ、その場で周氏に電話を掛けて頂き面会の約束を取り付けた次第であった。

後で思うと電話の向こうの周氏は、「日本人」研究者と会うことにいささか逡巡したのではなかったか。この「亦嗔亦喜的芸術人生」が、旧日本軍の華東侵略に対する禍々しい記憶から書き起こされていることからみても、それは容易に想像できる。しかし実際に対面した氏は、内外の研究者の多くが北方の芸能ばかり注目する現状を批判しつつ、あえて江南の芸能に取り組みたいと申し出た我々の心意気を大変歓迎し、資料提供やインフォーマント紹介などの協力を快諾してくれた。その後も現在に至るまで、長期休暇の度に私邸にお邪魔してインタビューをしながら貴重な資料を拝見し、遅々として進まぬ我々の研究に辛抱強くお付き合い頂いている次第である。

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上海で伝統劇の舞台に足繁く通った人は多くいることだろうが、滬劇の舞台を積極的に観たという話はあまり聞かない。上海の地方劇として本邦では越劇がクローズアップされることが多く、中国学関係者でも滬劇の名を聞いたことがないか、もしくは現代劇中心のレパートリーから話劇の亜流だろうと誤解している人さえいるのが現状である。しかし、上海語を用いて上演する滬劇は、現在でも上海市区および郊外地域を中心によく上演されており、まさに上海の地元芝居の名に恥じない。かつ、歌唱を演技術の中核となす点だけとっても、れっきとした「戯曲」の一種である。二十世紀に入ってから急速な発展を遂げたこの劇種は、旦と丑、もしくは生という組み合わせの演者が、民謡に所作を付けて掛け合いを演じる簡単なものから始まり(滬劇では「対子戯」と称する)、次第に人数が増え上演演目の内容も複雑化していく(同「同場戯」)。これは地方劇発展の典型的パターンを踏襲しており、数は少ないものの、民国期の新聞・雑誌記事や随筆類、さらに俳優の回顧録から上演形態の変遷を大枠でトレースすることが可能である。また上演内容の複雑化と、茶園から遊楽場、そして専門劇場への進出という上演場所の大型化は完全にパラレルな関係にあるが、『申報』のような大規模新聞から小報(遊楽場自体が発行するケースも多い)まで多種多様な舞台広告が、俳優の名前をはじめ、のちには演目名などに関する豊富な情報を提供してくれる。また、こうした記事や広告には、この地方劇の名称が清末の花鼓戯・東郷調(浦東)という俗称から、本灘(「本地灘簧」の略)、申曲(1910年代中盤~)、滬劇(1940年代~)と各年代ごとに変遷していく様子が明確に記されている。上演テキストとしては、おそらく民国初期のものと思われる唱本や、1930年代の『戯考』型歌辞集(全本ではない。多くは他の劇種と合訂)が残存しており、上海図書館の近代文献部(唱本は古籍部所蔵)などで見ることができる。また半世紀前と情報は古いが、「呉語研究書目解説」(小川環樹他編、『神戸外大論叢』第3巻第4号、1953年2月)を見る限り、本邦でも唱本類の所蔵は期待しうる。

このようにある程度の材料は存するものの、強い通俗的イメージや海派文化自体に向けられた偏った視線などの影響で、滬劇に関する学術的研究は中国においても極めて少ない。確かに、同一エリア内で演じられる他の劇種……例えば、崑曲の文学性、京劇の様式性のような特筆すべき項目は存在しない。特に、同様に1930~40年代に飛躍的な発展を遂げた劇種である越劇と比較した場合、上演団体の分布ひとつを見ても、越劇が呉方言地域のみならず、江淮官話圏・福建あたりまでカヴァーしているのに対し、滬劇はせいぜい蘇州(現在劇団は存在しない)止まりであり、席巻力には明白な差があるように見える。しかしこれは逆に、上海という都市を離れては成り立ちがたいという滬劇の独自性を物語っている。この地に生きる中国人の多くは、初めから「モダン都市・上海」に住んでいたのではない。ある者は親や祖父母の世代に、ある者は自分自身が、周辺の農村や都市からチャンスを求めてこの新興都市に集まってきた。そして、めまぐるしく変貌するこの街で体験した日常のできごと、センセーショナルな事件、外国から様々な媒体を通じ入ってきた物語、そして時には別の芸能の出し物などを、自分たちの普段着のことば・上海語を用い、地元のうたに乗せて演じるのが滬劇の舞台なのである。

周氏が繰り返し述べることだが、滬劇最大の特徴は、同時代の潮流に乗り、観客のニーズに即応しうる柔軟性と現代性をどの劇種より自然な形で備えていることにある。実際、近年さかんに取り上げられる民国期上海都市文化を体現するものの一つとして、滬劇のこの特殊性はより注目されてしかるべきである。他の伝統演劇や文明戯・話劇・映画との影響関係、先述した上演空間に関する諸問題、メディアの発展との関連性、地域エリートの活動との相関性など、私たちが提起しうるテーマに限っても十分に開拓の余地があり、且つ豊かな収穫の可能性があることをここでは述べておきたい((
滬劇に関する研究成果として、江南プロジェクト構成員には以下の論考がある。&br;
三須祐介「[[『申曲日報』についてのノート>『都市芸研』第一輯/『申曲日報』についてのノート]]」中国都市芸能研究第一輯 2002年7月&br;
「「現代戯」としての滬劇の起源」季刊中国第76号 2004年3月&br;
藤野真子「初期滬劇上演資料初探」富山大学人文学部紀要第38号 2003年3月))。
周氏が繰り返し述べることだが、滬劇最大の特徴は、同時代の潮流に乗り、観客のニーズに即応しうる柔軟性と現代性をどの劇種より自然な形で備えていることにある。実際、近年さかんに取り上げられる民国期上海都市文化を体現するものの一つとして、滬劇のこの特殊性はより注目されてしかるべきである。他の伝統演劇や文明戯・話劇・映画との影響関係、先述した上演空間に関する諸問題、メディアの発展との関連性、地域エリートの活動との相関性など、私たちが提起しうるテーマに限っても十分に開拓の余地があり、且つ豊かな収穫の可能性があることをここでは述べておきたい((滬劇に関する研究成果として、江南プロジェクト構成員には以下の論考がある。&br;三須祐介「[[『申曲日報』についてのノート>『都市芸研』第一輯/『申曲日報』についてのノート]]」中国都市芸能研究第一輯 2002年7月&br;「「現代戯」としての滬劇の起源」季刊中国第76号 2004年3月&br;藤野真子「初期滬劇上演資料初探」富山大学人文学部紀要第38号 2003年3月))。

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最後にこの文章が生まれた経緯について、若干説明をしておきたい。

周氏は演劇愛好者であり、もちろん地方劇研究者でもあるが、我々は彼の上海市文化局における高級幹部としてのポジションに注目している。従来、伝統劇に関する文章の多くは、俳優・演出家など劇団関係者、および演劇研究者によって著されてきた。また、建国後の「戯改」に関しては、近年『新中国地方戯劇改革紀実』(中国文史出版社、2000年)のような書籍が世に問われている。しかし、周氏のようなポジションで劇団の上演活動を管理・指導した人物による記述というのは、管見の限りさほど多くない。ともすれば政治的なバイアスがかかりがちな立場ではあるが、演劇そのものを愛し、現場の舞台人との交流も深く、彼らの経歴や環境に十分な理解を持つ氏の叙述において教条的・画一的な色彩は比較的薄く、これまで建国後の文芸政策に対して我々が抱きがちであったイメージとは趣を異にする。滬劇をはじめとする上海の伝統演劇と周氏との関わりについては、氏へのインタビューを通じ、後日さらに詳細な情報を紹介する予定である。

一方、抗日期から内戦期、人民共和国建国期を経て、さらには文化大革命・改革開放まで激動の時代を生き抜いた一人の知識人として、周氏の経歴には極めて興味深い点が多々ある。特に抗日戦争終了後、松江県から出奔して上海の大学に進み、かつ新国家建設への早急な参加を求められ繰り上げ卒業したという部分は、ある知識青年の人生における一大転換点として、非常に面白く感じられた。今回この文章を依頼するにあたり、周氏は「自分のような平凡な人物の伝など他人が読んでもつまらないだろう」と繰り返し謙遜したが、有名人でも特殊な立場の人間でもないごく普通の知識人が、どのような環境のもとに成長し、新中国の建設にいかなる心境で臨んだのかという一つの例として、是非世に問うてみたいと思った次第である。

今回は本誌の読者層を鑑み、日本語訳はせず原文のまま掲載することにした。ただし一部のタームについては、三須氏および筆者が簡単な注釈を付した
((注釈を付けるにあたっては、以下の文献を参考にした。&br;
1.『中国戯曲志・上海巻』(中国ISBN中心出版 1996年)&br;
2.汪培・陳剣雲・藍流主編『上海滬劇志』(上海文化出版社 1999年)&br;
3.上海戯曲志上海巻編輯部編『上海戯曲史料薈萃』第二集「滬劇専輯」(内部発行 1986年)&br;
4.中国人民政治協商会議上海市委員会・文史史料委員会編『戯曲菁英』下(中国人民出版社 1989年)&br;
5.趙潔編『新編滬劇小戯考』(上海文化出版社 2004年)))
今回は本誌の読者層を鑑み、日本語訳はせず原文のまま掲載することにした。ただし一部のタームについては、三須氏および筆者が簡単な注釈を付した((注釈を付けるにあたっては、以下の文献を参考にした。&br;1.『中国戯曲志・上海巻』(中国ISBN中心出版 1996年)&br;2.汪培・陳剣雲・藍流主編『上海滬劇志』(上海文化出版社 1999年)&br;3.上海戯曲志上海巻編輯部編『上海戯曲史料薈萃』第二集「滬劇専輯」(内部発行 1986年)&br;4.中国人民政治協商会議上海市委員会・文史史料委員会編『戯曲菁英』下(中国人民出版社 1989年)&br;5.趙潔編『新編滬劇小戯考』(上海文化出版社 2004年)))
。また、今回は諸般の事情により、人物については滬劇関係の物故者、演目については同じく滬劇における主要なものに各々限定した。いずれ他の形でこの文章を出版する折には、完全なものとしたい。掲載された写真は全て2004年9月に三須氏および筆者が現地で撮影したものである。

最終章に記されているように、周氏は重病を患い、一時は生命も危ぶまれるような状態であった。体調が万全ではない中、我々の無理な願いを聞き届け、この文章を記してくれた氏に深い感謝を捧げたい。また、父上の病状を気遣いながらも、多忙な中メールでの連絡を仲介してくださった子息の周靖南氏に併せて感謝の意を表したい。

最後に周良材氏の主要な業績目録を以下に挙げておく。興味のある方は是非一読されたい。

**主要作品目录: [#e0b139cf]
**主要作品目录: [#h268135a]
+论文:
++《赋传统题材以新意》(《美术》1978年第2期)
++《应该承认?应该允许?应该相信》(《上海文化艺术报》1985年7月12日)
++《海派艺术与西装旗袍戏》(《上海戏剧》1986年第3期)
++《百年沪剧话沧桑》(《戏曲菁英(下)》上海人民出版1989年)
++《解放初期沪剧界活动摭拾》(《上海文化志通讯》1991年第12期)
++《现代帮会与海派戏曲》(《上海艺术家》1994年第2期)
++《从票友起源说开去》(《上海老年报》1997年2月28日)
++《尊重历史  端正文风》(《上海戏剧》2000年第8期)
++《京剧大师周信芳》(《战斗在大上海》东方出版中心出版2004年)
++《滩簧戏与时代潮流》(《中华艺术论丛(2)》上海辞书出版社2004年)
+剧本:
++越剧本《镬底田》1974年上海越剧院演出
++电影剧本《黑水帮》(与人合作)《电影创作》1983年7期 北京电影制片厂出版