北京プロジェクトⅠ成果報告/北京旧廟会と寺廟跡地について

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北京旧廟会と寺廟跡地について

二階堂善弘

一. はじめに

旧時の北京では、無数と言ってよいほど多くの寺廟が存在し、そこで「廟会」が行われていた。廟会の本来的な意義は、宗教活動であり、神仏に対する祭りを行うことである。つまり、日本の所謂「縁日」に近いものである。

しかし廟会も縁日も、宗教活動より、それに付随して起こる商業活動や、娯楽文化行事の方に重点が置かれるように変貌していった。つまり、祭りに来る参拝客によって寺廟が賑わうと、その人出を当て込んだ露天商や芸人たちが集まるようになったのである。そのため廟会という言葉それ自体が、「市が立つ」こととほとんど同意義に使われるに至った。

都市の芸能について考察する場合、その活動の場としての廟会についても、いま少し注意が払われてよいと考えられる。また都市における商業発展ということについても、寺廟とその門前町とは大きく関連を有する。小論は、主に廟会の中心となった北京の主要な寺廟及びその他の廟宇について、その歴史的経緯と、現在の状況について考察し報告するものである。

廟会がどのように行われていたか、その歴史的経緯については、以前にはそれほど議論がなされてこなかったが、1980年代後半以降、廟会を文化現象として捉える動きが盛んになり、続々と専門的な著作が出現した。郭子昇氏の『北京廟会旧俗』、常人春氏の『老北京的風俗』、趙興華氏の『老北京廟会』などがそれであり*1、小論では主にそれらの論著を踏まえて考察を行っている。

なお、廟跡地の現状の報告については、1996年7~11月、1998年8~9月及び1999年8月の3回にわたる現地調査を中心にしている。

二. 北京における廟会

旧北京においては、護国寺・隆福寺・土地廟・白塔寺・薬王廟・蟠桃宮・東岳廟・白雲観・大鐘寺・城隍廟・花市火神廟・雍和宮などの廟会が有名であった。この他に、什刹海・厰甸といった地区にも、大小無数の寺廟が存在し、同様に廟会が行われていた。

この中で、特に有名なものは、「東廟」と称される隆福寺、それに「西廟」護国寺である。竹枝詞に言う*2

東西兩廟貨真全、一日能消百萬錢、多少貴人間至此、衣香猶帶御爐煙。

この二廟の廟会は、北京城内では最大規模のものであったと言われる。ともに城内の繁華街の付近に位置する。旧暦の毎月七・八日の逢日(七・八・十七・十八・二十七・二十八日)には西廟護国寺にて廟会が開かれた。同様に、毎月九・十の逢日には、東廟隆福寺において廟会が行われた。

これに次ぐものとしては、斜街土地廟及び花市火神廟の廟会が著名である。土地廟は宣武門外の斜街にあり、また火神廟は、崇文門外の花市にあった。土地廟では、毎月三・十三・二十三日の三日間、市が立ち、また花市では、毎月四・十四・二十四日に市場が立ったという。この廟会も、かなり大きな規模で行われたとされる。

さらに、白塔寺の通称で知られる妙応寺も毎月五・六の逢日には、廟会が行われた。これらの廟会が、ほぼ北京城内外で毎月定期的に行われた廟会である。これから考えると、北京ではほぼ毎日のように、街のどこかで廟会が行われていたと考えてよい。

この他、東岳廟や白雲観や城隍廟などの道観、それに雍和宮や大鐘寺、黄寺や黒寺などの寺院でも、廟会は盛んに行われた。ただ、これらの寺廟では、一年に一度、ある一定の時期に廟会が行われることが多かった。そのため、毎月廟会があった東廟・西廟などとはやや異なった面もあったと思われる。

この他、北京郊外の妙峰山にある碧霞元君廟などの廟会もよく知られている。但し、小論では、あくまで北京城内外に所在する廟を中心とするため、この廟宇については対象から除く。

さて、廟会の行われた本来の目的は、参拝であった。地方における廟会のあり方と違い、北京においては異様とも言えるほど、商業活動の方に重点が置かれることになった。

對于多數北京人來說、廟會不是求神拜佛、而是購買日常生活用品。早年北京沒有大商場、一切生活日用品、一着鞋帽、鍋碗瓢勺、兒童玩具、日用雜品、無一不可從廟會上購得。購物同娛樂結合、聽相聲、說書、看洋片、戲法、雜耍等。市民可以從廟會上隨意品嘗各種類風味小吃、一飽口福。

すなわち、大規模な商業地が未発達であった時、廟会は市場として、また娯楽場としての役割を負っていたのである*3。この後、これらの場はまた門前市として、固定的な市場を持ち、商業地へと発展していった。現在の北京の繁華街が、かつての廟会の地とかなりの部分で重なりあうのは偶然ではない。一方で、固定的な商業地が発展した結果、廟会の方は徐々に衰微していくということにもなった。

しかし、清から民国期にかけて、これらの寺廟が文化商業活動に与えた影響は大きく、就中「五大廟会」と呼ばれた東廟隆福寺・西廟護国寺・斜街土地廟・花市火神廟・白塔寺は、北京という街の発展史上、重要な地位を占めた。

現在、大鐘寺・白雲観などの諸廟で、春節の時期を中心として廟会が復活しているのは喜ばしいことである。しかし一方でかつての五大廟会の地は、現在白塔寺を除いては、ほとんどその殿宇を存していない。以下では、このような北京の諸廟の歴史的な経緯と、その跡地の現状について報告を行いたい。

なお、廟会の行われた主要な寺廟の位置については以下の通りである*4

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廟会が行われていた主要な寺廟跡地

三. 東西両廟―五大廟会跡地の一

(一) 東廟隆福寺

「東廟」と称される隆福寺は、北京東城区の隆福寺街北にかつて存在した大規模な寺院である。史料によれば、明の景泰3年(1452)に建造が着手され、翌年に完成した。

隆福寺、明景泰中所建也。在崇文門北、大市街之西北、今其地稱隆福寺街。明景泰三年興安用事、佞佛甚於王振、請帝於大興縣東大市街之西北建大隆福寺、費數十萬、以太監尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎趙榮董之、四年三月功成。寺之莊嚴興隆并、三世佛三大士殿處二層三層、左殿藏經、右殿轉輪、中經毗盧殿至五層、乃大法堂。雍正元年重修、世宗御制碑文。又明碑一、爲景泰建寺記。逢月之九、十日有廟市、至今爲諸市之冠。

隆福寺が大規模な寺院であったことはこの記載からも想像できる*5。また落成して後には、皇帝が行幸しており、もって朝廷がいかにこの寺を重視していたかが分かる。

主要な建築としては、山門・韋駄殿・大雄宝殿・万善正覚殿・毗盧殿・金剛殿・大法堂などがあったとされ、大伽藍を構成していた。そして長らく、北京の代表的な寺院の一つとして栄えた。むろん、その廟会は全北京に冠たるものであった。喇嘛僧も住持していたため、喇嘛教(チベット密教)系の寺であると思われがちであるが、実際には一般の僧侶の方が多かった。一般の僧と喇嘛僧が同時に居住できる寺であるのが、また隆福寺の特色である。もっとも、清朝末期に至ると、寺院としての勢力自体は徐々に衰退していったようである。

また、清の光緒27年(1901)には、失火により伽藍の一部が大火に見舞われ、韋駄殿や鐘楼などの建物は灰燼に帰してしまった。その当時では、寺には殿宇を建て直すだけの力はなく、更地のままとされたようである。但し、その広い場所は、かえって芸人たちにとって表演の絶好の舞台となったという*6

その後、ますます商業活動の方の比重が重くなり、「百貨倶備、游人甚多、絶不禮佛」*7という状況となるに至った。隆福寺の廟会では、衣服や食品などの日用品から、骨董・宝石・美術工芸品などの奢侈品、それに書籍など、ありとあらゆる商品が扱われた。なかでも、古書店が非常に多かったことで知られている。廟会は、旧暦毎月の九・十の逢日に行われていた。

辛亥革命の後、隆福寺の廟会はますます盛んであったと言われる。そのため、廟会の日をそれまでの九・十の逢日から、さらに一・二の逢日を加えることになった。

ところが、1937年の日華事変を境に、隆福寺の廟会は衰退に向かう。1949年の中華人民共和国成立の後、この地は東四人民市場と位置づけられ、まったく単なる市場として扱われることとなった。1985年以後には、近代的な商業ビルが建てられ、寺廟であった面影はますます失われることになった*8

しかし、1995年になると、前面にかつての隆福寺の姿に似せたビルが建築され、その正面には、かつての「隆福寺」の牌が掲げられるに至った。しかし、もちろんこれは寺廟として建てられたわけではなく、単にコンクリート作りの商業大廈であるに過ぎない。また観光向けといった要素も強い。しかし、このような形でも隆福寺という名が復活したことは、やはりかつてのこの寺とその廟会が、北京の歴史において、いまもなお強い印象として残っていることを示すものとは言えよう。但し、かつての大伽藍の建築については、ほとんど往事を偲ぶべくも無いほど毀されてしまっている。

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現在商業大廈として復活した隆福寺(隆福広場)

(二) 西廟護国寺

「東廟」隆福寺と並び称されたのは、「西廟」護国寺である。護国寺は、もとの名を崇国寺といい、その淵源は元の時代にさかのぼる*9

護國寺、舊稱崇國、元僧定演建也。在今西四牌樓大街東、其地稱護國寺街。又舊稱崇國寺、元僧定演所建。定演俗姓王、三河人。七歲入大崇國寺事隆安和尚、元世祖時賜號崇教大師。至元二十四年、別賜地大都、乃興建茲寺、故崇國有南北寺、此其北寺也。

この寺の由来については諸説があり、元の宰相であった托克托の邸宅であったとも言われ、また明初の功臣姚広孝にこの地が賜られたとも言う。常氏の『老北京的風俗』と趙氏の『老北京廟会』においても、この説が紹介され、護国寺の由来とされている*10。しかし、この説には問題もある。

何故なら、実際には崇国北寺は寺としてずっと機能していたようであり、突如として功臣の邸宅になったり、また寺となったりすることは不自然だからである。これについては『燕都叢考』において詳しい議論が紹介されている*11

世以寺爲托克托宅、又爲姚少師影堂、皆未符、不可不辨。帝京景物略曾載此語、分録於下、寺爲元丞相托克托故宅、(略)托克托、元末順帝時人、彼時已有此寺、萬無毀寺建宅之理。入明亦爲梵宇、地初未易、亦萬無改宅又爲寺之理。故事、大臣奉旨出都及回京、例不至宅、皆寓寺中、俟復命後始回宅。竊以爲當時托克托丞相必常假寓此寺、日久遂誤寺爲其宅耳。(略)或云、第六層以後爲宅址、以爲垂花門不似廟、且門前有石獸故。(略)又明姚廣孝影堂、廣孝佐世祖靖難首勛、侑享太廟。嘉靖九年、移祀大興隆寺、俄寺災、移此。

おそらく、護国寺が托克托の故宅であるとの伝承は誤りであると思われる。元時の崇国北寺から連綿と寺院が続いてきたとの見解が正しかろう。それは、かつて寺院の中に存在した多くの石碑群が、元明間でほとんど断絶していないことからも推察される*12

その後崇国寺は、明の宣徳年間には「大隆善寺」との号を賜り、その後成化年間には、さらに「護国」の称を加えられた。これ以後「大隆善護国寺」となったが、一般にはこの「護国寺」の名称が知られている。また、東廟隆福寺に対応する形で、西廟とも呼ばれる。

清の康煕61年(1721)に、護国寺は重修され、伽藍は大幅に拡張された。またこのころより密教系の喇嘛寺院となっていく。東廟と同様に、規模の大きい寺で、多くの建物があった。山門・金剛殿・天王殿・延寿殿・崇寿殿・千仏殿・護法殿・勤課殿・菩薩楼などがあり、また密教様式の塔もあった。また多くの石碑が存在したようであり、趙孟頫の筆になる「皇慶元年崇教大師演公碑」などが存していた*13

廟会において、ありとあらゆる商品が売られたのは、隆福寺の場合と全く同様である。護国寺の廟会は、旧暦の七・八の逢日であった。民国11年(1922)よりは、陽暦の七・八日に改められたという。

廟会における攤子は、それぞれ出店の場所が決まっていたようである。弥勒殿は骨董や工芸品、それに刀剣の類、天王殿は玉器や装飾品といった形である。殿の外では、また多くの手工芸品があり、特に扇子が著名であった。殿の廊下では、書画、また古書が売られ、文人墨客が群れを成したという。碑亭の前では「売唱本的」がおり、竹板などを鳴らし、歌いつつ本を売ったという*14

しかしながら、護国寺の廟会は、隆福寺に比しては若干規模の面で劣るものであったらしい。また、寺院としての護国寺は、清の光緒年間に発生した大火などを経て、衰微していったようである。それでも廟会の方は依然として続き、民国の時期にもかなりの規模であったという。

現在の護国寺は、その地名に名を留めているが、寺院としては全く機能していない。抗日戦争の時期より衰退に向かった廟会も、当然行われてはいない。

また繁栄を誇った大伽藍の大半も現在は存していない。僅かに金剛殿など、ごく一部の建物を残すのみである。建築物の多くは工場または民家に転用されている。金剛殿だけは、一応文物としての扱いを受けて保護されているが、他の建物は全く注意を払われてはいない*15

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護国寺の跡として唯一残る金剛殿
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工場や倉庫に転用されている殿宇の一部

四. 斜街・花市・白塔寺―五大廟会跡地の二

(一) 斜街土地廟

五大廟会の跡地として知られる土地廟は、北京の宣武門の外、槐樹街とも呼ばれる斜街に存在した。廟自体にはこれといった特徴は無かったようだが、東西二廟と並び称せられる廟会の地として名高い。詩に、

麥飯豚蹄賽一方、何來此地半城隍。如雲士女無香火、不及山村坐夜郎。

と歌われるように*16、やはり参拝客より、商品購入のための人が大半であったことは、東西両廟の場合と変わらない。

但し、廟の規模は非常に小さかったと言われる。建物としては、中心に正殿、それに若干の配殿が存したのみであり、東西両廟とは比すべくも無い。よってその廟会も、廟の周囲に展開されていた。

また廟の歴史も、その淵源については不明な部分が多い*17

都土地廟在土地廟斜街、舊爲老君堂、明萬暦四十三年重修、有明神宗御製碑。毎旬之三日有廟市。遊人雜踏、與護國、隆福并稱勝。

これによれば、元来土地廟は太上老君を祭る「老君堂」であったことが分かる。また、遅くとも明末には廟が存在していたことは看取できる。

ここで大規模な廟会が開かれるようになったのは、この地が農村とのちょうど接点に当たる位置にあったことが指摘されている*18。実際に、土地廟の廟会は鮮花の取引で有名であった。廟会が開かれたのは、毎月三日・十三日・二十三日の逢三日であり、やはり数多くの品物が売買されていた。ただ、骨董や芸術品などよりも、日用雑貨や家具などの取引が多かったようである。

人民共和国の成立後も、この地はひとしきり市で賑わったと言う。しかし、廟の敷地には宣武医院が建てられ、交通が激しくなると同時に、店を広げる土地も無くなったことから、廟会も徐々に衰退に向かった。

現在は、この土地廟はまったく廟として機能してはいない。またその跡地も、民家として転用されていると言われるが、その詳細な位置については不明である。

(二) 花市火神廟

崇文門外に位置する花市は、また現在でも繁華街の一つとして著名である。旧時には、ここでも盛んに廟会が行われていた。その廟会の中心となったのは、火神廟である。

花市の火神廟は、正確には「火徳真君廟」といい、明代から続く廟であると言う。火神廟というのは俗称である。

花兒市之火神廟、爲明隆慶二年所建、原爲神木厰悟元觀下院、清乾隆四十一年重修。毎月逢四日開放、并在廟外招商設市、極爲繁盛。

これによれば火徳真君廟は、明の隆慶2年(1568)の建になり、清の乾隆41年(1776)に重修されたものである*19

花市の名は、ここで大量に造花が売買されたことに由来するという。北京の婦女は頭に紙で作られた造花を挿すことが多かったというが、その精巧な製品は、もっぱらこの花市で取引された。そのためにこの名があるとする。

廟会は、旧暦の逢四日(四・十四・二十四日)に行われたが、1922年よりは陽暦の逢四日に変更された。廟会ではやはり、ありとあらゆる物品が売られたという。火神廟には、山門・前院主殿・配殿があったとされるが*20、現在山門は毀されてしまっている。後に火神廟の祭祀は途絶え、しかし廟会だけは残ることになった。

現在、花市大街の北部分に、火徳真君廟とされる建築は残っている。しかし、一応「文物保護単位」との標識が掲げられているとはいえ、その荒れようは目を覆うばかりである。そもそも、もと山門であったとおぼしき所は、公衆のための廁所となっていた。

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火徳真君廟のもと山門の位置から内部を望む

おそらく正殿及び配殿と推察される建築物については、完全に民家に転用されているようで、全く保護の対象とはなっていないようである。

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民家に転用されているもとの正殿と思われる建物

(三) 白塔寺

白塔寺は、五大廟会の開かれた寺廟の中で、現在でも唯一、宗教施設としての機能を存している寺院である。

その位置は阜城門大街にあり、白塔寺とは通称である。優美なチベット密教風の白い塔が目立つことからこの称がある。正式には「妙応寺」という。

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優美な姿を残す妙応寺の白塔

この寺はその淵源を遼代にまで遡る古刹であり、失火や重修により、度重なる変遷を経ている。

まず始めは遼の寿昌2年(1069)に釈迦如来の舎利塔として建造された。後にその塔は戦災により焼かれたが、元の世祖フビライの時、至元8年(1271)に修築された。塔の建築は至元16年(1279)まで続き、「大聖寿万安寺」と呼ばれた。明の天順元年(1457)には勅額を賜り、名を「妙応寺」とされた。清代にも度重なる改築を経ており、民国元年(1912)にも重修を蒙っている*21。『元史』には、

幸大聖壽萬安寺、置旃檀佛像、命帝師及西僧作佛事坐靜二十會。免災傷田租。

など、多くの皇帝が何度もこの寺に行幸したことが見えている*22。また多くの仏典がこの寺において印刷されるなど、元代において、この寺の地位は非常に高かった。

その地位にふさわしく、かつては大伽藍が形成されていたという。山門・鐘鼓楼・天王殿・三世仏殿・七世仏殿・配殿があり、中心に白塔が配されていた*23。このうち山門・鐘鼓楼などは現在破壊されて残っていない。また、他の建物も主に文化大革命のさなかに被害を被った。

白塔寺の廟会については、東西二廟と同様に大規模なものであったと言われる。廟会が行われたのは旧暦の逢四・五日であった。ただ、この地は西廟護国寺と近く、そのために共通の攤子が店を開き、似たような商品が売られていたという。それでもやはり独自色があり、白塔寺の廟会は、売られている食品の多彩さで知られていた。現在周りに食品市場が多いのは、この名残であろう。

さらに知られているのは、「説書」の芸人が多かったということである。数多くの著名な説書人が、塔院の西側の空き地でその芸を披露したという。『劉公案』『小五義』『楊家将』『呼家将』などの出し物が人気であった。これらの芸人たちは、1950年代までは活躍していたらしい。また、演武の芸人が多かったことも、その特色として挙げられる。さらに、ここには多くの占い師が店を出していた。人相見や卜算の「算命先生」が群れをなし、ありとあらゆる占いが可能であったという*24

このような白塔寺の廟会も、1960年代以降、普通の商業活動に取って代わられ、廟会自体も行われなくなったという。

現在でも、白塔寺は一応寺院の機能を残したまま、存在している。ただ、どちらかというと観光的な要素が重視されているようである。それでも、かつての五大廟会の開かれた寺廟の中では、規模はかなり縮小しているとはいえ、いまだにその伽藍を存しているという意義はかなり大きなものがあると思われる。他の五大廟会跡地が零落をきわめているだけに、このまま保護が加えられることは望ましい。

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妙応寺正面から
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妙応寺殿宇から白塔を望む

五. 東岳廟・白雲観―二大道観

(一) 東岳廟

北京の道観でも、特に規模の大きなものとして知られるのが、東岳廟と白雲観の二つの廟宇である。ここも廟会が行われた地である。但し、五大廟会が行われた寺廟とは異なり、この両道観で行われた廟会は年に数度のものであった。そのため、五大廟会のような定期的な市場を形成するには至らなかった。そのため、経済や芸能文化に関する方面に与えた影響ということについては劣る面もあろう。しかしかえって、宗教的な影響力は非常に強いものがあった。

東岳廟は中国南方に流布する正一教の華北最大の拠点として、そして白雲観は全真教の総本山として、多大なる役割を果たした。共に広大な敷地を有し、中国全土でも屈指の道観として知られる。しかし、いまでも道観としての機能を有する白雲観に比べ、東岳廟の方は単に博物館として観光名所の一つになっているに過ぎない。

東岳廟の歴史は古く、元代に遡る。当時道教界において絶大な力を有した、張天師の血筋に連なる張留孫が建設を策定し、元の延祐6年(1319)に建設を始めた。しかし張留孫の生前には完工するには至らず、弟子の呉全節が引継ぎ、至治3年(1323)に主要な建築が竣工。その後泰定2年(1325)に塑像を含めほぼ完成をみる。しかし元末の動乱により損壊を受け、明の正統年間に重建される。その後、清の康煕37年(1698)には大火にて消失。その後乾隆年間、道光年間に修築がなされた*25

当初廟の名は「仁聖宮」であったが、後に「昭徳殿」との称を賜った。しかし東岳大帝を祭祀することから「東岳廟」の称号が有名である。

東岳大帝については、五岳の長、泰山の神として有名である。冥界の長であることも知られ、中国全土に絶大なる信仰を有していた。

主要な建築群は、修築されて現在もある。山門・戟門・岱宗宝殿・育徳殿・玉皇殿・炳霊公殿・三茅殿など、大小の殿宇がそびえ立つ。就中有名なのは、前面に展開される七十二司(実際には七十六司とされる)で、ここには冥界の官吏たちの様子が詳細に描かれる。

廟会が行われたのは、春節(旧正月)の正月一日から十五日までと、それに東岳大帝の生誕祭である旧暦三月二十八日の前のほぼ一ヶ月であった。この他に旧暦の毎月一日と十五日にも、参拝客に廟が開放されていたというが、盛大な廟会が開かれたのは、やはり春節と生誕祭前後であろう。

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万暦年間に建てられたという山門

東岳廟は1998年までは、別の施設に転用されており、その中を参観することはできなかった。現在は可能である。だが、博物館として公開されているため、宗教的な機能は無く、住持する道士もいない。ただ、春節における廟会は復活しており、大鐘寺や白雲観とともに、北京の廟会として知られている。

東岳廟で特筆すべきは、その石碑群である。元・明・清代の数多くの石碑が百二十座以上も存在する。

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正門と戟門
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膨大な数の石碑群及び七十二司

(二) 白雲観

全真教の総本山として有名な白雲観においても廟会は盛んに行われていた。その位置は西便門の外で、やや城内からははずれた所にある。

白雲観も由緒のある名刹である。その淵源は、はるか唐代の天長観に遡るという。しかし、この地が本格的に全真教の道観として機能したのは、元代に太祖チンギスが、全真七子の一人丘処機真人にこの地を与えた時からのことであると考えられる。時に元の太祖22年(1227)のことであり、「長春宮」と称した。後に丘処機没後には弟子の尹志平がその遺骨をこの地に奉じた。元の末には、この地も灰燼に帰し、明の永楽年間に復興される。明の正統8年(1443)には「白雲観」との号を賜る。現在の建築の大半は、清代に王常月の手によって重建されたものである*26

広大な敷地内には多くの建築がある。山門・霊官殿・玉皇殿・老律堂・邱祖殿・三清閣・四御殿・八仙殿・呂祖殿など、夥しい数の建築群がいまも残る。

白雲観はいまでも多くの道士が住持し、また中国道教協会の本部が置かれるなど、宗教的な機能を持つ数少ない道観の一つとなっている。また、現在でも廟会が開かれている。

白雲観の廟会は、毎年旧暦一月の一日から十九日までであった。特徴的なのは、それが道教儀礼と密接な関係を持っていたことであろう。例えば、旧暦一月八日は星辰の神々を祭り、九日は玉皇大帝の生誕節であり、十三日から十七日までは灯節であった。十八日は「会神仙」と呼ばれ、仙人が下界に降りて来る日とされた*27

現在でも、道教の祭りに応じて多くの参拝客が訪れる。しかし、やはり一番の人出は一月の廟会の時であるようだ。

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中元節の白雲観・霊官殿及び玉皇殿

六. その他の廟会跡地について

(一) 大鐘寺

白雲観と同様、現在でも廟会が開かれている寺院に、大鐘寺がある。

大鐘寺とは通称であり、正式な名称は「覚生寺」である。北京の西直門より西北に位置し、やや郊外にある。清の雍正11年(1733)に建てられた。大鐘寺の俗称は、この寺に明の永楽年間に作られた巨大な鐘を収めているための称である。この鐘は、元来は別の所にあったものであるという*28。現在、ここは古鐘博物館となっており、仏寺としての機能はあまり有していない。しかし、毎年春節のおりには多くの人が訪れ、廟会が行われている。

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覚生寺(大鐘寺)正面

(二) 厰甸火神廟

厰甸とは、現在の琉璃厰付近のことである。この界隈でも、かつて盛んに廟会が行われていた。ここには、かつて呂祖閣・玉皇閣など多くの廟宇が存在した。

この界隈を遼代には「海王村」と呼び、明の嘉靖年間には琉璃厰厰甸と呼ばれることになった。ここに市場が立つようになったのは、清の乾隆年間のことであり、その後民国7年(1918)より、旧暦の正月一日から十五日に廟会を行っていたという*29

ここで取引の中心となったのは、やはり書画骨董の類から、宝石・手工芸品などである。もちろん食品などを扱う店も多く存在した。

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かつての火神廟(現宣武文化館)

宝石などの取引の場として重視されたのは、ここにあった火神廟であった。この火神廟は清の乾隆年間に重修されたものであるが、後にその性質を失い、市場となっていった。現在、この火神廟は「宣武区文化館」となっている。

(三) 呂祖閣

和平門の中にある半壁街の北に呂祖閣があった。呂洞賓を祭祀する廟宇であったが、ここも廟会が行われた地として知られている。毎月一日と十五日、それに呂祖の生誕節である旧暦四月十四日には、廟会が行われた*30

現在、ここはまったく民家の一部と化している。また保護は加えられていない。

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ほとんど保護されていない半壁街の呂祖閣

(四) 曹老公観

曹老公観は、新街口西路にかつて存在した道観である。本来の名称は「崇元観」であり、曹老公観というのは俗称である。もともと、この道観は明の宦官曹化淳が作ったとされ、そのためにこの俗称がある。

乾隆33年(1769)に重修されたが、その後は衰落し、清末にはすでに見る影も無かったという。元来は規模広大な道観で、前方に玉皇殿、中に三皇殿、また後部に三清殿があった。明清においては、旧暦の毎月一日・十五日に廟会が開かれた他、春節一月一日から十五日までの間、盛大に市が立ったという。しかし民国期以降、廟会は無くなり、民国21年(1931)この場所は国民党により陸軍大学となった。さらに後には東北大学となった*31。現在では工場や映画館になっている。

七. まとめ

この他、北京においては、現在でも残る雍和宮・黄寺などの地で廟会が行われていた。また復興門内にあった都城隍廟においても、廟会は古くから盛んであった*32。さらに前門付近にあった前門関帝廟、広安門外の財神廟、東便門外の蟠桃宮、崇文門外の南薬王廟、鼓楼付近に存在した北薬王廟など、数多くの寺廟で大小の廟会が開かれていた。小論では大規模な廟会の行われた寺廟を中心に報告したため、これらの廟宇の現状については報告できなかった。継続して調査するとともに、今後の課題としたい。

さて、このような廟会は社会に経済的・文化的に北京に多大な影響を与えたにもかかわらず、その役割についてはこれまで看過されやすかった。しかし、都市形成において廟会の果たした機能は決して小さくない。北京の都市文化を考察する場合、今後は廟会にもっと注意する必要があろう。

また、小論が調査した寺廟のほとんどが、現在では文化財としての保護を加えられていないのは問題であろう。再開発が進む北京において、白雲観や東岳廟など、一部の大規模な廟宇を除いては文化遺産とは意識されぬまま、多くの寺廟跡地が消滅していくものと推察される。このような廟会という文化的背景を有する寺廟の跡が、いたずらに失われていくことに関しては、まことに残念な思いを禁じ得ない。


*1 郭子昇『北京廟会旧俗』(中国華僑出版社・1989年)、常人春『老北京的風俗』(北京燕山出版社・1990年)、趙興華『老北京廟会』(中国城市出版社・1999年)。また小論では、『北京名勝古跡辞典』(北京燕山出版社・1989年)も適宜参照している。
*2 李家瑞編『北平風俗類徴(中央研究院語言研究所専刊14)』(台湾商務印書館・1992年影印再版)419頁、「京都竹枝詞・見商賈門」より。
*3 前掲『老北京廟会』11頁。
*4 『中国最新実用商旅交通地図冊』(四川人民出版社・1995年)10~11頁より。
*5 陳宗蕃編著『燕都叢考』(北京古籍出版社・1991年)289頁、『順天府志』を引く。
*6 前掲趙興華『老北京廟会』42頁、また郭子昇『北京廟会旧俗』41頁などを参照。
*7 前掲李家瑞『北平風俗類徴』419頁、『燕都雑詠註』を引く。
*8 前掲郭子昇『北京廟会旧俗』50頁。
*9 前掲陳宗蕃『燕都叢考』329頁、『順天府志』などを引く。
*10 前掲常人春『老北京的風俗』19頁、及び趙興華『老北京廟会』32頁。なお、『北京名勝古跡辞典』の「護国寺金剛殿」の項も同じ。
*11 前掲陳宗蕃『燕都叢考』337頁。
*12 これらの石碑については、前掲陳宗蕃『燕都叢考』336頁。
*13 前掲趙興華『老北京廟会』32頁。
*14 前掲常人春『老北京的風俗』20頁。また、前掲李家瑞『北平風俗類徴』421頁に、『百本張子弟書』を引用し、多くの芸人が護国寺に群れなした様子を詳しく描写する。
*15 なお、この調査時には碑文などの所在は確認できなかった。現在、北京の各地にあった石碑などは、石碑博物館として機能している五塔寺に集約されており、或いはそこに移されたか。
*16 前掲李家瑞『北平風俗類徴』411頁、『都門贅語』の「土地廟詩」を引く。
*17 前掲陳宗蕃『燕都叢考』583頁。
*18 前掲趙興華『老北京廟会』133頁。
*19 前掲陳宗蕃『燕都叢考』540頁。
*20 前掲『北京名勝古跡辞典』239頁。
*21 前掲陳宗蕃『燕都叢考』364頁、及び前掲趙興華『老北京廟会』88頁などを参照した。
*22 中華書局版『元史』329頁、巻十五世祖本紀、至元26年の項。なお、この用例などについては、台湾中央研究院の漢籍電子文献(http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3)を利用して検索した。
*23 前掲郭子昇『北京廟会旧俗』30頁。
*24 前掲常人春『老北京的風俗』18頁。
*25 ここでは奈良行博『道教聖地』(平河出版社・1998年)61頁、及び前掲常人春『老北京的風俗』30頁を参照した。
*26 前掲常人春『老北京的風俗』52~53頁参照。
*27 前掲常人春『老北京的風俗』57頁。
*28 前掲趙興華『老北京廟会』23頁。
*29 前掲常人春『老北京的風俗』49頁。
*30 前掲奈良行博『道教聖地』61頁、及び前掲常人春『老北京的風俗』42頁参照。
*31 前掲常人春『老北京的風俗』43頁。
*32 前掲奈良行博『道教聖地』63頁に現存の建築に関して記載がある。