北方芸能プロジェクト成果報告/『燕影劇』の編集をめぐって

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『燕影劇』の編集をめぐって ドイツ・シノロジストによる北京皮影戯の発見

山下 一夫

1.はじめに

『燕影劇』は、1915年に出版された影巻(影絵芝居の台本)のアンソロジーである。山東省の州府天主教印書局で印刷されて中国語で出版されたものだが、版元はライプツィヒのオットー・ハラソヴィッツ(Otto Harrassowitz)で、編者はウィルヘルム・グルーベ(Wilhelm Grube)とエーミール・クレープス(Emil Krebs)である。「燕」は直隷省(現在の北京市・天津市および河北省にあたる)の別名として用いられていたので、書名は「直隷省の影絵芝居」という意味だろうが、書皮に付されたドイツ語タイトルは“Chinesische Schattenspiele”、すなわち「中国の影絵芝居」となっている。

『中国の影絵芝居』表紙
『中国の影絵芝居』中身

清末民初のころは中国でも石印で影巻の出版が多数行われていたことは「石印影詞編目」*1などを見ても明らかであるが、その多くは冀東皮影(北京では東派がこれにあたる)のものであった。これは、冀東皮影の影巻が抄写によって伝えられていたこととも関係があろう。一方、琢州皮影の流れを汲むとされる北京西派皮影の影巻は主に口伝によって行われたため、文字化されたテキストは現在僅かしか残っていないとされ、その研究を困難なものとしている。その中でこの『燕影劇』は、収録されている影巻に北京西派に特徴的な演目が多いことで注目されていたが*2、テキストの出自については不明とされてきた。

しかし、実はこの『燕影劇』とほぼ同時期にバイエルン・アカデミーからやはり“Chinesische Schattenspiele”と題した著作が刊行されており(混乱を避けるため、以下こちらの方を『中国の影絵芝居』として引用する)、そこには『燕影劇』所収影巻すべての訳注と、編者による解説が収められている。そして『燕影劇』は実は『中国の影絵芝居』の資料編として刊行されたものだったのである。したがって、ここから今まで不明とされてきた『燕影劇』所収影巻についてもある程度その情報を得られるだけでなく、二十世紀の初頭にドイツの研究者たちが皮影戯に関心を持った点や、またかれらが見た清末の皮影戯の状況についても理解することができるものと思われる。以下、これら研究者たちの関心の方向について検討しながら、『燕影劇』の編集をめぐる問題について考えていきたいと思う。

2.グルーベ

『中国の影絵芝居(Chinesische Schattenspiele)』は、1915年にバイエルン科学アカデミー文史哲叢書の一つとしてミュンヘンで刊行された。ウィルヘルム・グルーベ訳、エーミール・クレープス補となっており(この二人は『燕影劇』では編者になっている)、さらにベルトルト・ラウファー(Berthold Laufer)が編者として名を連ねている*3

このうちウィルヘルム・グルーベ(1855-1908)は、サンクトペテルブルク生まれのドイツ人である*4。『中国語文典(Chinesische Grammatik)』などの著作で知られるライプツィヒ大学のガベレンツ(von der Gabelentz, 1840-1893)のもとで中国語と満州語を学び、1882年にかれの推薦でベルリン民俗博物館東アジア部門主任となった。そして1892年にベルリン大学で東アジア言語学科が設立されると教授として迎え入れられ、中国語や満州語の講座を担当した。また1897年から1899年まで中国に滞在し、北京や廈門などで調査や資料収集を行っている。

グルーベの初期の研究は、当時のヨーロッパのシノロジーの傾向を反映して、『ギリヤーク語語彙集および文法論』*5や『ゴルディ語・ドイツ語対照語彙集』*6などいわゆるアルタイ諸語に関するものが多い。この方面では特に『女真語言文字考』*7が女真語研究の分野を確立した著作として高い評価を得ている。また1902年に発表した『中国文学史』*8は欧州の言語で書かれた初の中国文学の通史で、小説などの俗文学に高い評価を与えていること、原典からの翻訳を多く載せていることが特徴的である。所収の『聊斎志異』抄訳は当該書の最初のドイツ語訳であるという。

しかしグルーベの本領は何と言っても中国の宗教思想および民俗の研究である。『神仙伝による道教の開闢神話』*9、『中国の宗教と祭祀』*10 、『古代中国の宗教』*11など、文献研究によって中国の古代宗教を考察したものや、『民俗博物館における廈門の民間諸神の収蔵品』*12、「北京の葬送習俗」*13など、現地調査などに基づいて中国の民間信仰や風俗を研究した論考がある。また『封神演義』のドイツ語訳*14も行っているが、これは巻末に作中登場する神仙の詳細な索引を付しており、中国の民間信仰の研究に本作品を利用しようとしていた点がうかがえる。また、1901年に発表した『北京の民俗』*15は、グルーベが北京で目睹した風俗習慣を記したものだが、この中の第五章「娯楽」は、現地で当時行われていた演劇や曲芸についての詳細な研究である。第一節「吟遊の民俗:歌い手と語り手」は「唱曲児的」「女戯」「蓮花落」「女落子」「八角鼓」「瞎子」「説書的」、また第二節「芸能団体」は「槓箱官」「秧歌」「五虎棍」「獅子」「開路」「什不閑」という章立てで各々の曲芸についてその由来や上演状況を述べ、また第三節「演劇」では京劇の戯班や劇場、行当などの解説に加えて、自ら観劇した十八種の演目についてその内容を詳細に述べている。こうした演劇・曲芸にグルーベが相当の関心を持って調査を行っていたことがうかがわれるが、李家瑞の『北平俗曲略』*16より30年以上前にこうした研究を発表しているという点は注目に値する。ただし、皮影戯については残念ながら具体的な言及がないので、中国滞在中には見ることができなかったか、あるいは見てはいても著作に反映できるほどには調査を行っていないということなのだろう。

ではなぜグルーベはその後皮影戯の研究を進めていったのであろうか。これについては、編者のラウファーが『中国の影絵芝居』の序文の中で以下のように記している。

本書はウィルヘルム・グルーベの遺稿を基礎として出版されたもので、これらは手書きの中国の影絵芝居テキストのコレクション(19冊)に基づいている。このテキストは現在ニューヨークのアメリカ自然史博物館に存する一千件の人形とともに、1901年に北京の影絵芝居の劇団から入手したものであると注記されている。また説唱部分の幾つかについては録音も行われており、その一部はベルリン大学心理学研究所のエーリッヒ・フィッシャーによって分析が行われている。テキストの研究には、ウィルヘルム・グルーベがその中国の民俗と中国の大衆演劇についての膨大な知識を用いることができる最適の人物であることは疑いようがない。1904年の夏に、テキストの出版と翻訳について相談を受けたかれは、録音の聞き取りも含めて喜んでこれを引き受けた。そしてその年の冬、ニューヨークからベルリンのグルーベ教授のもとに中国語の抄本が送られたが、かれは1905年の3月までにはうち三十件の翻訳を終えている。

以上の記述から解るように、グルーベは自分で皮影戯に興味を持って台本を収集したり研究を進めたわけではなく、ニューヨークのアメリカ自然史博物館がすでに収集していた影巻の翻訳をグルーベに依頼したものだったのである。ラウファーの言うように、中国語が堪能で、また演劇や曲芸にも詳しいグルーベは、翻訳を行うにはこれ以上ない適任であったろう。またここから、もとになったのは19冊の影巻抄本であるということ、またこれが影人や録音とともにニューヨークに所蔵されていることが解る。

続いてラウファーは1906年1月23日付けのグルーベの手紙を紹介している。

影絵芝居のテキストで最も量が多かった部分は、だいたいよく調べて翻訳をしました。一番大きな困難はテキストの作成で、これはゾッとするような状態になっています。わたしは台本25個の正確な写しを作りましたが、それだけでもう250ページにもなっているのです。ただ、校正作業と翻訳はまだ終わってはいません。神話的な魔法劇(原注、『混元盒』を指す)などは興味がないわけはありませんでしたが、これはほかのどれよりも量が多く、19冊のうちの4冊分も占めていました。

翻訳に当たって、グルーベはまず抄本の漢字を起こして、正確な複製本を作成することから始めた。おそらくこれが後の『燕影劇』の元原稿となったものと思われる。また、一般に北京などの影巻抄本は略字も多く使われているのに対し、『燕影劇』のテキストは漢字をいわゆる正字に統一するなど、かなりの校訂の跡がうかがえるが、そうした作業も恐らくある程度この段階で行われたのだろう。そして、折子戯に近いものがほとんどの『燕影劇』所収影巻の中で、『混元盒』だけはいわゆる本戯の体裁を取っているため分量も多いが、これはもとの抄本の段階ですでにそうなっていたことも解る。おそらく、収集した19冊の影巻の中に、4冊本の『混元盒』抄本が含まれていたということなのだろう。そうするとそれは、あるいは芸術研究院戯曲研究所所蔵の4冊本などに近いものだったのかもしれない*17

3.クレープス

グルーベは他にも研究論文の執筆などの仕事を抱えていたため、翻訳作業はこれらと同時進行という状態ではあったものの、作業自体は順調で、翌年までには完成させることができると手紙で約束している。しかし、約束の時期を過ぎても原稿は到着せず、かわりにアメリカ自然史博物館側が受け取ったのはかれの急死を知らせる電報であった。慌てた博物館側はグルーベの仕事を継いで翻訳を完成させることのできる人物を捜し、結局レープスに白羽の矢が立てられた。ラウファーの序文には以下のように記されている。

公使館参事官のエーミール・クレープス氏は、在北京ドイツ帝国公使館の最初の翻訳官で、故人の門下生でありかつ忠実な賛美者であるが、そのかれがこの未完の仕事を完成させてくれることになった。クレープス氏がこの非常に面倒な仕事を献身的にこなしてくれたことに対して、この場を借りて心から感謝を申し上げる。かれの協力は非常に有益で、北京方言で作成されているテキストに対してかれは優れた技量を発揮した。土地の生活に根ざしたような多くの不明点について、かれは正確な翻訳を行ったのである。難しい点については、かれは北京の影絵芝居の芸人から助言を得ることもできた。

クレープス(1867-1930)はシフェボジツェ生まれのポーランド系ドイツ人である*18。後にベルリンに留学してグルーベのもとで中国語を学び、卒業後1893年から北京のドイツ大使館で翻訳官として勤務し、二十世紀初頭の中独外交の場で活躍をした。かれは学生時代から外国語の習得に非常な才能を発揮し、ヨーロッパはもちろんのこと中近東やアフリカ、東アジアの言語を自在に操り、1930年に亡くなるまでにおよそ60カ国語をマスターしたといわれている。そのたいへんなスーパー・ポリグロットぶりのために、死後かれの大脳はデュッセルドルフ大学に保存されて研究が行われている程だという。当然の事ながら中国語の能力も高く、しかも当時公使館員として北京に滞在しているという利点も生かして、亡くなった師の仕事を完成させた。テキストの不明点について影絵芝居の芸人に助言を乞うているというのが注意を引くが、これについては序文に続けて収録されているラウファーの「解説」に以下のような逸話も記されている。

テキストを詳細に研究するために、クレープス氏は北京で影絵芝居の劇団をよんでそれらの演目を上演させた。かれはそれで気が付いたことをこう加えている。「ついでに言うと、かれらは自分で厳密なテキストを持っているという訳ではなく、はやりの日常的な冗談をその中に織り交ぜたりするのだ。喜劇『三怕』をやっているとき、例えば登場人物の女性の一人はこう言った。わたしはワゴン・リー・ホテル(原注:北京にあるヨーロッパ系ホテル)に招かれているので、これから行くところなのですよ、と。」

単に不明な表現などを問いただすというだけではなく、劇団を呼んで翻訳している演目をやってもらうというのだから、実に念の入った態度である。上演にアドリブが多いという指摘も面白いが、そこでワゴン・リー・ホテル云々といっているのは、実際にここで上演を行ったということであろう。また『三怕』は『燕影劇』に収録されている影巻だが、いわゆる北京土語にちかい表現が散見されるということもあり、北京西派に特徴的な演目である可能性があるとされるものである。翻訳の元になっている抄本をアメリカ自然史博物館に提供したのがここで上演を行っているのと同一の劇団なのかどうかは、以上の記述からは解らないが、『三怕』を上演する劇団というのはあるいはそう多くはない可能性があろう。

さて、クレープスの献身的な努力もあって影巻抄本の翻訳が完成し、『中国の影絵芝居』は出版にこぎ着けることができた。その際、翻訳の元となった抄本の校訂テキストについても同時に出版しようという計画が持ち上がる。ラウファーは以下の様に述べている。

グルーベ教授夫人のすすめで、中国語のテキストもクレープス氏の指揮のもとで山東の洲にあるカトリック教会の印刷所で印刷されることになった。これについては、本論文と同じ形式でライプツィヒのオットー・ハラソヴィッツから出版される。

当時欧州でも中国語の印刷は不可能ではなかっただろうが、活字や校正などの問題を考えても明らかに中国で印刷を行った方が都合が良かったのだろう。山東省州は当時ドイツの拠点の一つであり、またそこの天主教印書局は石印本が全盛の当時にあって珍しく中国語の鉛活字を具えているなど、進んだ印刷技術を持っていた。ドイツ公使館員であったクレープスがここの印書局に印刷を依頼することは当然のなりゆきであったとも言える*19。こうして『中国の影絵芝居』のために作成された影巻の校訂本は、『燕影劇』として出版されることになったのである。

『中国の影絵芝居』と『燕影劇』を比べると、後者が収録する影巻を「仏教劇」「道教劇」「歴史劇」「風化劇」「滑稽劇」「独角戯」の項目によって分類しているのは、前者のスタイルに基づいていることが解る。ただし、同一の本戯に基づくとされる演目や一続きになる演目、例えば『双鎖山』『殺四門』『探病』『竹林計』はいずれも『三下南唐』に基づいており、また『抛彩逐婿』『撃掌』『別窯』『双別窯』『搬窯』『探窯』『紅雁書』『迴龍閣』は薛家将故事の演目としてある程度の連続性があるが、これらについて『中国の影絵芝居』はさらに小分類を立ててまとめているのに対し、『燕影劇』ではこれが行なわれていない。また『中国の影絵芝居』はそれぞれの演目について本事が解る場合にはこれを脚注で述べているほか、さらに無題となっていた演目についても仮題を付しているなど、『燕影劇』所収影巻の研究に際して有益な情報を提供している。

4.ラウファー

『中国の影絵芝居』の序文と解説を書いたラウファー(1874―1934)は、ケルン生まれのドイツ人で、ベルリン大学で東洋諸語や民俗学を学んだ。かれもまたグルーベの学生なのである。そして、ライプツィヒ大学で博士号を取得した後アメリカに渡り、シカゴのフィールド博物館を拠点に研究活動を続けて、アメリカ東洋学の重鎮とよばれた。ラウファーについてはすでに著作も幾つか翻訳があり、邦文による紹介もあるので、研究や生涯などの詳細についてはそちらを参照して頂きたい*20

なお、かれは1901年から1902年までアメリカ自然史博物館の依頼で中国に民俗関係の資料収集に赴いており、帰国後は1904年から1906年までここの助手として様々な事務処理もこなしていた。つまり、『燕影劇』の元となった19冊の影巻抄本や大量の影人、また皮影戯の録音などは、実はすべてかれが北京で収集してきたものであり、またグルーベに翻訳の依頼を行い、その後様々な折衝に当たったのも実はかれであったのである。いわばかれは、自分で興味を持って収集してきた資料の翻訳を、自らの師匠に託したのであった。

博覧強記をもって知られたラウファーに、そうした能力がなかった訳ではあるまい。実際、先にも引用した『中国の影絵芝居』の「概説」では、ヨーロッパの影絵芝居の状況から始めて、トルコやアラビア、インド、ジャワ、シャム、朝鮮、さらに日本などにまで説き及び、その博学ぶりを披露している。中国の影絵芝居については、『史記』「孝武帝本紀」に見える斉人少翁の記事や『漢書』「外戚伝」の李夫人の説話などの記事を紹介し、伝説的にはこれらに起源を求められるとしながらも、実際の上演が確認出来るのは『東京夢華録』や『夢梁録』などに見えるように宋代を待たなければならないとした。また、ラシード・ウッディーンの『集史』などの記述から、現在トルコやアラビアで行われている影絵芝居はいずれも中国から伝わったものであるとしている。これらは、現在では皮影戯の歴史をたどる上でいわば公式化した言説であるが、顧頡剛の「灤州影戯」*21より20年も前にすでにこうした認識に達していることは特筆に値しよう。ラウファーはさらに、中国演劇のインド起源説を持ち出し、中国語の「傀儡」がインド系言語からの借用語であるという点も援用して、中国の影絵芝居はインドから伝播したものであるとし、さらにその起源をオリエントに求めている。ただ、中国より先行するとするオリエントやインドの影絵芝居について、具体的な資料を提示しておらず、その点で今ひとつ説得性を持ちえていない。これはかれの学説と言うより、むしろ影絵芝居全体に対するかれ自身の見通しといった程度のものであろう。

「概説」の後半では、ラウファーが実際に中国で目睹した皮影戯の状況について記している。

(皮影戯の)さまざまな足跡についてわたしは自分で追ってみた。そして、中国の中部では浙江の省都である杭州と長江の漢口で、また中国の北方では北京、陝西の省都である西安、それから四川の省都である成都でこれを見つけた。これらの場所ではどこでも常設でプロの影絵芝居の劇団があり、年寄りから子供まで非常に人気があって、また非常に沢山の道具を具えていた。またどこでも影絵芝居は男の子が練習をして楽しむものでもあり、西安や成都の市場では紙製の人形のおもちゃは二束三文で買えるものであった。

ここから解るように、かれは中国の各地で皮影戯が行われているのを目撃していた。「概説」では続いて、北京の影人は三本の棒で操作すること、またロバの皮で出来ていることなどについて説明した後、皮影戯がなぜかくも人気があるのかということについて、以下のように述べている。

我々が最初に見ておかなければならないのは、影絵芝居と木偶芝居に共通する点はなにか、また公の劇場演劇と違っている点はなにか、ということである。後者はたいていの場合、広い建物の中の固定された舞台で行われるのだが、それらは衣装や道具などの設備にお金がかかる俳優や楽団による娯楽であり、そういうものを見ようと思えばそれなりの資金や高い入場料が求められてしまう。そしてそれは貧しい人間の手が出る範囲のものだとは限らないのである。しかしもっと重要なことは、中国では公の劇場の観客は男性および花柳界の女性が優先され、尊敬すべき御婦人がたは厳しく立ち入りを制限されているということである。しかし漂泊の影絵および木偶芝居の芸人たちは家族に親しく接しうるという点で助けになる。すなわち、放浪の生活をしているかれらは、呼べばいつでも家までやって来て上演してくれるので、寂しいご婦人がたなどにも娯楽を提供することができるのである。

つまり、人戯は費用がかかる上に女性の観劇が制限されているが、偶戯は堂会上演などを行ってもそう高いものではなく、しかもそうした形態であれば女性でも観劇することが可能であったために、彼女たちの娯楽として歓迎されたというのである。同様の指摘はその後斉如山などが行っているが、これもラウファーの観察の確かさを物語るものと言えよう。

また、影巻テキストと上演の関係については、先に引いたワゴン・リー・ホテルの部分でもアドリブが多いという点を指摘していたが、他にもかれは以下のように述べている。

台本の韻文はそれほど重要ではなく、またその内容も重要ではないようである。聞き手は言葉をほとんど理解していないのだ。しかし音楽と歌唱はかれらを熱狂させうるのである。影絵芝居の芸人はあるいは大舞台の役者よりもずっと高いレベルで即興上演をこなしているのかもしれない。かれらの手書きの台本、特に喜劇や笑劇に関わるようなものは、初心者の入門的な手引きか、あるいは上演のための記憶を助ける程度のものでしかない。かれらはたいていテキストを完全に暗記して覚えているのだ。ただかれらの役をそのまま読み上げるだけというやり方で行うのは不可能である。すべての注意を人形の操作に向けなければならず、それには制止した状態はほとんどありえない。ほとんどすべての言葉に命と動きを吹き込んでいく必要があるからだ。

いわゆる北京西派は口伝のみでテキストを伝え、また東派は影巻を見ながら上演してゆくということが言われているが、以上の記述からではどちらとも判別がつかない。また残念なことに、ラウファーは劇団の名前はおろかその上演場所、さらには劇団員の名前すらも全く触れていないのである。

5.おわりに

李家瑞『北平俗曲略』や顧頡剛の「灤州影戯」が発表されて中国で本格的な皮影戯研究が始まったのは1930年代のことであった。李家瑞は宋代の筆記資料などを整理して中国における皮影戯の歴史を概観し、また顧頡剛は北京東派の芸人である李脱塵と接触して実際の上演状況などを調査した。しかし、これよりも20年以上前にドイツのグルーベやラウファーたちはすでに同様の研究を行っていたのである。こうした点は今日再評価される必要があろう。また、本論では取り上げることができなかったが、ドイツではかれらの仕事を受けてその後ゲオルク・ヤコブ*22やライナルト・シモン*23、ゲルト・カミンスキ*24らが皮影戯の研究をすすめており、中にはドイツ国内に所蔵される北京西派の古い影人に関する貴重な論考も含まれているので、今後はこれらについても参照してゆく必要がある。

これまで由来不明であった『燕影劇』所収影巻について、これが1901年に北京で収集された抄本をもとに翻刻されたものであり、ニューヨークのアメリカ自然史博物館に所蔵されているものであるということを明らかにすることができた。ゲオルク・ヤコブによれば、現在「ラウファー中国踏査収蔵品(Laufer China Expedition Archive)」として収蔵されているコレクションには、北京西派だけでなく冀東や四川の皮影資料も含まれているといい、この中にはラウファーが言及した当時の音源も残されている可能性もある。これらについては今後の調査が期待できよう*25。しかし、『燕影劇』所収影巻が北京皮影戯全体の中でどのような位相を占めているのかについては、結局はテキストそのものの分析によって考察してゆくほかない。そうした点については、稿を改めて検討して行きたいと思う。

ラウファーコレクションの冀東影人

*1 『楽亭文史・五輯』(中国人民政治協商会議天津市楽亭県委員会文史委員会・楽亭県文教、1990年)所収。
*2 千田大介「北京西派皮影戯をめぐって」、『近代中国都市芸能に関する基本的研究』平成9~11年度科学研究費基盤研究(C)成果報告論文集、2001年。また劉季霖『影戯説・北京皮影之歴史、民俗與美術』(好文出版、2004年)、72-73頁。
*3 “Chinesische Schattenspiele”, ubersetzt von Wilhelm Grube. auf Grund des Nachlasses durchgesehen und abgeschlossen von Emil Krebs. Hrsg. und eingeleitet von Berthold Laufer. -- Verlag der Koniglich bayerischen Akademie der Wissenschaften, 1915.
*4 グルーベについては、Edouard Chavannes, “Le professeur Wilhelm GRUBE”, T’oung PaoⅨ, pp.593-595, 1908、福井文雅「欧米における道教研究」(『道教第三巻・道教の伝播』平河出版社、1983年)280-282頁、陳耀庭『道教在海外』(福建人民出版社、2000年)201-202頁などを参照した。
*5 “Giljakisches Wörterverzeichniss nebst gramm. Bemerkungen”, St. Petersburg : Commissionaren der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften , 1892.
*6 “Goldische-Deutsches Wörterverzeichnis”, St. Petersburg: Commissionaren der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften , 1900.
*7 “Die Sprache und Schrift der Jučen”, Leipzig: Harrassowitz , 1896.
*8 “Geschichte der chinesischen Literatur”, Leipzig:C.F. Amelangs , 1902.
*9 “Taoistischer Schöpfungsmythen nach dem Sên-Sien-kien”, Berlin, 1896
*10 “Religion und Kultus der Chinesen”, Leipzig: R. Haupt, 1910.
*11 “Die Religion der alten Chinesen” , Tübingen: J.C.B. Mohr, 1911.
*12 “Sampang Volksgötter von Amoy im Museum für Völkerkunde”, note publiée dans fasc.2 de Ethnologisches Notizblatt au sujet d’un collection de divinités populaires d’Amoy envoyée au musée d’ethnographie de Berlin par M.Feindel,1895.
*13 “Pekinger Todtengebräuche”, Journal of Peking Oriental Society, vol.IX,1898.
*14 “Feng-Shen-Yen-I: Die Metamorphosen der Götter: historisch-mythologischer Roman aus dem Chinesischen”, Leiden : E.J. Brill, 1912. なお、グルーベの翻訳は四十六回までで、のこりはかれの死後ヘルベルト・ミューラー(Herbert Mueller)が補った抄訳である。
*15 “Zur Pekinger Volkskunde”, Berlin: Speemann, 1901.
*16 中央研究院歴史語言研究所、1933年。
*17 拙稿「芸術研究院戯曲研究所所蔵影巻目録」(本報告書所収)参照。
*18 William Matzat, “Emil Krebs (1867-1930), das Sprachwunder, Dolmetscher in Peking und Tsingtau. Eine Lebensskizze”, Bulletin of the German China Association 1, pp.31-47, 2000.
*19 こうした点から、「ドイツ人カトリック宣教師が『燕影劇』を編集出版した」という『北平俗曲略』などの記述は訂正される必要があるだろう。
*20 石田幹之助「ベルトールド・ラウファー博士の訃を聞きて」、『欧米に於ける支那研究』(創元社、1942年)所収、また武田雅哉「ラウファー」、『東洋学の系譜[欧米編]』(高田時雄編、大修館書店、1996年)所収。またラウファーの著作は博品社から翻訳が多数刊行されている。
*21 『文学』第2巻第6期、1934年。
*22 Georg Jacob und Hans Jensen, “Das chinesische Schattentheater”, Stuttgart : W. Kohlhammer, 1933.
*23 Rainald Simon, “Das chinesische Schattentheater (Katalog der Sammlung des Deutschen Ledermuseums Offenbach am Main)”, Melsungen, 1986; “Chinesische Schatten: Lampenschattentheater aus Sichuan; die Sammlung Eger, Deutscher Kunstverlag”, München, 1997.
*24 Gerd Kaminski und Else Unterrieder, “Der Zauber des bunten Schattens.Chinesisches Schattenspiel einst und jetzt”, Klagenfurt, 1988.
*25 なお、ラウファー中国踏査収蔵品については一部がアメリカ自然史博物館のサイト(http://www.amnh.org/)でオンライン公開されているが、現在閲覧可能な部分は冀東系の影人のみである。

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