拉戯はなぜ生まれたのか?――民国前期の音享受に関する一考察――†
1.はじめに†
拉戯とは、京劇をメインとする伝統劇の歌やせりふを、擦弦楽器で肉声そっくりに模倣する芸能である。実際には模倣の対象は伝統劇とはかぎらず、語り物や民謡、鳥や獣の鳴き声、他の楽器音にいたるまで、あらゆる音響をふくんだ。21世紀の今日ではごく一部の地域に名残をみるにすぎないが、1920-30年代には中国の都市部を中心に一世を風靡した。ことに上海では寄席芸としてのみならず、アマチュア組織が催す同楽会や遊芸会でおなじみの演目であった。こうした席ではプロの芸人にも声がかかったが、プロはだしの腕前で喝采をあびるアマチュアもいたのである。当時の上海では、娯楽は現代人が想像する以上に重要な社会的役割を期待されていた。アマチュア組織は娯楽を介して成員の親睦を促し、彼らが頻繁に開催する募金目的の遊芸会では、多くの観客を動員する力を求めた。こうした切実な目的のために多彩なプログラムが準備されたが、そこには爛熟期にあった京劇や、これに付随する諸芸能ももちろん含まれた。拉戯もその一つである。
拉戯の奏者は芝居の唱腔を行当や流派の違いに応じてひきわけ、場合によっては伴奏まで一人でこなす。それもたった一挺の擦弦楽器を用いてである。また世界広しとはいえ、擦弦楽器で多様な音響をここまで徹底的に模倣する芸能は、おそらく他に例をみない*1。国楽大師と称される劉天華も1922年に北京で三弦拉戯を学び、自身の二胡作品の創作の糧としたといわれる*2。拉戯の芸態は劉にとっても注目にあたいする存在だったのだろう。
しかし拉戯はそのマイナーさゆえに、これまで考察の対象にはならなかった。第一に、拉戯は芝居の人気に便乗した「物まね芸」であること。民国期には他にも戯謎相声(芝居をネタにする漫才)や双簧(一種の二人羽織、しばしば芝居ネタで笑いをとる)など、芝居と一蓮托生の諸芸能が流行したが、いずれも二次的な芸として消え去る運命をたどった。第二に、拉戯は言葉をともなわない音真似であること。このため語り物でもなく器楽とも呼べない雑芸として、位置づけは曖昧であった。第三に、拉戯の担い手の多くが貧しい盲目の芸人であったこと。社会の底辺から生まれた際物的な芸能として、まっとうな芸術を相手にする者からは冷ややかな視線をあびがちであった。このため拉戯芸人の活動記録もきわめて乏しいのである。
本稿はこの拉戯にあらためて目を向け、拉戯の生成をとおして当時の伝統芸能の状況をふりかえり、民国前期における音文化の動態をさぐる。最初に楽器音による模倣芸の系譜を俯瞰してから、拉戯生成の経過を整理する。ついで拉戯隆盛の拠点であった上海のアマチュア組織が諸活動で拉戯をどう享受したか確認する。対象とする時期は、拉戯が出現する1920年ごろからブームが下火となる1930年代半ばまでとし、おもに『申報』本埠増刊版の団体消息記事から、主要な拉戯芸人と市民活動の足跡に光をあてる。あわせてこの特異な芸能が急激な発展をとげた背景について、基本的な検討を加えたい。
2 咔戯・吹戯・吹唱――気鳴楽器による模倣芸の系譜†
拉戯について記述する前段階として、ここではまず中国で発展した楽器音による模倣芸の系譜を概観する。中国の民間芸能では、楽器音による模倣芸は二つに大別される。
第一が咔戯・吹戯・吹唱などとよばれるタイプで、嗩吶や管子などダブルリードの気鳴楽器で主奏し、打奏楽器群や擦弦楽器をともなう。現在の分布地域は山東、山西、河南、河北、遼寧など北方各地にまたがるが、遼寧省(とくに大連)には山東省から伝播したと考えられるため、実質的な中心は華北一帯といえるだろう。同地域に共通するのは、嗩吶の故郷とよばれる山東省をはじめ、ダブルリード楽器の根拠地であることと、ダブルリード楽器で主奏するアンサンブルが、冠婚葬祭や年中行事に欠かせないことだ。
咔戯を『中国音楽詞典』は次のように説明する(以下ブラケット[ ]内は筆者の補)。
咔戯、[中国]北方民間器楽の演奏形式。口哨[ダブルリードの意]あるいは咔哨と声を一緒に発音して人声を模倣し、よく知られた伝統劇の唱段を演奏する。咔哨は普通の嗩吶のリードと同じだがやや大ぶりで柔らかく、3センチ前後の侵子(先が少しすぼまった銅製の管[いわゆるオーボエ属のステープル])に差し込んで吹く。演奏者は模倣する旋律の種類によって、瓢箪や牛角で作った咔碗[一種の拡声器]や銅製のラッパ碗のどちらかを選び、異なるノイズを加えて歌の旋律を奏する。また咔哨と海笛[嗩吶の一種]と普通の口哨を順番に演奏し、異なる人物の交互唱を表現したり、テンポを速めて高揚した雰囲気を演出する[中国芸術研究院音楽研究所1985: 205-206]。
以上は咔戯の平均像で、実態は地域ごとに異なる。咔戯は慶弔時に鼓楽や吹打演奏者の重要なレパートリーであり、儀礼の転換時によく演奏される。たとえば山西省潞城市賈村で三日間にわたって催される賽社儀礼では、二日目の後半と三日目の最後に吹戯を上演する。これによって、神を楽しませる前半から人を楽しませる後半への転換があきらかになる。同地では楽戸*3が嗩吶、咔碗、糜子、笙で、地元の上党梆子、上党落子、秧歌、鼓書など各種の伝統音楽を奏する。伝統劇の吹戯では、生旦浄丑の役柄を表現しわけると同時に、伴奏楽器の音響まで本物さながらに模倣する*4。
嗩吶の郷、山東省の鲁西南鼓吹楽も咔戯の宝庫である。嗩吶隊(嗩吶、笙、打奏楽器で構成)は葬礼や祖先儀礼、廟会、元宵節に不可欠だ。鼓吹楽のレパートリーは俗曲小令と高度な演奏技巧を披瀝する曲牌、咔戯の主要3部分から成り、この他に流行歌も含む。これら3要素を儀礼の目的ごとに対比的に使いわける。咔戯で豫劇や棗梆、二夹など地元の伝統劇を模倣するときには、奏者は技巧を駆使して各人の得意演目をたっぷり演奏し、観衆を大いに喜ばせるという[楊2007: 86-87]。
二百年以上の歴史をもつ河北の吹歌は、主要演目の伝統曲牌と咔戯の2部からなる。咔戯では各種のダブルリード楽器で河北梆子や豫劇の旋律を演奏する。その際に俳優の裏声と地声の別や、明るい旋律と哭腔(梆子系統に独特な悲壮感ただよう旋律系統)の違いも吹きわける。河北には咔戯から嗩吶の独奏曲に転じた民間楽曲の「打棗」がある。これは河北梆子「趙連代借閨女」を民間芸人が咔戯にアレンジし、それを現代の民族器楽奏者が嗩吶用に編曲したものである。本来の咔戯版は大小嗩吶と把攥子(俗称を咔戯)、口弦(口琴)、笙、笛、管子、打楽器群からなり、実に特異な編成をもつ。演奏時には、人声を模倣するために鼻音を交え、あるいは口に含んだリードの音響を咔碗という拡声器で拡大するなど、音質を変化させるために様々な工夫がこらされる[朱2004: 53-55] *5)。
3 弾戯、拉戯――弦鳴楽器による模倣芸の系譜†
3-1 三弦弾戯†
拉戯は小三弦を弾奏する模倣芸、三弦弾戯を前身とする。清代末期の都市部では、男女3、4人一組の盲芸人が三弦を演奏して街をめぐるようになった。中でもずば抜けた腕前で知られたのが北京の王玉峰である。彼は得意な歌と胡弓を生業としたが、本来の身分は清朝に仕えた漢軍正黄旗人だったので、八国連合軍による北京侵略では、彼らの前で歌うことを潔しとしなかったという。その後は三弦を専門とし、譚鑫培や龔雲甫ら京劇の名優が歌う旋律を三弦で模倣することを思いついた。王は三弦一挺であらゆる芝居、あらゆる音響を再現できた。それは殆ど神がかりの域に達していたという。清末民国初期の文人、楊寿楠は『覚花寮雑記』の中で王玉峰の優れた技芸を描写し、京劇の唱腔から戦場の叫喚にいたるまで、真に迫った描写力だと絶賛した*6。天橋に出演した当時、毎回観客の数は五六百人に達したという。また《梁溪類稿》によれば、彼は筝、琵琶、簫、管などいずれにも通じ、ことに三弦は比肩するものがなかった。王玉峰の三弦弾戯は、北方では盧成科(天津1903-1953)らによってひき継がれ、南方では、民国初期に上海に進出した後に弟子とした邱聘卿に受け継がれた[陳1981] [張1988: 129-130]。
3-2 三弦拉戯†
三弦拉戯とは三弦の第三弦、つまり一番高音の弦を胡弓の弓で擦奏する演芸である。誰が本当の創始者なのかは断定しにくいものの、上海で三弦拉戯の人気を長年支えたのは、二人の盲芸人、邱聘卿と沈易書であった。
邱聘卿は上述の王玉峰に師事し、三弦弾戯を学ぶ過程で擦弦の三弦拉戯を考案した。王玉峰が北京からもたらした三弦弾戯は、たった一挺で森羅万象を表現する点が醍醐味であった。邱聘卿は弾奏から擦奏に奏法は変化させたが、三弦一挺で演奏するスタイルは踏襲したので、邱の拉戯は北方拉戯と称された。上海の日刊紙『申報』の遊芸広告欄によれば、1920年4月19日の初出演いらい、邱は新世界の常連として活躍し、1920年代なかばに人気のピークを迎えたが、1930年代に入ると広告欄への掲載がめっきり減る。1932年に新新屋頂花園に出演後は、上海技芸芸員総連合会遊芸一覧表(以後「一覧表」)、つまり地元上海の各種寄席芸人の営業用リストに名をつらねるのみで、遊芸場への出番はあまりなかった可能性が高い。1936年から37年にかけて、同表に「邱聘卿、拉戯加唱崩崩戯」という文句が見える。そのころ人気上昇中の崩崩戯(のちの評劇)をとりいれ、人気挽回をはかったことが窺われる。
上海拉戯界のもう一人の大物、沈易書は、占い師から拉戯芸人に転身した人物である。彼の芸風は南方拉戯とよばれ、京胡、月琴、鼓板の伴奏をともなった。この編成は明らかに京劇の伴奏音楽を模倣したものである。沈にかぎらず、上海蘇州一帯の三弦拉戯では、ほんらい京劇が演目の圧倒的多数を占めたもようである。沈易書は1920年9月から新世界に登場し*7、一足先に出演し始めた邱聘卿をおさえて、いきなり番組表の中央に名前を刻んだ。それ以来彼も邱聘卿とともに新世界の常連となる。人気絶頂の1925-26年には、新世界は申報紙上で沈易書の単独広告すら掲載した*8。この当時、アマチュア主催の遊芸会でも客演依頼を頻繁にうけていた。しかし1928年ともなると彼の人気にも翳りがみえ、一覧表に「南方拉戯沈易書、四班合演(戯謎相声、童子武術、中西戯法の三種と抱き合わせで出演する、という意味)」との宣伝文句が読み取れる。同年の一覧表では「南方拉戯沈易書、全班場面各派生旦洋操小曲電灯檯面。蒙貴府相邀…」との記載もあり、京劇各派の生旦ほか劇の唱段のほかに、流行歌などもレパートリーに加え、個人宅での演奏依頼が入るのを待っていたことがわかる。1930年代には大世界の小一層に出演の場を移すが、1934年以降、少なくとも申報紙上では沈の名を全く見かけなくなった。
沈と邱をのぞくと三弦拉戯の出演者は極めて少ない。拉戯全盛期に一時だけ現われのが、蘇州の王春普*9や吉評三*10である。ただし出演期間は短く、吉は1927年以降に戯謎相声へと転じた。なお演目表では出演者名を記さず「拉戯」とだけ記載する場合があり、それが三弦拉戯か他の拉戯なのかは不詳である。いずれにしても沈と邱を凌ぐ者が結局現れなかった、というのが実態だろう。
3-3 二弦(擂琴)拉戯†
3-3-1 “絲弦大王”王殿玉†
上海を拠点とした沈易書や邱聘卿らに対して、天津を本拠地として全国で活躍したのが王殿玉(1899-1964)である。山東省鄆城の貧しい農家に生まれた彼は、8歳で天然痘にかかり両眼を失明する不幸にみまわれた。しかし逆境にもめげず9歳で三弦の師匠につき語り物「瞎腔」の修業にはげんだ。恵まれた天分とずば抜けた勤勉さで、王はそれからも古筝、四胡、楊琴、墜琴など多くの楽器をものにする。鄆城一帯は山東屈指の音楽郷として知られ、箏曲山東派の中心地でもある*11。王の音楽的な感性に郷土の環境はおそらく大きな影響を及ぼしたことだろう。
15歳の時、二挟弦戯班づきの墜琴奏者となってから、劇団と各地を転々とする生活が始まった。やがて自分で改良した二弦で拉戯を演奏し頭角をあらわす。1930-40年代には、北京・天津・上海・武漢ほかをめぐり圧倒的な人気を獲得した。観客は彼を「絲弦聖手」や「絲弦大王」とよび、どんな音響でも模倣してしまう絶技に驚嘆したのである。1920年代初めに、初めて山東から上海に登場したときは、彼もまだ駆け出しでレパートリーこそ少なかったが、京劇の唱段はいずれも真に迫り、語り物の大鼓「藍橋会」では完璧さで聴衆を圧倒した。このとき王殿玉の登場があまりにセンセーショナルだったので、沈易書も脱帽したという[陳正生2004]。その後も数年おきに上海の遊芸場に出演し、1924年には大世界の招きで京劇「機房教子」と莉花大鼓の「独占花魁」、小調「孟姜女」を披露した。このときも新聞は、沈・邱と人気を二分する実力ありと称え た*12。1932年1月には、上海出演第三回目として先施楽園に登場した*13。
王殿玉が生涯に開拓した演目ははば広い。その筆頭が京劇の梅・程・譚・馬・余各派の唱段で、つぎに評劇・河北梆子・河南豫劇における著名な俳優の唱段を得意とした。また灘簧・京韻大鼓・河南墜子・山東大鼓などの語り物音楽や、民間の小調、映画の挿入歌、笙管合奏や打楽器の音声、はては犬や鶏の鳴き声や生活音にいたるまで巧みに再現した。1951年に天津に定住した後、王は源信曲芸団に加わり中国音楽家協会会員となる。1950年代初めに二弦の名称を擂琴と改め、それまで単に「拉戯」と呼ばれた芸能も、1958年に天津で「擂琴拉戯」に改称された。王殿玉の継承者が育ち新演目の創作が進んだ天津では、擂琴拉戯が今でも代表的芸能と位置づけられている。
なお1950年代に擂/雷琴と命名した理由については、なぜか記録が見当たらず、擂/雷のいずれが正式かも定かではない。雷も擂(「太鼓を打つ」の意)も、擦弦楽器には似つかわしくない大音響を連想させる。おそらく王殿玉にとって、音量の増強は改良の重要なポイントだったので、首尾よく目的を達した自信をこめて擂/雷の字をあてたのだろう。
3-3-2 小三弦から擂琴への改変†
王殿玉が擂琴(以下「擂琴」に統一)を改良した前後の状況はどうだったのか。王は山東にいた20歳ごろから拉戯に専念し、はじめは墜琴で地元の民謡や地方劇の唱腔を演奏したらしい。その間に、多様な音響を真に迫って演奏したいという欲求にかられて、墜琴の改良に着手した*14。墜琴は墜子ともよばれる二弦の擦弦楽器で、河南省各地に分布する語り物「墜子書」の主要伴奏楽器である。長めの棹を生かした幅広いポルタメントを特徴とし、語り手の歌の旋律にそったオブリガードも巧みである。墜子書の伴奏者は、墜子を演奏しながら脚につけた響板を打ち合わせてリズムを刻む。
実は墜琴も1900年代初めに小三弦をもとに改良された楽器である。「河南墜子書」は、河南の語り物音楽「道情」と「穎歌柳」の芸人が、清末から共演を繰りかえした結果、融合した芸能である。もともと「穎歌柳」の伴奏には小三弦と太鼓をもちいた。その小三弦を基本的な構造や各部位の形状は保ったまま、三弦を二弦とし、共鳴胴の表裏に張った蛇皮を薄い桐板にかえたのである。表板には響孔はなく裏板に透かし彫りを施す。小三弦から墜琴への最大の変化は、撥弦から擦弦へと奏法を変えたことである。これによって伴奏の旋律が変化したばかりでなく、演唱の旋律にまで影響を及ぼしたといわれる。現行楽器の全長は90-95センチ程度で、小三弦の平均全長96センチよりやや短い。これに対して共鳴胴は小三弦より小型なので、比率からすると棹が小三弦より長めである。弓毛は現代の二胡とおなじく両弦の間に挟まれる。音域は約2オクターブ半、四度調弦である[劉東升1992: 245]。
小三弦から墜琴への転換はその後の語り物芸人に一つの指針を与えた。1920年代には河南曲劇の芸人達が、小三弦をもとに共鳴胴を円筒状に変えた二弦の擦弦楽器を考案した。これを墜胡(俗に曲胡や二弦ともよばれる)という。全長は約90センチで小三弦より短めである。共鳴胴の素材は銅製か紅木製で、形状は円筒か八角形の2種類がある。墜琴との違いは、共鳴胴の表側に大蛇の皮をはり、裏側に透かし彫りのある板を張る点である。筒長8センチに対して直径が11センチと、他の胡弓類にくらべて筒長がかなり短い。音域は2オクターブ半、四度調弦(ラ―レ<cp:Superscript>1<cp:>)、澄んで柔らかい音色をもつ。墜胡は河南曲劇や豫劇、山東呂劇、山東琴書などの伴奏楽器として現在も幅広く演奏される[劉東升1992: 245]。
王殿玉の擂琴はこの墜胡をもとに1920年代末に考案された。1920年代末、すでに山東にも伝播した墜胡を、王が擂琴作成の参考にしたと考えるのが妥当だろう[劉1992: 245]*15。擂琴と墜胡の形や材質、構造は大同小異である。ただし擂琴の共鳴胴は円筒形を定番とし、墜胡より一回り大きい。また背面を中空のまま開放したので音量が増し、張りと伸びのある音色を得た。調弦は五度か四度、音域は3オクターブ半にわたり、墜琴や墜胡より1オクターブ広い。擂琴には大小2種類がある。小擂琴の全長は約90センチ、大擂琴は110-113センチである。前者は絹弦をはり後者はスチール弦を張る。今日天津を中心とする伝承地域では、拉戯といえば大擂拉戯をさす。
3-4 単弦拉戯†
単弦拉戯は名前のとおり単弦を擦奏する。創始者は顧伯年(1904-1971)といわれる*16。
蘇州生まれの顧伯年は、幼いころ蘇州栄和堂科班京劇小班で修業し、また旧式のマジック*17も学んだ。1922年から三弦拉戯の芸人、王春普に弟子入りし、やがて三弦を単弦にかえた独自の拉戯を打ち出した。その後に蘇州をはなれ、雑技や魔術もみせる大道芸人となったが、漂泊生活はことのほか苦しく一家は辛酸をなめる。この間に息子の耀宗(1931-)は7歳を迎え、父の助手をつとめ始めた。父は仕事の合間に読み書きと京劇の唱段を教えたという。一家は1941年には放浪生活に終止符を打ち、伯年は故郷の蘇州にもどると知人と京劇団をたちあげた。堂会や廟会で薄謝を稼ぎ生計を支えるためである。伯年は息子が13歳になると京胡を教え、自身が単絃拉戯を演奏する際に伴奏をさせた。耀宗は当時をふりかえり、「各唱段を上手に演奏するには、まずきちんと歌える必要がある。音楽の記憶を心から口へ、口から手へと自身の身体の中で移し変えて行くことが、拉戯の修業だった」と述懐している。
伯年は解放前に、蘇州、杭州、安慶、漢口、吉林など諸都市をめぐった。1946年には東北の中山倶楽部の招聘を受けて単身東北に赴き、京劇の楽師となった。さらに吉林省の人民解放軍東北線政治部宣伝隊京劇団に所属、同団の楽師となる。1949年に上海が解放されると伯年は蘇州にもどり、解放直後の上海に移って職に就いた妻子と、ようやく再会を果たした。上海では拉戯を捨てて仕立て屋になった息子を、父は再び単弦拉戯の道に引き戻し、自分の伴奏をさせるために太鼓の奏法を教えた。1951年11月には、武漢民衆楽団の募集に応じて、顧親子と仲間たちはすぐ一座を結成し武漢に赴いた。これを機に顧親子は武漢に定住し、単弦拉戯も武漢の芸能として定着したのである。親子は1953年に発足した武漢市曲芸隊に入隊、語り物の団員として朝鮮戦争の前線で慰問演奏も行った。1957年には所属が雑技団にかわり、雑技との共演が続いた。1959年に福建前線の慰問をさかいに、同年また曲芸隊に異動した。
伯年の拉戯は剛柔自在といわれる。京劇の生・旦・浄の持ち味を存分に表現し、演奏した演目の選段は30をこえる。武漢への移住前、顧親子が上演した伝統劇は京劇だけだったが、武漢に移ってから、聴衆にあわせて地方劇をレパートリーに加えたという。最終的に伯年の演目は50以上、京劇・崑曲・楚劇・漢劇・黄梅戯など各種劇の選段や歌曲も含まれた。ただし顧伯年は建国前の上海で演奏した経験はない。演奏技量はトップ奏者とは開きがあったと考えられる。
単弦拉戯奏者で上海での出演が確認できるのは、1923年から新世界に登場した達明舟や沈易芝である。ただし彼らの活躍も数年で下火になった。このほか1930年代前半には、複数の雑芸芸人が協演する天馬団にも単絃拉戯が含まれたが、出演者は不詳である*18。
3-5 空中拉戯と女子拉戯†
上記3種のほかにも、遊芸場には空中拉戯や女子拉戯、魔術拉戯などが上演された。
空中拉戯は朱渭濃の創作芸で、1923年2月の大世界にお目見えした。朱は当時の上海ではかなり名の売れた京胡奏者で、元群芳会メンバーとして京劇「狸猫換太子九曲橋」の一部を編曲し、1924年春には新世界で翁梅債の京胡伴奏もつとめた。越舞台で人形劇の上演を手がけるなど新しい創作芸に関心があり、空中拉戯はその一環といえるだろう。空中拉戯は宙ずりか高所での上演を指すようだ。朱はさらに工夫をこらし、1924年7月には電灯喇叭空中拉戯を「新発明」して新舞台に登場した。この際には一家眷属が京胡、班鼓、三弦、月琴の伴奏で脇をかためた*19。空中拉戯は話題を提供したのみで間もなく姿を消した。
1933年から35年にかけては、先施デパート内の先施楽園で筱湘雲が女子拉戯を上演した。拉戯芸人はそれまで男性のみだったので、京劇の坤班や粤劇の坤伶ブームにあやかり新路線を追求したのであろうが、ブームの再燃にはつながらなかった。1930年代には、魔術拉戯や奇抜な見世物志向の演目が散見されるが、どれも単発におわっている。
3-6 拉戯流行の経過†
以下に、ここまで見た拉戯の生成と流行の経緯について要点をまとめたい。
3-6-1 流行の前提――三弦奏者の供給†
拉戯が流行した第一の前提は三弦奏者の出現だった。主要な供給源は、清末の都市部にあらわれた盲人三弦奏者のグループである。盲人演奏者は清代中期から増えたというが、当時は単独で行動し、楽器も三弦とはかぎらず、女芸人はしばしば妓女同様の扱いをうけた。彼らが清末に集団行動を始めた理由は未調査だが、自衛の一策とも言えるし、清末の経済発展につれて、集団生活をまかなう報酬を得たため、とも考えられる。二つ目の供給予備軍は、山東の王殿玉のような各地の語り物や伝統劇の芸人である。清代の語り物は小三弦をなんらかの形で伴奏に含んだので、三弦を演奏する芸人は多かった。そして民国初期に語り物が発展する途上で、別の種目に吸収され、伝統劇へと転化する種目も生じた。種目の変動と芸人の生活状況は無縁ではなく、故郷を捨てて活路を都市部に求める者も現れただろう。そして三つ目の供給予備軍として、京劇芸人や京劇修業の経験者も加えるべきだろう。晴眼の拉戯芸人がいたのは、拉戯を演奏できる人間が伝統芸能の諸ジャンルにまたがり、それぞれ人材を供給したからと考えられる。
3-6-2 流行の前提:撥弦から擦弦への奏法改変†
三弦の奏法が撥弦から擦弦へと変わったことも、拉戯成立の大前提である。変化の要因はいくつか考えられる。一つは盲人三弦奏者の競争意識だろう。観客にアピールする芸をいかに作り出すかは芸人にとって死活問題である。王玉峰の三弦弾戯を学んだ邱聘卿が拉戯を考案したのも、こうした野心のあらわれであろう。事実、神がかりと評された王玉峰の芸は実質的に一代限りで絶え、北方の継承者も技量は師にはるかに及ばなかった。邱聘卿にかぎらず、小三弦を撥弦から擦弦にかえることを思いついた芸人は、各地に何人もいたはずだ。彼らは互いの存在を知らず、あるいは知ったとしても特に連携する意識もなく、それぞれに演奏を続けた。それが実態だろう。
奏法改変のもう一つの要因は、河南の墜琴誕生の原動力となった、理想的な伴奏の探求である。漢族の語り物や伝統劇音楽はヘテロフォニーを旋律の構成原理とする。つまり基本の旋律は一つで、複数の奏者がいる場合は、互いにタイミングをずらしたり、分割したり、あるいは引き伸ばして装飾的に演奏する。語り物ではヘテロフォニーの原則にしたがいながら、歌い手の旋律を伴奏者が彩る。この着かず離れずの装飾、つまり襯托のよしあしが上演の出来栄えを左右し、伴奏者の責任も重い。その意味では、音を持続しながら音程を変えられる擦弦楽器が、原理的には撥弦楽器よりはるかに優れものである。しかしすでに小三弦で様式感が確立されていれば、奏法を変える発想は生まれにくい。墜琴が誕生したのは、河南墜子がこれから生まれようとする発展の途上にあったためだ。いずれにせよ、河南墜子の芸人は理想的な襯托をストレートに追求し、目的を達したといえる。
3-6-3 南方拉戯の地方性†
上海での上演記録によると、拉戯には上海蘇州などを中心とする南方拉戯と、北京の王玉峰や山東の王殿玉に発する北方拉戯の二系統があった。ともに演目の中心は京劇であるが、上演形態には出自の違いを窺わせる相違点がある。南方拉戯はほんらい京劇の模倣に特化し、京劇らしさを強調するため京胡・月琴・板鼓で伴奏した。いっぽう北方拉戯には伴奏がない。伴奏の有無は些細な問題と映るが、実際には聴衆に全く異なる印象を与え、演奏者にもメンバー調整や報酬の分配など負担が生じる。こうした煩雑さをいとわず、南方拉戯が京劇式の上演スタイルをとり続けたのは、南方拉戯が成立当初から京劇班と互助関係にあった可能性を示唆する。単弦拉戯をはじめた顧伯年も幼いころ京劇の科班に入り、拉戯芸人となった後も京劇の楽師を兼ねた。また空中拉戯を大舞台に持ち込んだ朱渭濃も京劇の琴師であった。これらの状況証拠から推測できるのは、南方拉戯は京劇が南方に完全に浸透した後に京劇の模倣を目的として成立し、上演には京劇科班との連携が不可欠であったこと、また拉戯芸人自身も京劇界との関係が深く、科班出身者からの転身もありえたことである。その反面、三弦一挺で勝負する純然たる音の模倣芸としては、北方拉戯に表現力の上で差をつけられたのではないだろうか。
3-6-4 北方拉戯の地方性†
拉戯の地方性に注目するならば、北方拉戯にあたえた咔戯の潜在的な影響は見過ごせない。前掲の王殿玉以外に記録が残る北方の芸人にも、咔戯の影響が濃厚だからである。
張次渓の『人民首都的天橋』には拉戯奏者が2名紹介される[張1988: 130-132]。一人は盲芸人でリードの馬(哨子馬)、もう一人が胡胡の李(胡胡李)である。彼らの出演時期と出身地は明記されていない。ただし張の記載は1850年代から1951年(同著の執筆年)を対象とするので、早ければ咸豊年間、遅ければ民国後期となるだろう。リードの馬は四弦胡琴で詞曲や話し言葉、虫鳥の鳴き声を模倣した。擦弦だけでは不足な音響は口に含んだ口哨(嗩吶のリード)で補ったという。馬が使う四弦胡琴、つまり四胡は内蒙古から東北、華北にかけて分布し、これは彼が北方出身者であることの傍証となる。また口哨は咔戯の典型的な音具である。もう一人の胡胡の李は元宦官で、アヘンを吸ったかどで宮廷を追われ、天橋の芸人に身をおとしたという。彼は梆子腔の擦弦楽器、胡胡児で「斗小牌」や「画扇面」などの曲牌を模倣したという。一説では李は山西の出身者で、それを裏付けるように、胡胡児は山西省のローカルな擦弦楽器である。
このように記録に名前をとどめる拉戯奏者3人は、咔戯実践者か咔戯が流行する地域の出身だった。「咔戯」は華北地方の俗語だという*20。いつからこの言葉があったのかは不詳だが、咔戯が各地の重要な儀礼に組み込まれ、地元の梆子系統の伝統劇を中心に模倣することからして、伝統劇の隆盛期からほどたたず概念化されたのではないか。いずれにせよ、用語の存在は、北方の咔戯が人々の意識の中で顕在化していることを意味する。擂琴と<cf:MingLiU>唢呐<cf:>は別種の楽器だが、ポルタメントと持続音を得意とする点で酷似する。咔戯に親しんだ者が弦鳴楽器にその発想を持ち込んだ可能性は十分である。なお張次渓の記述よると馬も李も京劇を演奏していない。二人は京劇に無関心だったのだろうか。流行にめざとい芸人の性分からして、それは考えにくい。むしろ彼らの活動時期が後三傑から始まる京劇のスターラッシュ以前であり、それゆえ京劇にとらわれず身近な題材を選択したのではないか。
4 上海の同楽会と遊芸会の拉戯†
4-1 同楽会と遊芸会の目的†
民国期には、上海のさまざまな団体が伝統音楽や洋楽のアマチュア活動を展開した。団体の結成目的は千差万別で、本来音楽とは無関係な集団が大半である。かれらは例外なく娯楽を重視し、その中に音楽や演劇、スポーツ、囲碁などを含めたのだった。またさらに勉学を勧め、診療や理髪のボランティアを行う団体もあった。彼らの活動の幅広さには驚かされる。たとえば1910年に創立された精武体育会は、中国拳法の普及を目的とする体育奨励組織である。同会は会員の「知育補充」を重視し、以下の諸項目を教授した:弦楽、ブラスバンド、京劇、粤楽、書法、絵画、中国医学、負傷手当、救急、写真、狩猟、兵操、演説ほか[陳2001: 34]。1930年代半ばまでは、主に上流階級がこれらの団体の参加者であったが、1930年代後半からは、経済発展を支える中産階級(企業のサラリーマンなど)が力をもった。彼らは抗日救国運動の高まりにつれて、大衆的な職員組織「聯誼会」を結成した。聯誼会も娯楽をふくむ諸活動を進めた[岩間2005: 145-7]。注意すべきは、大衆化した彼らの活動も、その幅広い内容や基本方針を従前の団体から受け継いだことである*21。本稿は拉戯の流行期に限定するため、聯誼会の活動には触れない。
さて、民国前期の上海で管弦楽隊をもつ団体には、土山湾貧児院*22、精武体育会、倹徳儲蓄会、広東浸信会、聖約翰大学(セント・ジョーンズカレッジ)などがある。また伝統音楽を実践する民間団体も数多く活動した。代表的なものだけでも、文明雅集*23、鈞天集*24、清平集*25、精武体育会絲竹楽隊*26、倹徳儲蓄会の絲竹楽隊*27、大同楽会*28、国楽研究 社*29、少年宣講団、中華音楽会、霄雿楽団、辛酉学社、友声旅行団国楽組(国楽研究会の前身)、凇社ほか枚挙にいとまがない。
諸団体の第一目的は、同楽会(=親睦会、懇親会)を通じてメンバーの親睦を深める―感情の連絡―ことである。各種学校で期末に開く成績報告会も、児童生徒の能力や技芸を披露する場であり、ときに娯楽を交えることもあった。これも一種の同楽会である。諸団体のもう一つの活躍の場は、記念事業や義捐のための遊芸会だった。記念事業では組織の創立や周年記念、春節や国慶節の祝賀、国恥記念などが典型的な事例である。義捐では災害や戦災の被災者に対する義捐活動、各種学校の運営資金調達が大半を占めた。たとえば1925年に五卅事件が発生した際には、日本企業に抵抗してストライキを敢行した労働者を支援するため、上海市をあげて援工遊芸会が催された。そして上海の音楽団体や著名な票房が次々と参加したのである。
4-2 同楽会、遊芸会の演目と拉戯†
次に同楽会や遊芸会に登場した主な種目をあげよう。
演説、笑話、国技/中国拳術、舞踊、火棍、歌唱、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニカ、国楽/絲竹、琵琶、話劇(正劇、趣劇)、京劇、崑劇、粵楽、説書、大鼓、木蘭辞、蘇灘、口技、拉戯、双簧、戯謎相声、魔術、映画、蓄音機
以上のように種目はヴァラエティにとみ、諸団体の定常的な活動となった娯楽種目も含まれる。国楽/絲竹や京劇、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニカ、新劇、拳術などがそれに該当する。なかには崑曲のように清代以前から引き継がれた、古典的知識層のステイタスシンボルも含まれる。しかし一見して、これらの種目が時代の先端をゆく上海のイメージの投影であることがわかるだろう。たとえば近代ナショナリズムの副産物である国技。民国期に女学生が進出した「体育」に含まれる舞踊や火棍。爛熟期を迎えてスターを輩出する京劇とこれに伴う諸芸。地元で伸び盛りの語り物蘇灘。中国のどこよりも早く導入されたラジオにレコード、市民が熱中するマジック等々。
投影されたイメージは先端性ばかりではない。当時の上海人のキーワード「滑稽」も大量に投入された。たとえば話劇は滑稽味を強調する趣劇とまじめな正劇に二分され、その他の種目名にもことさらに「滑稽――」と銘うち、人々に笑いを提供することを強調した。
このような体質をもつ同楽会や遊芸会で、拉戯はどう享受されたのだろうか。以下は1920年代前半の同楽会と遊芸会から、拉戯を含む催しをランダムに拾ったものである。主催者(団体)の社会的地位や出身地、年齢層、会の目的もまちまちだが、全盛期の拉戯はこうした違いとは無関係に幅広く歓迎された。
拉戯奏者を拾い出すと、プロでは三弦拉戯の沈易書と単絃拉戯の達明舟の二人、アマチュアでは国楽研究社の陳道中、凇社の仏儂君や呉彭濤、先施楽団の顧増寿らが常連だったとわかる。ことに沈易書の出演回数はとびぬけて多く、催しに華をそえる豪華ゲストとして参加者が期待をもって迎えたことが読み取れる。アマチュア奏者は全員が絲竹合奏の愛好者である。アマチュアとはいえ、彼らの所属団体や彼ら自身も事実上セミプロ以上の実力をもち、新聞にも同楽会の種目で拉戯だけをとりあげ賛辞を送る評が載った*30。同楽会/遊芸会の種目は多岐にわたり、主催団体のメンバーだけでは上演できない。そこで各演目を得意とする他団体や個人に出演を依頼する。拉戯も状況は同様といえるだろう。
時期 | 主催者・目的 | 演 目 ( )内は上演者名・団体 |
1921,4,9 | 倹徳儲蓄会・第二回懇親会 | 午後の部;全員合唱、女子精武体育会演技,ヴァイオリン合奏(本会弦楽団)、新劇(本会員、鄭正秋が隣人役で客演),幻術。 |
晩餐会余興:崑曲(崑山東山新社)、三絃拉戯(邢友氏)、京劇(本会員)、幻術、奏楽 |
1922,1,9 | 麦倫書院・龍華孤児院義捐の遊芸会 | 国技(精武体育会)、三絃拉戯(沈易書)、滑稽戯法、麦倫書院自編の新劇「空労碌」、ピアノとヴァイオリン合奏(華徳女史と二人の子息),京劇唱段「武家坡」など、孤児院軍楽隊による来賓送迎 |
1923,6,5 | 辛茜学社・遊芸会 | 銅楽(精武体育会音楽隊)、代表報告、絲竹(辛茜学社音楽部)、舞踏(広肇女学)、火棍と木蘭舞(中国女子体育学校)、泰西絃楽(浸信会)、国技(精武女子体育会)、韓江音楽(潮州音楽会)、琵琶(辛茜学社音楽教員許仙君)、来賓談話、幻術、三絃拉戯(陳道中君)、崑曲(陳梁富保女史)、国技、胡琴合奏(呂文成と甘時雨)、滑稽舞踏(精武体育会) |
1924,5,3 | 普益社・会員交誼大会 | 演説、唱詩、拉戯、拳術、崑曲、映画、京劇三出(普益社曲芸部) |
1926,3,30 | 益智中学・遊芸会 | 歌舞(黎明暉)、歌劇・拉戯・魔術(培立団)、新式双双篝(友誼団)、アメリカ映画、国楽(中国音楽社) |
以上の種目名は、申報の本埠増刊版の団体消息欄から拾いだしたものだが、紙幅が限られるため演目はめったに記されない。ごくまれに記された演目は、プロ・アマチュアをとわず、「三娘教子」「武家坡」「四郎探母」である。なかでも「武家坡」の頻度が一番高い。これらの演目は、当時の拉戯レコードでも複数の会社が録音しており、人気の高さをものがたる*31。こうした上演の状況は1920年代を通して殆ど変化しなかった。ただし20年代末に寄席芸としての人気にかげりが出ると、同楽会での上演も減り始める。拉戯にかわる新手の人気種目が現れたというわけではなく、上演状況のマンネリで拉戯への関心が薄れたためであろう。
1930年代に入ると、本埠増刊面はたびたび紙面を変更し、団体消息も1932年以降消えてしまう。一部のエリート学校や特定団体の情報を、新聞で広報する時代ではなくなったということか、あるいは、ふくれあがる映画演劇情報を掲載するためだったのか。原因は不詳だが、1930年代前半から同楽会情報は確認できなくなった。義捐遊芸会の情報はかわらず大々的に報じられた。1931年の満洲事変以来、抗日運動は高まりをみせ、また被災難民の義捐遊芸会も並行して行われた。こうした催しには上海の多数のアマチュア諸団体が参加した。1933年1月には、東北難民救済の義捐遊芸大会が新世界で開かれている。ダンスホール開催、京劇票友の上演、アマチュア話劇とならんで、沈易書も「三弦滑稽」の演目で出演した。しかしこの当時、大規模な遊芸会で拉戯が上演される機会は少なかった。
4-3 興隆と衰微の理由†
拉戯がアマチュア組織の催しで歓迎された理由は、団体の多くが京劇への格別の関心と愛着を抱いていたことである。当時、多数の団体が京劇部を持ち、京劇愛好者のたまり場である票房が結成した団体もあった。彼らにはプロはだしの実践経験と、たしかな鑑賞能力があった。拉戯という玄人芸を享受するに素地は十分だったのである。
衰微の理由はいくつか考えられる。新しいスターの不在や芸のマンネリはもちろん敗因である。それ以上にアマチュア活動にとってマイナスだったのは、拉戯演奏の困難さだろう。拉戯は擦弦楽器の演奏能力と他の芸能の素養を同時に必要とする。擦弦楽器を含む絲竹合奏があれほど流行した当時でも、拉戯奏者として名をとどめた者は一握りだった。レパートリーも広げにくく、結局プロの登場を仰がざるをえない。アマチュア組織にとって、同楽会や遊芸会は本来メンバーが技芸を披露する場である。メンバーを抱える団体は互いに連携し多彩な種目を上演する。この状況自体が娯楽を介した「感情の連絡」であり、社会的な機能を果たす緩やかで幅広いネットワークの基本だったといえる。こうした原理からみれば、拉戯は同楽会や遊芸会にはふむきな芸能だった。
5 おわりに†
拉戯は盲芸人の特異な才能と創意工夫の産物であった。彼らの鋭い聴覚とずばぬけた記憶力なしに拉戯は生まれなかっただろう。それにしても、演奏者の出自、楽器、芸態、上演演目のいずれも一定せず、擦弦楽器で人声その他を模倣することのみが同一性とは、稀有なことこの上ない。拉戯には、清末民国前期に芸能諸ジャンルが追い求めた新しさの探求が重なりあう。撥弦から擦弦へと転換した三弦。咔戯の他楽器への応用。新しい唱腔を開拓し進化をとげる京劇。もともと無関係ないくつもの試みが、模倣というキーワードによって一つの芸能に結び付いたのだった。
筆者は沈易書が残した「武家坡」の録音を特別な期待をこめて聴いた*32。だが「人声そのままに旦浄の唱腔を再現した」はずの演奏は、なぜか単調な胡弓の音にしか聞こえない。つくづく門外漢を痛感すると同時に、拉戯の演奏者と聴衆間の高度な共犯関係を目撃した、という実感をもった。拉戯の音響は聴衆に「そう聴こえる」ものではなく、聴衆が「そう聴く」ものなのだ。聴衆は拉戯の調べと耳の中に蓄えた聴体験をてらしあわせ、微細な音程変化、装飾音、音質、音高、テンポなどからみて、それが何者なのかを瞬時に無意識に判断する。彼らの耳は、たしかに薛平貴と王宝釧の対話を聴いたのだ。
拉戯とは、演奏者と聴衆が、ある芸能について分厚い聴体験を共有して初めて成り立つ芸能であった。その意味では、京劇を筆頭とする民国期の芸能がいかに深く浸透したかを、拉戯ほど端的に物語る材料はないだろう。
参考引用資料(著者名アルファベット順)†
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- 成公亮「山東古箏」『中国古箏名曲薈萃(上)』上海、上海音楽出版社、1993,pp.5-8
- Hughes, David. “No nonsense: the logic and power of acoustic-iconic mnemonic systems” <cstyle:garamond イタリック>Ethnomusicology vol. 9/11, 2000
- 岩間一弘「民国期上海の新中間層」東京大学大学院総合文化研究課地域文化専攻博士論文、2005
- 景蔚崗「山西民間吹打楽申論」『中国音楽学』2000,第二期
- 川田順三『聲』東京、筑摩書房、1988
- 劉東升他編著『中国楽器図志』北京、軽工業出版社、1987
- 劉東升主編『中国楽器図鑑』済南、山東教育出版社、1992
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- 『申報』1920-1936
- 党志剛「墜琴與河南墜子<cstyle:横倍>―"趙派河南墜子"対墜琴演奏技芸的拓展」『東方芸術』2005,12期
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- 項陽『山西楽戸研究』北京、文物出版社、2001
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- 陳正生(上海芸術研究所)「20世紀初上海民族器楽海派精神述略」(2004/08/07掲載)
- http://suona.com/people/pe20040807.htm
- 山西賽社與楽戸文化国際学術検討会:潞城市賈村両天半賽社儀式内容簡介
- http://www.nuoxi.com/display.asp?cate=&id=483
- 世代相伝的吹歌
- http://oldpages.hebnews.cn/20021018/ca190352.htm (2002-11-22 15:25:40)
*1 アフリカのサバンナ地帯にも、楽器音で語りを模倣する太鼓ことばや笛ことばが発展し、日常会話から歴史物語までを表現する[川田1988: 35]。同地帯も声調言語を用いるので、言語習慣と楽器音の表現方法との関連性を指摘する者もある[Hughes 2000][Tsukada 1995]。しかし拉戯ほど模倣対象が広く徹底した表現は、おそらく他地域に例をみない。
*2 劉天華は、1922年北京大学音楽伝習所講師として北京に赴任した。その後、京劇や大鼓、三弦拉戯を学んだ[劉1997: 239]。通説では鳥の囀りを模倣する二胡曲「空山鳥語」は、拉戯の技法をもとに作られたという。ただし同曲の初稿は1918年にすでに存在し、来京後の学習が直接影響を及ぼしたのかは不詳。
*3 山西省だけに残る、宮廷の命により音楽を演奏した奴隷階級者の子孫。漢代以来太常寺の管轄に置かれ規範化が進んだため、今日までの伝承過程で変動の幅が非常に小さいと考えられている。現在は上掲の儀礼楽の中心的な担い手である。[項2001]ほか。
*4 以上の内容については次のサイトを参照した。山西賽社與楽戸文化国際学術研討会:潞城市賈村両天半賽社儀式内容簡介 http://www.nuoxi.com/display.asp?cate=&id=483
*5 他に下記サイトを参照した。「世代相伝的吹歌」http://oldpages.hebnews.cn/20021018/ca190352.htm (2002-11-22 15:25:40
*6 王玉峰の卓越した技量を『覚花寮雑記』は以下のとおり記す:光宣之間,京師王玉峰弾三弦,号絶技。余秋夜觴客招之奏技。先倣梨園皮簧諸劇,譚鑫培之須生,王瑶卿之青衣,金秀山之黒頭(俗呼外曰須生,旦曰青衣,净曰黒頭),行腔使調,無不逼肖。次作僧寺梵唱,鐃鈸鐘魚,一時併作。復為蒿里之歌,其声凄清,如古峡猿啼,秋空雁唳。最後作戦場声,刀剣磨撞,万馬蹴踏,征鼙殷地,哀角横秋,令人神魄惊悚,衆音繁会之時,忽裂帛一声,騞然遽止。
*7 『申報』1920,9.1
*8 たとえば『申報』1926,3,12本埠増刊(二)には、以下の広告文が載った:「北部自由庁日四点五十分起夜九点五十分起由大芸術家沈易書三弦拉戯一時生旦浄丑南北名劇以及時新小調鑼鼓弦索唯不唯妙肖極指法撥捺之能事誠拉戯中之傑出才也」。一晩二回の公演、多彩な演目、拉戯界の傑出した大芸術家などの記載が、ドル箱芸人としてのステイタスの高さを物語る。
*9 『申報』1924,7,20 十七頁(第五版)。大世界の広告欄で、新たに加わる新遊芸として、楊春山の十様巧耍、栄旺亭の盲唖双簧とともに紹介された。王春普は蘇州で単弦拉戯を考案した顧伯年(後述)の師匠である。
*10 『申報』1924,10,7 本埠増刊(二)「拉戯偶記」によると、吉は「能京劇時曲大鼓軍楽」とあり、伝統音楽以外にブラスバンドをレパートリーに加えたことがわかる。
*11 [成1993: 9]によれば、伝統的な山東派は魯西南の菏沢地区と魯西の聊城地区に伝承され,ことに菏沢地区の鄆城と鄄城一帯は“鄆鄄箏琴之郷”と謳われる。
*12 『申報』1924,3,28 本埠増刊二頁掲載の「拉戯偶誌」(ペンネーム野樵の記名原稿)中に以下の記載がある:滬上拉戯能手、有沈易書、邱聘卿等。易書為南派名家、邱則為北派之健将、現大世界又聘得拉戯名手王殿玉、其芸亦甚不弱、可與沈邱分庭抗礼、前夕殿玉奏「機房教子」生旦並挙、字句清晰、頗覚悦耳、続奏莉花大鼓之「独占花魁」音韻娓婉、曲尽其妙、其拉出之音浪、酷似劉大愛之腔調、故聴者采声不絶、施又奏小調「孟姜女」亦甚動聴、苛能再従芸術上研求、則進歩詎可限量哉。
*13 『申報』1932,1,1 本埠増刊(五)参照。
*14 王殿玉は楽器の改良にとどまらず、多様な音声を模倣しやすい独自の指法や技巧も開発した[劉1987: 262]
*15 [劉1987: 262]は墜琴をもとに改良したと述べ、墜胡をもととする[劉1992:245]と食い違う。ここでは刊行年の新しい後者に従う。
*16 以下顧伯年と顧耀宗については、[劉志斌2003]と[武漢説唱団1998]を参照した。
*17 原文は古彩戯法。
*18 『申報』1932,1,29 本埠増刊(五)参照。
*19 『申報』1924,7,30 本埠増刊(二)「拉戯偶談」の下記記事を参照:「近日滬上拉戯甚多、邱聘卿之三絃拉戯、沈易書之南方拉戯、達明舟沈易芝之単弦拉戯、数人皆為拉戯妙手、今有著名琴家朱渭濃、新発明電灯喇叭空中拉戯、且有全班場面、如其兄金貴之京胡、金元之班鼓、其姪生宝之弦子、金宝之月琴、全家合配、堪称殊聯壁合、今在新世界自由庁所拉各種戯曲小調、較前在大世界共和庁大有進歩。」
*20 『山西楽戸研究』の著者、項陽氏(中国芸術研究院音楽研究所研究員)のご教示による。
*21 [岩間2005]は、聯誼会の多様な活動を詳細に記述したが、従前の団体との関連性については言及していない。聯誼会の加入者と従前団体の加入者には社会階層の違いはあるが、階層を越えて活動内容や嗜好が受け継がれた点は指摘すべきだろう。
*22 1864にイエズス会神父が設立した。児童の自立を促すために工芸や美術教育を行ったことで知られる。同院児童のブラスバンドは市内の各種儀礼に頻繁に出演し、これも収益の一つになっていた。
*23 1911年結成、上海福州路と山西路の交差点にあった文明茶楼が活動拠点。
*24 1915年結成、浙江路の宁波路茶楼が活動拠点。
*25 1917年に勧工銀行の職員が結成。
*26 1909年結成。
*27 1919年結成。
*28 1919年結成。
*29 1919年結成。
*30 陳道中が滬南民立中学の同楽会に出演した際の評は、『申報』1924,1,6本埠増刊(二)に見える:「三娘教子」、音調生旦可分、宛如名伶口唱一般、聴之津津有味也。
*31 当時の拉戯レコードの正確な発行数はわからない。新中国建国後に、中国唱片社が上海の外資国産レコード会社の保有レコードを没収して作製したリストによると、以下のレコードが確認できる。:三弦拉戯「三娘教子(百代唱片)」「武家坡(高亭唱片)」「四郎探母(高亭唱片)」「蓮英夢驚(高亭唱片)」「轅門斬子(高亭唱片)」(以上はすべて沈易書の演奏)、単弦拉戯(麗歌唱片、杜貞福・果万林演奏)「汾河湾」「客先生算命」、単弦拉戯(笑然居士によるもの)「彩楼配(高亭唱片)」「武家坡(高亭唱片)」「三娘教子(勝利唱片)」「武家坡(勝利唱片)」「四郎探母(勝利唱片)」[中国唱片社1964: 218-9]
*32 波多野太郎、三浦勝利、村松一弥監修『中国伝統音楽集成―史料としてのSP原盤復制』日本コロムビア1980、第三部説唱に収録。レコード番号GB7024B面。この集成には拉戯はこの1曲のみ収録されている。