海寧皮影戯『三角金磚』と蚕花五聖信仰†
1.はじめに†
海寧皮影戯は、浙江省東部の嘉興市を中心に行われている影絵人形劇の一種である。当該地域は養蚕が盛んであるが、海寧皮影戯は大きな舞台を必要とせずコストも低いという人形劇としての特性を生かし、養蚕農家における上演をその主たるマーケットとしてきた。
筆者は「海寧皮影戯における蚕神儀礼――『馬鳴王』をめぐって」において*1、海寧皮影戯で行われている馬鳴王という蚕神に蚕の成長を祈願する演目について検討し、これが本来は福建省や広東省などの宗教職能者による人形劇の儀礼的上演にも連なるものであること、しかし内容的には世俗化が進んでおりそのテキストも当地の説唱を改変して儀礼としての体裁を整えたものであること、またそこから説唱芸能と影絵人形劇の近似性が見いだせることなどを指摘した。
しかし海寧皮影戯において蚕神儀礼に関わる演目としてはもう一つ、「蚕花五聖」という、馬鳴王とはまた異なる蚕神の由来を述べる『三角金磚』がある。本稿では、この演目の内容について検討することで、蚕花五聖の由来と性質について明らかにするとともに、その儀礼上演としての性質について考察を加えてみたいと思う。
2.『三角金磚』とその内容†
前稿で検討したように、嘉興市一帯の養蚕農家では旧時、清明節前後を中心に旧暦の三月から五月にかけて、蚕の幼虫が孵化する時期に戯班を家に呼んで影絵人形劇を上演し、繭糸の豊作を祈願する習俗があった。これを「蚕戯」と称する。演目は観衆の要望に応じて随時選ばれたが、一般的には『三角金磚』が上演されることが多かったという。この演目は、一九五〇年代における「迷信的」演目の規制や農業集団化による生活様式の変化によって行われなくなり、現在では民国期に活動した皮影戯劇団である徐玉林班子の後裔・徐二男氏が記憶しているだけとなっている*2。ただ、幸いにも用いられる影絵人形が伝存しており、また氏の口述をもとに演目の内容を纏めたものが海寧市檔案局(館)編『海寧皮影戯』に掲載されている*3。以下にその概要を記す。
祁家荘の荘主に、祁金・祁銀・祁玉・祁宝・祁貴という五人の娘がいて、いずれも高い武功を持っていた。九天玄女が彼女たちに鉄樹と鉄扇を送り、彼女たちは鉄樹を揺することができた者を婿とすることを決める。
蕭家荘には蕭竜・蕭鳳・蕭虎・蕭麒・蕭麟の五兄弟がおり、大変な力持ちであったため、祁家荘で鉄樹を揺することができたが、鉄扇によって扶桑国へと飛ばされてしまった。そこで蕭家五兄弟たちは老寿星に出会い、「定風珠」と「三角金磚」を授けられ、鹿に乗って帰国する。祁家の娘たちは再び鉄扇を仰ぐが今度は飛ばされなかったため、結婚を承諾する。
ついで蕭家五兄弟は三角金磚を用いて姜国で青竜妖を倒し、また鄧州で温震・温雷・鮑忠・鮑孝ら「八怪」が起こした乱もやはり三角金磚によって平定する。そこで都に戻って周王にこのことを報告すると、周王は姜子牙に命じて八怪を封神榜に追加させ、鄧州は平和になった。蕭家五兄弟は乱を平定した功績で恩賞を与えられ、祁家荘の五人娘とも結婚した。後の人々は蕭家五兄弟を「蚕花五聖」として褒め称えた*4。
なお、同書には上演に用いられる影絵人形の写真も収められているが、これを見ると蕭家五兄弟の最前列の人物は三つ眼となっており、徐二男氏によれば、これは長男の蕭竜らしい。演目は秘宝・三角金磚を駆使した蕭家五兄弟の活躍が中心で、「蚕花五聖」についてはかれらが後にそうなったと言うだけで、例えばそれが蚕神としてどのような役割を果たしているのかは直接述べられていない。この点で、馬鳴王が蚕神となる由来を語り、また蚕の成育を見守る様子を描く『馬鳴王』とは大きく様相が異なっている。
また、物語の最後で描かれる姜子牙による「封神」の場面は、明らかに明代の小説『封神演義』の枠組みに基づくものである。実際、徐二男氏は筆者のインタビューに際して、この『三角金磚』は『封神演義』の物語だと回答していたが、小説『封神演義』にはもちろん蚕花五聖など登場しないし、また各地の地方劇や説唱などで行われている『封神演義』に由来する様々な演目にも類似の内容のものは無い。『三角金磚』は、いわば海寧皮影戯で独自に行われている『封神演義』の「外伝」ということになるが、最後の封神云々という部分はいかにも取って付けたような感じで、多数の神仙を武王伐紂故事の中に巧妙に配置していることを特徴とする『封神演義』の設定にもそぐわない。これは恐らく、単独で存在していた蚕花五聖の物語に、無理矢理『封神演義』をこじつけたせいだと思われる。
『三角金磚』の物語は『封神演義』ではなく、別に藍本がある。それは、明代の余象斗の小説『五顕霊官大帝華光天王伝』(『南遊記』)に描かれる以下の「華光」の物語である*5。
西方霊鷲山如来の弟子である妙吉祥は、独火鬼を殺した罪で地上界に堕とされる。馬耳娘娘の子・霊光として生まれ変わる。霊光は如来によって五種類の神通力、すなわち「五通」を付与されており、また生まれつき三つ眼であった。成長した霊光は金鎗を盗んだ罰として紫微大帝によって殺される。妙吉祥は再び炎玄天王の子・霊耀として生まれ変わったが、やはり三つ眼であった(巻一)。
霊耀は秘宝・三角金磚を用いて風火判官の妖怪を倒した功績で、玉帝から火部兵馬大元帥に任じられるが、金鎗太子と争ったかどで免職される。これに怒った霊耀は華光大王を名乗り自立するが、玉帝が自分を捉える天兵を差し向けたと聞いてまたもや転生することを決意する。妙吉祥は今度は婺源県の蕭家荘の五兄弟の一人として生まれ変わるが、母の范氏は実は人食いの妖怪・吉芝陀聖母であり、そのため竜瑞王によって捉えられてしまう(巻二)。
華光は母を捜して訪ね歩くが、それを天界への謀反を企てているものと誤解した玉帝は再び天兵を差し向ける。これを撃退した華光は鳳凰山で鉄扇公主と知り合うが、彼女の持つ鉄扇で扇がれても吹き飛ばされなかったことで、二人は結婚をする(巻三)。
華光はその後地獄に赴いてそこに閉じ込められていた母を救出し、人食いをやめさせるために斉天大聖に化けて西王母の仙桃を盗んで来て与える。これを知った斉天大聖は激怒し、華光と戦うが、後に二人は和解して義兄弟となる。最後に華光は玉帝によって「上善五顕霊官大帝」に封じられる(巻四)。
『五顕霊官大帝華光天王伝』は、四巻十八回と、明代の白話小説の中では比較的短い作品だが、ストーリーは上に見たように非常に複雑多岐に渡っている。これは、後述するように、作者の余象斗が複数の要素をつなぎ合わせて小説を書いたためである。ここで語られる華光という神は相当な乱暴者で、「悪神」といっても差し支えない存在であり、『三角金磚』の蚕花五聖とはやや性格が異なっている。ただ、「三つ眼の主人公」「三角金磚」「蕭家五兄弟」「鉄扇」「封神」といった、『三角金磚』に見える要素はほぼ出揃っており、この演目は上記の華光の物語を踏襲していることが推測される。ではこの蚕花五聖と華光という神格はどのような関係にあるのだろうか。以下、この問題について検討して行きたいと思う。
3.蚕花五聖と華光†
蚕花五聖は、浙江省東部で広く信仰されている蚕神の一種である。顧希佳は「杭嘉湖蚕郷風俗初探」で以下のように記している*6。
杭州・嘉興・湖州の養蚕地帯では、人々は「蚕花五聖」という、また別の蚕神を信仰している。これは五聖の一種で、男性であり、養蚕や桑の樹を司っている。海塩の民間では、この蚕花五聖は三つ眼で手が六本に描かれ、うち二本の手は繭が載せられたお盆を捧げ持ち、他の四本は他の様々なものを持っている*7。
蚕花五聖が「描かれ」ているというのは、浙江省東部の習俗である「斎蚕花」で、蚕花五聖を祀る際に用いられた図像の類を指しているものと思われる*8。
清明節の夜に、魚・肉・米粉の三種類の供え物と、千張豆腐乾を四皿(あるいは果物二皿を加える)、酒杯を五つ、それと蚕花五聖を描いた紙を一枚供える。線香と蝋燭を灯し、それによって蚕花にお斎を施す。これを俗に「請蚕花五聖」と呼んだ*9。
なお注意すべきは、一般に行われている蚕花五聖は『三角金磚』に登場するような五人の神ではなく、単体の神であるということである。これについて、顧希佳は「杭嘉湖蚕郷信仰習俗査考」*10において以下のように述べている。
蚕花五聖の三つ眼(すなわち、額にもう一つ縦の目があること)から、我々はあるヒントを得ることができる。『華陽国志』「蜀志」には、「蜀侯の蚕叢がいて、その目は縦になっており、始めて王を称した」とあり、ここから蚕叢は「縦目」があったことが解る。「縦目」とは「彫題」と解することができる。この言葉について、『礼記』「王制」編の孔穎達の疏には以下のようにある。「彫とは、刻するということである。また題とは額のことである。(すなわち彫題とは)絵具でその額にしるしを刻みこむことである。」つまりこれは、俗に言う「三つ眼」である。ここから分析すると、杭州・嘉興・湖州の養蚕地帯で近頃信仰されている蚕花五聖は、恐らく古代の蜀の地の蚕叢氏の信仰のバリエーションだと考えられる。…(略)…我々は、馬頭娘や蚕花五聖、および蚕馬神話は、いずれも四川一帯から杭州・嘉興・湖州に伝わったものと結論づけることができる。これは我が国の古代における絹糸生産の歴史的事実とも符合する。四千七百年前には杭州・嘉興・湖州一帯ですでに絹糸生産が行われていたとは言え、本当に盛んになったのは宋代以後のことであり、殷代前後にまで遡れば、四川・陝西一帯の絹糸生産は杭州・嘉興・湖州一帯に比べてずっと発達していた。それが生産技術の伝播に伴って、我々の先祖は四川・陝西一帯の神話や信仰習俗と一緒に杭州・嘉興・湖州一帯に持ち込んだのであり、またその伝播の過程で変異も生じたのである*11。
確かに馬頭娘、すなわち前稿で取り上げた「馬鳴王」なども、例えば唐代の『乗異記』などでは四川で祀られているものだと記されており、顧希佳の言うように現在江南で行われている養蚕習俗の中に四川起源のものが多いことは事実である。蚕花五聖も、あるいはこの蚕叢に起源する可能性はあるだろうが、それで説明が付くのは三つ眼という点だけであり、例えばなぜ「五聖」という名前なのかということについては理由が分からないことになる。また蚕叢については「青衣神」の別名で明代の『三教源流捜神大全』巻七などにも記載があり*12、後世に至るまでその信仰が続いている。こうした点から考えると、仮に蚕花五聖の起源が蚕叢だとしても、両者は早い段階で分化してしまったものと考えるべきだろう。
むしろ蚕花五聖の由来を直接示していると思われるのは、明・田汝成『西湖遊覧志余』巻二十六にみえる「五聖」の記述である*13。
杭州の人は五通神を最も信仰している。これはまた五聖とも称するが、その姓氏や由来についてはいずれも解っていない。ただ、この神は高さは三、四尺を超えない低い家を好むとだけ伝えられている。五人の神が一緒におり、また五人の夫人とそれぞれ夫婦になっているとされる。路地裏や空いている庭、また大木の下などに多く祠が建てられており、特に西泠橋のあたりが盛んである*14。
杭州は嘉興に近く、また『三角金磚』で蚕花五聖が五人の神として描かれ、それぞれ夫人を娶ることとも内容的に共通していることを考えると、ここで述べられている「五聖」は現在の蚕花五聖に連なるものであることが推測される。また「五聖」が「五通」の別名であるという点が注目される(五通については後述)。そして同じく田汝成の『西湖遊覧志』巻十七には以下のような記述がある*15。
華光廟は普済橋の上にある。もともとは宝山院と言い、宋の嘉泰年間に建立された。紹興年間の初め、丞相の鄭清之が重修し、五顕の神を祀った。また「五通」「五聖」とも称し、江南地方では必ず祀られているが、特に杭州は盛んである。しかしその起源については解っていない*16。
ここから、「五聖」は「五通」以外に「五顕」とも呼ばれ、また「華光」とも同一の神格とされたことが解る。先に見た『五顕霊官大帝華光天王伝』でも、巻一で華光は「五通」の能力を付与されているし、また巻四では「五顕」を含む称号を与えられているが、これはこうした状況を反映したものであろう。
蚕花五聖がこの「五聖」であり、またそれが華光であるのならば、『三角金磚』と『五顕霊官大帝華光天王伝』が似通った内容を持つことの説明がつく。また蚕花五聖が『三角金磚』のように五人の神だったり、一般に信仰されるように単独の神であったりすることも、華光自体が両者の形態を有するのだから、この二つが併存していることも説明が付くことになる。
4.華光と五通†
ここで問題となるのは、華光・五聖・五通・五顕の四者の関係である。上に見たように、田汝成はこれらを同一の神格の別称に過ぎないとしているが、実はそれぞれ異なる来歴を持っており、そしてそれは最終的に蚕花五聖という神格がどのようなものであるかという問題にも関わってくる。幸い、この四者の神格の問題についてはすでにリチャード-フォン-グラン*17、呂宗力・欒保群*18、黄兆漢*19、二階堂善弘*20らの研究があるので、以下これらを参照しながらこの問題について検討してみたい。
まず華光とは、もともとは仏典の中に見える仏弟子の一人・舎利弗の別名であり、中国では特に信仰が盛んな神格という訳ではなかったが*21、後に道教の「馬元帥」と合流することで大きな人気を獲得した。馬元帥については、『三教源流捜神大全』巻五に載せる以下の「霊官馬元帥」という資料が比較的纏まった記述となる*22。
馬元帥は全部で三回、霊験を顕した。もともとは妙吉祥の化身であるが、焦火鬼を殺したことで如来が心を痛め、人間界に堕とした。そこで五つの火光となって馬氏金母のもとに転生した。三つ眼であったために、三眼霊光と名付けられた。生まれて三日目にして戦うことができ、東海竜王を斬って水害を除き、続いて紫微大帝の金鎗を盗んだ。次に火魔王公主の子供として生まれ変わったが、その際は左手に「霊」の字が、右手に「耀」の字があったので、「霊耀」と名付けられた。大恵尽慈妙楽天尊に弟子入りし、天書を学び、風・雷・竜・蛇・䤋鬼など、民を安んじる術をすべて身につけ、金磚三角を授かり、無限の神通力を得た。そして玉帝の命を承けて風と火の神を降し、これを風輪と火輪として操った。また百加聖母を降して五百の火鴉を収め、烏竜大王を降してその翼を使い、さらに揚子江の竜を斬って民に福をもたらした。このように様々な困難と危険を経たことは、かれのこの上ない忠誠ぶりを表している。また南天を司っていることは、神としての力量の大きさを物語っているし、瓊花の宴で金竜太子がかれにわざわざ酒を勧めていることなどは、その天界における寵愛ぶりを示している。ところが太子の傲慢ぶりに腹を立てて兵を興し、南天門を焼き払い、天の神軍をことごとく打ち破って、その後竜宮に赴いた。その際に離婁・師曠とも戦ったが和解して仲間となり、また金竜を鞭打って怒りを晴らした。そして仕方なく、五人兄弟・二人姉妹として鬼子母のもとへ転生した。母が死ぬと地獄へ探しに赴き、海蔵を越え、霊台を越え、酆都を過ぎ、鬼洞に入って、哪吒と戦い、仙桃を盗んで、斉天大聖と戦い、最後は釈仏の取りなしで和解したが、このことはその立派な孝行心を表している。また後に菩薩の座の左に復したことは、この上ない智慧を持っていたことを示している。玉帝は馬元帥の功徳を天地に比し得るものとし、勅令により玄帝の部下とした(後略)*23。
ここにはすでに、『五顕霊官大帝華光天王伝』で描かれる華光の物語の骨子がほぼ揃っている。ただし、『三角金磚』では中心となる蕭家五兄弟のエピソードはまだ無く、また封号も「霊官馬元帥」であって、「華光」「五顕」といった名は見えない。
しかしこの馬元帥がいつの間にか華光と同一視されるようになり、上記の説話も華光の物語として語られるようになる。重要なのは、それによって「乱暴者の悪神」という性格が華光に付与されたことである。この種の神は「味方」につければ、その強大な力で邪鬼を退ける守護神に転換し得るが、恐らくそうした論理が働いた結果、華光は仏教の伽藍神として祀られるようになり、明一代を通じて盛んに信仰されることとなるのである*24。
また五通は、宋代に広く知られるようになった神である。宋・洪邁の『夷堅丁志』巻十三「孔労虫」には以下のような説話が載っている*25。
孔思文は長沙の人である。鄂州に住み、若い時に張天師に会って法術を授けられ、またおこりを治すこともできたので、人々はかれを孔労虫と呼んだ。また荊南の劉五という侠客がいて、江湖を往来していた。ある夜、妻の頓氏と二人の子供が家にいたところ、窓の外から「劉五郎はいるか」と尋ねる声がした。頓氏は左右を見渡したが、誰もいなかったので、怖くなって返答しなかった。するとまた、「帰ってきたらあなたは私の伝言を伝えてくれ、私は去る」という声がした。劉が帰ってきたので、妻は昼間のことを話し、こんな所は引っ越そうと言った。するとまた突然声がして、「五郎は帰ってきたか」と言った。劉は怒って言った。「どんな妖怪が私の家に何度もやって来ているのだ。わたしはお前など怖くはないぞ。」すると相手は笑って言った。「わたしは五通神だ。妖怪ではない。あなたにお願いがある。わたしを祀れば、あなたを一生裕福にしてあげるぞ。」*26
そうして劉五が言われたとおりに祠を作って五通を祀ると、はたしてかれの元には富がもたらされる。劉五は喜ぶが、一年後、持っていた金銭が急に消え失せてしまう。怒った劉五は孔思文に五通退治を頼む。
孔思文は香を焚いて言った。「この家で祟りをなしているのはあなたですか。」すると空中で大きな笑い声がして言った。「そうだ。劉五に頼まれてわたしを退治しに来たのだろうが、お前は何をするつもりだ。お札を使うような小技なら、わたしは正神なので、そんな朱砂の法術は怖くないぞ。」孔は言った。「神が霊験をあらわしていると聞いたので、詳しく調べて謝礼をしようというだけです。退治などというつもりはありません。」しばらく問答をしたあと、孔は詰っていった。「わたしは神にお目に掛かりに来た客です。それなのにどうして茶を出して接待しないのですか。」そして振り返ると、茶はもう卓の上に供えてあった。孔は言った。「劉の家で祟りをなしているわけではないというのなら、供状を私に授けて下さい。」すると最初は困ったようだったが、しばらくして言った。「供状を与えても構わない。」しばらくして、卓いっぱいに細い字で書かれた供状が現れた。炭煤で書いたような感じで、あまり明瞭ではなかった。孔は礼をし、相手を持ち上げて言った。「今日、あなたは正神であると解りました。劉五がみだりに訴えてきても取り合いません。先ほどは無礼なことも言い、申し訳ありませんでした。」そして立ち去り、劉に報告した。そしてその日の晩にかならず現れると思い、法術で身を隠し、剣を携えて門の左のところに潜んだ。夜がふけると、黄色い衣を着た何物かがやって来た。冠服は以前姿を現した時と同じであった。門を入った所で、孔が剣を振り下ろすと、大声を上げて死んだ。見ると、血だらけの黄鼠の下半身が落ちていた。朝になって祠に行ってみると、上半身も神像の下にあった。五通の正体は大鼠だったのである。廟と神像を壊すと、怪異は止ん だ*27。
ここでは五通は一匹の大鼠の妖怪として描かれている。『夷堅志』には他にも幾つか五通についての記事があり、数も種類もまちまちであるが、いずれも共通しているのは動物に由来する悪神だということである*28。いわば「淫祠」であるが、しかしこの種の神格はそうした「危なさ」を持っているからこそ、逆に正統的信仰の神格には無い強大な神通力も持ち得る。そのためか、宋代以後特に南方では各地で五通の祠が建てられ、その信仰は隆盛を極めていくのである。
なお、この種の悪神的要素は、華光も馬元帥と習合することで獲得しており、両者は性質が似ていることになる。また仏教でも別に「五通」という言葉がある。これは、神境智証通(自在に移動できる力)・天眼智証通(普通の人には見えないものを見ることができる力)・天耳智証通(普通の人には聞こえない音まで聞こえる力)・他心智証通(他人の考えを知ることができる力)・宿命随念智証通(過去世について知ることができる力)の五種類の神通力のことで、外道でもこれは身につけることができるが、如来はこのほかさらに漏尽智証通(煩悩を取り去ることができる力)も持つ点で異なっているとされる*29。五通と華光は恐らくその性格の類似によって習合したものと思われるが、『五顕霊官大帝華光天王伝』でも五通が華光の能力として描かれていることを考えると、表面的にはこの仏教の五通という言葉を介して両者の結合が説明されたのだろう。
5.五顕と五聖†
また、五顕もやはり宋代に登場し、その後流行した神である。宋・洪邁『夷堅三志』己巻十「周沉州神薬」には以下のような記事がある*30。
徳興の五顕廟は、この神の発祥の地である。そのためこの場所でしばしば霊験を顕してきた。…(略)…一般には、中でも第四位の神である顕霊昭済広順公が、つねづね道を好んで斎戒を行い、薬を施すことに専念して功徳を積んだとされる。それゆえ、霊験はこのようにいずれもあらたかなのである*31。
五通と五顕が異なる神として認識されていたことは、同じ洪邁の著作の中で両者が別々に描かれていることから解る。両者の違いは、五通が「五」と言いながら一つだったり複数だったりと、数が一定しない上に、その出自も動物系の悪神であるのに対し、五顕は上の記事で「四番目」が「顕霊昭済広順公」だと言っているように、「五人」であることがはっきりしており、また人間が神となったものであることである。ただ両者は名称が似ていることから混同を起こしやすかったことも確かで、実際に合流してしまった例も数多く見られる*32。そして、五通と習合した華光が五顕とも合流するのは、いわば当然の成り行きであったと言えるだろう。
なお上の記事では徳興を五顕の発祥地としているが、他の資料では婺源だとするものもある。宋・陳耆卿『赤城志』巻三十一「祠廟門」では以下のように述べられている。
五顕霊官王の行祠は、栖霞宮の後山にあり、嘉定十四年に建てられた。これは婺源の神である*33。
徳興と婺源とは隣接しており、いずれも現在は江西省上饒市に属する。宋・真徳秀『西山文集』巻五十二「梅山廟祝文」には、五顕信仰が宋室の公認を受けるに際して徳興の属する徽州と婺源の属する饒州がいずれも「自分たちの場所こそが本拠地だ」と主張したことが記されているが*34、注目すべきはそこで五顕の「素性」の言及があることである。
私は昨日奉常(宗廟の祭祀を管轄する官)から、徽州・饒州から奏上された「五顕王に加封する本末」を手に入れて読んだが、そこではいずれもこの神は蕭という姓で、五人兄弟だと書かれていた*35。
これによれば五顕は「蕭姓の五人兄弟」ということになる。『五顕霊官大帝華光天王伝』で華光が二度目に生まれ変わった時、蕭家の五人兄弟に生まれ変わっているのは、これを受けたものであろう。
この他に「五聖」がある。これについては、清・鈕琇『觚剩』巻一「奏毀淫祠」に以下のような記事が見える。
明の太祖は、天下を統一して功臣に封爵を行った後、たくさんの兵卒が出てくる夢を見た。かれらは殿前に並び、「われらは陛下が四方を討伐するのに付き従い、陣中で命を落としました。功績が無いはずはありません。どうか恩賞を賜りますよう。」太祖は言った。「そなたたちは人数が多いため、一人一人名前を調べることができない。しかし五人一組とすれば、至る所で供え物は足りるだろう。」そこで一尺五寸の小さな祠を建てて祀るよう、江南の家々に命じた。これを一般に「五聖祠」という*36。
これによれば、五聖は明王室が元末の戦乱で無くなった戦没者を祀ったものということになる。五という数字は具体的な五人の神を指すのではなく、五通と同じように漠然と多くの数を表しているものと思われる。ただ五聖は、字義通りに解釈すれば単に「五種類の聖なる存在」であり、そのため類似した五通や五顕との混同も起こった*37。『三教源流捜神大全』巻二「五聖始末」では、「五聖」について以下のように記されている。
五顕公の神は天地の始まりの時から存在していたが、唐代の光啓年間にこの村に降った。…(略)…神が降ってから、格別に国に功績を成し、民を加護し、常に霊験あらたかであった。これに先んじて、廟号は「五通」という名を廃止し、大観年間には初めて廟に額を賜り「霊順」と名付けた。…(略)…第一位は顕聡昭応霊格広済王、顕慶協恵昭助夫人。第二位は顕明昭列霊護広祐王、顕恵協慶善助夫人。第三位は顕正昭順霊衛広恵王、顕斉協佑正助夫人。第四位は顕直昭佑霊既広沢王、顕顯佑協斉喜助夫人。第五位は顕徳昭利霊助広成王、顕福協愛静助夫人*38。
ここでは、五聖はかつては五通と呼ばれていたが、王朝の公認を得て、それぞれが「顕」の字を名前に持つ五顕へと改められた、ということになっている。これは恐らく、三者が混同され習合したことを、合理的に説明するために用意されたものなのだろう。
そしてこの五聖が、すでに五通・五顕と結びついていた華光と合流するのも当然の帰結であった。その結果、五聖の中は由来の異なる複数の要素が同居することになる。それは一方で、「様々な対象に祀ることができる神格」だろうという考えを生み、田畑に祀る「田頭五聖」、大木を祀る「樹頭五聖」、軒の上に祀る「簷頭五聖」、食用とする魚を祀る「魚米五聖」など*39、多数の五聖が出現した。蚕花五聖もまた、そのバリエーションの一つだと考えることができるだろう。
こうした樹木や魚を守る五聖などからは、例えば華光や五通が本来持っていた禍々しさなどは表面上は見えづらくなっている。これはいわば、多数の要素を抱え込むことによって、逆にそれぞれの特質が弱められてしまったものと言える。しかしまた一方で、それらの要素は無くなった訳ではなく、ソースとしては依然として背後に存在し続けているということにもなる。それが『三角金磚』の蚕花五聖においては、三つ眼や三角金磚などは華光・馬元帥から、婺源の蕭家五兄弟は五顕から、辟邪を行い得る強い力は五通からというように、モザイクのようにつなぎ合わされて描かれているのだと言えるだろう。
6.おわりに†
浙江省東部では、蚕花五聖の他に主に二種類の蚕神が信仰されている*40。一つは嫘祖である*41。これは「先蚕」とも称し、三皇五帝のうちの黄帝の夫人で、人間に養蚕を教えた一種の「文化英雄」であるとされる。蚕神としては北周以来歴代の王朝によって公的に認められたいわば「由緒正しい」神である。嘉興市の付近では、絹糸の大規模な集積地・消費地の一つだった浙江省の省都の杭州や*42、絹糸業の街としては浙江省東部の嘉興や新市と競合関係にあった江蘇省呉江市の盛沢などで信仰されている*43。
もう一つは馬鳴王である。これは晋・干宝『捜神記』巻十四「女化蚕」の説話の系統に属する女神で、浙江省東部一帯では最も広く行われているものである。嫘祖とは相補分布を成しているが、それは両者がいずれも女性蚕神として同様の役割を担っていることを示してもいよう。
馬鳴王と蚕花五聖は、同時に祀られることがあり得る。筆者の調査した中では、例えば清明節に大規模な水上廟会を行うことで全国的に有名な浙江省桐郷市芝村の双慶禅寺で両者がともに祀られていたし、また他ならぬ海寧皮影戯で蚕花五聖の『三角金磚』と馬鳴王の『馬鳴王』という二つの演目が蚕戯として同居していることもこれにあたるだろう。
これは、両者の役割に違いがあるためだと思われる。『馬鳴王』は、馬鳴王が人間界に降臨し、蚕の生育を「見守る」という内容の演目であった。これに対し『三角金磚』の蚕花五聖は、華光・五顕・五通といった、駆邪を行う悪神としての出自を持っていることから、恐らく本来的には蚕の成育を妨げる邪気を追い払うという性質のものだったと考えられる。すなわち、同じく蚕神であっても、馬鳴王は「見守る神」であり、また蚕花五聖はもともと「辟邪神」なのだろう。ところがそうした区別が現在では解りづらくなってしまっており、そのために「蚕花五聖は馬鳴王の別名である」という説明が行われるなど、両者の習合も起こってしまっている*44。
そうして考えてみると、『三角金磚』は北方で行われる張天師による五毒退治を演じる人形劇や、南方で行われる鍾馗による駆邪を演じる人形劇などと同内容の辟邪劇となっても良かったはずである*45。しかし「王朝の公認」によって本来有していたはずの荒々しさが「去勢」された結果、かわりに五通を通して流れ込んだ華光の物語を神仙の由来譚として演じるしかなくなったのだろう。辟邪劇としては何とも中途半端なものになってしまったが、結果として、明代には大きな広がりを見せながら現在では滅んだ華光信仰が奇跡的にその中に残されるという事態も生んだのである。
また「神に封じる」という設定は、華光物語が滅亡した後に興起した『封神演義』の物語の枠組みで説明することが、いわば一般的な通念となっている。そして影絵人形劇は農村部の神誕戯に参与することが多いせいか、神の由来を語る簡便なテキストである『封神演義』の演目をどの地域も有しているが、そうした影絵人形劇と『封神演義』との親和性の高さも手伝い、『三角金磚』はその外伝のように装わざるを得なかったのだろう。すなわち蚕戯としての『三角金磚』は、本来は悪神による辟邪というモチーフの人形劇儀礼となるはずが、悪神の「非淫祠化」と『封神演義』の流行という、二つの世俗化要因によって歪められたものと考えられるのである。そしてそれは、当該地域の宗教儀礼が大きく世俗化の方向に進んでしまっていることを表しているとも言えるだろう。
* 本稿は、平成17~21年度文部科学省科学研究費・特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」民俗信仰班(「浙江・江蘇地域の道教・民俗信仰に関する廟宇・祭神・儀礼調査」研究代表者・二階堂善弘:課題番号17083038)による成果の一部である。
*1 『中国都市芸能研究』第七輯(好文出版、2008年)、51頁~63頁。
*2 徐二男氏には2008年8月・2009年8月の二度にわたってインタビューを行った。蚕戯では一般的に『三角金磚』の上演が多かったとするのも氏の御教示による。
*3 山西古籍出版社、2007年、203頁~204頁。
*4 祈家庄庄主有五女,名金、银、玉、宝、贵,皆有武功。九天玄女赠铁树、铁扇,五女以摇铁树招亲。萧家庄有萧姓龙、凤、虎、麒、麟五兄弟,力大无穷,去祈家庄摇铁树,树被摇动,但被铁扇扇至扶桑国,遇老寿星赠定风珠及三角金砖,以鹿送归。祈女扇之不动,才允婚。后萧龙等以金砖破羌国青龙妖。邓州温震、温雷、鲍忠、鲍孝等八怪作乱,萧龙以金砖镇住。回京奏明周王,王命姜子牙将八人补入封神榜,邓州乃平。萧龙五兄弟平乱有功,皆有封赠,回乡与祈家庄五女完婚。后人称萧氏为蚕花五圣。
*5 『古本小説集成』第一批(上海古籍出版社、1990年)所収崇禎四年刊本を参照した。
*6 『浙江民俗』総第20・21期、1986年、8頁~22頁。
*7 在杭嘉湖蚕乡,人们还信仰着另一个蚕神,叫做“蚕花五圣”。是五圣之一,男性,主管蚕桑。在海盐民间,这个蚕花五圣被绘成三只眼睛、六只手,其中两只手捧着一盘茧子,另外四只手则拿着其他一些东西。
*8 韋秀程『浅談糸綢之路源頭在新市』、韋秀程自印、2003年、83頁。
*9 清明夜,用鱼、肉、米粉三牲,千张豆腐干四碟(或加水果二碟),酒盅五副,又供蚕花五圣纸马一具。点上香、烛,以斋蚕花,俗称“请蚕花五圣”。
*10 『民間文芸季刊』総第十一期、1986年、250頁~268頁。
*11 从蚕花五圣的三只眼睛(即额头多一纵目)上,我们却可得到一些启示。据《华阳国志•蜀志》:“有蜀侯蚕丛,其目纵,始称王……”可见蚕丛是纵目的。纵目,或释为“雕题”。《礼记•王制》孔颖达疏:“雕,谓刻也;题,谓额也,谓以丹青刻雕其额”,也就是俗称的“三只眼”。由此分析,杭嘉湖蚕乡近世信仰的蚕花五圣,很可能是古代蜀地蚕丛氏信仰的一种流变。…(略)…我们推断马头娘、蚕花五圣以及蚕马神话,都是从四川一带传入杭嘉湖的。这和我国古代蚕丝生产史实也相吻合。尽管早在四千七百年前,杭嘉湖一带已有蚕丝生产,但是真正的兴盛则在宋以后。追溯到殷代前后,川陕一带的蚕丝生产当比杭嘉湖一带更为发达,正是随着生产技术的传播,我们的祖先把川陕一带的神话连同信仰习俗一起传到了杭嘉湖,并在传播过程中发生了变异。
*12 『三教源流捜神大全』については、以下いずれも『中国民間信仰資料彙編』第一輯(台湾学生書局、1989年)所収日本内閣文庫蔵明刊本を参照した。
*13 中華書局1958年排印本による。
*14 杭人最信五通神,亦曰五聖,姓氏源委,俱無可考,但傳其神好矮屋,高廣不逾三四尺。而五神共處之,或配以五婦。凡委巷,若空園及大樹下,多建祀之,而西泠橋尤盛。
*15 中華書局1958年排印本による。
*16 華光廟,載普濟橋上,本名寶山院,宋嘉泰間建。紹興初,丞相鄭清之重修,以奉五顯之神。亦曰五通、五聖,江以南,無不奉之,而杭州尤盛,莫詳本始。
*17 「財富的法術:江南社会史上的五通神」、スティーブン・C・エイブリル編・陳仲丹訳『中国大衆宗教』(江蘇人民出版社、2006年)、143頁~196頁。なお原著、Richard von Glahn, “The Enchantment of Wealth: The God Wutong in the Social History of Jiannan”, Harvard Jornal of Asiatic Studies, No51,1991は未見。
*18 「五顕 五通 五聖」、『中国民間諸神』下巻(河北教育出版社、2001年)、536頁~557頁。
*19 「粤劇戯神華光是何方神聖」、『中国神仙研究』(台湾学生書局、2001年)、49頁~88頁。
*20 「馬元帥華光と五顕神」、『道教・民間信仰における元帥神の変容』(関西大学出版部、2006年)、180頁~189頁。
*21 『法華経』譬喩品で、舎利弗が仏陀の受記によって華光の名を与えられている。黄兆漢前掲論文62頁参照。
*22 黄兆漢59頁~60頁、二階堂善弘前掲論文180頁~182頁参照。
*23 馬元帥之始終凡三顯聖焉。原是至妙吉祥化身,如來以其滅焦火鬼,憤有傷於慈也,而降之凡。遂以五團火光投胎于馬氏金母,面露三眼,因諱三眼靈光。生下三日能戰,斬東海龍王以除水孽,繼以盜紫微大帝金鎗,而寄靈于火魔王公主為兒,手書左靈右耀,復名靈耀,而受業於大惠盡慈妙樂天尊,訓以天書,凡風、雷、龍、蛇、䤋鬼安民之術,靡取不精。乃授以金磚三角,變化無邊。遂奉玉帝敕,以服風火之神,而風輪火輪之使。收百加聖母,而五百火鴉為之用。降烏龍大王而羽之翼,斬揚子江龍而福于民。屢歴艱險,至忠也。帝授以左印右劍,掌南天事,至顯也。錫以瓊花之宴,金龍太子為之行酒,至寵也。殊憶太子傲,侮怒帥,火燒南天門,遍敗天將,下走龍宮,中戰離婁、師曠,偕以和合二神,仍笞金龍以洩其憤。至不得已,又化為一胎而五昆玉二婉蘭,共產於鬼子母之遺體,又以母故而入地獄,走海藏,步靈臺,過酆都,入鬼洞,戰哪吒,竊仙桃,敵齊天大聖。釋佛為之解和,至孝也。後復入于菩薩座左,至慧也。玉帝以其功德齊天地,而敕元帥于玄帝部下(後略)。
*24 黄兆漢前掲論文57頁参照。
*25 中華書局1981年排印本による。
*26 孔思文,長沙人,居鄂州。少時曾遇張天師授法,並能治傳屍病,故人呼為孔勞蟲。荊南劉五客者,往來江湖。妻頓氏,與二子,在家夜坐。聞窗外人問,「劉五郎在否。」頓氏左右顧,不見人,甚懼,不敢應。復言曰,歸時倩為我傳語,我去也。劉歸,妻道其事,議欲徙居。忽又有言曰,「五郎在路不易。」劉叱曰,「何物怪鬼,頻來我家,我元不畏汝。」笑曰,「吾即五通神,非怪也。今將有求於君,苟能祀我,當使君畢世鉅富。」
*27 炷香白曰,「吾聞此家有祟,豈汝乎。」空中大笑曰,「然。知劉五命君治我,君欲何為,不過効書符小技,吾正神也,何懼朱砂為。」孔曰,「聞神至靈,修敬審實,何治之云。」問答良久。孔誚之曰,「吾來見神,是客也,獨不能設茶相待耶。」指顧間,茶已在桌上。孔曰,「果不與劉宅作祟,盍供狀授我。」初頗作難,既而言,「供與不妨。」少頃,滿卓皆細字,如炭煤所書,不甚明瞭。孔謝去,慰以好語曰,「今日定知為正神。劉五妄訴,勿恤也。適過相觸突,敢請罪。」既退以語劉。料其夕當至,作法隱身,仗劍伏門左。夜未半,黃衣過來,冠服如初,徑入戶,孔舉劍揮之,大叫而沒。但見血中墮黃鼠半體,旦而跡諸祠,正得上體於偶人下,蓋一大鼠也。毀廟碎像,怪訖息。
*28 呂宗力・欒保群前掲論文555頁参照。
*29 例えば世親造・玄奘訳『阿毘達磨俱舎論』巻二十七、大正蔵No. 1558など。そのほか、宋代仏教における五通の問題については、リチャード-フォン-グラン前掲論文150頁参照。
*30 中華書局1981年排印本による。
*31 德興五顯廟,本其神發跡處。故赫靈示化,異於地方。…(略)…俗言第四位神顯靈昭濟廣順公素好道齋戒,專務施藥,以積陰功,故效驗章章如此。
*32 呂宗力・欒保群前掲論文555頁参照。
*33 五顯靈官王行祠在栖霞宮後山,嘉定十四年建。婺源神也。
*34 徳興と婺源の「本家争い」については、リチャード-フォン-グラン前掲論文150頁~152頁参照。
*35 某昨在奉常,獲見徽、饒二州所奏〈加封五顯王本末〉,皆謂神姓曰蕭,伯仲五人。
*36 明祖既定天下,大封功臣,夢兵卒千萬,羅拜殿前,曰,「我輩從陛下四方征討,雖沒於行陣,夫豈無功,請加恩恤。」高皇曰,「汝固多人,無從稽考姓氏,但五人為伍,處處血食足矣。」因命江南家立尺五小廟祀之,俗稱「五聖祠」。
*37 呂宗力・欒保群前掲論文557頁、二階堂善弘前掲論文185頁~189頁参照。
*38 五顯公之神在天地問相與為本始,至唐光啟中乃降於玆邑。…(略)…自是神降,格有功於國,福佑斯民,無時不顯。先是廟號止名五通,大觀中始賜廟額日靈順。…(略)…第一位顯聰昭應靈格廣濟王,顯慶協惠昭助夫人。第二位顯明昭列靈護廣祐王,顯惠協慶善助夫人。第三位顯正昭順靈衛廣惠王,顯齊協佑正助夫人。第四位顯直昭佑靈既廣澤王,顯佑協齊喜助夫人。第五位顯德昭利靈助廣成王,顯福協愛靜助夫人。
*39 これらさまざまな五聖の種類については、呂宗力・欒保群前掲論文556頁、および顔清洋『蒲松齢的宗教世界』(新化図書公司、1996年)128頁参照。
*40 浙江省で行われている蚕神はこの他にも「蚕三姑」や「養蚕仙姑」などがあるが、流伝地域が狭く、また本稿の論旨とは直接関係しないため取り上げない。これらの神々については、汪維玲「杭嘉湖蚕民的蚕神信仰与養蚕禁忌」(上海民間文芸家協会・上海民俗学会編『中国民間文化(94/4)』、学林出版社、1994年、96頁~104頁)参照。
*41 嫘祖説話の形成については、劉守華「蚕神信仰与嫘祖伝説」(『道教与中国民間文学』、中国友誼出版公司、2008年、339頁~349頁)参照。
*42 杭州の嫘祖廟は「機神廟」と称し、明代に慶春坊東園巷に建立されたものを始め、湧金門や艮山門石弄口にも有ったが、現在ではすべて消滅している。陳学文「明清江南蚕俗和蚕文化」(『農業考古』総27期、1992年、251頁~256頁)参照。
*43 盛沢の嫘祖廟は「先蚕祠」と称し、城内の五竜路口に位置する。杭州とは異なり、時代が降って太平天国の乱終結後の道光年間に建設されたもので、或いはこの時に文献的知識に基づいて人工的に作られた信仰である可能性もあるだろう。
*44 清・同治年間の『湖州府志』に『西呉蚕略』を引いて、「馬頭娘…神称蚕花五聖(馬頭娘は…この神は蚕花五聖と称する)」という記述があるように、清代中期にはすでに両者の習合も起こっているが、これはそれぞれの役割分担が解らなくなっていることが原因だと思われる(顧希佳前掲論文「杭嘉湖蚕郷信仰習俗査考」、259頁)。また現在の双慶禅寺の蚕花五聖像の中には、華光というよりはむしろ道教の女神で同じく三眼・六臂の「斗母」に形状が似ているものもあるが、これも女神としての馬鳴王との習合を表している可能性はあるだろう。
*45 五毒の物語については、拙稿「混元盒物語の成立と展開」、『近代中国都市芸能に関する基本的研究』平成9-11年度科学研究費基盤研究(C)成果報告論文集、2001年、106頁~132頁参照。
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