『都市芸研』第五輯/清末民初上海時調小曲初探

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清末民初上海時調小曲初探 ―復旦大学蔵趙景深旧蔵唱本を中心として―

川 浩二

1.はじめに

上海の復旦大学には書誌数にして250件あまり、収録された作品数にして約1200種のいわゆる時調小曲の唱本が所蔵されている。これは全国的に見てもかなり大きな数量といえよう*1

また、その唱本の多くは趙景深(1902-1985)個人の旧蔵書に由来し、このことが復旦大学の所蔵に他の図書館や研究機関の所蔵と比して特徴的な性格をもたらしている。筆者は2002年9月から2003年7月にかけ復旦大学に留学し、中文系の黄霖教授の指導のもとでこの時調小曲の唱本に関する調査を行った。本論では調査の結果をもとにしつつ、清末から中華民国時期の上海における時調小曲とそれを取り巻く状況を、唱本を中心に見てみたい。

2.復旦大学所蔵時調小曲唱本と趙景深旧蔵書

まず、復旦大学所蔵の時調小曲唱本についてその概要を記す。復旦大学所蔵の時調小曲唱本は、筆者の記録によれば*2、個人の創作によるものと抄本を除いて、その数量は253件。そのうち趙景深の旧蔵書は155件、それ以外の蔵書は98件を占める。これらは図書館に置かれる図書カードにその書誌情報が記されているが、趙景深旧蔵書とそれ以外とを区別する書式は必ずしも徹底されていない。加えて時調小曲のカード分類が設けられていないため、個々のカードが「鼓詞」、「宝巻」の分類の後ろに無造作に配置されている。趙景深旧蔵書がおさめられる以前から行われていた分類に合わせて、後からカードを加えていくという手順を繰り返してしまったためであろう。この分野に従来ほとんど注意がはらわれてこなかった状況を反映しているともいえる。そのため現在、利用者が復旦大学所蔵の時調小曲唱本、とくに趙景深旧蔵書を検索し閲覧するためには、以下の目録も参照する必要がある。

趙景深旧蔵書は、趙景深の没年である1985年から1988年までに復旦大学図書館と古籍整理研究所に寄贈され、現在それらはすべて復旦大学図書館の所蔵となっている。そのさい1988年末に『趙景深先生贈書目録(以下『贈書目録』と略称)』*3が編纂されており、これによって全容を知ることができる。その記述に従えば、寄贈された図書は全体で線装書2,195種8,052冊、中国語平装書約9,000冊、外国語図書200余冊という規模であった。俗文学に関する蔵書が多くを占め、地方劇の台本や芸能の唱本には孤本もまま見られる。

『贈書目録』によれば時調小曲唱本は以下の分類に収められている。

善本書集部・戯曲曲芸類・11.小曲、民歌
線装書普通本集部・曲芸類・13.時調、小曲
中文平装書・文学

また、この趙景深旧蔵書については『贈書目録』に先んじて1984年に『趙景深民間文芸民俗学蔵書目録索引(以下『民俗学目録』と略称)』*4によってその大部分をまとめられていた。その中の時調小曲唱本の収められる分類は『贈書目録』とは大きく異なる。上記『贈書目録』に記載の書誌を『民俗学目録』から探すと、その分類は以下の通り。ちなみに『民俗学目録』の内容はすべて『贈書目録』が収め、『贈書目録』には『民俗学目録』に記載のない書誌も見える。

四.民間説唱和民間戯曲
  2.時調山歌
  4.民間戯曲
    其他

以上のように図書カード、『贈書目録』、『民俗学目録』の分類には大きな違いがあるため、相互に確認しながら利用する必要がある。またこのうち趙景深旧蔵の時調小曲唱本コレクションがどのように形成されたかについては後に検討する。

3.時調小曲について

ⅰ.ジャンルとしての時調小曲

本論の題に用いた「時調小曲」というジャンルは、じつは早くから確立され、定義が行われてきたものとはいえない。もともと「時調」は流行の曲調といった意味でしかなく、「小曲」もその篇幅の短さをいうにすぎない。ある時期までは「時調」・「小調」・「小曲」と呼ばれ、ときには「山歌」とも呼ばれていた。

1920年代以降、民間歌謡や民間文学に関する研究が大きく進められたが、当時さかんに出版された関連の書物の中でも、「時調小曲」は一般的な名称として使われてはいない。李家瑞(1895-1975)『北平俗曲略』*5は独立した分類を立てず「雑曲」に収め、李家瑞も協力した劉復(1891-1934)『中国俗曲総目稿』*6ではこれらの曲にジャンル名を付さなかった。同じく『北平風俗類徴』*7は「遊楽」の節に「小曲」の項目を立てるが、「時調小曲」という言葉は用いない。また鄭振鐸(1898-1958)や鍾敬文(1903-2002)の20年代から30年代の著作の中にも、「時調」、「小曲」という言葉はそれぞれ使われるが、四字でまとめては用いられない。

学問的な文章に使われた例としては、傅惜華(1907-1970)が1944年に発表した「乾隆時代之時調小曲」*8が早い部類に属し、かれは1962年の著作『北京伝統曲芸総録』*9でも分類名として採用した。下って1981年の『中国戯曲曲芸詞典』でも「時調小曲」を立てるが、あくまで「時調」と「小曲」の総称としている。研究の専門用語としては意味が確立されたわけでは必ずしもないようだ。

いっぽう上海で出版された石印の唱本は、多く「時調」や「小曲」、「小調」を題に冠し、「時調小曲」の文字も見えるようになる*10。「時調小曲」は学問的に定義されたものというよりは、他のジャンルからあふれた短い作品をおさめる唱本の総称としての「時調」、「小曲」から使われるようになったものであった。この時期の石印唱本には、「五更調」・「満江紅」・「鮮花調」など各種の曲調を題にする作品のほか、「花鼓」・「灘簧」・「小熱昏」など多様な芸能の名を持つ短編の作品も収められている。こころみに芸能の名を持つ時調小曲の具体的な作品名を以下に挙げる。

  • 灘簧:〈上海時事蘇灘〉・〈申江本灘游碼頭〉・〈打齋飯灘簧調〉
  • 花鼓戲:〈比古人花鼓調〉・〈揚州名班花鼓調〉・〈俏尼思凡鳳陽調〉・〈三等鳳陽花鼓〉・〈難民花鼓〉
  • 滑稽戲:〈王無能活捉丁怪怪〉・〈滑稽奇裝異服〉・〈十二月滑稽新聞〉・〈劉春山滑稽賣糖〉・〈江笑笑唱滑稽鴉片煙〉
  • 小熱昏(梨膏糖):〈揚州梨膏糖〉・〈蘇州梨膏〉・〈藥三國梨膏〉・〈梨膏糖生意經〉・〈宣小熱昏〉・〈醒世小熱昏〉
  • 寶卷:〈花名寶卷〉・〈十二月花名寶卷〉・〈螳螂做親寶卷〉
  • 開篇:〈提倡國貨新開篇〉・〈叉麻雀開篇〉
  • 蓮花落:〈精神團蓮花落〉・〈東洋蓮花落〉
  • 道情:〈方卿見姑娘道情〉・〈改良方卿唱道情〉
図一 石印の時調小曲唱本しばしば巻頭に挿絵が入るのも特徴。筆者自蔵の『時調新曲』二集、上海文益書局より。

当時の上海は、各地から劇団や芸人が流入しており、さまざまな演劇・芸能の江南一帯における中心地となっていた。それらのうち短編の作品群がまとまって、唱本に収められたのである。本論の時調小曲という名はこの広がりをも包括したものとして考える。

ⅱ.唱本としての時調小曲

他の図書館の所蔵と比して、復旦大学の時調小曲所蔵の唱本には明確な特徴がある。それは木版・石印・排印という唱本の形態のうち、石印本の占める割合の高さに表れている。

木版:209 石印:42 排印:2

石印の時調小曲唱本は現存の唱本の巻数記載などから予想される、本来出版され流通したであろう数から考えると、完備された所蔵を持つ図書館は中国全土にも存在しないといってよい。その中にあって復旦大学図書館の蔵書における数量は非常に多いといえる*11。収録された曲数からみても、たとえば『中国俗曲総目稿』に収録された上海の俗曲は408種とされ、そのほとんどが石印唱本に由来するが、復旦大学の所蔵は木版を含めず石印唱本に収録された時調小曲のみ数えても500種以上はゆうに得られよう。

以下にそれぞれの唱本の形態について概述する。

  • 木版
    • 出版時期:清代から民国期まで
    • サイズ:多く10cm×6cmで数葉程度。
    • 内容:多くは単刊・短編の唱本だが、長編や複数の作品を収めるものもまれに見られる。
  • 石印
    • 出版時期:民国時期。
    • サイズ:20㎝×12㎝程度が一般的。
    • 内容:ほとんどが複数の作品を収め、数十首の作品を収めるものも見られる。
  • 排印
    • 出版時期:30年代以降。ただし民国期に個人創作の唱本の出版に用いられることもあった。
    • サイズ:不定。6cm×10cm程度のごく小型のものも見られる。
    • 内容:複数の作品を収め、数十種の作品を収めるものも見られる。

また、今回は検討の対象に加えていないが、上記の各種唱本に見られる作品と同題のものが、抄本として残る例もある。手抄の時期は各時期に渡り、サイズもそれぞれ異なる。出版された作品とは同題でも異なる内容を持つことが多い。

ⅲ.時調小曲の内容

時調小曲の作品、とくに石印の唱本に収められる作品群には、歌い手が自らの心情を歌う一人称の形式、相手に対して語りかける二人称の形式、情景や風景を描写する三人称の形式を取るものがあるが、それらが扱う題材にはある傾向が表れる。たとえば農村やその暮らしについて農民が歌う、という作品はほとんど見られず、都市とそこでの生活が描かれる作品が多い。これは出版地であり、大きな消費地であった上海の環境を反映したものであろう。中でも特徴的な内容について数点挙げておく。

  • 妓女

 一人称で歌われる作品のうち、妓女を主人公とするものは非常に多い。また清代以前に編まれた時調集などと内容が重なるものもこれらの題材が多い。心理描写も非常に細かく、なじみの客に対してそのつれなさを嘆くもの、身を売る我が身の悲しみを訴えるものなどがあり、ときには月経や堕胎といった生活の中での辛さを歌う作品も見られる。
 〈妓女告狀〉‧〈泗洲調〉‧〈大牙牌〉‧〈十愛愛〉‧〈梳妝臺〉‧〈玉美人〉‧〈五更十送〉‧〈五更裏侉侉調〉‧〈四季相思〉‧〈吐血想思〉‧〈十杯酒〉‧〈手扶欄杆〉

  • アヘン

 清末民初の上海におけるアヘンの流行についてはここで詳しく説明するまでもないだろう。上の妓女の生活とも関わる形で、時調小曲の中にはアヘンに関することを歌うものが存在する。そのうち多くを占めるのは世の中に対してアヘンの害毒を説き、戒める二人称の呼びかけの形式を持つものである。
 〈鴉片的勸戒〉‧〈鴉片煙嘆五更〉‧〈勸戒鴉片煙嘆五聲〉‧〈煙鬼泗洲調〉‧〈勸戒洋煙十杯酒〉‧〈禁止洋煙十杯酒〉

  • 都市

 都市の繁華を歌ったもの。数量としては多くはないが、全体に長い作品が多く、内容は具体的で、他の種の作品とは異なる趣を持つ。湖州・蘇州・無錫・杭州・上海などの都市が題材となっている。そのうち特に多いのはやはり上海を扱ったもので、上海における男女関係や花柳の巷、梨園や芸能について歌ったものも数多い。また上海に関するニュースや戦争の話題も題材となる。
 〈閶門馬路新開篇〉‧〈時新蘇州景致〉‧〈時新無錫景致〉‧〈閶門五更馬路〉‧〈杭州十城門〉‧〈湖州景致〉‧〈六門景〉‧〈廈門市鎮歌〉
 〈上海山歌〉‧〈上海碼頭〉‧〈上海景〉‧〈新新舞臺泗洲調〉‧〈上海新聞〉‧〈上海女混堂〉‧〈上海的喫人不見血〉‧〈上海做人像白糖梅子〉‧〈上海新嫖客〉‧〈海上怪現象〉‧〈哭摩登〉‧〈紅頭阿三追野雞〉‧〈上海的房東醉生夢死〉

図二 上海をうたう時調小曲作品遊楽場のにぎわいをうたった「上海大世界景致」。同じく自蔵の『時調新曲』二集より。
  • 古人・故事

 古人や故事を小曲にするさいには、やや長い作品が多く、二人の演者が歌いあう形式も見られる。孟姜女の物語などはしばしば見られる題材である。また、尼や僧侶が俗世を恋しがるいわゆる「思凡」の物語も多く扱われる。これらは伝統的な題材とはいえ、その心情が小曲によって一人称で歌われるさいには同時代の感覚として受け止めうるものとなったであろう。また、劇名づくしや古人名づくしと呼ぶべき、名前を羅列していく作品も見られる。
 〈和尚采花〉‧〈尼姑下山〉‧〈趙五娘琵琶記春調〉‧〈孟姜女春調〉‧〈孟姜女子過關〉‧〈孟姜女哭夫〉‧〈龍三姐拜壽〉‧〈潘必正陳妙常情村歌〉‧〈聞必正苦嘆十杯酒〉‧〈黃宅忠審蛇案歌〉‧〈何氏勸姑〉‧〈張德和辭店〉‧〈張德和休妻〉‧〈金蓮戲叔〉‧〈武鮮花〉‧〈王龍比勢〉‧〈活捉三郎〉‧〈濟公活佛〉‧〈天女散花〉‧〈方卿見姑娘道情〉‧〈秦雪梅吊孝〉

  • 時事と戦争

 上海ではとくに民国以降、社会的なニュースや流行を詠みこんで時調小曲がさかんに作られた。その中でも、いわゆる「閻瑞生・王蓮英事件」はもっとも有名な題材といえよう。1920年6月、上海で大学生の閻瑞生が妓女王蓮英とともに自動車で出かけ、上海郊外の麦畑の中でほか二名とともに王蓮英を殺害した。この事件は1921年、中国影戯研究社によって『閻瑞生』の題で映画化され、上海で中国人の手によって撮影された初期の作品として多くの観客を集め、以降の作品に与えた影響も大きかったとされる。各種の演劇もこの事件を題材に上演を行った。1920年、妓女蒋老五が自殺した事件も同じような経過をたどり、同年のうちに小説『蒋老五秘史』が発表され、1927年には映画化された。小曲にはこれらの事件をうたう作品が数種見られるが、事件の内容については時に大きな誤認がある。

 戦争を題材にしたものもこれらニュースから創作された小曲の一種として考えることができよう。八カ国連合軍が北京に進攻した時期から、第二次大戦時期まで、ある戦争やその中における事件を詠んだ作品は作られ続けた。現存の作品は数量としては多くはないが、無視できない存在であろう。
 〈閻瑞生花名〉‧〈閻瑞生五更調〉‧〈閻瑞生謀害蓮英〉‧〈蓮英十二個月唱春〉‧〈蓮英嘆十声〉‧〈活捉老阿賓蔣老五侉侉調〉‧〈蔣老五嘆五更〉‧〈蔣老五嘆十声〉‧〈蔣老五旬殉情五更調〉‧〈蔣老五王蓮英對唱十嘆〉‧〈馬振華女子嘆十声〉
 〈炸彈時變〉‧〈上海戰事十隻臺子〉‧〈戰亂唱春調〉‧〈調兵〉

  • 猥歌

 なにをもって猥歌や淫詞と呼ぶかは難しいが、かの「十八摸」をはじめとするきわどい内容の作品が単刊の木刻本だけでなく、石印の唱本にも時おり見られる。
 〈十八摸〉・〈摘黃瓜〉・〈揚州花鼓調〉

ⅳ.時調小曲の上演と唱本の流通

すでに上文でふれたように、時調小曲というジャンルにはさまざまな曲調や芸能を含みうる。そのためそれがじっさいに歌われる場合について考えるさいには、それぞれの曲調や芸能に合わせた上演の状況を念頭に置かなければならない。朱文炳『海上竹枝詞』(1909)は当時著名であった蘇灘の女芸人林歩青の名を詠みこんで「絶妙灘簧林歩青、改良詞曲喚人醒。禁煙立憲諸時政、譜入絲弦尽可聴」といい、蘇灘の形式で時事を取りこみながら歌っていたことがわかる*12。また池志澂『滬游夢影』(1893)は女芸人が時調小曲を歌う様子を書いている*13

はじめ歌い出しではテンポがひじょうに速く、ただ最後の一字まで歌っていくとそれは後に離してつける。そのさまはとんぼが水面に降りたようで、まったく感じ入った。〈九連環〉・〈十八扯〉・〈四季相思〉などは、歌いぶりも声もやわらかで、人の心をとろかすようだ。

この上演は書場で行われたものであるが、時調小曲はそれ自身を扱う曲も見られる「大世界」や「新世界」といった遊楽場においてもしばしば歌われていたはずである。上演についてはさらに資料を捜索する必要があろう。

同じく時調小曲唱本の流通についても今後調査を進めなければならないが、民国期の状況についてふれた文を一二挙げておく。顧頡剛(1893-1980)は「蘇州唱本叙録」*14で、1920年代初頭、山東の済南における状況を伝え、すでに上海における出版が優勢を占め、地元の出版を圧倒していると述べる。また阿英(1900-1977)は「城隍廟的書市」で、1930年代当時の唱本が売られる様子について記している*15

城隍廟の図書市はけしてこれで終わりというわけではない。正殿の舞台に向かって上に広がる図書館の下をくぐり、右手の門から出て行けば、さらに二つの露店を見つけられるだろう。この露店の本屋で売られている本は、ふつうの露店と同じで、石印の小説や、『無錫景』、『時新小調』、『十二月歌名』といったたぐいだ。

おそらく清末から民国期にいたるまで、江南を主とした周辺地域から上海に唱本が流入し続け、また上海で石印の唱本が出版されるようになるとそれらは逆に他地域まで流通されるようになったと考えられる。

4.趙景深コレクションについて

ⅰ.構成と年代

ここであらためて趙景深の旧蔵書にある時調小曲唱本の所蔵がどのように構成されたのかについて考えてみたい。

復旦大学所蔵の時調小曲唱本の書誌のうち出版地域が判明したものは全体で125。地域の内訳は以下の通りである。

上海江蘇湖南浙江福建陝西広東
全体36353011832
趙景深3671510832

上海を中心とする江南の唱本が高い割合を占め、湖南の唱本がそれに次ぐ。全体と趙景深旧蔵を比較すると、割合を求めるには足りない量ではあるが、わずかに江蘇と湖南の順が逆転する。この状況は自然に起こりうるものであろうか。これは趙景深コレクションがいつごろから、どのように構成されたか、という問題とも関わるであろう。

趙景深は『民俗学目録』に自撰の「前言」を載せ、その中で民俗学という立場から見たみずからの蔵書について述べている。しかし、本論の検討対象である時調小曲の唱本に関してはふれず、隣接分野といえる「民歌」と「小戯」に関して短くコメントするにとどまる。

民歌については、わたしは平素あまり注意をはらってこなかった。もっとも多く所蔵しているのは、1958年の民歌*16であり、他人がうちすてたものをも集めてきた。おそらくわたしが保存した百冊以上のこうした民歌は、天鷹(姜彬)の『1958年の民歌運動』を研究するさい参考とできるものであろう。

(略)

民間文学には、萌芽期の戯曲、一部の生活小戯をも入れることができよう。南方の灘簧や他地域の花鼓戯もこれに数えることができる。張紫晨同志が編纂した、『中国民間小戯選』に収められた戯曲は、すべて標準的な民間戯曲であるといえよう。

ここからは、趙景深がいつごろ時調小曲とその唱本の収集を行い始めたかについての手がかりを読み取ることはできない。

他の資料を見る前に、ここで趙景深が復旦大学に落ち着き、小説・戯曲・芸能に関する論考をさかんに発表し始めるまでの前半生を簡単に年表形式で記しておく*17

  • 1902年 浙江麗水に生まれる。籍貫は四川宜賓。
  • 1914年 安徽蕪湖の聖ヤコブ小学に学ぶ。
  • 1919年 五四運動の影響を受け、天津南開中学に向かう。周恩来の率いる宣伝隊に参加。
  • 1920年 天津綿業専門学校に入学。アンデルセン童話の翻訳に着手。
  • 1922年 専門学校卒業後、天津の『新民意報』文学副刊の編集に就く。鄭振鐸の編集する『児童世界』・『文学旬刊』に童話の翻訳を投稿。
  • 1923年 鄭振鐸の勧めで文学研究会に加入、紹介され湖南長沙の岳雲中学に教職を得る。
  • 1924年 長沙の湖南第一師範学校に移る。田漢らと雑誌『瀟湘緑波』を編集。童話の翻訳を続ける。
  • 1925年 上海に移り、上海大学教授となる。鍾敬文と手紙で交流を持つ。
  • 1927年 上海の開明書店の編集となり、『文学週報』を主編。
  • 1930年 上海の北新書局の総編集となり、『現代文学』を主編。復旦大学の教授となる。以降、本格的に俗文学と芸能の研究を進める。

五四新文化運動に興味を持ち、童話の翻訳と新文学雑誌の編集から文学研究に入ったのち、徐々に俗文学と芸能の研究に傾倒していったことが見て取れる。

趙景深の著作のうち、時調小曲やその関連の作品について述べたものは少ないが、1927年3月10日と記載のある「最近民歌的来源」は、開明書店から出版されたばかりの鄭振鐸『白雪遺音選』を読み、そこに収められた作品と「最近の民歌」との関係について述べている*18。その中で行われているのは、実際には自らの所蔵する『時調大観』所収の作品と『白雪遺音選』の比較であり、そこに以下のような文がある。

旅途にあって事もなく、『白雪遺音選』(鄭振鐸編、開明書店出版)を取り出し開いて読んでみたところ、最近の民歌(俗に時調、小調あるいは小曲子と呼ぶ)の多くがその影響を受けたものであると強く感じた。そこで両者に類似の箇所を以下に抜き出し、民歌に興味を持つ人々が研究に用いるための便をはかりたい。

またその直後に「(一)五更相思 『時調大観』13ページにこの最近の民歌を収録しており、以下の通り」とも書く*19。また「以前見たことがある坊刻の木版による小調は、たった一銅元で一冊ときには二冊も売られ、しばしば訛誤があった」、「最近の民歌のうち時事(たとえば〈蒋老五十嘆〉・〈閻瑞生五更調〉など)や繁華な場所(たとえば〈蘇州景〉・〈無錫景〉・〈上海碼頭〉など)に関するものはみな当然『白雪遺音』の影響は受けていない」という文章も見られる。1927年という時期は、一般的にはまだ趙景深が芸能の研究に本格的に着手する前と考えられているが、すでに手元にある程度の唱本は所有していたのではないだろうか。

上記の通り1923年から1925年にかけて趙景深は鄭振鐸の勧めで文学研究会に参加し、またその紹介で長沙に教職を得た。この時期すでに鄭振鐸が民間文学や歌謡の収集、また唱本にも興味を向けていたことを合わせると、趙景深の蔵書の中に湖南の唱本が一定の割合を占めている理由を、湖南にいた当時からすでに唱本の購入を始めていたことに求めるのも的外れなことではないだろう。

趙景深は鼓詞や弾詞についてはともかく、「歌謡」や「民歌」については、一貫して自分は専門家ではないと言い続けた。しかし1959年から1962年にかけて内部発行された『明清民歌時調叢書』には、『霓裳続譜』・『白雪遺音』・『夾竹桃頂針千家山歌』に序を寄せ、その内容について詳しく解説している*20。あるいはこれは前年の1958年、不慮の飛行機事故で急逝した鄭振鐸の仕事を継ぐ形で受けたものでもあろうか。

時調小曲の唱本は石印や排印のものも含めて出版年の記載があるものが少なく特定がしにくい。ましてその収集の時期は定めがたいが、以上の状況をふまえ、また唱本の内容が日中戦争にふれるものや戦後の出版年の記載があるものがみとめられることからすると、1920年代前半から50年代に入っても趙景深の収集は続いていたものと考えられる。

ⅱ.「民歌」・「歌謡」と「時調」・「唱本」

さきに趙景深の文章を挙げたが、そこに述べられた見解のうち注目すべきは、1927年時点の趙景深が「民歌」と「時調」、しかもその「唱本」をほぼ同じ意味で用いている点である。これは当時の民間文学や民俗学の専門家の中に広く共有されていた見解とはいえない。むしろ専門家の間では「民歌」と「歌謡」は文字化された「唱本」と峻別されるべきだとの意見が強かった。

1918年、五四新文化運動を受けて、北京大学で歌謡の収集運動が始まる。2月1日の『北京大学日刊』紙上に劉復の手になる「北京大学徴集全国近世歌謡簡章」が発表され、収集が呼びかけられると、この年の5月20日から毎日『北京大学日刊』に一首ずつが発表された。1922年には改めて雑誌『歌謡』が発刊され、収集と発表およびそれらに対する研究が進められた。この運動についてはすでに当事者たちの回顧録もあり、また多くの専論が書かれているため、ここでは詳しく述べな

*21

この運動によって収集された資料に対する立場はそれぞれの研究者により、さらには一人の研究者にとってもある時期によって異なるが、運動を先導した雑誌『歌謡』の編集側と、歴史学者顧頡剛とのやり取りを見れば、基本的な「歌謡」と「唱本」の扱いに関する立場の違いは了解できよう。発端は顧頡剛が収集した蘇州の唱本を『歌謡』誌上で発表しようとしたことによる。自ら述べるところによれば、1918年当時、顧頡剛は妻を失い悲嘆にくれて休養の日々を送っていた。そこに『北京大学日刊』での歌謡の発表を読み、感銘を受けて故郷である蘇州の歌謡の収集に乗り出す。再婚という慶事も重なり、1919年には非常に精力的に歌謡を収集、1920年『晨報』に成果を発表する。このころ同時に唱本をも収集し『歌謡』誌上で発表することを企図するが、断られてしまう。顧頡剛はこれに関してかなり露骨に不満を表している。

北京大学が歌謡を収集した後になって、私は路傍の露店におかれた唱本に注意を向けるようになった。蘇州で四度ほど収集を行ったところ、二百冊を得た。そのころ私の従弟にあたる呉立模君がそのために叙録を作り、その様式と内容を記載してくれていた。私の意図は、北京大学の『歌謡週刊』誌上に発表することにあったのだが、不幸にして北大の同人たちは、歌謡はいるが唱本はいらぬ、ということであった。彼らは、歌謡は天然自然の音であり、唱本は下等な文人の作ったものであるから、その価値の上下は等しからざるものだと考えていたのだ。

顧頡剛「蘇州唱本叙録」*22

また、以下のようにも述べる。

唱本の収集に関して言えば、現在はまさしく千鈞一髪の時期である。先月私は済南に旅したが、露店に行ってみると、すべて上海の印本である。済南の地元で刷られたものを買おうとしても買えないのだ。幾つかの店を訪ねて、ようやく地元の木版の十余冊を手に入れられた。

(同)

この「印本」はおそらく石印の時調小曲唱本を指すのであろう。顧頡剛はこのように地方の唱本が失われる危機が訪れる可能性について注意をうながしたが、主張は必ずしも受け入れられなかった。「唱本」は純粋な「歌謡」・「民歌」ではないとする立場が大勢を占め、編集側は「唱本」は民俗学的な見地から見て、「歌謡」と同等の価値がある、という中立的な意見を主張しはしたが、それでも口承の「歌謡」と「唱本」に載せられた「時調」の間は一線を画して考えるべき、というところに議論は落ち着いていたようだ。劉復らが「歌謡」の収集運動と分かれ、あらためて唱本の収集に乗り出し、それを基礎として『中国俗曲総目稿』が編まれるのは十年を経た1932年のことになる。

またこの議論の裏側には、当時いわゆる鴛鴦蝴蝶派の雑誌に見られた、伝統演劇や芸能の形式による創作の作品の影響も存在していよう。上海で発行されていた『繍像小説』や『小説新報』といった雑誌には、しばしば弾詞や戯曲のほかに「時調」や「小曲」の欄も設けられ、多くの作品が発表されていた。また地方の知識人が自ら編んだ時調小曲の作品を出版した例も見られる*23 。それらにおいて行われていたのは、「歌謡」の収集運動とはまったく異なるものであった。たとえば『小説新報』に載せられた時調小曲「栽黄瓜」の一篇にはこう述べられている*24

思うに、「栽黄瓜」の原曲はきわめて淫猥な歌詞であり、今もまだ街で演奏するものがいる。私はそれを聞くごとに、憂い恐れを感じてきた。そこで原曲の曲調によりながらもその内容を改め、愛国の時調とし、もって世人への警鐘とするものである。

歌謡収集運動においては、収集するさいには加工せず、本来の姿を留めることが繰り返し唱えられた。そこから新たな文学としての詩の姿を模索しようと試みたわけであるが、そのような立場を取れば、上記のような伝統的なスタイルを借りて直接に警世の意味を持たせる作品を創作するという姿勢に対しては批判的にならざるをえない。

1927年の趙景深の状況にもどると、鄭振鐸や鍾敬文といった、古代歌謡の研究や当時の歌謡収集運動にも携わっていた研究者との関係はすでにできていたとはいえ、北京大学における運動と関わらない形で研究を始めたこと、もともと新文学に対する志向はあったが詩歌よりも童話や物語、小説に注意が向いていたことなどが重なり、繰り返し行われていたはずの「歌謡」と「唱本」の議論に乗ることはなかった。また時事を取りこんだ「時調」の作品が「唱本」となって流通し、文学雑誌にも時調小曲の創作が載る、上海という土地柄もこうした態度に強く影響したものと考えられる。

そしてあまり自覚的ではない形で続いたと思われる趙景深の唱本の収集と保存が、ある時間を経た現在から見ると大きなものとなっていることは一面皮肉ではある。しかし趙景深が当時における資料的な価値あるいは文学的な価値のみを優先して収集していたならば、清末から民国期にかけての上海における時調小曲の様相を読み取るにふさわしいだけの唱本が残されることはなかったのも確かなことであろう。

5.おわりに

最新の『中国曲芸通史』*25は、中華民国期について述べた第八章第四節「時調小曲類曲種」で、「北京的時調小曲」・「揚州清曲」・「四川清音」・「広西文場」・「楡林小曲」・「湖北小曲」を挙げながら、ついに民国期における上海の時調小曲についてまったくふれない。北京の項目では傅惜華『北京伝統俗曲総目』によって記述を行う以上、上海についても『中国俗曲総目稿』から記述があってしかるべきであるし、残された唱本の数量からしてもじゅうぶん項目の一つとして数えてよいはずであるが、あるいは民国期の研究における唱本をじっさいの芸能とは分離して考えるという態度が、いまだ研究に影響を与えているのであろうか。

すでに現在の上海では芸能としては滅びているという表現が大げさではないだけに、今後は各図書館や機関に収集された状態の唱本を整理、研究する方向しかないだろう。そのさいには、曲調や押韻、しばしば用いられる方言や文字の訛誤についても調査することが必要になる。また対象とする資料についてはこの時期と地域に特徴的な石印の唱本、また木版や排印の唱本に加え、民国期の「歌謡収集運動」や「民俗学運動」によって収集され整理された資料をも利用しつつ研究を進めることになろう。それは従来のそれらの運動に対する研究を相対化することにもつながっていくはずである。

付録:『新上海山歌』趙景深旧蔵 木版 書誌番号 725556

正月元旦歲朝暮, 上海夷場好風景。
大小店鋪真鬧熱, 萬商雲集聚來臨。
金莊銀樓無其數, 珍珠寶貝實然興。
古玩玉器件件有, 鹹瓜街還有老山參。
二月春分開龍門, 大馬路上鬧音音。
早晨菜市多鬧熱, 葷素喫局數勿清。
久大錢莊最公平, 洋貨布匹老復昇。
仁和綢緞拋球場, 五康銀行正朝陽。
三月清明暖洋洋, 泥城外設立大戰場。
團團足有十里路, 逢著跑馬最鬧猛。
五色令旗分左右, 來往行人推背行。
外國輸蠃能介大, 第三日完要大跳浜。
四月清和菜花香, 洋貨老店泰源祥。
洪盛公平米與麵, 萬里雲煙有清香。
醉樂煙館好酒菜, 上細貢點敘安排。
來往多是錦秀客, 行令猜拳能開懷。
五月端陽鬧龍舟, 茶館最好西洋樓。
戲館丹桂共天仙, 大觀金桂有名留。
正旦最好常子和, 老生要算楊月樓。
周春奎亦名聲大, 任七月山真巧手。
六月荷花透水長, 新衙門得造正朝陽。
每日坐堂長理事, 有人犯案問長短。
童身姑孃看眼精, 還有一個脈先生。
仁濟醫館治百病, 陳裕昌長做善事行。
七月鳳仙奇鮮明, 街巷才點路天燈。
而且勿用油燈草, 照得四處必波清。
天子堂造得正有樣, 講書長勸孝爹娘。
為人歸正為第一, 免得傍人說長短。
八月中秋丹桂香, 火輪船天下在好行。
黃浦船隻無其數, 各路客商愛上洋。
石路行人真鬧熱, 寶善街一夜到天亮。
唱樂書館古今唱, 清風吹動百花香。
九月重陽菊花多, 巡捕房造得能高大。
出差巡捕真勿少, 風雨落雪真是苦。
大自鳴鐘路天響, 帶表行人對白相。
穿魚犯案拖進去, 新衙門裏早發放。
十月芙蓉小陽春, 大生旱煙也出名。
水煙要算一林豐, 延林堂清膏亦有名。
眠雲閣裝潢正細巧, 寬大氣蓋南誠信。
名人書畫正勿少, 轎馬出入不留存。
十一月瑞花冷清清, 蘇式飯店最公平。
公道讓還源源館, 寧波酒館老益慶。
狀元館合爆魚面, 德義樓上肉錕飩。
卦粉湯團桂香口, 糕糰頂好北萬興。
十二月蠟梅雪花多, 茶食細點王仁和。
萬隆醬油稱第一, 緒興海味細南貨。
夷場日夜鬧音音, 三雅園長將好戲行。
出出錦繡玲瓏巧, 申報日日出新文。
閏月花開葉葉青, 城隍廟造得勿離精。
花園景致能清雅, 當中還有湖心亭。
茶館足有十多爿, 喫局點心件件精。
上細書畫般般有, 中秋賞月桂花廳。
點春園裏最細巧, 名手妙畫筆法高。
玲瓏假山竟無數, 擺設古玩無蓋遭。
每逢朔望內園開, 亭閣裝潢正氣蓋。
蘭花會性多鬧熱, 各處名花敘來排。
也有名園勝景好, 黃泥牆出得水蜜桃。
各省各府人人曉, 正真鮮甜美味高。
聚豐園也有外國菜, 堂子爿爿有名標。
陸翔熊鞋子稱第一, 鑲襪出在觀音橋。
朱家飯店最有名, 草花浜上糟面筋。
閑來無事去散心, 馬車行動快如雲。
東洋車來往也勿少, 有錢得意如仙人。
勸君須要謹慎好, 夷場處處費金銀。
貴客買賣上洋地, 切莫花街柳巷行。
有錢人人多奉承, 無錢失腳步難行。
憑你諸公好認性, 只怕一時上迷魂。
靜坐安樂閑無事, 唱唱腹內散散心。


*1 時調小曲の大規模な所蔵を持つ図書館としては、北京国家図書館、上海図書館のほか、台北の中央研究院歴史語言研究所付属傅斯年図書館が挙げられよう。他に北京社会科学院図書館の顧頡剛文庫、早稲田大学図書館の風陵文庫、東京大学東洋文化研究所の雙紅堂文庫・倉石文庫などがある。
*2 整理ののち『復旦大学蔵時調小曲目録』として発表予定。
*3 復旦大学図書館・復旦大学古籍整理研究所編刊、1988年。
*4 中国民間文芸研究会上海分会編刊、1984年。
*5 中央研究院歴史語言研究所、1933年。
*6 中央研究院歴史語言研究所、1932年。
*7 中央研究院歴史語言研究所、1937年。
*8 『芸文雑誌』1944年2巻1-3期初出、『曲芸論叢』、上雑出版社、1953年所収。
*9 中華書局、1962年。
*10 復旦大学の所蔵では『最新時調小曲』、石印、1940年代。さらに早い例では、未見だが『時調小曲大観』、石印、新華書局、1922年、『戯海・時調小曲部』、排印、上海戯劇研究社、1927年などがある。
*11 前述の図書館のうち、傅斯年図書館は上海で出版された石印唱本の大規模な所蔵を持つ。今後合わせて調査を進めたい。
*12 顧炳権『上海洋場竹枝詞』上海書店、1996年所収。
*13 『上海灘与上海人叢書』上海古籍書店、1989年所収。
*14 『開展月刊』第11・12期合刊、1921年初出。『呉歌・呉歌小史』、江蘇古籍出版社、1999年所収。後文第4.ⅱ節に詳述。
*15 『現代』1934年第2期初出。『小説閒談四種』、上海古籍出版社、1985年所収。
*16 新中国以降になって採録されたいわゆる「新民歌」の類。その多くは労働歌である。
*17 趙景深の詳細な事蹟については趙景深「自伝及著作自述」『中国当代社会科学家』第二輯、書目文献出版社、1982年がある。また趙景深文庫の構成について独立して述べたものには江巨栄「復旦大学図書館趙景深文庫について」、「中国―社会と文化」第八号、1993年があるが時調小曲の唱本については特に述べない。
*18 『文学講話』、亜細亜書局、1928年所収。
*19 復旦大学図書館現蔵の『時調大観』(I239.5/S54、石印、沈鶴記書局)とは内容が合わない。
*20 『明清民歌時調集』、上海古籍出版社、1987年に影印。
*21 当事者の回顧録としては、鍾敬文「“五四”前後的歌謡学運動」1967年、『中国民間文学論文選』上海文芸出版社、1980年所収など。最近の論著としては劉錫誠「劉半農 歌謡運動的首倡者」『民間文化』2001年第1期、民間文化雑誌社、2001年、徐新建「“民”的発現与“歌”的採集 ―民国時期歌謡研究的歴史回顧」、『中国俗文化研究』第二輯、巴蜀書社、2004年、子安加余子「周作人と歌謡 ―中国知識人と民俗学に関する考察―」『日本中国学会報』第五十八集、日本中国学会、2006年など。
*22 注14参照。
*23 復旦大学の所蔵では『消閒山歌』(725542)張正芳、上海文瑞楼書局、排印、民国十八年序・『時調唱歌』(985031)鯽士奇、上海商務印書館出版、排印。
*24 趙景深所蔵『時調・弾詞・伝奇合訂本』(I230.7/Z4415)所収。『小説新報』誌から切り取り、趙景深自ら綴じ直したもの。『小説新報』は1915年3月から1923年にかけて、94期にわたって発行された。装丁の時期や各ページの初出は不明。
*25 姜昆・倪鍾之主編、人民文学出版社、2005年。

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