焦循『劇説』校読記†
1.はじめに†
1.1『劇説』について†
『劇説』は、清の焦循の手になる中国戯曲の筆記集である。焦循、字は里堂、江蘇省揚州甘泉県の人。乾隆二十八(1763)年に生まれ、嘉慶六(1801)年に挙人となる。朝廷に出仕せず野にあって研究と著述に専念し、経史・暦算・訓詁などに幅広く才能を発揮した。『易学三書』・『孟子正義』・『論語通釈』などの著作がある。嘉慶二十五(1820)年に没した。
高名な考証学者である焦循の、戯迷としての側面を伝えるのが『劇説』と『花部農譚』である。明清代の戯曲論著は、曲律や作劇に関するものが大半を占める。これは、中国の詩文評論が鑑賞ではなく創作の参考となることを念頭に置いて作られているのと同様、それらが戯曲の創作を志す文人を主たる対象として書かれたことを物語る。
それに対して、『劇説』は序文でいう*1。
乾隆壬子(五十四年、1792年)の冬、書肆の破本の中からある書物を見つけた。先人の曲や劇の論説を雑多に記録したもので、引用・収集すること詳細かつ広汎であるが、順序だっていなかった。嘉慶乙丑(十年、1805年)、家で病気療養していたが、経書・史書は辛くて読むことができないので、さきの書物を取り出して、旧聞を補い、およそ宮調・音律を論じたものは採録せず、『劇説』と名付けた。
ここで焦循は「およそ宮調・音律を論じたものは採録せず」としており、『劇説』が戯曲創作のための理論書でないことを明言している。崑曲の最盛期が過ぎ去り、花部が天下を席巻しつつある清の嘉慶年間にあって、知識層の戯曲への興味が創作から受容へと変化しつつあったこと、あるいは考証学者たる焦循の興味のあり方が背景として想定されるが、結果として『劇説』は、歴代の文献から幅広く演劇の上演・受容、および戯曲作品の材源・創作背景などに関する記事を収集した筆記集として、中国の戯曲・演劇史を研究する上でのバイブルとも言うべき地位を獲得した。
1.2『劇説』の校訂・訳注作業†
『劇説』の主要テキストは、中国国家図書館が所蔵する稿本と、『読曲叢刊』収録の版本の2種類がある。
稿本には、字句や文・記事の挿入や削除の跡が多く残っているほか、後の『読曲叢刊』で削られている個所にはたいてい何らかの印が付けられている。
中華民国初年に董康によって刊行された『読曲叢刊』本は『劇説』唯一の刊本で、巻首に「引用書目」を置くなど、全体の体裁がよく整っている。
現代の排印本としては、『中国古典文学参考資料小叢書』本と、『中国古典戯曲論著集成』本がある。前者は『読曲叢刊』本を底本とし、原典との異同を注しているが網羅的ではない。『中国古典戯曲論著集成』本は、『読曲叢刊』本を底本として稿本と校勘している。校注には、稿本との異同のほか、原典に基づいて本文を改めた個所についても注記されている。
これらのうち、現在、定本となっているのは『中国古典戯曲論著集成』本であるが、それでもすべての記事について引用元に当たっているわけではなく、校訂が完全とは言いがたい。
かかる見地から、中国都市芸能研究会では、2001年より有志*2による『劇説』の読書会を開き、本文を原典にあたって校訂するとともに注釈を補い、また日本語に翻訳する作業を進め、その結果を本誌上で随時公表してきた。本輯掲載分をもって『劇説』および『花部農譚』の校訳は一通り完了し、今後、全体を整理・見直しの上、単行本として刊行する計画である。
本稿では、前後16年に及ぶ『劇説』の校訂・訳注作業を通じて見いだされた新たな発見と、『劇説』の引用書をめぐる問題、また版本・排印本の信頼性などについて取りまとめ、いささか考察を加えて報告するものである。
2.戯曲史上の新たな発見†
2.1王仝高の劇作について†
巻三第141条*3の前半は、清の毛奇齢の「擬元両劇序」を引用している。「擬元両劇序」は王仝高の戯曲に寄せた序文である。
蕭山王叔盧,曾譜唐人事,擬元詞兩劇,一傷蓮勺棄故劍、一慨武成主者並不識司空世族,皆有為而發,原非汎汎。(蕭山の王仝高は、かつて唐詩の故事を戯曲にしたて、元雑劇に似せた二つの劇を作った。一つは、蓮勺でもとの妻を捨てたことを傷む故事で、もう一つは武成主が司空の氏族を見いだせなかったことを嘆く故事である。いずれもなかなかのできばえで、決して平凡なものではない。)
王仝高の戯曲については、民国『蕭山県志稿』巻十六「王仝高伝」にも見える。
著有《野寺飛磚》・《旗亭畫壁》傳奇二種。(著に『野寺飛磚』・『旗亭画壁』の二つの伝奇がある。)
『蕭山県志稿』はこれらを「伝奇」であるとしているが、「伝奇」という語は狭い意味では南戯系の長編戯曲を指すものの、広く戯曲、さらにはフィクション文学の意味でも用いられるので、これが雑劇を指すと考えても問題ない。
『蕭山県志稿』に『野寺飛磚』・『旗亭画壁』が見えることについては杜桂萍2004が既に指摘しているが、「擬元両劇」との関係については「作品の物語が異なっており、あるいは多くの種類があったか。待考」*4としている。『野寺飛磚』・『旗亭画壁』が「擬元両劇」に当たるのかは、それぞれの戯曲が演じていた物語について詳細に検討する必要があろう。
『野寺飛磚』は唐の薛漁思の伝奇「独孤遐叔」に取材したものと思われる。『太平広記』巻二百八十一所収テキストに従い、以下にその全訳を掲げる*5。
貞元年間のこと、進士の独孤遐叔は長安の崇賢里に居を構えていた。白氏の娘を娶ったばかりだったが、家が貧しく科挙に落第したので、四川に旅することになった。妻に別れを告げて言った。「遅くとも一年で帰れるだろう。」遐叔は四川に到着したが、旅暮らしが上手くいかず、二年してようやく帰ることができた。鄠県の西に至り、長安までまだ百里あったが、帰心は矢のごとく、夜には家に着けるだろうと、近道を急いだが、人も驢馬も疲れ果ててしまった。金光門まで五・六里のところで、日は沈んでしまい、旅籠も絶えて無く、道ばたに寺があるばかりだったので、遐叔はそこに泊まることにした。このときは清明節に近く、月明かりは昼のようであった。驢馬を庭の外に繋ぎ、がらんとした本殿に入った。桃や杏が十数本植わっていた。夜も更けて、西の窓の下に寝床をしつらえて横になったが、翌朝には家に着くのだと思い、古い詩を吟じた。「家近く心は
転 た切なり。敢えて来人を問わず。」夜半になっても眠れなかった。突然、塀の外で十数人が呼び合う声が聞こえてきて、あたかも顔役や年老いた百姓が、お出迎えをするかのようであった。まもなく、数人の下役がそれぞれ箒やちりとりを手に中庭を掃き清めて、また立ち去っていった。しばらくすると、また椅子や卓・蠟燭の類と酒器や楽器を持って、賑々しくやってきた。遐叔は貴族の宴席であると思い、追い払われるのを心配して、こっそりと息をひそめて本堂の梁に登って様子を窺った。支度が終わると、若君や女郎が十数人、侍女や童も十数人、月明かりにゆるゆると歩いてきて、楽しげに言葉を交わして笑っていた。宴席に着くと、気ままに杯を交わし、男女入り乱れて無礼講となった。そのうちの一人の女郎が、憔悴しきった様子で、そっぽを向いて座っていたが、雰囲気が妻に似ていたので、のぞき見ていた遐叔は仰天した。そこで天井から下りると、暗がりに隠れて近づいて様子を見たところ、本当に妻であった。すると一人の若者が、彼女を見ながら杯を挙げて言った。「一人であちらを向いていては、満座が白けよう。不躾ながら、美声をお聞かせ願いたい。」妻は鬱々した悲しみを訴えるすべもなく、無理に宴席に座らされているようであった。酒杯を挙げると、涙を収めて歌った。「今夕は何れの夕か。存 りや没 しや。良人は去りて天の涯。園樹に心を傷め三たび花を見る。」満座、耳をそばだて、女郎どもは顔を覆って涙を拭った。一人が言った。「旦那は遠くはないだろうに、なぜ『天の涯』などと言うのか。」若者と見合わせて大笑いした。遐叔はしばらく驚き憤っていたが良い方法が思いつかず、階の間で大きな煉瓦を手に取ると、座に向かって投げつけた。煉瓦が地面に触れると、さっとすべてが消え失せた。遐叔は妻が死んだのだと思って、呆然と悲しんだ。急いで家に向かったが、家が目に入ると、むせび泣きながら歩んだ。夜明け頃に家に到着し、まず下男に入って行かせたところ、家人はみな恙なかった。遐叔は仰天して、急いで門を入ると、下女が奥方様がお目覚めになりましたと知らせた。遐叔が寝所に行くと、妻は横になっていてまだ覚めやらぬようすであったが、しばらくして言った。「先ほど夢のなかで伯母さま方と月を愛でて、金光門の外の荒寺に参りましたところ、数十人の乱暴者に脅されて、一緒に酒を飲まされました。」また、夢の宴席でのやりとりについて話したが、遐叔が見たのと全く同じであった。また言った。「お酒を飲もうとしたところに大きな煉瓦が落ちてきたので、吃驚して悪夢から醒めましたところ、あなたがお戻りになりました。つのる思いが感じあったのでありましょうか。」
『醒世恒言』の「独孤生帰途鬧夢」もこの物語を扱っている。
一方、「旗亭画壁」は、薛用弱『集異記』に見える、王之渙らの有名な故事を指すものと思われる。以下、概略を掲げる。
開元年間のこと、詩人の王昌齢・高適・王之渙はある雪の日に旗亭で酒を酌み交わした。そこに梨園の伶官たちがやってきて宴会を開いた。三人は伶官が誰の詩を歌うかを競い合う。一人目が王昌齢、二人目が高適、三人目が王昌齢を歌ったところで、王之渙は最も美しい妓女が自分の詩を歌うだろうと語るが、果たしてその通りになった。
翻って「擬元両劇序」について考えたい。毛奇齢の文辞はいささか凝りすぎており解釈が難しいが、両劇のうち「傷蓮勺棄故剣」が『野寺飛磚』に相当するものと思われる。
「傷蓮勺棄故剣」は、『漢書』に見える宣帝の故事をふまえている。まず「蓮勺」は、民間で育った宣帝の若かりし頃の逸話に登場する地名である。巻八「宣帝紀」に以下のように見える*6。
青年になると、暴室嗇夫である許広漢の娘を娶り、広漢の兄弟および祖母の家である史氏に頼った。東海の澓中翁に詩を学び、才能溢れ学問を好んだが、また遊俠や闘鶏・競馬を好み、民間の悪事や、官吏の統治の得失を詳らかに知った。たびたび諸々の陵墓に上り、都の周辺にあまねく足を運び、しばしば蓮勺の鹵中で難儀に陥った。
如淳の注:人に辱められたことをいう。蓮勺県に塩池があり、縦横十余里、地元の人は鹵中と呼んだ。
暴室嗇夫は官職名であり、また蓮勺県は現在の陝西省渭南市にあたる。
また「故剣」は、宣帝が当時権勢を振るっていた霍氏の圧力をはねのけて、苦楽をともにした糟糠の妻・許平君を皇后に立てた『漢書』巻九十七上「許皇后伝」の逸話をふまえる*7。
陛下はしかし詔して身分が低かった時の故剣を求め、大臣はその意図を察して、許倢伃を皇后に立てるように言った。
「擬元両劇序」は「曾譜唐人事」としながら、漢の故事を引いているために読むものの混乱を誘うが、これは長安の近郊で宣帝が難儀をした「蓮勺」、古くからの愛妻たる「故剣」、それらによって、長安の近郊の荒寺で難儀をし、離ればなれの妻と再会する「独孤遐叔」の物語を比喩的に表現したものと理解されよう。
これに対して、「擬元詞両劇」の「慨武成主者並不識司空世族」がいかなる故事をふまえたものか、筆者は浅学にして詳らかにしえない。ただ、「並不識」からは才能を見出しうるか否かが問題となっていることが伺え、王之渙らの故事の主題と対応していると見ることも可能であろう。
以上から、さらなる検証が必要ではあるものの、毛奇齢が序を寄せた王仝高の「擬元詞両劇」とは、すなわち『野寺飛磚』・『旗亭画壁』のことであると見做して問題なかろう。
2.2清代花部『賽琵琶』について†
清代花部の演目『賽琵琶』は、科挙に及第して妻子を捨てた陳世美の物語を扱う。その内容については、焦循『花部農譚』第7条に詳しい*8。その概要は以下の通りである。
陳世美は科挙に及第し、妻子の存在を隠して郡馬に迎えられる。その元の妻は都に陳世美を尋ねるが、突き放される。それを知った王丞相が妻をとりなすが陳世美は頑として認めず、刺客を送る。妻は三官廟に逃れ、神より兵法を授けられ、西夏討伐に功を立てる。都に戻った妻は陳世美を裁くことになり、その罪を数えたてる。
陳世美の物語を扱ったものとしては、明の小説『百家公案』に見えるのが最も古く、包拯が罪を裁く。京劇では『鍘美案』が知られ、捨てられた妻の名を秦香蓮とし、また陳世美は郡馬ではなく駙馬になっており、やはり包拯が陳世美を死罪に処する。ところが『花部農譚』は包拯の登場に言及しておらず、これをもとに阿部泰記2004は『賽琵琶』が包公案ではなかったとしており*9、陳濤2011も「第三章“包公戏”剧目考」で、秦腔『秦香蓮』や京劇『鍘美案』を取り上げながら『賽琵琶』に言及していない*10。
さて、『劇説』の稿本には、後の『読曲叢刊』本に採用されなかった条が幾つか残っているほか、焦循が一度書いた文を消した推敲の跡もある。『中国古典戯曲論著集成』の校注は前者については記述しているが、後者には言及していない。
『劇説』巻二第98条は『王翛然殺狗勧夫』を扱っている。王翛然すなわち王翛は金代の人物で、包拯に勝る名判官として人口に膾炙し、いくつかの戯曲の題材となった。稿本ではこの記事の初めの部分に以下の一文があるが、『読曲叢刊』本では削除されており、『中国古典戯曲論著集成』本の校注でも言及されていない。
村劇中有《賽琵琶》者,王翛然與包拯並見一劇中,非也。(村芝居に『賽琵琶』というものがあり、王翛然と包拯が同じ劇に同時に登場しているが、誤りである。)
稿本で括弧のような印が付されているのは、削除の指示であると思われる。
「村劇」は花部を指すと考えて問題ない。つまり、清代中期の花部で演じられた『賽琵琶』がやはり包公案であったことがわかる。そもそも、『花部農譚』第7条は王丞相、すなわち王延齢の登場に言及している。王延齢は架空の人物で、通俗物語中では包拯の恩師とされているのだから、彼が登場しながら包拯が登場しないのは、むしろ不自然である。
この一文が削除された原因は幾つか考えられる。まず、元雑劇『王翛然断殺狗勧夫』(一名『楊氏女殺狗勧夫』)を扱った記事に、王翛然という共通点があるとはいえ、清代の花部の劇目を引くのはいささか唐突である、と判断した可能性がある。しかし『劇説』には数ヶ所、花部の劇目への言及が見られるので、花部であることが削除の理由であるとは考えにくい。
ともなれば、この一文に誤りがあったために削除したことになろう。その場合、包拯と王翛然が同時に登場する、というのが間違いで、『賽琵琶』にはどちらか一方しか登場していなかったことになるが、王翛然を扱う記事から削除していることからして、誤りがあったのは王翛然の方だと考えるのが自然である。推測するに、焦循は『賽琵琶』の王丞相を王延齢ではなく王翛然と誤認しており、その誤りに気づいたためにこの一文を削除したのではなかろうか*11。
いずれにせよ『劇説』稿本の抹消された一文は、清代花部の『賽琵琶』も小説や伝統劇と同様に包公案故事であったことを示すものであり、秦香蓮故事や包公案故事の変遷を考察する上での新たな材料となろう。
2.『劇説』の引用文献をめぐって†
2.1「引用書目」†
『劇説』稿本は各条の冒頭に執筆者名と引用元である文献名を掲げているが、『読曲叢刊』本はそれらを削除するかわりに冒頭に「引用書目」を置いている。「引用書目」は全部で167の文献を掲げており、焦循の博覧強記を窺わせる。
しかし、それら引用文献を実際に確認していくと、さまざまな蔵書目録や『中国基本古籍庫』などの大規模古典文献データベースを検索しても発見できない文献や、当該文献の原文に引用記事が見あたらない例などが多々見受けられる。
2.2引用文献と禁書†
清代は歴代王朝の中でも言論統制が厳しかったことで知られるが、『劇説』で存在が確認できない引用書には、清代の禁書が典拠となっているものが多数、見受けられる。
巻二第88条および巻二第94条は『芳畬詩話』を引くが、この書名は『劇説』以外の資料には見られない。当該部分は、実際には銭謙益『列朝詩集小伝』の記事を引いている。また巻二第96条・巻三第127条・巻四第181条は『蝸亭雑訂』を引くが、これらも実際には『列朝詩集小伝』の引用である。
よく知られるように、銭謙益は乾隆帝によって弐臣として批判され、その著作は禁書となり『四庫全書』にも一切収録されていない。そのため、禁書からの引用であることを隠蔽するためにことさらに書名を改めたか、あるいは禁書が書名を変えて密かに流通していたものに拠ったかしたものであろう。
明の沈徳符の『万暦野獲編』は多くの詞曲・小説関連の記事を収録することで知られるが、乾隆四十七(1782)年勅撰の『全毀書目』に掲載されている*12。このため、『劇説』は『万暦野獲編』からの直接の引用も避けている。
巻一第34条は『蝸亭雑訂』を引くが、実際には『万暦野獲編』巻二十五「弦索入曲」・「南北散套」から取っている。巻二第88条の『蝸亭雑訂』の後半部分および第92条は、同巻二十五「梁伯竜伝奇」の引用である。また、巻五第210条の『蝸亭雑訂』も『万暦野獲編』巻二十五「填詞名手」の節略である。
『蝸亭雑訂』を『劇説』巻首の引用書目は徐又陵の撰とする。徐又陵とは徐石麒のことである。明末清初の人で、籍貫は湖北だが代々揚州に居住した。戯曲に詳しく『珊瑚鞭』伝奇・『坦庵四種』雑劇などを著している。『蝸亭雑訂』が実在の文献であるのか否かは現時点で確認できていないが、同じ揚州の人であるから、焦循が徐石麒の子孫や旧蔵書と接触していた可能性はある。いずれにせよ『劇説』は同書の名前を、禁書『列朝詩集小伝』・『万暦野獲編』引用の隠れ蓑として利用している。
このほか、巻二第96条の『貫余斎筆記』も『万暦野獲編』の引用である。巻二第110条の前半部分、巻六第290条も同様だが、これらは引用文献名を掲げていない。
2.3『堅瓠集』からの引用†
『劇説』の原典が確認できない引用書には、清の褚人穫『堅瓠集』からの孫引きが目立つ。
『堅瓠集』は褚人穫が編した筆記小説集である。褚人穫、字は稼軒、また学稼、号は石農、没世農夫。蘇州府長洲県の人。沈宗敬の「堅瓠己集序」から康熙三十三(1694)年に還暦であったことが知られ、逆算すると崇禎八(1635)年生ということになる。没年は未詳。著書に『読史隨筆』・『鼎甲考』・『聖賢群輔録』・『続蟹譜』などがあり、また『隋唐演義』の作者としても知られる。
康熙二十九(1690)年序を持つ首集にはじまり、以下、二集~十集(以上十巻は甲集~癸集とも称される)、さらに続集・広集・秘集・補集、そして康熙四十二(1703)年序を持つ余集に至るまで、足かけ14年間にわたって刊行を重ね、記事数は合計4,000を超える。その内容は、人物の伝記・逸話、小咄の類であり、経学や歴史への言及はほとんどない。
『堅瓠集』には戯曲・演劇関係の記事も豊富に収録されている。その中には、曲牌名を綴って作られた詩詞といった言葉遊びの類も見られるが、『劇説』が専ら引用しているのは、戯曲の創作・上演・受容に関連する記事である。
『堅瓠集』に見える未確認文献†
『劇説』の未確認引用書には、『堅瓠集』を踏襲したとおぼしきものが幾つか見られる。以下、『劇説』の未確認引用書名と『堅瓠集』の巻・記事名を列挙する。
- 巻二第71条:『真細録』…『堅瓠四集』巻二「琵琶記弁」
- 巻二第71条:『大圜索隠』…『堅瓠四集』巻二「琵琶記弁」
- 『劇説』は「《毛德音評琵琶記》引《大圜索隱》」(『毛徳音評琵琶記』が引く『大圜索隠』)としているが、『毛徳音評琵琶記』にそのような引用は見えず、『堅瓠集』からの孫引きである蓋然性が高い。
- 巻二第74条:『南窓閑筆』…『堅瓠四集』巻二「孫汝権」
- 巻三第106条:『聞見巵言』…『堅瓠三集』巻二「馮千秋」
- 巻三第119条:『亦巣偶記』…『堅瓠九集』巻二「張元鑑」
- 亦巣は清の朱陖の別号である。
- 巻六第256条:『極斎雑録』…『堅瓠補集』巻四「殺秦檜」
- 巻六第284条:『亦巣偶記』…『堅瓠四集』巻二「俏冤家」
『堅瓠集』が原典であるもの†
他の文献に見られないことから、『堅瓠集』が原典であると思われる記事も見られる。
- 巻三第121条:『堅瓠続集』巻六「鷺曰舂鋤」
- 巻六第246条:『堅瓠八集』巻三「瞽識王教師」
- 巻六第256条:『堅瓠八集』巻四「改任福州」
書き換え・節略の踏襲†
『劇説』では、原文を節略して引用した条が幾つか見えるが、以下の2条は、『堅瓠集』が節略で引用したものをそのまま踏襲している。
- 巻二第89条:『尭山堂外紀』…『堅瓠二集』巻二「呂文穆」
- 『堅瓠集』の節略をそのまま踏襲している。
- 巻四第146条:『湖海搜奇』…『堅瓠広集』巻五「柳鸞英」
- 『劇説』の字句には、『湖海搜奇』原文といくつかの異同が見られるが、『堅瓠集』所引の『湖海搜奇』とほぼ一致する。
孫引きに起因する誤り†
『堅瓠集』から孫引きしたことによって生じたと思われる誤りも数ヶ所見られた。
巻二第86条は、『還魂記』に感動して湯顕祖を慕った女子の逸話を扱っている。この条は、以下のように始まっている。
《黎瀟雲語》云:「內江一女子、自矜才色、不輕許人……(『黎瀟雲語』にいう。「内江のある女は、自分の才色を鼻にかけ、なかなか嫁ごうとしなかった……)
『劇説』は冒頭の「黎瀟雲語」を書名として扱い、巻首の引用書目にも立てている。しかし『黎瀟雲語』なる書物は、いかなる所蔵目録や索引にも収録されていない。
しかるにこの記事は、元をただすと清の尤侗『艮斎雑説』巻五に見えるものである。その冒頭は以下に作る。
臨川黎瀟雲語予。(臨川の黎瀟雲が私に語った。)
一見して「黎瀟雲」が人名であることがわかる。黎瀟雲、諱は騫、字は子鴻、江西省清江の人。康熙十八(1679)年に博学宏詞に挙げられている。尤侗も同年の博学宏詞であるので、両者には明確な接点がある。
いずれにせよ、このように出典を誤っていることから、焦循が『艮斎雑説』を見ておらず、孫引きにあたって読み誤ったことは明らかである。そしてこの条は『堅瓠余集』巻二に「内江女子」として収録されており、そこでは冒頭を以下のように作る。
臨川黎瀟雲語尤悔翁云。(臨川の黎瀟雲が尤侗に語った。)
『艮斎雑説』の「予」を「尤悔翁」(悔翁は尤侗の別号)という具体的人名に置き換え、「云」を補っている。これを訓読すれば「臨川の黎瀟雲が尤悔翁に語りて云はく」となるが、焦循は「臨川」と「尤悔翁」を抄写の際に書き落としたか、あるいは一見して「尤悔翁云はく」と読んでしまい、溯って前の部分を書名であると解釈したのであろう。すなわち、この条の引用の誤りについても、「云」字が補われた『堅瓠集』からの孫引きに起因するものと推測される。なお、『中国古典戯曲論著集成』本ではこの誤りが正されていない。
巻三第113条は『桐下聴然』を引いている。その引用個所の冒頭は以下のようになっている。
華學士鴻山察,艤舟吳門……(華学士鴻山察が舟を呉門につけたところ……)
『中国古典戯曲論著集成』本は『桐下聴然』に基づいて「察」を「嘗」に改め、「華學士鴻山,嘗艤舟吳門」と断句している。
華学士とは明の華察のことである。字は子潜、号は鴻山、無錫の人で、嘉靖五(1522)年の進士である。つまり「察」は諱を補ったもので、この部分は「華学士、号は鴻山、諱は察」という意味である。ともなれば、『劇説』原文のままでも意味は通るのであり、『中国古典戯曲論著集成』本のように改める必要はない。
この逸話も『堅瓠四集』巻四に「唐六如」の題で引かれており、そこでは「華学士鴻山察」に作っている。つまりこの条も『劇説』が『堅瓠集』から孫引きしたものと考えられる。
巻六第264条は、五通神に呼ばれて農村で上演した役者たちの話を扱い、『西橋野記』に見えるとする。まずこの書名は『西樵野記』の誤りである。さらに、『西樵野記』にこの記事は見えない。
この記事は、『堅瓠九集』巻一「鬼観戯」に見えるが、その直前に『西樵野記』から引用した一節がある。すなわち、『劇説』が『堅瓠集』から引用する際、誤って『西樵野記』の書名を残してしまったものと考えられる。
隠された『堅瓠集』†
以上のように『劇説』は多くの記事を『堅瓠集』に取材しているが、巻六第246条・第256条のような『堅瓠集』が初出の記事も含めて、引用の事実には全く言及していない。これは『列朝詩集小伝』や『万暦野獲編』と同様の扱いであり、焦循には『堅瓠集』を直接に引用するのがはばかられる理由があったものと思われる。
しかし、褚人穫の著作では『隋唐演義』が洋務運動の際に丁日昌によって禁書に指定されているものの、嘉慶年間の時点で褚人穫が問題視されたり『堅瓠集』が禁書に指定されたりしたという資料は管見の限りでは見あたらない。あるいは、何らかの人脈・地縁上の問題があったのだろうか。その解明は、今後の課題としたい。
2.4引用文献に関する誤り†
この他の『劇説』「引用書目」における問題点を以下に列挙する。
孫引きと思われるもの†
- 巻五第230条:『江湖紀聞』
- 記事は『江湖紀聞』に見あたらず、清の翟灝『通俗編』巻三十七「何立至酆都」からの孫引きであると思われる。
- 同上:『邱氏遺珠』
- この文献は目録類に見あたらない。これも『通俗編』からの孫引きであると思われる。
- 巻六第244条:『蛾術堂閑筆』
- この文献は目録類に見あたらない。清の鮑倚雲『退余叢話』巻一が引く『玉几詩話』からの孫引きであると思われる。
引用文献名の誤りと思われるもの†
- 巻五第211条:『南音三籟』
- 実際には明・王驥徳『曲律』巻二「論須識字第十二」に見える。
- 巻六第251条:『西陂類稿』
- 『西陂類稿』には当該記事が見えず、同じ清の宋犖の『国初三家文鈔』に収める『侯朝宗文鈔』からの引用であると思われる。
- 巻六第279条:『丹鉛録』
- 実際には明・顧起元『客座贅語』巻六「髯仙秋碧聯句」に見える。
- 巻六第252条:『菊叢新話』
- 『劇説』は『菊荘新話』に作る。
- 巻六第267条:『瑯嬛記』
- 『劇説』は『嫏嬛記』に作る。
引用元とされる文献に記事が見あたらないもの†
- 巻二第103条:『茶余客話』
- 巻四第157条:『曠園雑志』
- 巻六第291条:『曠園雑志』
引用元の文献が見つからないもの†
- 巻二第97条:『西閣偶談』:
- 巻三第124条:『越巣小識』
- 巻四第169条:『台閣名言』
これらの文献については引き続き調査の必要がある。また『劇説』を研究資料として用いる際には、かかる資料の信頼性の問題がある点に十分留意する必要がある。
3.『劇説』本文の問題点†
3.1本文の誤り†
校訂作業を通じて、『劇説』本文の字句の誤りも多数見つかっている。我々の校訂・訳注作業では、『読曲叢刊』本を底本とし、稿本と『中国古典戯曲論著集成』本を参照した。その過程で見出された底本『読曲叢刊』本の誤りをまとめたのが右表である。
『劇説』テキスト | 誤 | 正 | 訂正根拠 | |
巻一第16条 | 全 | 南渡稍見淨、丑之目 | 南渡稍見淨、旦之目 | 『荘嶽委談』 |
巻一第18条 | 全 | 蘭香亭 | 香蘭亭 | 『宋史新編』 |
巻一第20条 | 全 | 杜祁公 | 杜岐公 | 『麈史』 |
巻一第38条 | 全 | 漢郊社志 | 漢郊祀志 | 『荘嶽委談』 |
巻一第39条 | 全 | 玉照宮 | 玉熙宮 | 『西河詩話』 |
巻一第48条 | 全 | 翠紅鄉兒女兩團員 | 翠紅鄉兒女兩團圓 | 『元曲選』 |
巻一第53条 | 全 | 孤和法曲 | 狐和法曲 | 『武林旧事』 |
巻一第64条 | 全 | 陳越 | 陳鉞 | 『明史紀事本末』 |
巻二第71条 | 読 | 明櫟社 | 明州櫟社 | 稿本・『留青日札』 |
巻二第74条 | 読 論 | 升菴集 | 升菴外集 | 稿本・『升庵外集』 |
巻二第79条 | 読 論 | 黃允何其愚 | 王允何其愚 | 稿本・『荘嶽委談』 |
巻二第80条 | 全 | 未為兇報 | 未為凶暴 | 『洛陽伽藍記』 |
巻二第96条 | 読 | 亦作寓公慕公狹邪 | 亦作寓公慕狹邪 | 稿本・『万暦野獲編』 |
巻三第116条 | 全 | 盧楠字次楩 | 盧柟字次楩 | 各種人名辞典 |
巻三第130条 | 読 論 | 奏本 | 秦本 | 稿本・『綴白裘』 |
巻三第141条 | 読 論 | 長山當玹家 | 長山富玹家 | 稿本・「何孝子伝」 |
読 論 | 福建福建衛。 | 福建福寧衛。 | 稿本・「何孝子伝」 | |
巻三第142条 | 読 論 | 奮是出門 | 奮足出門 | 稿本・『鮚埼亭集外編』 |
読 | 不忍復奉尋親之曲 | 不忍復奏尋親之曲 | 稿本・『鮚埼亭集外編』 | |
巻四第148条 | 全 | 弟之子澤 | 弟之子繹 | 『冬夜牋記』 |
巻四第154条 | 全 | 張國壽者 | 張國籌者 | 『池北偶談』 |
読 | 眼中不得 | 不得眼中 | 稿本・『池北偶談』 | |
巻四第161条 | 読 論 | 一為至情者 | 一為情至者 | 稿本・『鴛鴦棒』 |
巻四第170条 | 全 | 陳罷齊 | 陳羆齋 | 『伝奇彙考標目』 |
巻四第171条 | 全 | 錢御史石城 | 錢御史石臣 | 『浙江通志』・『洛陽県志』 |
巻四第173条 | 読 論 | 今黔峽間 | 今黚峽間 | 稿本・『白茅堂集』 |
巻四第178条 | 全 | 山東沾化人 | 山東霑化人 | 各種地名辞典 |
巻四第179条 | 全 | 為吳觀察道夫之後 | 為吳觀察道父之後 | 『虞初新志』・『宋史』 |
巻五第200条 | 全 | 鄭庭玉 | 鄭廷玉 | 『録鬼簿』 |
全 | 夫容作裙衩 | 芙蓉作裙衩 | 『曲律』・『李商隠詩歌集解』 | |
全 | 露裙衩 | 露裙靫 | 『全明散曲』 | |
全 | 以齣作齝 | 以齝作齣 | 『曲律』・『桜桃夢・凡例』 | |
巻五第227条 | 全 | 大行山 | 太行山 | 『宣和遺事』 |
全 | 淮陽 | 淮揚 | 『宣和遺事』 | |
全 | 金人犯泲南府 | 金人犯濟南府 | 『宋史』 | |
巻五第233条 | 読 | 狂鼓吏 | 狂鼓史 | 稿本・『四声猿』 |
巻五第234条 | 全 | 本吉州永新縣■家女也 | 本吉州永新縣樂家女也 | 『楽府雑録』 |
巻五第242条 | 稿 読 | 六變例也 | 亦變例也 | 『雨村詩話』 |
巻五第243条 | 読 論 | 借賈島以發二十餘年公車之苦 | 借賈島以發舒二十餘年公車之苦 | 稿本・「外舅広西按察使六桐葉公改葬墓誌銘」 |
巻六第245条 | 読 論 | 陸次云輅 | 陸次公輅 | 稿本・『漁洋詩話』 |
全 | 玉茗又聞 | 玉茗又開 | 『漁洋詩話』 | |
巻六第251条 | 全 | 諸名士共為檄檄大鋮罪 | 諸名士共為檄於大鋮罪 | 「侯朝宗本伝」 |
巻六第258条 | 全 | 嘉靖己丑 | 嘉靖乙丑 | 『宦遊紀聞』 |
巻六第264条 | 読 論 | 或無領 | 或無頷 | 稿本 |
巻六第276条 | 全 | 姚壯若 | 姚北若 | 『板橋雑記』李金堂校注 |
巻六第280条 | 全 | 謝憲使朝鮮 | 謝憲使朝宣 | 『真珠船』 |
巻六第284条 | 全 | 因思薰豬兒價輕 | 因思薰豬耳價輕 | 『堅瓠集』 |
表の「『劇説』テキスト」には『読曲叢刊』本と同様の誤りが見られた『劇説』のテキストを示す。稿本を「稿」、『読曲叢刊』本を「読」、『中国古典戯曲論著集成』本を「論」、3種すべてが誤っている場合は「全」とした。なお『中国古典戯曲論著集成』本のみが誤っている個所については、別途、次章で取り上げる。また、『劇説』諸本には清代の避諱による書き換え、例えば「玄」→「元」、「丘」→「邱」などが多数見られるが、それらについては挙げていない。
3.2巻三第141条†
右表に掲げた異同個所のうち、同条は前半部で前に取り上げた毛奇齢「擬元両劇序」を引いたあと、続けて毛奇齢の「何孝子伝」を引いているが、二個所の字句・解釈に問題がある(右表には掲載していない)。
何孝子こと何競は浙江蕭山の人である。明の弘治年間、父の何舜賓が鄒魯に謀殺された仇を討ち、孝子として称えられた人物である。
鄒魯は何舜賓を無実の罪に陥れて流刑に処すると、その家族を次々と捕らえた。そのため、何競は母を背負い、妻の手を引いて逃亡する。それに続いて以下のように記される。
達其女兄夫福建僉事県長山富玹家。
にわかには意味が取りにくい。『読曲叢刊』本は「富」を「當」に作っており、さらに『中国古典戯曲論著集成』本は「山當玹」に傍線を施し、人名として扱っている。
この部分、実際には「富玹」が人名である。『蕭山県志稿』巻十五の伝によれば、富玹、字は友柏、浙江蕭山の人。成化十七(1481)年の進士で福建按察司僉事を務めた。また「長山」は浙江省蕭山県内の地名である。すなわち、この個所の字句を『読曲叢刊』本が改めたのは誤りであり、「姉の夫で福建僉事をつとめた長山の富玹の家に達した」という意味になる。
また何競は仇討ちを遂げたあと、三年間の配軍に処せられる。
戍孝子福建福寧衛。(孝子を福建の福寧衛への配軍に処した。
『読曲叢刊』本は「寧」を「建」に作っているが、福寧は現在の福建省寧徳市霞浦県にあたる実在の地名であるので、誤りである。
これらは、稿本では正確に抄写されていたものが、『読曲叢刊』本の段階で原典を参照することなく憶測で手が入れられたために、かえって誤ってしまったと思われる例である。前掲表からわかるように、同様の例は多い。
3.3その他の問題†
巻五第237条は、『読曲叢刊』本では一つの記事だが、もともと稿本では二つの記事に分かれていた。一つは周樹の『馮驩市議』雑劇を読んだ龔鼎孽の消渇が治った話、一つは阮大鋮が『賜恩環』伝奇で周延儒をもてなして取りなしを依頼した話であり、エピソードの主題には関連がないし、人物・戯曲作品・引用文献なども同じでない。『読曲叢刊』本刊行の際に、誤って合併させてしまったものと思われる。
4.『劇説』の排印本をめぐって†
4.1『中国古典戯曲論著集成』本について†
現在、一般に『劇説』の定本として扱われる『中国古典戯曲論著集成』本であるが、前掲の表以外にもいくつかの誤りが見られる。
巻四第153条は、わずか12字の短い記事である。
興化李吉四名棟、有《犢鼻褌》曲。(興化の李吉四、諱を棟というものに、『犢鼻褌』曲がある。)
この条を『中国古典戯曲論著集成』本は落している(p.155)。特に校注も付されていないので、単純なミスであると思われる。
この他の字句の誤りについて、次ページに表に掲げる。字句の誤りの他に、引用範囲の誤り、断句の誤り、固有名詞の誤りなどもあるが、割愛する。
誤 | 正 | ||
巻一第48条 | 李太白匹配金線記 | 李太白匹配金錢記 | |
是蕭德祥作 | 為蕭德祥作 | ◯ | |
巻二第101条 | 財凡若干雨 | 財凡若干兩 | |
巻三第133条 | 授偽朝典例 | 援偽朝典例 | ◯ |
巻三第136条 | 盧王廟 | 盧生廟 | ◯ |
巻四第154条 | 太原萬修伯曰 | 太原萬伯修曰 | ◯ |
巻五第228条 | 工人下專指毛延壽 | 工人不專指毛延壽 | |
巻六第290条 | 諸公子獄始全解 | 諸公子獄始漸解 | ◯ |
巻六第301条 | 仙子供奉 | 仙才供奉 | ◯ |
前表に示した『読曲叢刊』本の誤りが修正されていない個所を合わせると、『中国古典戯曲論著集成』本の誤りはかなりの数に上り、校訂の質は高いとは言いがたい。
4.2『歴代曲話彙編』本について†
兪為民・孫蓉蓉編になる『歴代曲話彙編』は、副題で「新編中国古典戯曲論著集成」を称しており、唐宋元編1冊、明代編3冊、清代編5冊、近代編3冊からなる。唐宋元編は2006年、その他は2009年に黄山書社より発売された。『中国古典戯曲論著集成』が再版されない中にあって、古典戯曲関連論著をまとまって入手できるようになった、という意味で、同シリーズの刊行は歓迎される。
『歴代曲話彙編』は清代編第二冊に『劇説』を収録しており、『読曲叢刊』本が底本であるとしている。しかし、『歴代曲話彙編』本は、実際には『中国古典戯曲論著集成』本を底本としている。このため、巻四第153条は『歴代曲話彙編』本(p.407)でも脱落しているし(左図参照)、上表の『中国古典戯曲論著集成』本の誤りのうち、「◯」を付けたものは『歴代曲話彙編』本でも踏襲されている。『中国古典戯曲論著集成』本の一見しておかしな個所や固有名詞の明らかな間違いこそ校正されているが、そのままでも意味の通じるところは軒並みそのままである。
以上から、『歴代曲話彙編』本は実際には『中国古典戯曲論著集成』本を底本としており、『読曲叢刊』本をほとんど見ていないことは明白である。『中国古典戯曲論著集成』本が『読曲叢刊』本を底本としているので、それをそのまま踏襲して書いたのであろうが、研究資料としての信頼性を大きく損なうやり方であり、いささか杜撰に過ぎる。
想像するに、比較的規模の大きな叢書の刊行という業績作りを急ぐ余り、肝心な収録文献の校訂をなおざりにしたまま、先行する排印本を寄せ集める形で編纂したのではあるまいか。これは、近年の中国の人文学界で顕著な業績偏重、基礎的な校訂・翻刻作業の軽視という風潮の一つの表れであるともいえる。
おわりに†
以上のように、『劇説』の校訂・訳注作業を通じて見出された問題に関連して、二つの新たな発見があり、また引用文献処理における特色、版本・排印本の信頼性などが明らかになった。はじめにも触れたように、今後、我々の読書会の成果を整理・刊行する予定であるが、そのことは『劇説』の信頼性の高い底本を提供し、中国古典戯曲研究のバイブルたる『劇説』の有用性をさらに高めることになるものと確信している。
ところで、昨今の大規模古典文献データベースの構築やオンラインリソースの充実によって、『劇説』の引用文献や作品・人物などの調査は格段に効率が高まっている。ネット上で閲覧できる版本が増えたし、人名辞典や伝記索引の類に収録されない人物について、『四庫全書』や『中国基本古籍庫』などの検索を通じて出身地を特定し、中国国家図書館の数字方志を閲覧して地方志に収録された伝を参照して詳細な情報を得る、というようなことも可能になった。こうした状況にあって、『中国古典戯曲論著集成』に限らず、20世紀後半に出版され底本として使われている多くの校訂本は、見直されるべき時期にさしかかっているのであろう*15。
本稿は中国都市芸能研究会有志の長年に亘る読書会の成果の上に立つものであり、本文の字句の異同や引用文献の確認などは読書会メンバーそれぞれの調査によるものである。ゆえに本稿は、読書会全メンバーの共有の成果でもあることを、末筆ながら書き添えておく。
参考文献一覧†
『劇説』テキスト†
- 稿本,『続修四庫全書』所収中国国家図書館所蔵鈔本影印
- 『読曲叢刊』本,『叢書集成三編』所収影印本
- 『中国文学参考資料小叢書』本,1957,古典文学出版社
- 『中国古典戯曲論著集成』第八冊,1960,中国戯曲研究院編,中国戯劇出版社
- 『歴代曲話彙編』本,兪為民・孫蓉蓉編,2009,黄山書社
版本†
- 『太平広記』,李昉輯,1961,中華書局排印本
- 『杜詩詳注』,杜甫撰,仇兆鰲注,1979,中華書局排印本
- 『堅瓠集』,褚人獲撰,『続修四庫全書』景上海図書館所蔵清康熙刊本
- 『淮海英靈集』,阮元輯,『続修四庫全書』景嘉慶三年小瑯嬛僊館刊本
- 『全毁書目』,姚観元輯,『続修四庫全書』景民国十年杭州抱経堂書局排印本
- 『蕭山県誌稿』,中国国家図書館数字方志所収民国二十四年鉛印本
論著†
- 阿部泰記,2004,『包公伝説の形勢と展開』,汲古書院
- 陳濤,2011,《包公戏研究》,人民出版社
- 杜桂萍,2004,《清初杂剧研究》,人民文学出版社
*本稿は日本学術振興会科学研究費補助金「近現代中華圏の伝統芸能と地域社会~台湾の皮影戯・京劇・説唱を中心に」(平成27~30年度、基盤研究(B)、課題番号:15H03195、研究代表者:氷上正)による成果の一部である。
*1 原文:「乾隆壬子冬月,於書肆破書中得一帙,雜錄前人論曲、論劇之語,引輯詳博,而無次序。嘉慶乙丑,養病家居,經史苦不能讀,因取前帙,參以舊聞,凡論宮調、音律者不錄,名之以『劇說』云。」
*2 当初のメンバーは山下一夫・川浩二と筆者で、2005年より氷上正が加わった。また2003年に限り池田智恵・辻リンが参加した。
*3 『劇説』原文には各記事の題が付されていない。このため、参照・引用の便を考慮して、校訂作業時に記事の通番を付した。なお、現在の通番は一部に問題があるため、校訂本刊行時に新たにつけ直す予定である。
*4 「所作本事有异,或为多种,待考。」(p.449)
*5 原文:「貞元中。進士独孤遐叔。家于長安崇賢里。新娶白氏女。家貧下第。將游劍南。与其妻訣曰。遲可周歲歸矣。遐叔至蜀。羈栖不偶。逾二年乃歸。至鄠縣西。去城尚百里。歸心迫速。取是夕及家。趨斜徑疾行。人畜既殆。至金光門五六里。天已暝。絕無逆旅。唯路隅有佛堂。遐叔止焉。時近清明。月色如晝。系驢于庭外。入空堂中。有桃杏十餘株。夜深。施衾幬于西窗下。偃臥。方思明晨到家。因吟舊詩曰。近家心轉切。不敢問來人。至夜分不寐。忽聞墻外有十餘人相呼声。若里胥田叟。將有供待迎接。須臾。有夫役數人。各持畚鍤箕帚。于庭中糞除訖。復去。有頃。又持牀席牙盤蠟炬之類。及酒具樂器。闐咽而至。遐叔意謂貴族賞會。深慮為其斥逐。乃潛伏屏氣。于佛堂梁上伺之。輔陳既畢。復有公子女郎共十數輩。青衣黃頭亦十數人。步月徐來。言笑宴宴。遂于筵中間坐。獻酬縱横。履舄交錯。中有一女郎。憂傷摧悴。側身下坐。風韻若似遐叔之妻。窺之大驚。即下屋袱。稍于暗處。迫而察焉。乃真是妻也。方見一少年。擧杯瞩之曰。一人向隅。滿坐不樂。小人竊不自量。願聞金玉之聲。其妻冤抑悲愁。若無所控訴。而强置于坐也。遂擧金爵。收泣而歌曰。今夕何夕。存耶沒耶。良人去兮天之涯。園樹傷心兮三見花。滿座傾聽。諸女郎轉面揮涕。一人曰。良人非遠。何天涯之謂乎。少年相顧大笑。遐叔驚憤久之。計無所出。乃就階陛間。捫一大磚。向坐飛擊。磚纔至地。悄然一無所有。遐叔悵然悲惋。謂其妻死矣。速駕而歸。前望其家。歩歩凄咽。比平明。至其所居。使蒼頭先入。家人並無恙。遐叔乃驚愕。疾走入門。青衣報娘子夢魘方寤。遐叔至寢。妻臥猶未興。良久乃曰。向夢與姑妹之黨。相与翫月。出金光門外。向一野寺。忽為凶暴者數十輩。脅與雜坐飲酒。又說夢中聚會言語。與遐叔所見並同。又云。方飲次。忽見大磚飛墜。因遂驚魘殆絕。纔寤而君至。豈幽憤之所感耶。」
*6 原文:「既壯,為取暴室嗇夫許廣漢女,曾孫因依倚廣漢兄弟及祖母家史氏。受詩於東海澓中翁,高材好學,然亦喜游俠,鬬雞走馬,具知閭里奸邪,吏治得失。數上下諸陵,周徧三輔,常困於蓮勺鹵中。尤樂杜、鄠之間,率常在下杜。
如淳曰:為人所困辱也。 蓮勺縣有鹽池,縱廣十餘里,其鄉人名為鹵中。」
*7 原文:「上乃詔求微時故劍,大臣知指,白立許倢伃為皇后。」
*8 本誌二二頁参照。
*9 p.106。
*10 p.79。
*11 『読曲叢刊』の刊行にあたって董康が誤りに気づいて稿本に削除指示を書き込んだ可能性も否定できない。稿本と『読曲叢刊』本の関係や、董康が『劇説』を刊行した経緯については、今後、検討する必要があろう。
*12 第九葉。
*13 『淮海英霊集』丙集一巻。
*14 『杜詩詳注』巻之十八「夜宿西閣暁呈元二十一曹長」顧宸注参照。
*15 漢字文献情報処理研究会第十九回大会(2016年12月11日、於東京大学本郷キャンパス経済学研究科学術交流棟)の「座談会『情報時代における日本中国学の可能性』」における小島浩之氏の問題提起「テキスト・クリティークにおけるデジタル情報の活用」も、同様の主旨のものであった。